南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について
(綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)
近接して三つの神社がある
相馬地域辺りに縄文前期の土器は発見されていない、空白地域になっている
真野古墳群から船の線刻画が発見された
その船は十人以上乗れる大きなものである
これは縄文時代に作れたのかとなるとできない、すると安曇族系統のものが
ここに定着して作ったのかもしれない、その材料のスダシイもあったからである
スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。
スダジイ(ナガジイ、イタジイ、C. sieboldii)- シイ属の中では最も北に進出してきた種であり、大きな木では、樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県、新潟県の佐渡島にまで生育地がある、
<家に在れば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る>とあります。
椎の木は古来日本を代表する樹種であり、高さ20m以上、幹周りは1mを超える照葉樹林を構成する主要な樹木である。
「すだじい」であると提言する。結局、「スダジイ」の名前は、「素台木」を語源とし、シイタケ造りの基礎となる台木的な椎(しい)の木という意味を表わすものであると言える。
船の村のスダジイ(ふねのむらのすだじい)は長崎県佐世保市にあります。ここは自然景観です。「植物」などとなっています。
スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。(*1)
近くの住所には、鹿町町中野(398 m)、鹿町町船ノ村(1.03 Km) などがあります。近
日本の暖帯林の最重要樹種で、東北南部以西の本州から九州の丘陵・山野の広範囲に分布します。
磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり 大伴家持 巻十九4159
初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます。
スダシイとかタブの木(都万麻)は照葉樹林帯の南国性の木であり船を作る木としてあった
硬い木だとそうなる、なぜここにスダシイ神社があるのかやはり安曇族が船材として利用したからだとなる、またシイタケを作る台として利用したとあるときそういう農業技術をもっていた人が来て教えたとなる、焼畑にしても縄文時代なら日本ではしていない
他から入って来た人達が教えられてできたのである
縄文時代と弥生時代ではその差が大きいのである、様々な技術が鉄作りでも農業技術でもいろいろな技術が渡来人によってもたらされたのである
ここでも船を作っていたのかもしれない、船の線刻画が最近発見されたからである
水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。
ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html
国生み神話でも底津とあるのは海の中をくぐって生活していた漁労民の安曇族だったからこそである、中津でもそうである、海の底までくぐるとか中まで見るとかは海人(あま)でないかぎり出てこない言葉である、それほど海とかかわっていたから生まれた神話である
国生み神話でも島が中心であり本州が最後に生まれている、そして佐渡島まである
つまり安曇族が船で渡った航路をたどっているのである
海洋民の神話でありそもそも日本の神話は縄文人の神話ではないのである
ただ縄文人と混交した神話は海彦山彦の物語である、それは安曇族とも関係していて
綿津見神社と山津見神社がそうなのである
安曇族などの海洋民は様々な農業技術とか鉄作りの加工とか鵜飼とか養蚕とかの高度な技術をもった人達でありその人たちが弥生文化を日本にもたらしたのである
ただなぜ南相馬市と相馬市とかに綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?
その謎はここが照葉樹林帯の南限の地であスダシイも北限の地としてあり海老のマルハ
シャリンバイも奄美大島から種が流れ着いて根付いたのである
それは東北でも温暖な地域だからである、つまり照葉樹林帯の南限の地だからこそであるそしてここが地質学とか気候でも境目なのである
万葉集の真野の草原はそうした気候的南限の地として境目として意識された
かえって宮城県とか北の方から縄文前期の遺跡がありそこに安曇族系の海洋民が進出しにくかったのかもしれない
この辺の綿津見神社が多すぎるからだ、ここに相当数の安曇族系の海洋民が入植したとなるからだ
新地になると縄文人が住んでいた
鹿狼山には「手長足長」という神様が通っていたと伝わります。
ここからその長い手を伸ばして海の貝を拾っては食べ、その貝殻を新地町方面に投げていたために、海から少し内陸部に「小川貝塚」ができたという伝説です。
ここではかなりの人数の縄文人が貝を食べて暮らしていた、ただ相馬地域でもここだけに伝説が残っている
貝塚もここだけである、だから縄文人がここで相当数住んでいたが他は希薄な地域だったのかともみる
だからこの空白地域に安曇族が入ってきて農業技術とか焼畑とか船造りとか鉄作りとかいろいろ技術をもたらしたのである
これだけ綿津見神社や山津見神社があるのはそのためである
またヤマトタケルの東征神話で上陸した地点が南相馬市の原町区かもしれない
ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を確認しますと、「海路うみつちより葦浦あしのうらに廻めぐる。横よこしまに玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしの境さかひに至る。」とあります。
つまり、葦浦・玉浦を経て、竹水門(蝦夷の境)に着いたと考えられます
「竹水門」は多珂郡のどのあたりか? という問題になります。「和名抄」によれば、多珂郡内には「多珂郷」が含まれており、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」によれば、多珂郷は現在の茨城県高萩たかはぎ市の北部から北茨城市の南部にかけてがその郷域と推定されています
https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=97
竹水門(たかみなと)(蝦夷の境)は南相馬市の多珂神社でもありその後に真野郷になった、それで真野の草原の歌ができたのである
桜井古墳は海に面してあり港の役割もあったかもしれない、海が入りこんでいたからである
こうした神話が生まれたのはそもそもの下敷きになったのが安曇族とか海洋民が早い時期に土着した結果である、特に原町区に綿津見神社が多いのである
それは普通ではない、多すぎるのである、でも浮田国造があり真野郷があった地域は意外と綿津見神社を見ていないのである
そこにも大きな謎がある、原町区に綿津見神社が密集しているともなっているのは安曇族が定住した結果なのである
ただ正式の文書とかでも伝えられていないし伝説とかも何かいい伝いでも残っていない
綿津見神社だけが歴史を語っているとなる
だからこれがこの辺で話題にもならない、何か物語でも伝えられれば関心がもつがただ綿津見神社だけが伝承すらなく残されているからだ
ただ明確なのは安曇氏と同族の犬養(犬飼)とか八木平いう地名は残っている
それも八木沢峠がありこれが氏族名だと気づかなかった
それから相馬市の玉野村から霊山町の方に行くと犬飼というバス停が残っていた
犬養という地名も残っている
だから安曇族の系譜の人達が綿津見神を信仰を受け継いで移住してきたのである
真野古墳群から発見された船の線刻画でもそれは十人以上乗れる船である
そうなると縄文時代ではなくやはり安曇族が残した物なのかとなる
この綿津見神社はこの辺では重要な歴史を語っている、でもなんら注目もされない
解明されないのである、資料も残っていないからだとなる
またヤマトタケルの東征神話で上陸した地点が南相馬市の原町区かもしれない
ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を確認しますと、「海路うみつちより葦浦あしのうらに廻めぐる。横よこしまに玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしの境さかひに至る。」とあります。
つまり、葦浦・玉浦を経て、竹水門(蝦夷の境)に着いたと考えられます
「竹水門」は多珂郡のどのあたりか? という問題になります。「和名抄」によれば、多珂郡内には「多珂郷」が含まれており、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」によれば、多珂郷は現在の茨城県高萩たかはぎ市の北部から北茨城市の南部にかけてがその郷域と推定されています
https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=97
竹水門(たかみなと)(蝦夷の境)は南相馬市の多珂神社でもありその後に真野郷になった、それで真野の草原の歌ができたのである
桜井古墳は海に面してあり港の役割もあったかもしれない、海が入りこんでいたからである
こうした神話が生まれたのはそもそもの下敷きになったのが安曇族とか海洋民が早い時期に土着した結果である、特に原町区に綿津見神社が多いのである
それは普通ではない、多すぎるのである、でも浮田国造があり真野郷があった地域は意外と綿津見神社を見ていないのである
そこにも大きな謎がある、原町区に綿津見神社が密集しているともなっているのは安曇族が定住した結果なのである
ただ正式の文書とかでも伝えられていないし伝説とかも何かいい伝いでも残っていない
綿津見神社だけが歴史を語っているとなる
だからこれがこの辺で話題にもならない、何か物語でも伝えられれば関心がもつがただ綿津見神社だけが伝承すらなく残されているからだ
ただ明確なのは安曇氏と同族の犬養(犬飼)とか八木平いう地名は残っている
それも八木沢峠がありこれが氏族名だと気づかなかった
それから相馬市の玉野村から霊山町の方に行くと犬飼というバス停が残っていた
犬養という地名も残っている
だから安曇族の系譜の人達が綿津見神を信仰を受け継いで移住してきたのである
真野古墳群から発見された船の線刻画でもそれは十人以上乗れる船である
そうなると縄文時代ではなくやはり安曇族が残した物なのかとなる
この綿津見神社はこの辺では重要な歴史を語っている、でもなんら注目もされない
解明されないのである、資料も残っていないからだとなる
何か神社には不明なのが多いのである、でもこれだけの綿津見神社山津見神社が残っているとしたら何かしら注目されていいはずである、だから歴史でも古くなると埋もれるとういことである、何か解明しようがなくなっているのである
でも神社があるとお参りするのである、でも何にお参りしているかもわからないとなる
これも奇妙なのである、ただ神社は相当に古いものであり歴史を語っていることは確かである
それとともに地名も本当に古いのである、化石のように古いのである
だから八木沢でも八木平でも犬養(犬飼)でも残っていたのである
それに気づかなかったのである、これは明らかな歴史の証拠だったのである
タグ:国生み神話 古代真野郷 真野の草原 山津見神社 スダシイ 船の線刻画 マルハシャリンバイ 相馬地域の綿津見神社 原町区の綿津見神社 八木沢の由来 安曇族の犬養、八木氏 竹水門は原町区 相馬地域の縄文時代 照葉樹林帯の南限
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