2023年09月30日

秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝顔。月影、十五夜)


秋になってもまだ夏なのか(鮎、カンナ、朝顔。月影、十五夜)

kanna1.jpg




朝跳ねる鮎や一日始まりぬ

十字路に人交わりてカンナかな

縁白き朝顔一輪隠れ咲く

ゆかしきや朝顔一輪隠れ咲く

asgao22.jpg

苔の庭月影さして隠る石

十五夜の月や小窓に覗きけり

moonlightstonenew.jpg


昨日も結構暑かった。朝に近くの川で関のところで鮎が跳ねていた。もう10月にもなるのにまだ夏の感じだった。
何か地球が温暖化して日本でも春と秋がなくなり夏と冬になってしまうという。そしたら俳句などもできなくなる。日本のように明確な四季があって俳句が生まれたからである。その変化もまた大きいとなる。なぜならそうなれば日本の文化自体を変えてしまうからである。

ともかく川が流れてそこに朝に鮎が上る。そして一日の始まるというとき自然とともに一日が始まるということである。それが農民が6割とかいた時代になるとまさにあゆのように自然の中で一日が始まる。今はみんな会社に勤めるというとき何か自然とともに生きるということもない。田舎ですら農民は1割ぐらいしかいないのだから自然と共に生きるという人は相当に少ないのである。

でも自然とともに生きるということは鮎のように清流を懸命に上り泳ぐそれを見ていれば気持ちが良いのである。今日一日も清流を上り生きるとなるからだ。大都会だと人間の群衆の濁流を上り出勤するともなる。

また十字路に畑がありカンナが咲いている。そして一日が始まるというときその花と共に人も生きている。また広い庭のある垣根のあるところを見たら隠されて朝顔は咲いていた。その縁が白いのである。それで心に止めることになった。

月影が差して苔むす庭に隠されて一つの石がある。その石は自分のことなのである。石はそうして沈黙している。自分もまたそうして隠れ住む隠者のように沈黙していたのである。十五夜の月は一時は出ていたが雲に隠れ消えてしまった。ただ小さな窓から丸い十五夜の月を見た。ただまだ秋という感覚がなく季節的に合わなくなってしまった。

だから秋でも暑いということは俳句の季語でも活きなくなる。つまり日本の文化が部分的に消失してしまうということである。だから温暖化はその影響が大きい方でまた地球は寒くなると言う人もいる。だからこの気候はわからない。これだけ科学が発達してもわからない。本当に二酸化炭素の影響なのかそれも明確ではない。やはり依然として科学でも完全にはである解き明かされていないのであるはあ

2023年09月29日

認知症にならないためにすること (目,耳,舌,触覚・・を働かせて脳を刺激する)


認知症にならないためにすること

(目,耳,舌,触覚・・を働かせて脳を刺激する)

ninnchishou22.jpg


医者でも漫才家のようであり分かりやすい、youtubeの特徴はわかりやすいことである。
専門的知識がなくてもなんとかりかいできることである

●血管に障害がでると万病の元になる

認知症になる原因として十個あげているが意外なのは遺伝的要素が十番目にしている。だから遺伝的要素は認知症にはそれほど関係していないのかとなる。ただ血管が大事であることはわかった。血管が傷んでくると高血圧にもなりそれが全体に影響する。だから脳梗塞とかになるなると認知症にもなりやすくなる。

また糖尿病も血管を痛めるからそれが認知症になりやすくもなる。また高血圧でもやはり血管がの一部がいたんでそれで血液を流す圧力を高くしなければならないので心臓に負担をかける。つまり血管というのは体全体に張り巡らされていて小さいのでは毛細血管がありそれにも影響すると目とかにも影響して白内障とか緑内障とかそういうのにも影響してくる。目が見えづらくなるのはやはり血管に血の流れがスムーズでなくなるからそうなる。
つまり血管というのはそれだけ大事なものなのである。脳にも欠陥があって毛細血管もあって違う巡っていくからである。要するに血の巡りが悪くなるということは頭の働きも悪くなる。
それで私の母親は百歳まで生きたが血管は丈夫だったのである。

●家事を94歳まで続けた母は認知症にならなかった

だから確かに認知症になったのだったがそれは95歳以上からでありその年になれば誰でも認知症になる。なぜそうして認知症に95歳までも普通でありえたのか。前から言っているように私の母は働きづめでありなんの趣味もない。花など金がかかるからいらないと言っていたのである。でも94歳までも家事をしていたのである。だから何か高等な趣味を持つとかではない。家事でもしていれば料理でもしていれば結構頭を使うのである。

料理というのは様々なものを用意しなければならない。だから料理をすることはかなり頭を使う仕事なのであるである。頭を使うというとき何か難しいことをすることではない。家事をすることはやはり頭を使うのである。だから危険なのは嫁が姑におばあちゃんは何もしなくていいですよテレビでも見てみていてくださいとか言われて何もしないことが役割がなくなることが認知症になりやすいのである。

私には二人の母親がいたがもう一人の母親は役所を退職してから何もしない家事もしなかった。それでも55歳くらいで退職したからそれから30年も生きたのである。その間に何もしない。ただテレビを見ているとか趣味でも何か自分に合ったものをでわなかった。だから認知症になった原因はやはり家事すらせず退職してからただ何もせず怠け者になりポケットしていたら認知症になってしまったのである。生理的にも太っていたしやはり血管がいたんで認知症になってから脳梗塞にもなったからである。だから血管をが痛むことは長生きできないとなる。

だから認知症になる原因が目耳触覚味覚の舌かを働かせないと頭も働かず脳がそれが認知症につながる。目とか耳でも悪くなると外部からの刺激がなくなりそれで脳も働かなくなり認知症になりやすいのである。だから外に出て光でも受けて運動して体全体でも脳でも働かせることが大事になる。そして生きがいを持つことも大事になる。何かもう生きがいもなく感動もなくただ漫然として家事すらもせず怠けているとどうしても認知症になりやすいのである。

●テレビでも自分なりに想像力を働かせて見る

だから長生きの時代はやはりライフワークを持つべきである。それは別に特別専門的なものでもなく何か興味をあれば追求していればそれでひとかどの専門家にもなりうる。ただ会社に勤めていて退職したら用無しになることが問題なのである。

例えばテレビを見るということでもただ漫然と受け身になって見ていると頭は働かない。でも最近見た推理ドラマで古い金持ちの館を持っている男性と両親と早く死別した女性がその男性と結婚して暮らすことになった。
でもそこには前の妻がいた館でありそこにやはり妻がいるという感覚になりその女性は嫌だったのである。そういうことを言う女性を知っているからなるほどと思った。
仏壇に死んだ妻の家が飾ってあってその人は依然として妻を愛している。そこにその家に親しくなった女性がその妻の死んだ妻のことが気になり嫌だったと言ってたからである。
その家は古い金持ちの家でありだからこそその家には何か代々の人がなお生きているという感覚にもなる。それで推理ドラマではその先妻は実は新しく親しくなった妻に女性に殺されていたとなる。

またその女性は妻となった女性は金持ちの家である何か会社を経営している親の都合で政略結婚のようなことを強いられた。そのことで夫婦がうまくいかないとなっていた。そしてそうした事件が起きたのはもともと無理やりに親の都合で結婚させたことだったとか反省していた。
つまり人間というのはその出発点が悪いと後々まで尾を引くのである。そういうことは老人になった時おのずと分かってくる。意に沿わないことを親に強いられて職業でも自分に合ったものを選ばなかったとかなる。それが後々まで尾を引いて老人になって後悔するのである。

●老人は何でも批評に向いてくる

このようにテレビを見ていても何か一方的に受け身になって見ているのではなくそれを自分の経験とかから重ね合わせてみる
ただ一方的にみるのではない何かそこに教訓を得るのである。だから意外とテレビのいい点は今BSで昔のドラマや推理ドラマが面白いのである。ただ漫然としてみているのではなく自分の人生と重ね合わせてそういうことだったのとか教訓を得る。
それはやはり老人になればいろいろ経験しているからその見方も深くなるのである。だからただ一方的に見るのではなくテレビでもドラマだったらそれを自分の人生と重ね合わせて深く見る。

そして批評というものが老人には向いている。テレビドラマでも何でも批評してみる。本を読んでも批評してみる。ユーチューブでも自分なりに批評してみる。そうするとただ一方的に見ているのとは違ってくるのである。明らかに批評するき頭を働かせている。批評というものは創造的なものでありその人なりに見る目がないと見れない。だから批評というのは文学っても一分野となっているので。
例えば自分自身が何か詩でも小説でも絵でも作らないないとしても批評はできる。でも批評は創造的なものでありその批評は経験豊かな老人に向いているのである

とにかく高齢化社会というのは色々な問題が生まれている。その大きな問題の一つが認知症になることなのである。その認知症になった家族を介護したから認知症の怖さを知ったからどうしたら認知症にならないで老いてゆくかそれがおーきな課題なのである。
なぜなら認知症になる人の数が本当に多いからである。だから認知症は誰にでもなる可能性がある。では認知症を予防するにはどうするのかということもある。最近日本でもその薬が出来たがそれもまだ実験的なものでありそれで治るということはない。認知症になる事を多少怒らせると言うくらいである。
でも認知症については世界で研究しているからやがてはいい薬が出来て治せるということもあるかもしれない。ただその先は長い。ともかく認知症になる原因として生理的な問題もあるが五番目までは目とか耳とかしたとか触覚とかの感覚が鈍くなりそれが脳が脳の働きが悪くなり認知症になる事に通じている。
だから五感を働かせることが問題になる。

いずれにしろここのyoutubeを漫才をしているのかとまで思う。医者なのにこんなに饒舌なのかというのも驚く。こういう人は俳優にもなれるだろう。ただ難しい医学のことでも漫才のようにして説明しているから人気になるのもわかる。
ユーチューブとかなると人気になる人はやはりこういう人である
説明が分かりやすく面白いからである。そういう人は数学の先生にもyoutubeで説明していたからである。
だから今やユーチューブは知識を身につけるためには必須のものとなったのである。

正直者は馬鹿を見るは本当なのか (私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)


正直者は馬鹿を見るは本当なのか

(私が家族の介護で経験したことーただ金を要求する人しか来なかった)

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果
ライフハッカー・ジャパン編集部 の意見

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

こうした戦略はうまくいくのでしょうか? 古い格言にあるとおり「お人好しでは勝てない」のでしょうか?

自己中心的な戦略で成功したとしても、それはあくまで短期的なものであり、長期的に見れば「お人好しが勝てない」ことなどありません。

「ずる賢い人が成功して、いい人は損をする」は正しくなかった|研究結果

●介護の時金に困る人しか来ずに金を要求するだけだった

私の親の介護のことで塗炭の苦しみを味わった。そのことを延々と書いてきた。一人は事業に失敗して借金を抱えていた。その時点でもはや何も他者に対して助けることなどできない人だった。
だから自分が苦しんでいてもそのことを全く理解できていなかった。ただ金が欲しいということで何か事業で使った機械を1000万で買ってくれとか要請した。私はそんなところではない。親の介護のことで頭が精一杯頭がいっぱいだったのである。そして自分自身が病気でもあった。ただその人が何もしないということではなかった。でも借金を抱えていることでとても自分のことなどないがしろにされたのである。

まだこの辺ではその時原発事故があり避難者は住仮設住宅などに入ってきて混乱していた。だからその避難した人たちも私たちはとにかく助けられるべきだということで私が不満を言った時お前は冷たいやつだとか批判されたのである。

そのときは原発避難者や津波の避難所も混じり外部から援助の人たちがボランティアが来ていた。でも私のように個人的なもので悩むのは苦しんでいるものは全く無視された。そしてその原発避難者でも仮設に入って何もすることがないからパチンコとかギャンブル漬けだったのである。そんなところで借金していた事業に失敗した人の家族がパチンコ屋で働いていたとこあった。それも腹立たしいことだった。だからその時私は原発避難者にも不満を持っていたのである。でもそんなこと全体的には全く無視されたのである。ただそれは特別な異常な状態だからそれを批判するということもできない状態であった。

●私が苦しんでいることに全く配慮がなかった

でもなぜ私が苦しんでいることになんだ配慮はなかった。私のところに来た人たちは何か私の事に配慮が全くなかった。だから一人はれっきとした泥棒であり私が入院した時家が空っぽになり屋探して大金を盗まれた。
とにかく散々な目に合っただけでありそれも私のカルマだったともなるからあまり批判はできない。

人に親切にすることは、誰もが知っているとおり正しい行ないです。では、賢い行ないとも言えるでしょうか?

うまく立ち回る、手を抜く、他人を操作するなどはすべて、手っ取り早く成功するために使われる戦略です。

何か事業するにしても他者への心がけが親切心などが必要なのかもしれない。しかし現実は今の社会は他者から奪うということが普通にある。それが極端になると盗めばいいとなっている。現実に私に起きたことはそのことである。それは相手も金に困っているからそんな余裕がないからそうなったともなる。
そして金を持っている人から金持ちだったら奪ってもいいとなっていた。だから私が病気にもなり苦しんでいる時奪うというチャンスが生まれたのである。

でもそもそも相手が金持ちであり自分が貧乏で困っているときは金持ちから盗めばいいということことで正当化されるのか。そういうことをしてその人は裕福になれるのだろうか?そういう考えになる人もまた多いと思う。
逆に金持ちの家だったらそこに病人がいたら助ければそのお礼も大きなものになるかもしれない。ただそういう金目当てでだけでなく金持ちでも親切にすればやはり見返りがあるかもしれない。ただ金持ちはら奪えばいいという考えてはその人は裕福になれるのだろうか?

共産主義にはそういう思想がありだから貧乏人は搾取されているのだから奪えばいいとなり時の政権でも金持ちからでも奪うとなりそれが革命として正当化される。底辺層で恵まれない人はそうなりやすいのである。でも共産主義でも平等にはならなかった。
党の幹部に富が集まりやはり一部の人が豊かになる。富は一代で築けない、時間がかかり時間の作用があって一気に人間は平等化しない、でも貧乏であっても何代か時間がたつと富の蓄積が行われ豊かになう人もいる。だから一気に平等にするということは武力でも革命することには問題がある。それで失敗したのが共産主義革命であり粛清されたとかの数がカンボジアでは2百万人とか中国でもどれだけの人間が粛清されてころされたかわからないのである。

●金をとる奪うことしか考えない人が事業で成功するのか?

だからここで親切にすることはお人よしであり馬鹿げている。そんなことしても裕福にはなれない。それも一つの見方でありそういう人が多いかもしれない。でもそれが社会で成功するものなどだろうか。何か今の社会は金だけが目的であれ金になればいいとかなっている。それだけではない他者から奪うことが金にもなり裕福になる道だと思っている。ただ本当にそれで裕福になれるものなのだろうか。

それで私のところに来た人たちは一人は泥棒でありその人は果たして裕福になれるものだろうか。また事業に失敗した人は裕福になれるものだろうか。そもそもは相手が苦しみ困っているときただ金になればいいとしかないとしたらそういう人が果たしてで成功するものだろうか。確かに技術者としては優秀でも経営者としてはどういうこと成功するものなのだろうか。その辺は事業に詳しくないからわからない。でもここで書いていること親切にすることはお人よしでありそんなことしても見返りは無いともして人と接する。でもそういう人は本当に事業でも成功するものだろうか

ともかく一人の女性は金をくれとあからさまに言い本当に金を奪ったのである。だから極端でありそいう人もいるというのが現代である。
ただ今の現実社会はそんな甘いものではないとなりただし親切にしてお人好しの人などは貧乏になるだけだとなってしまう。でも本当にそうなのだろうかという疑問をここで呈している。

銀行でも投資信託を売りつけたかそれもただ銀行でもうければいいというだけであり客のことなどは考えていない。もちろん株とかは上がったり下がったりするからそれに文句をいちいち言うことはできない。でもただ銀行でもうければいいということしか考えなかったらどうなるのか。だからこそ転売して手数料を取ることしか考えてないとなる。そんなに転売する必要もないのである。でも転売するとその時手数料が入るのは大きいのである。

いずれにしろ銀行でもまた客から金を奪えばいいという考えしかない。それで銀行も仕事として成功するものだろうか。それもまた客から金を奪いということしか考えない。そこに問題がある。それは確かに一時的には金を儲けることができる。でもそれは一時的であり信頼を失うことにもなる。ただそれを全部銀行側の責任とはおならない。なぜなら客の方にも責任があり問題があるからである。

とにかく相手に親切にすることが助けることがお人好しだとして馬鹿にされることもある。でもガツガツとして相手から奪うということしか考えてない人が長い目で見れば成功するのだろうか。そのことをここで書いていたので納得した。短期的にはそれでいいだろう。儲かることは確かである。でも長期的に見れば逆にしてみれば損したとなりただ奪われたという感覚になる。それは株ならば上がったり下がったりするからそれをとやかくは言えない。
でもそんなに転売して株が上がった時も売ったそしてまた次の投資信託を買わせる。その時手数料が入り銀行にしてみればもうかったとなる。だからそういう商売は果たして長期的に見れば成功しているのかとなる。でも株とか証券とかはなかなか分かりにくいから一概に批判はできない。

●人を助けて親切にすればどこかで報いを得る

いずれにしろ私が経験したことは全く相手のことを考慮しない。何を苦しんでいるのかも見ていない。ただいま金がなくて苦しんでいるのだから奪いばいいという人しか来なかった。それは私の積んできたカルマだったのだ。また私の家自身のカルマであり一概に他者を批判はできない。
でも最近小さい事ではあるがカメラを忘れたりしたらわざわざ車で持ってきてくれた人がいた。また自転車で倒れたとき3人くらいの女性の人がわざわざ私のところに来て助けてくれたのである。それはやはり最近ボランティア的なことをしたり人を助けたりしたからそうそういうを徳積んだから見返りとしてそういうことがあったのかもしれない。見返りというのは必ずしも助けた相手からは来ない。全く知らない人から助けられるとこあり報いがあるということがある。
だから人に親切にしたり助けることは必ず何か報いがある。でもただ人を見たら苦しんでいる人であれなんであれ金になればいいとかをば良いとかとして接してくるとなるとその人に何か報いがあるのか。それはその人に取って悪いことが起きてくる。カルマとなってゆく。それは私自身が苦しみ経験したことである。
やはり徳は得であり親切にした他者をたすけることは得することになる
そのことをここでは言っていた

これを大きく世界的に見ればアメリカは世界の富を収奪したということは。そしてアメリカでも極一部の人がその富を一人占めする。もしアメリカでもその富を世界に分配して世界の人を豊かにすればアメリカはやはり栄えて衰退することはないかもしれない。でも世界史を見ればあらゆる国が栄えた国も衰退している。それは奢れる者の久しからずであり必ずある国に富が集中してもいずれは衰退してゆくのが人間の共通の歴史だったからである

別に中国がいいとかロシアがいいとかではないアメリカもやはり歴史を見れば衰退してゆく。七つの海を支配したイギリスでも衰退した。それと同じようにやはりアメリカも衰退する。それは世界の人間の法則のようにもなっている。この世に永遠に栄える国とかはありえないのである。ただもし世界の人たちを豊かにするいろいろな援助をして助けるということがあればやはりその国は栄えて長く長く栄えるということもある。

ともかく何かただ相手から金を奪う相手が弱ったときチャンスとなり金を奪うようなことをしていてそれが個々人であり国であっても栄えるものとなるだろうか。例えば中国でも確かに福島の処理水を海に放出することには問題がある。でもそれで困る人が相当にいる。中国国内でもいる。もちろん放射線の問題がありそれを許せないということはある。でもまたその魚介類でも売って生活する人がありそれは日本だけではない中国にもいる。そして本当に危険なのかどうかも分からない。
それは政治的なものであり科学的なものでも必ずしもない。そもそも原発自体が世界全体で作るべきものではないということもあった。それが一旦事故になれば福島のようにもう取り返しのつかないものになる。それは世界に波及するし今回のように世界の魚をべ食べられなくなる。だからこそ原発は作るべきではなかったのである。

●強欲資本主義はモラルがなく崩壊

他者に親切にすると言うのではなくそういうことはお人好しだとなる。かえって自分のためにだけ利益を追求して自分の会社のためにだけ利益を追求してもうければいいという感覚になっている。それが強欲資本主義でありそれが普通の感覚になっている時社会は荒廃する。すでに荒廃しているのである。だからもう資本主義というのはモラルも何もないから弱肉強食の世界で生きているとなる。そんな社会がどうして持続できるのだろうか。それはいつか破綻する。やはり人間社会でも共生とか共同とかがなければその社会は野獣社会となり食うか食われるかの世界となり地獄となってしまう。

現実に地獄にもなっている。ただいつの時代も親鸞が言っているように地獄は一定の住処なりである。いつの時代になってもこの世は地獄である変わることがないということである。だからこそやはり親切にするとかそういう人は馬鹿であり正直者は馬鹿を見るとかということわざも生まれたのである。でもそれが本当なのかやはり何らかのただそうして人間が利益をを追求するだけになったら人間社会そのものは自壊して行くだろう。現実にビッグモーターでもジャニーズ問題でも内部のモラルの荒廃から自壊するようにもなる。やはり結果としてそれを示しているともなる。一時的には成功しても長くは維持できない破綻して衰退するとなる

いずれにしろこの世を生きるということは何か。何か経験すればそこから教訓を得る。それでことわざというのは今にも生きているのは人間というものはそもそも変わらないからである。人間から欲を取り除くことはできない。だからこそ社会が変わっても科学技術がいくら進歩してもやはり人間自体は変わらないから同じような事件でも繰り返している。つまりカルマを繰り返すのが人間でありそのカルマ号が尽きることはないのである。なぜなら人間から欲がなくらないからである。

だからこそ自分のことばかり考えて自分の欲を達成するために手段も選ばず相手はただその欲を達成するために奪う存在だとなってしまう。また成功するためにはむしろ相手に親切にするとかでは成功しないとかなる。会社の経営でも客に親切に尽くすとかではなく客からいかにして金を巻き上げるとかになってしまう。それは極端にしろそういう考えで事業を起こしている人も居るだろう。まずは何でも利益が優先される。だからそこに多少の不正があっても目をつぶるということになる。そして利益を上げた人が褒められるし収入も多くなる。それはビッグモーターであからさまに起きたことである。

そして人間はとにかく相手より優れている成功者になりたい。そのために自分は優秀なのだということを示すために事業を起こしたのである。そういう動機になっていること自体が問題だったのである。そういうことで経営ができるのか成功するのかとなるとのかその出発点からして間違っていたのである。
ただ自分自身にしてもそういうことが起きたのは自分が積んできた何かのカルマでありそんな人しか来ないということ自体が自分のまた家族のカルマだったのかとなる。だからそんなに他者を批判はできない。でも現在はあまりにも金だけを追求して人に親切にするとかそういうことが無視されているのである。だからかえってそうそういうことでは事業でも成功しないのかと見る。

●大正生まれの馬鹿正直な女性

その女性は本当に馬鹿正直な女性だった。農家の女性でありその女性はまず嘘をつくことなどあり得なかった。何か今振り返ると私の家族はその人を馬鹿にしていた。でも認知症になったときその女性は私の家族によくされたわけでもないのに気遣ってくれたのである。これまで近くで親しくした人も認知症になったときは付き合うことはなくなった。でもその人はそういうことがなかったのである。でも別に私の家族に良くされたいということでもなかった。

だからその人はまれにみる馬鹿正直な女性だった。その女性は何か悪いことはできないまだしない。他者に対して裏表もない同情心を持っていた。だから今時そういう人は絶滅危惧種となっているかもしれない。どうしても戦後には特にそうなのかアメリカの民主主義が入ってきたとしても良い面はあったとしても人間はもはや金しか求めない。金が全てとなってしまったのである。
でも日本人はもともとそうでわなかった。いろいろな人がいるにしても日本人というのはこうして馬鹿正直な人でも普通にいたのかもしれない。そのために明治に入ってきたヨーロッパ人が日本人はみんな幸福そうだったというと言っているのは人間そのものが今と違っていた。何か悪というものを知らないというか馬鹿正直ということは素朴な人が多かったのかもしれない。

つまりそうして過去の人間のことが今になるとわからなくなったのである。同じ日本人でも今の人間は全く違った人間になっているのかもしれない。それは戦後はすべてアメリカに習ったからである。アメリカに習うということはアメリカはすべて金が第一であり金で全ての価値が決められる。そのことをアメリカに留学した内村鑑三は言っていた。
何するにしてもすべて金には金で測られる。でも日本は違っていると言うことを言っていたからである。何か講演してもその見返りとして金をいくら払えばいいとか金ですべてが決められる。そのことを言っていたからアメリカにすべてを習ったことが日本人もまた全ては金でしかなく金で計られるものとしてあるだけだとなってしまった。

だから戦前でも何か馬鹿正直な人がいたのかもしれない。ただそうは言っても同じ大正生まれでも全く違った人もいるから一概には言えない。でも何か日本人は金だけですべてを図るとか金で全ての価値を決めるとかそういうことはなかったのかもしれない。だから馬鹿正直な人がそれなりにいたのかもしれない。それは本当に絶滅危惧種となり今やもうそういう人は居ないだろう。常に利益を計算している。金をもらわなければ何もしない。何かしてもらえば金を払えばいいとしかなってない。

それはアメリカ人の価値観であり日本人はもともとそういうことがすべてではなかった。他でもラオスの人は素朴であるというときそこはまだ原始的でもあり文明も入ってきていないからそうなっていたのだろう。だから人間に言えることは文明化してもそれで人間が良くなったとも言えないのである。
返ってラオスのようにまだ外国人も入ってこない原始的な生活をしていれば素朴だとなる。でも最近中国人が入ってきているから商売にたけた人も出てくるし素朴さは失われるのである。
だから文明が人間の心を歪め素朴さを失わせる。それは日本でも明治以降に起きたことである。ただ戦前はまだ馬鹿正直な人でも日本人として素朴な人もいたとなる。ただもはやそういう人は絶滅危惧種であり現実にそういう人に出会うことはなくなったともなる。




2023年09月27日

一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)


一軒の家がまだ壊される (増える空き家の問題)

houseold1.jpg

newhouse1.jpg


すぐ近くに何軒か新しい家が建つ



近くの大きま一軒の家が壊された。最近私のすぐ隣で5軒ほどは壊された。それは空き地になってしまった。ちょっと離れたところでその家も壊された。その家をいつでも見ていた。 大きな二階建ての家であり誰も住まないのはもったいないと見ていた。
でもこの家はもうすでに20年くらい住んでいなかったかもしれない。別にそれほど傷んででいないのである。去年の大地震で屋根瓦などが壊れた。でも瓦も直しているから壊されるとは見ていなかった。
そしてこの家にわ誰が住んで何をしていたのかそれも全くわからない。何かこうして家があってもそこに何か物語があったとしてもそれもわからない。すると何も残すものもないとなってしまう。やはり何か語るものがありこの地域でもそこで何か残すものがあってもいいとなる。

だから人間というのは建物だけを見ていてもわからない。そこでどういう暮らしがあったのかどういう人が住んでいたのか地域でどういう役割があったのかそれがまったくわからないのである。ただいつでも見ていたのは大きな家でありここに住まないということがもったいないと見ていたのである。

この辺では去年の大地震で取り壊された家も多い。ただもう跡継ぎがいないとか何かあって直すのも金がかかるとかで解体されたのかもしれない。ともかく津波でも海岸地帯は家がなくなり家がなくなり空き家化して更地にもなってしまった。
それより原発事故で避難区域になったところははゴーストタウンになり空き家の町とも化した。それは今も回復していないのである。
おそらく原発避難区域は残されたのは老人であり回復するのは難しいと思う。つまり少子高齢化で跡継ぎがいなくなっているからである。街中でも壊されて空き地化したところが結構ある。 農村地帯でも空家が目に付くのである。それは農業というのが衰退して跡継ぎも居なくなっているからである。

全国的に限界集落がありそこでは近くにスーパーが無いとか介護でもそうした村落を回るだけで2時間もかかるとか不便になる。車で回ってもそれだけの時間がかかるのである。だからどうしても現代ではスーパーが近くに病院とかあり最低限のものはないと不便になる。私は一万の町でも一応病院がありスーパー二軒あるからなんとか車もないのに自転車で買い物にもいける。
でもどうしても買い物でも足りないものがあるから隣の町まで自転車で行かざるを得ないのである。 7キロくらいだからなんとかいける。だから山の中の限界集落のようにはならないのである。

ただもともと限界集落でもそこで暮らしてきた人がいたのである。ただ病気になったら医者にかかれないとか介護でも大したことができずに死んでいたとなる。それより長生きもしないから病気になったら大した手当をせず早めに死んでいたのだろう。
現実にそういう限界集落では子供が病気になってそれをその子供を町の病院に見せるために運んでいるうちに死んだとかも聞く。救急車すら来ないからそうなったのである。でもそういう場所でも人間は継続して生き続けてきたのである。でも便利な生活が普通になるともうもう住めないとなったのである。

今日テレビで老人が部屋を借りられないという問題を議論していた。その人たちを空き家に住めるようにしたらいいとかいっていた。田舎でもいくらでも空き家があるのだからそこに住まわせればいい。で
も地方でそうした老人を受け入れるのは問題がある。なぜなら老人は労働力にもならないしすぐに介護とか病気とか介護になりその自治体で世話する他なくなる。すると財政的負担が増えるだけだとなる。。たしかに年金をもらっているからそれで暮らせることがあっても何か生産的ではないので受け入れにくい。若い人ならやはりこれから生産的なことをする時間があるから体力もあるから歓迎されるとなる。

例えば戦後戦争からの引き揚げ者がわずかの耕作放棄地でも土地があればそこに開拓に入り貧しくてもそこでなんとか食料を得てくらしていた。では今の時代にそんな人がいるのかといえばいない。耕作放棄地はいくらでもある。でもそこで農業するかといえばしない。そんな苦労はしたくないとなるからである。
ただ田舎で年金があり空き家で暮らすというのはあまり歓迎されないだろう。老人が増えているのにさらに老人を増やしてどうなるのだとなってしまう。そこに少子高齢化社会の深刻な問題がある。

この辺で救われているのは実はその大きな家が壊されてもすぐ近くに新しい家が何軒も建った。それはおそらく原発避難区域から移住した人たちである。その人たちは補償金が結構大きいから新しく土地を買い家を建てたとなる。
でもその人たちは何をして働いているのかはわからない。でもそのために原町区とか鹿島区とか他でも相馬市でも新地でも移住した移住した人たちがいて人口は減っていないのである。

だからもう原発避難区域は復興すること自体が難しいとも見る。復興してもらいたくても現実は厳しい。残されたのは老人が多いからである。そしたら後を継ぐ人もいない。そういう場所で町でも町でも村でも維持できるのかとなる。それで官僚の人が津波で被害を受けたに三陸などにジジババしかいないところに金をつぎ込んでも無駄だという本音をいったことも分かる。現実を見ればそうなってしまうからである。

そして現在の便利な生活をしようとすれば限界集落には住めない。そこで別に介護とか医療とかのサービスを受けずに昔のようにただあきらめて死んで行くならいいがそうともならない、でも現代のサービスを受けるとしたらどうするのかとなる。だからコンパクトシティとかが勧められる。それがこの辺では原発事故で小高や浪江双葉大熊とか空き家化してゴーストタウンにもなった。
そしてその回復が望まれるがそれもうまくいかない。それはやはり少子高齢化が影響しているのである。だから原町とか5万くらいの年に移住した人が多いのである。それだけの家を建てる保証金をもらっているからである。

つまりもしかしたらもともと大熊辺りは広野とか大野とかなって地名のようにそこは原野だったのである。また夜ノ森とあればy夜は余のことであり相馬の殿様の森として名づけられたのである。だから元の森に戻ってしまうのかともなる。復興を望むにしても現実問題としてやはり少子高齢化とか現在の問題現在の問題が難しくなっている。
そもそもが少子高齢化というのは全国的問題でありどうしても現代のサービスを受けるにわ最低限の人口が必要でありインフラも必要である。スーパーとか病院とか無い所で住むことはいやだとなる。
だからコンパクトシテイとか人々を集めてそこでそのサービスを受けさせる。介護にしても2時間もかけて限界集落を点々と点在する限界集落を一軒一軒回ることは手間になるからである。

そして小さい町でもスーパーがあり車がなくても歩いてでも買い物に行ける。だから現在のサービスを受けたいならコンパクトシティというかにして人口を集中させる以外ないかもしれない。
ただ自分としては生活の多様性があって海でも山でも村でも暮らしがあるのがいいと思っている。でもそれはただ外部から見てそう見るのであり現実問題としてそこで暮らす人にとっては暮らせないとなるのである。だから人口集中させてコンパクトシティにするというのが効率的になるのである。
posted by 天華 at 14:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月26日

内堀福島県知事は総務省の工作員だった! (ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)


内堀福島県知事は総務省の工作員だった!

(ジャニーズのTOKIO課があり依然として応援している)

tokio.jpg

tokio2.jpg

TOKIOは原発事故前から人気番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画で、福島県浪江町で農業に挑戦。復興支援に携わり、2
012年度から県産品をPRするテレビCMに出演する。21年には、福島の魅力を発信する県庁内のバーチャル組織「TOKI
O課」が設置された。

TOKIOは家族」福島県知事が連携継続を強調 問い合わせは250件

kajisoumushou2.jpg

kajisoumushou1.jpg

●総務省が県の行政を監視して支配する

この説明はわかりやすかった。総務省とはそんなに力あるのかと見えるものがあった。マスコミも支配できるし内堀福島県知事がその総務省から派遣された工作員だったということにも驚く。だからこそトキオ課まで福島県庁に特別設置されたのである。なぜ芸能人を強制で行政でそれまで特別待遇しているのかそれは総務省のトップである桜井パパがいるためにそうなっているのだという。そんなこと普通はわからない。でもこの説明でなるほどとわかった。

何か内堀知事は評判が良かったみたいだ。外国に積極的に福島の宣伝をして福島の産物を売らせている。だから内堀知事対してあまり悪いことを言う人はいなかったみたいだ。何か政治というとき福島県知事にしてもあまり関心がない。選挙でも関心がない。でも知事というのは相当な権限がある。何か原発でも知事と土地の所有者だけでその許可があれば原発でも作れたということを言う人もいる。

そして総務省がそんなに権限のある課とも見ていなかったし関心もなかった。総務省はやはり自治体に対して相当な権限を持っていた。だからこそ内堀知事は各県の財政を調べるため財政課に入っていたのである。それは総務省のトップの指示でそうなっていた。工作員だったと言うことを加治氏が言うのもそのためである。つまり権力構造として地方自治体は総務省の意向に逆らうことはできない。だからこそ東電の原発事故は東電が賠償すべきだという。でもそれを政府がさせないのは政府にとって東電が天下り先だとか金になるから守らねばならない。それは検察庁や警察でも海上自衛隊までも天下りして利益を得ていたのである。

toudennres.jpg


サンデー毎日ー10月9日号−ジャニーズ事件

これが正しい再出発の方法だったのだろう。これまでの膿をだしてこそ再出発できたとなる

東電を守らねばならない。東電を潰すわけにはいかないとなったのが問題だった。本来は東電を潰すべきだったのだが政府は事故の尻拭いをした。その額は20兆円にもなるという政府の国の予算のから支払われたのである。それは国民の税金なのである。そのことについて何か国民も怒ることもない。おそらくそのその官庁などのことなどよくわからないからとも見る。

●原発事故でも国の権力がかかわり起きた

だからなぜこれだけの大事故を起こして原発に関してはそうした政府の高官でも官僚でも誰一人責任を取らないのである。東電の幹部でも責任を取らない。でも何か人間社会というのは必ず誰かが責任を取らされるようになっているのである。政府と東電の責任があってもその人たちは責任を取らない。でも原発避難区域になったところでわその周辺では放射線被害で進めなくなったとかして大被害に遭う。必ず誰かが責任を取らされる。

例えば歴史でもなぜ太平洋戦争で300万人も死なければならなかったのか。その責任は誰にあるのかそれもやはりその責任者とは誰なのかもよくわからないのである。それで昭和天皇は広島に行ったときその責任を問われてしどろもどろになっていたのである。そしてその後三島由紀夫はなぜ天皇は人間宣言したのかと反乱を起こして自死した。それは天皇を神として戦い死んだ人たちが300万人もいたのだからそのことを許すことができなかったのである。ただその戦争でも責任が誰にあったのかというと国民にもあったしマスコミにもあった。

朝日新聞は戦争を煽ったとかいうこともある。だから今回でもマスコミはジャニーズを批判しなかった。原発でも批判しなかった。なぜならやはり総務省というのはマスコミを管轄していてそれに逆らうことはできないシステムになっていたからかもしれない。桜井パパが総務省のトップに居ればそうなる。だから本当に福島県庁にトキオ課まであるのか本当におかしかったのである。でもそのことを指摘するマスコミはいなかった。第一福島民報などは創価の聖教新聞をする株でも50%が福島県庁の出資しているとなれば国とか県の官報と同じである。中央の権力の意向に従うほかないとなる。だから福島県の政治に関しても何ら批判することもない。

ただ政経東北は内堀知事のことを批判していたことがあった。ただトキオ課があるとか批判はしてないだろう。政経東北にしても何10億の金を幹部が山分けした除染で山分けした相双りテックの宣伝を裏表紙でしていた。だからマスコミというのはとにかく新聞を出すにしても雑誌を出すにしても金がかかるからその金でも読者から得られないから県庁でも大企業でも宗教団体でも資金援助してもらわないと成り立たないからそうなっている。

●権力の横暴と暴走とをいかにとめるのか

だからそこにもはや何か権力を監視することはできない。権力と迎合することしかできないのである。それを象徴していたのは原発事故のとき朝日新聞社から読売新聞社からマスコミの代表は東電に招待されて中国で中国に集まっていたのであるその時原発事故がおきたのである。このように政府権力とマスコミは一体化しているからマスコミに何か期待することもできないので。ユーチューブができてこれはあまり金がかからないが個人でも放送局になるようになっ加治氏のように批判する人が出て来たのである。

ともかく地方自治といっても自治体はなかった。中央の権力の命令に従うのは地方自治体である。その工作員として内堀福島県知事がいたとなる。その地方自治体を取り締まるのは総務省だったとなる。ただ総務省にそんな力があるのかなど普通の人はわからない。それよりそうした官庁とかの権力構造はわからないのである。
でも今回加治氏の説明で私自身もなるほどなと理解したのである。なぜ権力が問題になるのか。権力の怖いのは今回のように原発事故になったりまたナチスのように全体主義になり何百万人とも死んでいくという恐ろしさがあるからである。だから権力というものをどういう風に操作するか。それが大きな問題なのである。

カルト教団でも統一教会でもオウムでもそうだったように創価でもそういう団体が権力を持つことを目指しているのだからそれを批判しないとナチスのようになってしまうのである。だからこそ権力をもつものを監視する役割のものは必要なのである。でも三権分立になっても検察でも東電に天下りしていてそれができないようになっていたのである。日本で民主主義がないというとき政権交代がアメリカのように民主党と共和党で定期的に交代しないということもある。政権が交代すれば前の政権の批判もできるしあくも暴くことができる。日本では政権交代がないのだからいつまでたっても政権の悪を暴くことはできないのである。
韓国で最高権力者の大統領が変わると前の政権の批判して悪事でも暴く、それを何か批判するが日本ではそもそも政権交代がないことが問題なのである。すると既得権者がいつまでも有利になり改革できないのである。

●人間が権力を持つことで起きる恐ろしい結果

原発の悪にしても権力で隠蔽されて何もできなかったのである。マスコミも何もできない。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。巨悪になるとそれが見えない。だから巨悪というのは批判もされないから誰もその暴走を止めることはできない。結果的にはナチスのようにもなるし日本の戦争もやはりその暴走を止めることができず300万人も死んだということになる。その結果の恐ろしさを知るべきである。つまり人間の権力を持つということ自体が問題なのである。そして人間はこの世で権力を持つ権勢を得るということがあまりにも魅力が大きいのでそのために人はその権力を得るために何でもするとなる。

宗教は権力を否定するものであるが結局カルト宗教団体になるとこの世の権力を得るために運動するだけになる。だから人間社会はいつまでたっても変わることがない。共産主義がでも結局人間の欲があり権力を持つことで堕落する。権力は絶対的に腐敗するというときそうである。それは人間の欲がなくならないからである。だからこそこの世に理想の国などいつまでたってもできないのである。それは宗教団体がただただこの世の権力を求めて運動していることでもわかる。全て御利益であり権力を得ることしか興味も何もない。その御利益を得られると説けばあれだけ膨大な人が集まるのである。何故ならその信者もまた御利益求めているからそうなるのである。
posted by 天華 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月25日

ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


ようやく秋になるー窓に月(朝露、稲穂、秋彼岸、酔芙蓉)


morningdew.jpg


moonwindow.jpg


朝露の稲穂に光り玉と散る

街中に空地増えるや秋となる

秋彼岸なれ花挿し勤め墓守る

朝静かそよ風にゆる酔芙蓉

街中に畑の手入れやオクラの花

十字路や1万の街にカンナかな

窓に月一人思索の我が家かな

誰か見る心を見るや窓に月

一時や窓に移りて消えし月


ようやく秋になった。この辺では稲穂は順調にも実っている。。他では暑すぎて順調に実っていないところもある。朝露が稲穂に光り気持ちがいい。
私の住んでいる街は1万位である。だから街の中に畑もある。そこに働く人がいてオクラの花が咲いたりする。また畑に酔芙蓉が咲いている。秋彼岸で私の墓はすぐ近くにある。そういう点では便利である。この夏は暑すぎて自転車で遠くに行くこともできなかった。隣の市でも7キロくらいでも一回くらいしか言っていない。でも1万くらいの町でもスーパーが二軒ありツルハが二軒もある。足りないものもかなりあるが別にそんなに不自由でもないのである。贅沢を言ったら人間キリがないからである。

私の場合は都会には住めない。人混みがいやなのである。何か自分は人と会うことが疲れるのである。陰の性格でありそれで引きこもりにもなったのである。だから人がいないところで住んでいるのは合っているのである。
ただ正直山の中の飯館村のようなところには住めない。スーパーもないし足りないものは多い。この私が住んでいる町でも街内から離れると買い物だけでも手間になる。ななぜなら車がないと田舎では買い物すらまともにできなくなる。だからどうしても車が必要になってくる。でも1万の町でも街内に住んでいればなんとかなる。

そして今日は朝から駆けずり回っていた。一人だと家事があり食事の用意もするから何かと忙しいのであ。その合間をプログを毎日書いている。これも結構手間になる。だから一時動画の方を試しにやってみたがそれも結構手間でしていない。とても何でも一人ではできないことがわかった。
夜には月が出ていた。その月も窓の端に見えていたがまもなく消えた。そのように人も一時映り消えたとなる。月の特徴はこのように移ってゆくことである。
月は何を見ているのか?あなたの心見ている。あなたにやましいことがあると月も住んで輝ない。自然は心に反映しない、人間の心は鏡なのである。だから心がけがれると自然の美は心の鏡に映らなくなる。それも怖いことだがそんなことを気にすることまない、そこに人間の盲点がある。とにかくようやく秋になりほっとした。体調も悪くしたからである。

ともかくようやく秋らしくなったのである。秋になればやはり読書の秋でもあり運動するにも良い。本当に三か月くらい遠くには行っていない。でも家でやることはありプログでも家でやれるからいいのである。家事で時間を取られるとしてもプログはその合間で続けられるのである







2023年09月24日

インターネットで郷土史の研究ができる時代 (神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)


インターネットで郷土史の研究ができる時代

(神は人の移動とともに移動するー南相馬市鹿島区秋葉神社(只野氏)の由来)

kitabatakehaka.jpg


tennmeihiakiba.jpg

天明というとき飢饉のあった時代である。相馬藩では人口が三分の一に減った
だからここも古い土地である。国誉の戒名は何を意味しているのか?国の誉れになる人だったのか不明である。

「橋本郷土研究会資料」相模原市

郷土史研究というときその方法方法がある。私の場合は地名に興味を持って歴史でも郷土史にでも興味を持った。
でも学問というときそれをどういうふうに研究するのかそれが問題になる。今になると郷土史というのはインターネットの中にいろいろと発表する人が増えてきた。郷土史というのはその市町村でも数が多いからとても調べようがない。確かに本はいくらでも出てる。でもその本でもとても買うことも難しいし調べることも難しかった。インターネットだと学者の論文も出てるしその地域に住んでいる人が郷土史を発表すればそれが全国の人に読まれることがある。でも数が多いから何が重要なのか検索するのが難しいのでは

でも郷土史という時数が多いから調べにくい。でも郷土史でも必ず日本だったら共通性がある。それはなぜかというと神社でも必ず例えば日吉神社とか山王神社とか秋葉神社とかなどこにでもある。それはなぜかというと人が移動してきてもたらされた神だからである。例えば日吉神社とかは南北朝の争いで霊山から逃れてきた人たち落ち伸びてきた侍がその神も一緒にもたらしたからである。
それで南相馬市の鹿島区の日吉神社でもそうである。でも日吉神社となれば全国どこにでもある。ここにだけあるものではない。日吉神社の元は比叡山のあり比叡山は天台宗とかでもあり日本の仏教の総本山になっていたのである。だから鎌倉時代でも日蓮がそこで修業したり日本の仏教の比叡山から広まったのである。

近くの秋葉神社には郡山市の多田野村由来の只野氏の碑がある。それは最近作られたものである。神社を守っていた只野さんは死んでいる。だから祭りも途絶えるともなる。南北朝の争いの時霊山から逃れてきたのが只野氏である。。だから南相馬市鹿島区には只野という姓が50人くらいもいるのでは。只野一族の村でも街でもあった。
だから秋葉神社でも只野氏が移動してきてもたらされたのである。まず人が移動してその人が神も一緒にもたらして移動しているのである。秋葉神社というのは秋葉山がありそこで修験者がが山伏が修業した場所である。だから法院とかの墓がある。

郷土史でもその土地独特の神というのはほとんどない。たいがい日吉神社とこのように総本山があり京都とか奈良から神も移動してきたのである。だからいくら郷土史でもその土地独特のものというより神に関しては共通したものが多いのである。だからかえってどこの郷土誌でも研究していれば共通したものは必ずある。すると理解しやすいとなる。その土地だけにしかないものではないからである。ここにも日吉神社がある秋葉神社があり他にも共通したものがある。だから他の郷土史でも理解しやすいからである。まったく馴染みのない神社というのは少ないのである。

このPDFは一冊のの本のようにもなっていて何か郷土史を調べる基本のものとして優れていると思った。だからこれは読んでおいた方がいい。

2023年09月23日

今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害 (自然災害も政治的なものが関係している)


今地球に何が起きているのか―リビアの洪水被害

(自然災害も政治的なものが関係している)

●リビアの洪水被害は政治の問題

地球で今何が起きているのか。リビアのダムが決壊して2万人も死んだということそれはなぜそうなったのか。

●自然的要因

●政治的要因

自然的要因としては地中海に何か異変があり大量の雨が降った。そして政治的要因としてはリビアは内戦状態にありのダムの点検を整備を怠っていた。結果的に2万人も死ぬとことになった。自然災害というのは必ずしも自然だけの影響ではない。そこに必ず人為的なもの政治などが関係してくる。

それは東北地方で起きた津波とでもそうだった。特に南相馬氏では相馬藩が支配していた。でも400年前に戦国時代であり相馬藩内でも激しい戦争があった。相馬藩を作ったのは千葉県の方から来た相馬氏でありその相馬氏がこの地方この地を支配するために争いがあった。在地の勢力と衝突して戦争となっていた。その時やはり津波が来ていたのである。

でもその津波のことより事細かく相馬藩政記には相馬氏がこの地を戦いによって支配したかをということである。その論功行賞が詳しく記されていた。でも津波で700人が溺死したというこたった二行しか記されちなかった。ほとんど700人も死んでも記されていなかったのである。それより相馬氏がこの地を在地の勢力と戦い支配することは優先されていたからである。

つまり自然災害でも政治などのにより無視されて何も対策もされない。それはリビアの状況とも似ている。内戦状態になっているのだからいかにして戦いに勝ち支配するということが第一になるからである。そのためにダムの点検整備をないがしろにしたのである。だから人間社会に起きることはすべて自然災害でもそのせいにすることはできない。必ず人間側にも問題がありそれが自然災害が起きて被害を増大させる。

●飢饉も政治的問題でもあった

他にも飢饉あるとしてもそれもすべて自然災害のせいにはできない。東北の米を江戸に送るために商品作物となりそれで米を送ったが地元では米を食べられず飢饉になったということもある。だからこれは経済政策が失敗したのであり必ずしもすべて自然災害ということでわ片付けられないものだった。

それは今でもクライナで戦争がになるとウクライナとロシアは穀倉地帯であり外国に輸出している。でも戦争でそれが止められると輸入している国は飢餓にもなる。
それは政治的要因なのである。今やグローバル化するとどこかで何が起きても世界中に影響するとなる。だから戦争はグローバルに影響してただ二国間の問題ではなくなる。だから政治的問題として世界で解決しようとしなければならない。また原発事故でも処理水を海に流して中国に批判されたように環境問題は地球がつながっているのだから世界の問題でありそもそもは中国でもトリチウムを流しているとか原発そのものが問題があり廃止するべきだとなる。

環境問題になるとそれは世界の問題であり例えば森と海は密接に結びついているというときそうである。森と海をつなぐのが川であり川から流れる森の腐植土とか栄養分が海に影響して海の魚やや海草や貝などに影響する。つまり森と海は別なものではない。一体化したものであり分離できないのである。

それは地球全体がそうであり密接に結びついている。地球を一つの体に例えればどこか一部分がおかしくなれば病気になれば全体も病気になってしまうのである。それで森や山の木を切ってそこをソーラーパネルにしてしまう。それも危険なので森には保水能力がありまた腐植土などを所蔵して栄養分を蓄えそれが川を通じて海に流れ海の生物を栄養分にもなり養うとなる。だから自然は切り離して見れないのである。

●恵みの意味

恵みとはめぐることであり地球全体がめぐるのである。それはその言葉はもしかしたら縄文時代の生活から出てきたしそうかもしれない。だから自然を別々のものしてそれぞれ部分的に考えることはできないのである。
今グローバル化して木材も外国から輸入する。そして日本の森は利用されなくなり間伐しないので森に栄養分が蓄えられないとかそこにいろいろな問題が出てきている。つまりグローバル化とはこうしてもともとあったその国土内での自然の循環を断ち切り自然を破壊してしまうともなる。貿易は必要でも生態系的経済を重んじれば制限をしなければならないのである。

原発事故の処理水で中国がホタテなどを輸入しなくなったことで日本は大打撃を受けている。それも政治的問題であり自然の問題ではない。グローバル化というのは常にそうした政治的リスクは増大することである。食料品でも政治的問題で外国から入ってこなくなることがある。このように政治的問題が人間社会には常にありそのために苦しむのである。それは自然とは関係ない。自然災害は避けようがないかもしれないが政治的問題は人為的なものであり政治的に解決できるものなのである。

●原発事故も自然災害が原因ではなかった

原発事故がなぜ起きたかということを追求してきたがこれを津波地震という自然災害のためだということになっているが実際は人為的なもの政治的なものも関係していた。まず原発が本当に必要なのかどうかそのような危険なものは必要なのかどうかということから検討されねばならなかった。電気は必要だとしても今年の異常な暑さでも電力は不足しなかった。だから原発なくても天気はまかない。ではなぜ原発が必要なのか。それは電気が必要だからだけではない。そこに何か軍事に利用するとか政治的な役割があって原発がある。

だから原発というのはただ電気が必要だからというだけではない政治的なものとしてまたは軍事にも関係して作られた。なぜなら人口がこれから日本で減少してゆけばそんなに電気など必要なくなるからだよ。もう人口は6000万人くらいになればそんなに電気は必要はなくなる。だから人口減少がすべてマイナスに働くともならないのである。やはり日本には日本の国土にあった適正人口がであればいいのである。
また東京周辺に人口が集中しているのだから地方に分散すればいいともなる。それも実は政治的問題でもある。だからこそ一時東京遷都が言われたのだがそれも今は何も言われなくなった。

とにかく自然災害は実は自然の影響で避けられないということにもなるが政治的な問題としてもある。政治的に解決できるものでもありそれを怠ったときリビアのような悲惨な結果になるのである。だから国が分裂するということは恐ろしいことになるのである。それは政治的問題であり自然災害とも違う。

自然災害はある程度洪水があるとしたら堤防を高くするとか津波でも防潮堤をを高くするとかで現実に防げたこともある。だから何らか対策することができる。とても政治的問題として国内が分裂したりするとその被害が増大するのである。それは世界でも世界大戦になればその被害は甚大なものとなる。それは自然災害以上に恐ろしいものとなるのである。だから人間社会における災いはすべて自然災害によるものではない。それは政治的に予防できるものであり解決できるものでもある。


松永勝彦. 森が消えれば海も死ぬ 第2版 陸と海を結ぶ生態学 (ブルーバックス) (Kindle の位置No.1567). 講談社. Kindle 版. 

posted by 天華 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月22日

利から離れた場が教育には必要 (宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)


利から離れた場が教育には必要

(宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)

youthfurture.jpg

青年の特権

青年は利を語るなかれ
これをやれば儲かる金になる得する
青年は利得を語るなかれ
青年は純粋たるべし
世俗の欲にまみれざるべし
青年は大いなる未来を語るべし
それは成らずとも語るべし
青臭くとも大言壮語でもよし
喧々諤々議論するもよし
とにかく利欲より離れてあるべし
純粋にその理想を語り目指すべし
それは別に成らずともよし
それが青年の特権なり
大げさなことと批判されても良し
確かに現実がすぐに突きつけられる
でも青年は未来を語るべし
なぜなら未来は青年によって作られるから
老人はただ過去を回想するだけになる
青年には大いなる未来がある
未来を創るのは青年であり老人ではない
だから青年の特権は未来を語ることにある
それが大げさでも非現実的でもいい
とにかく青年は未来を語り利得を求めない
ともかく青年は大望を抱くべし
それがならずとも抱くべし
それは青年の特権なり
いずれはその大望も挫折するとしても
青年は大いなる大望を抱き未来を語るべし
利得を離れてただ純粋に大いなる未来を目指すべし
それが青年の特権であり
神は青年に永遠の命の霊を与える
その時青年は神を知り神の子となる
その先の人生も挫けることはない
神は汝を導き天の国に引き上げる
神の懐は深く大きい過ちも赦す
紆余曲折があっても神は汝を神の国に導く
神に敗北はなく勝利のみがある
汝を再び神の天地創造の技を見る
全能の神の技は尽きることはない
その大自然が神殿でありさらに天にに真の神殿がある
そこに聖徒たちが集い天使が神を賛美する
さらに神は驚くべき技を行うだろう
新しい天と地を見る
人はかくて神を讃え神と共にあり永遠の都に住む
朽ちざる都がありその成すことは虚しくはならない
そこに誠の実りがありその実りを刈り取る
そして神にその実りはは奉げられる
神と結ばれて栄があり神を離れて栄はない
永遠に讃えられべきは一なる神なり
その光は闇を払い消えることはない
永遠の光明のなかにあり悪は見ない
神を見たものはその神々しさに倒れる
全知全能の神を畏るべし



●明治から立身出世も学問となった

教育でもなぜ歪められたのか。それはすでに明治時代から始まっていたのである福沢諭吉が学問のすすめを書いたけどもそれは学問でもって立身出世をする。それが学問の目的と化した。
そこからして学問というのが利益と結びつき一体化した。
学問とは立身出世のためであり何か真理とかを追求するとかではない。社会に出て立身出世するための学問である。
つまり学問と勉強とは社会で得する有利な地位に就く。そのための学問であり勉強である。だから慶応大学とかは学閥が強力であり社会を牛耳っている。それは利権団体として強固なのでそれで慶応大学に入ると就職するにも社会に出ても学閥が強力であり得するとなる。
こうしてその出発点からして歪められていたのである。ただ戦前の大学は全く今の大学とは違って本当に選ばれたエリートでありそれでそこに自由があり青春が謳歌できたのである。だから利だけではないデカンショデカンショとか世の中に出ても役に立たない哲学でも追求していたのである。つまり社会の利から離れた場として大学がありそこでエリートとして育てられていたのである

でも戦後は大学はそういうエリートではない。大衆化したとしたものとなっていた。講義をするにしても千人も入る講堂でするとか高校とはあまりにも違っていたので特に文系は暇つぶしの場であり遊びの場になっていたのである。
だからゼミに入っても教授とあったのは一二回しかなかったのである。教授とかでも何か教えないのである。だから大学というのは何だったのかと何かを教えられる場として入ってきたのだが教えることもないしただそこに自由な時間が与えられていただけなのである。
でももともと何かを追求するために大学に入ってはいない。大学に入れば何か得する社会に出ていいポジションを得る地位を得る。ただそういう利得を得るものとして大学にも入り受験戦争もあり本来の学問の目的など関係なくりの教育であり純粋に何か興味を持って追求するということもなかったであろう。
学生運動というのも戦前の特別なエリートは違った大学になった時起きた。大学は大衆化して起きた現象だったのである。つまり戦後はあらゆるものは大衆化してゆく。そこに今までの選ばれたエリートとか特権階級というものはなくなったからである。だから戦前の大学と戦後の大学はまるで変わったものとなったのである。

●戦後の民主主義は利を求めるだけ

そして戦後は民主主義となりその民主主義でもただ権利を主張して利を得ることが目的化したのである。そこに責任は無い。ただ利を追求することでありそのために教育もあり学校もあり大学もあるとなった。
とにかく人間というのは利と結びつくと歪められ金と結びつくと歪められる。でも子供の時は純粋に遊ぶということが仕事にもなる。それは利と結びつかないのである。だから遊ぶということはもともとは神聖なことであり神は遊ばされるとなる。つまり神は利から離れて遊ばせられる聖なる存在なのである。

神社でもそこは賽銭箱があって利を得る場所になった。そもそも宗教はこの世の利から離れる場所としてあった。でもこの世にある限りそれも不可能であり利と結びつきついにはただ御利益を追求するような場となったのである。
カルト宗教団体となるとむしろ信者を集めて組織団体化して利権団体となり政治団体となり権力を得るためのものとなり完全に利益を追求する団体となったのである。カルト宗教団体は共通しているのはその内部でも出世争いがあり権力争いがありしのぎを削っている。そこは世俗的な場よりさらに世俗的な場所になってしまったのである。ただ共通しているのは利求めることなのである。

大衆化した宗教であり大衆化するということは利益を第一にすることである。利益というのは誰でもすぐに理解する。発達障害の人が簡単な計算すらできないのに利に聡いのである。それは日々の生活の中でいかに金が大事なものか身をもって知っているから金のことを第一にして理解しているのである。
つまり面倒な理屈などなくても知らなくてもいい。どんな人で学がなくてもこの利益だけは理解する。得することは何かを理解する。だから今の宗教はすべて御利益宗教なので利益になる得すると吹き込む金になるとそういうことばかり指導しているのである。だからこそあれだけ人数が増えてくるのである。難しい理論は一切必要ない。ただ利を説くだけなのである。

●教育する場の喪失

要するに大衆化した社会ではもう教育する場というのはなくなった確かに学校はある。それも必ず利益と結びつき利益を得るための学問であり勉強なのである。学校では常に試験がある。その点数を上げるための勉強なのだがそれもただ利になるからそうしているのである。それから逃れられないのはその学生が悪いというのではなく第一親がそう強いてるからである。親もまた常に利を求めているから得したいから子供をそうした得する場に楽に稼げる場に地位を得ること望むからである。だからいくら利から離れた教育をしようとしてもできないのである。

ただ教育というときそうした一部のエリートがしているものではなかった。教育というのはそもそも実用的なものであり何か高等な哲学などは普通の人にとって関係ないものだったのである。職人だったらその技を身に付けるものでありそれはあくまでも社会に出て稼げる力をつけるためにそうしていたのである。だから私の父親は明治生まれであり酒屋で丁稚奉公していた。
それで私も家で店を始めたとき絶えず配達とかさせられていたのである。つまり父親は私を丁稚として見ていたのである。そしてそろばんを習っていたのもそのためである。それは丁稚には必ずそろばんが必要だったからである。でもそういう経験をしているから上の学校に上げたら楽だとして上の学校に上げてくれと言って中学のとき死んだのでは。だから教育ということ自体何か利益を得る社会でも有利な立場に立つそういう観点からしか観ていない。親も子供にそうした立場に立つことを望んでいるからである。

結局なぜ人間は教育でもなんでもゆがめられるのか。それは常に利がが優先され本来の目的がそれによってゆがめられるのである。子供の時に純粋に遊ぶという時そこにには関わっていない。でも大人になればそうして純粋に遊ぶということもない。遊ぶこと自体にも利が関わってくる。そこで本来の目的とは違ったものとなり弱められるのである。

カルト教団などは創価でもひたすら御利益であり後は社会的地位を上げることであり得することであり利益を得ることでありただそのために毎日祈っている。ほかの宗教でもやはり利と結びつき本来の宗教性は何もないのである。そこで語られるのはただ得することであり御利益を求めることだけなのである。だからそこで何か利を離れて未来を語ることなど何もないのである。

●子供と青年の特権は利を離れて未来を望むこと

子供の特権は青春の特権は利から離れて遊ぶことにあり青春の特権は利から離れて未来を語ることである。その未来を語るのは青年の特権なのである。もしかしたら荒唐無稽なことでもいいとても実現しない未来でもいいそのことを語ることが青年の特権なのである。
何か青臭くても良いし大言壮語でもいい。とても実現しない未来を語ってもそれが青春の青年の特権だとなる。そういう場があってもいいのだが今は必ず利と結びつきそういう場が失われたのである。なぜ青春は大事な時かというとそこが人生の出発点となり後々まで影響するからである。その出発点が間違うと人生そのものは間違ったものともなり得る。ただ青春の時はさまざまなことが一気におしいよせる。その性の欲望であれなんであれ一番膨れ上がりその欲望に圧倒されて肝心なものも見えなくなる。

でもなぜ若き時神を知れということが大事なのかそれは若い時しか聖霊を受けることはできないからである。なにか老人になれば悟りが得られる。れは確かである。理解できなかったこと何か自ずとと不思議に理解できるようになるのである。
でも青春の時最も血気盛んな時その時神を知らなければもはや神を知ることはできなくなる。神を知るということはやはり青年の時しかできない。だから青春時代に何か放蕩三昧にして節制しないと神を求めないとその後は得られなくなるし真善美の世界も見えなくなるのである。だからやはり人生の出発点が後々まで影響するのである。そしてあっという間に青年時代も過ぎてしまい老人になってしまうのである。

もう35になったら人生はあとは余禄だというのも分かる。40歳で白髪が生えてきたりするからである。それだけ人生は過ぎ去るのが早いのである。そして人生は夢のようになって終わる。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」人生となってしまう。ただ今人生百年時代だから違っている。それでも人生は短いのである。それで職人であれ普通に働いている庶民であれなんで働いてきたかわからないという人が多いのである。何のために金をためたのかもわからないと言っているのである。別に知識人でなくても普通に現場で働いている人もそうなっているのである。空の空になてしまうのである。だからこそ若き時神を知れいうことが重要な教えとなるのである。出発点を間違うと一生も間違うとなるかっらである。

詭弁学者は自分の知識を営利の目的をもって諸都市を巡回し謝礼を得るためにさまざまな科学や芸術中でも雄弁修辞のの学問を売りさばいていた。彼らの学問の目的は純粋な真理追求ではなく実利を目的としていたそれは宗教にも言える宗教団体の勢力を伸ばそうとして政治的に経済的に実利を目指す芸術の分野でも思想書くというよりは本を書く制作するというよりは絵を描いて実利をものにする方に進む
離脱の思考ー上野霄里

つまり学問でも芸術でも宗教でもすべて利を求めるものとなった。そのことを厳しく批判している。それは批判とより激しい糾弾になっているのは上野氏の特徴である。それは原野に咆哮する野生の動物とも似ている。
とにかく社会は利によって歪められ本来の素心はなくなったのである。素朴なる心を失ってしまったのである。ただどこに行っても複雑に利益がー絡みあって利から離れられないのである。あらゆるものは利益を目的として社会は機能する。それは宗教でも同じである。宗教はすべてご利益宗教になっているのを見ればわかる。だからこそ宗教はカルト宗教になり大衆宗教になり堕落したのである。でも世俗で認めるのは本来の宗教などではないそうして堕落した利権化した利を求める宗教こそ大衆でもわかるからそれは巨大化してナチスのようにもなる。

つまり大衆がそうしたカルト宗教を作り出し利権化してただただ利益を得るためのものとなってしまったのである。だからそこに本来の宗教を目指すものは何もない。ただ利益を得ることであり権力や地位をあくことなく求めているのである。そして政治化した利権団体となれば批判もできなくなるのである。
現代は個人など認めない。それは拒否するべきものでありそもそもこの世に存在させられないのである。この世で大きな声になるのは必ず背後に利権団体があり宗教でも必ず組織団体がありその団体よ社会は認めたとえそうかのように完全な政教一致でも数が多ければ世間はそれに従う。なぜなら選挙はすべて数で決まるからである。そこに法律も何もないのである。そこから全体主義ファシズムとなったのはナチスだったのである。

●老人でも最後は神の国に向かって前進する

いずれにしろ人間の一生は不連続なものではなく連続している。だからすでに老人になったとしても老人の中に青春があり青年がある。それで青春でも老人の中によみがえる。青春の冒険精神お忘れるなという時人間の一生は連続しているからである。
ただどうしても若いときは無謀であり欲望が溢れて何か理解することにかけている。理解する悟るというのは老人になってからで。ただ私の場合は遅すぎたということである。 70以上になってからようやく理解するようになっているからである。すでに天才ならば若い時に芸術でも何でも理解しているからである。

自分の耳に目に芸術的なものまた美術的なものを触れ示いまだ多くの人が思いもかけない未発なもの蓄える力を養うということが大事です
老いゆけよ、我と共に  手島郁朗

そうして日々蓄えたものが老年になって実りとなる。とにかく人生は連続していてその出発点が青年でありだからこそ若き日に神を知れとなることが大事なのである。出発点を間違うと一生間違った方向に行ってしまうからである。
そういう人たちは集団組織の中に取り込まれて自らの個を失い硫一生ただ集団組織のために生きるロボットとなるのである。そして教祖を偶像化して教祖のコピー人間となり終わる。
ただそういう集団組織の中で利を追求するから利益にはなる。

でも最後にわ普通の人でもただがむしゃらに利益のために働き金を残しても何のために残したのかもわからないと言っている。それは別に集団組織のために尽くした人だけではない。それは最初の出発点が間違っていたからそうなったともなる。ただ利益しか求めていない。そして他者より優れているものとして這い上がろうとして必死になる。集団組織の中でも地位を求め激しく争うのそれはオウムでもそうだった。そこには理系の優秀な人たちがいてその人たちに負けたくないとして高卒の人がサリンを撒いたと言っていた。その内部でも熾烈な競争があり地位を得るために争っているのである。

とにかく人生は連続したものであり若き日のことは老人になっても連続している。別なものではないのである。人生はやはり日々生きたものはその人のものとなる。日日蓄えたものはやがて老年になって実りとなる。ただそれは天才の場合は別なので天才は別であり努力しなくても会得するものはあるからである。
私が参考にしたものは内村鑑三でありキリストの幕屋の手島郁郎であり直接学んだ上野 霄里氏となる。ただ上野 霄里氏は信仰者とは違う。天才思想家行動者哲学者でありキリストの信仰者ではないのである。だからそれのその思想を理解できるのはやはり天才だとなる。でも普通の人は天才でないのだから偶像崇拝化する危険がある。
そもそも師というのは問題がある。なぜならどうしても天才だともともと優れているものを持っていて努力しなくても備わっているからである。だからそれを真似ることは出来ないのである。でも普通の人でも神から聖霊を受けてそれによって神を知り神の国に入ることができる。主と共にそのその生は終わらないのである。その生はさらに天の国に向かって神の国に向かって進んでいるのである。だから真の成果は神の国にありこの世では成就しないのである。

離脱の思考 ー原生人間復権のための試論ー (現代神話シリーズ第4輯) 単行本(ソフトカバー) 上野霄里 (著),

老いゆけよ,我と共に: 手島郁郎英詩講話R.ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」に寄せて 文庫 – 手島 郁郎 (著)
posted by 天華 at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人 (偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)


ポルトガルで偽札の国家的詐欺をした犯人

(偽札をばらまいたいがアンゴラの経済危機を救った)

darksidemis.jpg

これは再放送がある

porutogul.jpg



この人の最初の詐欺はオックスフォード大学の卒業証書を偽造したことである。その卒業証書はあらゆる理系の学部を学び卒業したと書いてあった。まず最高の大学で理系だったら相当な価値がある。ここでも文系は価値がないことがわかる。
その卒業証書が見破られなかったのは公証役場で国家の認証を受けたからだった。その卒業証書を持っていたからポルトガルの植民地だったアンゴラで鉄道会社に就職できた。そこで実際に機関車の故障を直して評判になったのである。その人はすでに高校とかで専門学校で工学部に入っていて勉強していたから直すことができた。だから別に本当はオックスフォード大学の卒業証書がなくても仕事ができる人だったのである。

現実にオックスフォード大学を出た人は人もそこで働いていたがそういう現場の仕事はしてしないとなっていた。だからここでそうした卒業証書はすべてそれで判断することは間違っているということになる。ただオックスフォード大学の理系となればどうしても誰でも認める。まず今や大学などが50%以上の人が行っているのだから価値がない。計算も読み書きもまともに出来ない人まで言っている。そういう時代である。でもやたらと学歴にこだわる人もいる。

私は三流大学の経済学部を出ても何も勉強してない。だから高卒で銀行に勤めている人のほうが実務をしているから経済を知っているとなる。まず文系は社会に出て大学の勉強などほとんど役に立たない。文系とは実用とは関係ない教養にすぎないからである。それは無駄ではないにしろ独学できるものなのであるある。

その次は株を買い占めるための資金を得るために小切手の詐欺をしたことである。アメリカの銀行に金がないのにおろさせた。次に鉄道会社の株を買い占めて経営者になることなるために資金が必要であり銀行を通じて紙幣を作ることだった。そのその紙幣をばらまきアンゴラの経済を立て直すということがあった。だからこの人のやっていることはアンゴラのためでありその人自身の私利私欲というものでもなかった。実際に経済政策として紙幣を金を回して経済を活性化するということは国家レベルでもしているからである。

だからこの人のしてきたことは別に私利私欲というものでもなかった。これは別に国家レベルですることでありそれが一個人でしていたという違いである。そして別にオックスフォード大学の卒業証書がなくても実際の現場で仕事ができていたのである。だから会社側でも別にオックスフォード大学の卒業証書がなくてもその人は仕事ができる人だったのである。だから学歴にしてもそれですべてを判断することは間違っている
だからこの人の詐欺は何かすべて悪いものにも見えない。何かそういうことは会社でも国家レベルでも行っている。大掛かりな詐欺になってもいるかもしれない。あまりに大掛かりになるとかえってそれが見えないし信用するとなる。それで現実にグローバル経済とかではそういうことが実際に行われている。だからこそ陰謀論は常に言われるのである。
つまり国家自体とか大会社でも銀行でも詐欺していることがある。でもそれが巨大だからわからないとなる。つまりグローバル経済というのはそうした大掛かりな詐欺なのかもしれない。でもそれは罰せられることはないのである。国家レベルの詐欺ということもある。それは誰も罰することができないのである。

何かこの世はそうした騙しが詐欺が公然として行われる場でもある。それがカルト宗教団体でありそれを取り締まることもできない。税金も払うことがないビジネスなのか何かそれがあまりに大掛かりになると巨大になるとその悪夢は隠蔽されて見なくなるのである。
つまり大掛かりな詐欺はだましは簡単に見破れなくなる。原発事故でもそうだった。検察とかも天下りして官僚もかかわり国家的事業でありそのために安全神話が作られ誰もそこに立ち入ることもできない。アンタッチャブルとなりそこに危険があっても何も言うこともできなくなっていたのである。それは国家的犯罪でありでもそれを取り締まることはできない。だから国家自体が犯罪者になるということがある。でもそれを取り締まることはできなくなる。それで国民が大被害を受けることがある。

不思議なのは一人の個人がこのような大掛かりな詐欺作業したということである。でもそれは全て悪いものかというと国家に代わってアンゴラの経済を立て直すための方策として紙幣をばらまいたのでそれは結果的に効果があった。この人は確かに自分が英雄になりたいとか認められたいとかはあったがそれは私利私欲と言うものでもなかった。アンゴラの経済の立て直しのためにそうしていたのである。国家ができないことを個人で不正であったが防いであったが個人でしていたということである

ともかく国家的犯罪は犯罪にならない。戦争でも国家的犯罪であっても何百万人が死んでも犯罪にはならない。国家を罰するものはいないのである。また国家を罰することはできない。だから原発でも罰することができなかった。ただ津波が地震がその悪を暴いたのである。
だから何らか国家を罰するものは国家を超えたものでありそれは神にしかできないともなる。だからこそ最後の審判がありそれは個々人を罰するものだけでなく国家でも罰せられるのである。国家自体が犯罪を犯すものでありでも罰することはできないからである。
だからこの事件は個人の問題だけではない国家の問題として提起されたのである。国家は何もしてくれないから個人が大きな詐欺をして偽の紙幣をばら撒きアンゴラの経済を活性化させたということにもなる。でも結局は罰せられて悲惨な結果として終わったのである。

posted by 天華 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2023年09月20日

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?  父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

「家事は全部妻まかせ」が招く認知症?

 父の介護で気づいた「男を無力にする真の原因」

母は毎日欠かさず三食を用意し、父に給仕していた。かれこれ60年にわたって続けてきた習慣で、父にとって食事とは「食べる」というより母の給仕を受けること。母の前に「座る」ことなのだ。

 この習慣こそ認知症の原因ではないだろうか。家事を一切せず、外でお金を稼ぐだけで、あとはすべて母任せ。いわゆる家父長制が認知症を招いている。父はアルツハイマー型というより家父長制型認知症といえるのではないだろうか。


ninnchi.jpg

私の家族は複雑であった。二人のの母親がいて一人は実の親だけど百歳まで生きた。もう一人は母親違いの姉であり年齢は七歳しか違っていなかった。同じ大正生まれだったのである。そして母は私の父親の家に嫁いできて女中のように働くことだけだった。特に店をしてた時食事をしていても満足にゆっくり食べることができなかった。店にお客さんが来て食事中でも立っていたからである。
そして私の母親は実家でも継母が来ていじめられて苦しんだ。それで何かそこでも働き詰めであり趣味など持つこともなかった。だから花にも興味はなく花など買わなくてもいいといいとか花はいらないと言っていたのである。それも育ちが原因していて貧乏でありそうゆう余裕もなく習い事もさせられることもなくただ働くことだけだったのである。だから実際に東京に出て女中もしていた。だからその一生は女中ともなっていた。

一方姉の方は公務員であり役所に勤めていた。もともとは看護婦だった。 55歳まで勤めて退職した。早めの退職だったが勤めることが嫌になったからやめたと思う。でも55歳は早かった。なぜならそれから30年も生きていたからである。姉も何か趣味になるものもなかった。向いていたのは看護婦だったのである。だから役所を辞めてから何をしていたかというと何もしないのである。家事は94歳までしていたからである。一方の姉は55歳で退職して何もすることがなかった。家事すら全然してない。なぜなら母が全部していたからである。

ここで一見これは何でも食事でも用意されるから人いいと見る。でもそれが認知症の原因にもなっていたのである。役所を退職してから何もしない。趣味もない。向いていたのは看護婦だったがそれもやめていた。ただ保健婦の後は事務的なもので働いていた。でも役所を退職してからは何もしない。家事すらしない。ただ何をしていたのか、テレビとか見て家では何もしてない。それは認知症になった原因だったかもしれない。母は94歳まで家事を一人でしていた。姉は何もしないかったのである。

母は働きづめの一生だったけどそれがすべて悪いものとして作用はしなかった。 94歳まで家事をして働き家で掃除でも常にしていて役割があった。姉は家で役割が無く役所も辞めて何も役割がないものとなってしまった。そのことは認知症になる原因だったかもしれない。家事というのは男が馬鹿にすることもあるが結構頭を使うのである。頭だけでない手も足も使う。特に料理は相当に頭を使うし熟練しないとできない。だから家事をする料理をすることは給料をもらえなくてもそれは仕事なのである。

だから男が退職したりして妻が食事の用意でもなんでもしてくれる時男に役割がなくなりそれが認知症にもなる原因となる。一見何でもしてくれる身分であればいいと思うが実は違っている。人間は常に役割を持ち働いていないと頭も体も機能しなくなり退化してゆくのである。だからこれは何か人生の人間のパラドックスにもなる。

例えば主人がいて召使いがいて召使がなんでもしてくれたりするのはいい身分だと見ているが必ずしもそうではない。認知症になりやすいのは召使いがいて自ら何もせず何でもしてもらう主人の方なのである。
また姑が嫁にお母さんは何もしなくていいですよテレビでも見てくださいと言われると姑がボケるということはある。それは家事も何もしなくて張り合いもなく頭も働かないのでそうなるのである。だから男でも何もすることがなかったら家事をするべきだとなる。家事はそれなりに頭を働かせるし体も使うから全体的にいい作用をするのである。

そして人間は何らか役割がないとボケてしまうことがある。だから長生きの時代老後も長いから何か役割を持ち働き続けることが大事である。
ワーク(work)というとき作用するとか機能するとか作品などの意味がある。つまり人間は生涯ワークする。それが例え金にならないとしても何か役割を持ちワークすることが大事なのである。それが高齢化社会の大きな問題になっている。老人は引っ込んでろとかテレビテレビでも見てるとか何もするなとか若い人に言われたらその人はボケてゆく。すると社会に大迷惑をかけるのである。

ともかく認知症はもう90以上になったら半分はなりどうしてもそれは避けられない。でもそれを防ぐにはやはり役割を持ち何らかの生きがいを持ち働き続けることが大事なのである。理想的なのは働きながら死ぬことなのである。近くの自転車屋は癌になっていても十年間くらい働き3日前に行ったらもう仕事もできないかもしれないと言って3日後に死んだのである。
まさに仕事をしながら死んだのである。街に一軒しか自転車屋はなくなっていたから貴重な存在だったのである。他でも近くの医者も90まで仕事をしていて一週間間くらいであっけなく死んだのである。そういう死に方はいいと思う理想である。
そうはいっても肉体労働者だと働き続けることが難しい。どうしても体が弱りできなくなるからである。でも軽いこと家事くらいはできるからそれでもしていた方がいいとなる。
ただ何もせずボケーとしていることが一番悪いのである。

老後は長くなるというとき大きな問題が病気になること特に認知症になることは一番大きな問題である。それは周りに大迷惑をかけてしまうからである。介護するにも精神障害者になってしまうからその苦労が大きいからである。そして本人にしても馬鹿になったとか言われてその生きてきた人生の価値まで否定されてしまう。あの人は馬鹿になって死んだ。それだけの評価になってしまうことも怖いのである。そして死ぬ最後の言葉が[私は優秀だった〕と言って死んだのである。それも悲惨だったのである。
ただなんらか馬鹿になったこと自覚していた節があった。それで自分は馬鹿ではないということ言いたかったのかとなる。

ここで家父長制的認知症と言ってるが家事もしないでただ妻の何でもしてくれるということは危険なものとなる。
認知症になることが確率は大きくなるからである。ただ人間は高齢化社会を生きることは今の時代になって初めて経験することでありそれでみんなが対応できないとなっている。その最大の問題が認知症になることなのである。

2023年09月19日

特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)


特別暑い夏の詩(鷺、涼しい、雷、夏の雲、・・・)

cloudplate.jpg

雲の台のようになっている

towncloud.jpg


ここまでクリック拡大

butterflycosmos.jpg

sagiriver.jpg



川の浅瀬の流れが響く
鷺が一羽餌漁りしている
木陰に休み風が涼しい
鮎が跳ね鯉が流れに泳ぐ
夏の雲が依然として湧き上がり
今日も雷が鳴り轟いた
高く高く雲は湧き上がり崩れる
まだ家にのうぜんが咲いて
例年になない暑い夏が終わらない
何か何年分かの夏を生きたよう
夏を十分に生き秋を迎えよう
我が生きる日はそれほど長くないだろう
灼熱の夏を生きてこそ夏は体に刻まれる
暑い夏寒い冬があり地球を感じる
今年の稲の実りは豊かである
十分に強い直射日光をあびたから・・・

今日も暑かった。鷺は夏の季語である。だからまだ今年は夏であり夏の光景なのである。これを見ていると涼しいとなる。
夏の雲も依然として出ている。
今年の夏は十分に夏を味わった。暑い夏寒い冬が枕草子で書いているが京都はまさに盆地であり寒暖の差が激しいからである。
浜通りは海からの風が涼しいから福島市の盆地とは違っている。でも今年の暑さは異常だった。
すぐ近くに川も海もある。散歩するにはいい、でも陽射しが強いので隣の街に行けなかった。近くを自転車で走るだけだった。
今日も雷雨があり今夜風が涼しい。明らかにまだ夏である。

人間の失敗の原因 (自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)


人間の失敗の原因

(自然は成さずしてなる。人間はなして失敗する)

成さずして成るー老子

●しなくてもいい事業を起こして失敗

近くの人は事業を起こして失敗した。その人はもともとみんなが取れない一級の免許を持った電気技師だった。だから会社に勤めていても高級取りだった。でもそれで常に優秀だと他から言われて事業を始めたのである。その事業の始める動機も何か東京とかの人のための別荘建てるような仕事だった。ログハウスとかを建てて東京の人などを相手にして金を稼ごうとしたのである。

その動機はただ自分が優秀である会社の経営者にもなれるそれを示したかったとしている。それが動機だったのである。でもその人は別にほかの人より優秀だったのである。その人を蔑むような人は周りでいなかったのである。
でも常に優秀だと言われているから経営者になっても当然成功して優秀だということを示したかった。でも実際はその事業も失敗して大きな借金だけが残されたのである。それで周りのものは大迷惑となったのである。
私自身もその人と関係していたから介護とかで苦しんでいる人がその人がきてもその人は頭の中が借金のことで生他人のことなど気遣うこともなかったのでだから苦しい時借金の要求にもなったのである。

もう一人の人は腕のいい大工である。その大工の仕事で充分に家族でもでも養うことができたしそれで確かに足りない面はあっても普通の生活はできたはずである。でもそれで満足することはなかった。その人はいい面としては大工だけではない庭作りもできるし壁塗りもできるしいろいろな事ができるのである。社交性もあり営業などにも向いている。

でもこの人も大工だけではその収入だけでは満足しなかった。もともとこうして何でもできる人だからホテル事業に手を出した。ホテルはラブホテルでもあった。このホテルを作るにも資金が必要だった。ただ大工ということがあってその建物を建てるときは家を造ることをしていたから役だった。それでその人は成功して立派な家を建てた。でもその家も津波で被害を受けた。でも流されたわけではなかった。今そこに住んでいないのは原発事故で避難区域になり不便なので隣の町に移り住んだ。

そして60以上すぎて熟年離婚となり一人で住んでいる。家族もばらばらになってしまった。息子は仙台市の方で移って仕事しているからである。確かに原発事故も原因しているがそれだけではないこれまでしてきたことが原因して今がある。何か性格的なこととかその人の人なりのことが原因もしているみたいだ。

●カルマとはこれまでした行為が苦しみとなり現れること

この二つの例の失敗の原因は何なのか。 2人はそもそもやり手であり優秀なのである。だからそのことが悪いわけではない。そして共通しているのは上昇志向が強いことである。他人より他人に負けたくない他人より優秀なのだということを見せてやりたいその上昇思考が強くでもそれだけやれてたということである。それだけの能力もあるとななっていた。

では何故失敗に終わったのか。たしかにそこには大工さんの場合は原発事故の被害があり津波の被害があるとその人だけの責任ではない。でもその人の責任も何かあった。結局人間は60すぎるとこれまでしてきたことが積もり積もってカルマとなって苦しみとなって現れる。それだけは間違いない。

私自身がもそうである。仕事もせず家に引きこもり30年間自由に旅などをして思うがままに生きていた。どうしても陰の性格であり社会生活馴染めなかったからである。
でも家族に恵まれてそういうことが出来たのである。でもその結果として家族が病気になり介護になった時自分一人でそれを背負わされることになった。
そして社会常識もなくなっていたから一人助けもなく苦しんでいるだけだった。それも自分のカルマだったのである。つまり人間は60以上になるとカルマの清算が強いられるのである。だから他人のことをとやかくようこともできない。ただそれぞれになぜそうなったのかということを知ればほかの人もこれから生きる人も若い人も参考にはなる。
要するにそれぞれの人生をふりかえると必ず何かその人の行為が結果として現れる。それが60以上にその行為の総決算が起きてくるのがカルマの法則なのである。

この原因の失敗の原因はどこにあったか

要するにしなくてもいいことをした

カルマとはこれまでしてきた行為が苦しみとなり現れること

これなのである。一人は何も事業など始めなくても充分に収入もあり他からも優秀な人と認められていたのだから別に事業など始める必要もなかったのである。でもさらに自分は優秀だとしてその優秀さを認めてやる認めさせるとしてそんな動機で事業を始めたのである。それがそもそも失敗の元だったのである。

大工さんの場合ももともと優秀でありやり手であり稼ぐ力はありホテルなど経営する必要もなかったのである。でも自分は何か学校ではあまり優秀でなかったからとか優秀なことを見せてやりたいとして始めたので。 2人の共通点はとにかく上昇志向がある強い。
でも別にその人たちは優秀であり他人からも認められているからそんなにまたさらに優秀だと事業を起こしていることが失敗の元になったのである。
大工さんの場合は原発事故とか津波がありそれも原因していたがやはりその人自身の性格とかしてきたことが原因していて家族もバラバラになった。だから結局不幸になったとなる。

ただ共通していることは優秀だということにこだわる。他者と比べて負けたくない優秀だとこだわる。それで私の姉も最後に言った言葉が(俺は優秀だった)とのである。そこまで優秀さにこだわっていたのかと理解できなかった。優秀だったことは間違いないし知っている。でも認知症になり馬鹿になったともなりそれで優秀だったと言ったのかもしれない。最後にどんな優秀な人も人認知症になれば馬鹿になったとなるから悲惨である。そこに人間の限界がある

●してしなくてもいいことをして失敗した

それは別にこうした個人の例だけではない。そもそも原発事故自体が原発を作ったこと自体がしなくてもいい作らなくてももいいのに作ったことによって最悪の結果になったのである。
確かに原発は地元の要求もありお金を稼ぎたいということもあり作られた。でもそれが必ず必要なものというものでもなかった。電気がなくてもいいというわけではない。でもこの夏が異常に熱くなっても電気は不足しなかった。だから電気は原発なくてもなんとか賄えるものだったのである

そもそも原発を作ったということ自体が問題だったので。その事業自体が必ずしも必要ではなかったのである。でも金になるとか作る方でも利権が関わり作ったのである。要するに人間の成すことが全て必要だから実際は成さなくてもなさなくてもいいものでもあえて成す。そのことによってこの大きな禍が生まれるのである。
それを説いたのが老子でありまたキリストでもあり釈迦でもあり宗教は大概人間の行為がカルマとなるというときこうして何か必要ないものでも成さなくていいことでも成す。その結果として災いが生まれるのである。

日本の戦争などでもそうである。なぜ300万人も死ななければならなかったのか。そもそも本当に戦争する必要があったのかそれ自体が問題だったのである。やむを得ないとか色々言われるが戦争というのも事業であり二つの例のように事業そのものが必要だったかどうかはわからない。でもあえてその事業を実行したということが300万人も死ぬという結果になったのである。その300万人の死が何か讃えられるべきものなのかということもわからないのではある

結局人間の問題は成さなくてもいいことも成すてそのことから大きな災いが生まれてくる。戦争もその一つの例であり事業でもそうである。本当にその事業が必要なのかどうかはわからない。ただ橋一つは作ればそれでみんなが助かるということはある。でも事業自体が本当に必要なのかどうかは分からないものがある。でも相手それを実行すると成すことにより大きな禍ともなるのである


2023年09月18日

悪は権力によって隠蔽される (ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)


悪は権力によって隠蔽される

(ジャニーズ事件の深層ー背後に権力を持つ官僚の人がいた)

powerhide.jpg

ジャニーズ不正加害事件の裏第二弾!ジャニー性加害隠蔽〜日本の巨大な力】#980の続き!得体の知れない驚異的な力が、この国を支配する。このシステムを壊さない限り、日本は持続できない!-masakazu kaji-
Kajiチャンネル -加治将一-

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。-原発事故も隠蔽が原因


●その背後に総務省の要職の人が存在した

この事件については詳しくない。ただ必ず悪と言う時隠蔽される。それは一つの法則のようになっている。櫻井翔が芸能界で活躍でき有名になったのはその背後に櫻井パパがいてその人が政府の有力な官僚であり権力と地位を持っていた。だからなぜマスコミでも攻めせないのかとなったらその桜井パパに忖度したからだとしている。
この加治氏の説明はわかりやすい。なぜこの背後のことがわかるのかというと彼は直接そうした上層部の人と付き合っているからである。普通の人はそういう人と直接は話したり親しくなれない。だからなかなかそういう人たちのことは分からないのである。

総務省とはテレビとか通信関係など大きな力を持つものだった。だからこそマスコミはそのことで指摘できなかったし放送もしなかった。マスコミというのは常にその宣伝してくれる会社の会社があればその会社を批判はしない。つまりマスコミというのは権力に逆らうことはしない。そうすれば会社自体が維持できないからである。だから宣伝をしてくれる宣伝料をもらうくれる会社には忖度して批判はしない。それが福島県でも政経東北は相双レテックのことを裏表紙で宣伝していたことでもわかるそんなことはないと思っていたが意外だったのである。

マスコミとは既得権者であり権力を持っている側につく。その権力というとき必ずしも政府の権力とかだけではない。マスコミに何か利益を提供してくれる組織団体は批判しない。例えば創価の聖教新聞をすらせている新聞社が多い。福島民報などもそうであり大手の新聞社もほとんど聖教新聞を刷っているしそれを配達している新聞社もいる。そうしたら創価など批判しない。つまりマスコミでもテレビ放送するにも新聞を出すにも雑誌を出すにもお金をかかる金がかかるからその金を本来のテレビ放送でも新聞でも賄えないのである。それで必ず大きな組織団体とか政府にでも頼ることになる。そこからして既に自由な報道はマスコミには無いのである。

●権力で隠蔽される巨悪−原発事故も隠蔽が原因

絶えず不具合、故障があっても隠せる。だからそれが習慣化していたのである。どうせ誰にも追求などできない、みんな金で抑えている。こうしてしそれが大事故につながったのである。

そうして結局巨悪は隠される隠蔽される。それは原発事故でも同じだったのである。そもそも原発というのは放射性物質を出すのだがそれが常に隠蔽されていた。その放射性物質というのは毒にしても匂いも色もなく気づかない。だから隠蔽されやすいものだったのである。そこに政府の権力とかがかかわり御用学者が関わり危険は隠蔽されたのである。なぜなら東電には海上自衛隊から司法関係検察関係から警察まで関わり天下りしていたからである。そのために権力によって安全神話が作られたのである。

そして常に危険は隠蔽されたのである。そこでその現場で働く人はその危険に気づいて東電の上層部にその危険を忠告していたのだがそれも無視された。津波にしても十数メートルの津波が来ると学者集団が東電に警告していたのである。でもそれも無視されたのである。金がかかるとして安全には金をかけなかったのである。それがなぜできたかというとなるとそれだけの権力を持っていて隠蔽することができたからである。
今でも放射背物質を地下深く埋めて隠そうとしている。でもそれが安全なのか何か地震でもありやはり隠したものが災いとなるかもしれない、ともかく原発はこうして常に隠蔽するものだったのである。
だから悪と権力は密接に結びついているのである。そのために巨悪は隠され隠蔽されて表に出ない。だからこのジャニーズ事件でも同じだった。その悪の背後に櫻井翔のパパが総務省の要職についてその権力のゆえにマスコミでも忖度して追求しなかったのである。だからマスコミの言うことを鵜呑みにしていると危険になる。

●この世は変わらない悪も消えることはない

つまりこの世は何か変わったようで変わっていない。時代劇ではよく要職についている上級の侍が裏にいて例えば今回のように性加害あったとしても隠される。それは表に出ないのである。ただそれを追求されて切腹したとかもある。時代劇の場合は今と違ってその悪がわかりやすいのである。現代の悪は複雑であり分かりにくいのである。それは世界でも同じでありそれだけ広い世界になると世界はどうなっているかなど誰もわからないのである。
そうなると巨悪でもでも隠されて見えないのである。だからこそ常に陰謀論になってしまうのである。
グローバル社会というのは公正な社会でもない。やはり今ならアメリカが取り仕切る。覇権国が取り仕切り世界の富はアメリカの一部のものに上層階級に集まるのである。。ただそういうことは可視化されない。だから一般の人はその悪を知ることもできないのである。

とにかく人間の社会というのは進化したとか進歩したとかいうが本質的なところでわ変わっていない。ただ複雑化しているから悪というのは見えない可視化されない隠蔽されやすくなっただけである。
こうしてこの世からは悪はなくならない。それは人間の欲がなくならないからである。だから人間は欲によって滅びると聖書に書いてある。そしてこの世では悪を消滅させることはできない。別にこの世でこうして悪を働いたからといって罰せられることもない。原発事故では東電の幹部でも政府でも官僚でも天下りした検察関係でも罰せられることがなかったからである。

ではこうした人間の様々なな悪はただ放置されているしまうだけなのか?明らかにもされずに隠蔽されたままで終わるのか。それが不可解だとなる。ただ聖書で死後裁きがあるということはそうした悪でも死んでから明るみに出されて裁かれる。

ただそんな死後のことを気にしている人もあまりいないだろう。そのことを恐れたら悪をなすことはできない。権力を持ったものは大きな悪にかかわりやすい。でもそれがまたその人自身によって意識されにくいのである。だから自分が悪人になっているとか思わない。社会でも善人として見ているからである。でもしも白日のもとにその悪が暴かれる時どうなるのか。その人は依然として何も悪いことはしていませんということになる。そもそもその悪を意識できない気づかないからである。でも死後に裁かれるとなって裁かれたら怖いことになる。でも死後のことをそんなに恐れる人はいない。人は今目の前の現実を生きることで精一杯だからある

●人間は人間を裁けない

いずれにしろ人間は人間を裁けない。司法があったとしても検察が裁けるいったら裁けない。現実に検察関係者が東電に天下りしていたことでもわかる。その人たちは東電の幹部も裁けないのである。つまり検察関係でも警察で裁かれる立場にあるのだが権力を持っているから裁かれないとなる。そこに人間社会の限界がある。人間は人間を裁けない。だからこそその悪は隠蔽されて表に出ない。ただそれがその悪はそのままではない。必ず誰かがその悪によって被害を受ける。

日本でも戦争になって300万人が死んだとか原発事故では故郷に住めなくなったとか必ず責任が取らされる。その上層部は利益を得たものは罰せられなくても必ず誰かが被害を受ける責任を取らされる。それが悪の怖さである。悪はそのままで隠されたままで終わらない。必ずその悪は誰かに影響してその人たちが被害を受け苦しめられるのである。
だから悪は隠されたままであることありえない。いずれそれは表に出てきて大きな被害をもたらすのである。それはナチスでもそうだったし日本の戦争でも判断するのは難しいにしてもやはり300万人がなぜ死ななければならなかったのかというとそれも理解できないのである。それは日本だけの責任でないとしてもそれだけの被害があったということがやはりそこに悪がが隠されていたともなるのである。

結局この世は善と悪との戦いでありそれはこの世が終わるまで継続される。ただ何が善なのか悪なのか明確ではない。かえって大悪人が大善人ともされるのはこの世である。それを象徴しているのはカルト教団であるその教祖ははこの世の王となり支配することもある。それはまさにサタンだととなる。つまりこの世の王ははサタンなのである。それは人間から欲がなくなくならないからその欲によってサタンの王となるのである。だからこそこの世は滅びるとか神によって滅ぼされるとかこの世に理想の国などできないないからである。いくら科学技術が発達しても依然としてカルト教団がなどは巨大化して支配しよう支配することにもなる。

それを作り出しているものは何なのか。一人のの人間が作り出したものではなくその一人の教祖でもその教祖を祭り上げる人たちがいるそれでご利益を得ることがありそうしているのである。いずれにしろ人間の悪は消えないなくなることはない。だからこそこの世は一旦滅びそして裁きがある。この世で悪は隠されるても死後裁きにあう。そうしなければ公平にならないからである。そんな世界を見逃して許されるわけがない。この世はそもそもどんなことしても不平等なのである。

●裁けるのは神のみ

主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

だからなぜ悲しむ者は幸いなりとか言うのだろうかとなる。つまりこの世で得する人たちたとえ巨悪でも隠されて楽をして良い目を見る。でおこの世では悲しむ人も多いのである。だからこの世では利益を得て得したものがあっても来世では裁かれてこの世で悲しんだものはその涙もぬぐわれて神に祝福される。この世とは逆転してこの世で苦しみ悲しんだものは来世では神の国では恵まれたものとして祝神されるともなる

でも現実は人間は今生きていることしか考えない。それで来世で裁かれなければならないのだとかなる。ただそんなことを恐れたり意識したりしないのである。それで奇妙なのは誰でも来世で裁かれる時こんなことになるなら現世で生きてきた時裁かれた方が良かったともなってしまう。それは現世しか考えないでで生きているからそうなるのである。この世とほんの一時的に生きるだけでありその生はあっという間に終わってしまう。でも来世とか神の国は永遠に続くのである。

そしてもし地獄があるとしたら永遠の地獄があるとしたらそれこそ最大の恐怖である。ただそういう恐怖のことを自覚したらすでにそのことでその人は救われるともなる。悪人は悪のことなど意識しない。だから悪を成したからと恐れることもない。来世のことなども考えない今は良ければいいだけである。だから何か悪を意識する人自分は悪人だと思う人こそ救われるというのはそのことである。普通は自分にしても悪人と思わないからである。
だからは自分は悪人だと思う人は本当は善人だとなる。どんな悪いことをしても悪いと思わない強盗して殺人までした人がたまたまを悪くて捕まったとこ全然反省していないのである。たまたま運が悪かったというだけにしか思ってないそれは人を殺してまでそうなのだからそもそも人間というのは悪を意識することことが難しいとなる。それで親鸞が人を千人殺してみろという言葉になったのであるそのくらいしないと人間は悪を意識できないのである。

そもそも主とか神を恐れるなどということはない。このように無神論者も多い。この世で恐れているのはこの世で権力を持っている人である。神は恐れている人はいない。この世で権力を持っている人は例えば会社であれば社長がいて首にされることが一番怖い。だから一番恐れているのは社長だとなる
その他でもマスコミがジャニーズ事件で攻められなかったのは総務省の要職の人が櫻井翔のパパだったためである。そのためにマスコミ全部が忖度したのである。ということはそれだけ総務省というのはマスコミに対してでもその上にあり権力で報道できなくもさせるのである。

何であれ神など恐れる人がそんなにいるのかとどこに神がいるんだとなってるのは普通である。実際は権力を持ってその権力を行使できる人は恐れるのである。でも本当は一番恐るべきものは神になる。神は見えない形がないでも確実に存在しているのである。人間の権力というのはあくまでも人間が作ったものであるその社会も人間が作ったものでありそれは完璧なものではない。だからこそ結局巨悪には無力だし様々な悪が隠蔽されてしまうのである
そのためにただ悪は常に隠蔽される。権力によっても隠蔽される。でもそれがそのままではありえない。その悪がその本人でなくても周りに次の代にも必ずカルマとなって影響してくる。だから悪そのものは隠蔽されるということはないのである。権力で隠蔽できると思ってもできないそれは必ず時間がたてば明るめに出されたりこの世で裁かれなくても来世で裁かれるのである
posted by 天華 at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月17日

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた (ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

ハードからソフトに移行した時日本は遅れた

(ソフトは文化を作る、これからは文化の時代になる)

softimage.jpg

人間はハードの機械ではないソフトなのである 機械にソフトの人間が入って来たのである。
being image creatorがこうして表現できることが不思議なのである

poorjapan.jpg


医師とプログラマーと地域創成の女性とかが討論する。でもなにか議論でもかみあわない、それぞれ違った立場でありかみ合わない、そこに現代の複雑さがある、異分野の人と話しても互いに理解すること自体むずかしいのである。



現在はあらゆるものが飽和状態になっている。電器製品でも車でもあらゆる機械道具類でも飽和状態である。それで新製品になると何を変えるのかとなるとデザインとかを変える。それはパソコンでもハードの面ではこれ以上の技術的進歩は得られない。今やパソコンはハードではなくソフトの面がの方が大事になっている。だからソフトというときそれはハードではない。ものづくりともう違う。

それで一番感心したのがbingイメージクリエーターである。なぜ簡単な言葉を入れただけで絵画は作られるのか写真が作られるのかそれもかなり優れたものなのである。それがどうして作られるのか不思議になる。それはパソコンというハードが作っているものではない。パソコンのハードは今やどこの会社でも個人でさえ作れる。となると何が売れるのかとなるととソフトなのである。
それはパソコンというハードを作ることではない。日本がなぜコンピューター分野で遅れたのか。それはハードの面だけでなくソフトは作れなかったということである。

日本はものづくりで優れていたとされていた。それで高度成長時代を築いた。でもコンピューター時代になった時なぜ遅れてしまったのか。コンピューターというのは確かに最初はハードが大事だった。でもコンピューターで大事なのはソフトだったのである。そこが理解されされていなかった。だから日本で世界に通用するソフトが作れていない。 bing イメージクリエーターというのもソフトの一つである。そういうものは日本で開発されていないのである。そして機械とか道具とか製品とかハードの面だと画一した大量生産して日本では電器製品などを売り高度成長時代があった。でもその後IT化とかコンピューターのソフトは大事になった時日本は遅れてしまった。

そしてものでも道具類でも機械でも飽和状態になったとき人々は何を求めるのか。人々それはハードの面ではなくソフトの面に人間の関心が移行していることなのである。
このソフトというとき何なのか。それは文化的なものにもなる。文化というときカルチャーはcultivateでありその土地土地から生まれる独自のものである。
なぜ独自になるかというと地理と風土がみんな違っているからである。福島県だったらハマナカアイズと違った風土であり景色だからである。そこでそこから生まれてくるものもまた違ってくるのである。感覚的に海側に住む者と山側に住む者は違ったものになる。そこで作られる世界観も違ったものになる。それが多様な文化になるのである。

だからこれからはハードではなくソフトが大事になる。コンピューターはハードが大事なのではないいかにソフトを作るかが大事になる。その一つがbing イメージクリエイターなのである。コンピューターは芸術の分野まで関係してコンピューターを通じて創作するという時代になっている。それはハードを通じて創作するのではなくあくまでもソフトを通じて創作するのである
だからイノベーションというときハードを作ることではないソフトを作ることなのである。プログラムとは物を作ることではないソフトを作ることである。

そして文化というとき一番食が文化になるというときその食の元になる材料がその土地土地から取れて独特のものになっているからである。その土地と風土によってその材料も違ってくるし味わいも違ってくる。それが文化なのである。
ハンバーグのように世界中どこでも同じようなものを食べるのは無味乾燥であり味わいもなく文化もないのである。ただ腹を満たすというだけである。人間は今文化を味わいたい。だから観光が盛んになるのはものを買うというより文化を味わいたいということでそうなったのである

なぜならそもそも地理は違うと景色もまるで違ったものとなりそこで食べるものも違ってくる。その魅力は尽きないし画一化して作られたものに魅力を感じなくなる。
だから文化というとき車に乗って旅することではない。むしろ昔の街道歩いたりすれば人間の五感が働き新鮮な感動をもたらすということである。車でただスピードを出して通りすぎても何も感じないとなるからである。だから文化を味わうというときは人間の五感を働かせるようにすることである。

大量規格品製品を作るという時代は終った。でも手作りの作品などがかえってそこに温かみがあり価値が出てくるかもしれない。それは高くても買う人が出てくるかもしれない。つまりそれが文化の時代なのである。外国に来てただハンバーグを食べてるだけなら何の感動もないのである。必ず土地土地には違った風景がまずありそこで生まれた食もあり何かそこにはその土地に育まれて作られたものはありまた料理もあるからそれが魅力となるのである。

この辺では福島県でわハマナカアイズとありそれぞれ違った風土になそこで育まれたものもまた違っている。会津だと食べ物として栃の実から作った栃餅などがある。そそれは結構作るのに難しいのででもそれを食べた時山国の会津を感じるのである。
そして狭い範囲でも同じ景色ではないし歴史も違っている。だから相馬藩内でも原町は機関区にもなり明治以降物流の拠点として新しく発展した街でだから駅前通りが繁栄したのである。

でも相馬市は城があり城下町である。だから雰囲気が違っている。ただそれが外から来た人には城もないので分かりにくいのでそれで最近分かったことは原町は白い夏菊があっている。鹿島区草深く咲いている藪甘草が合っている。相馬市は城跡に藤棚があるように藤が似合っているともなる。それが文化なのである。文化はそこに長く住んで発見されるものである。だからちょっと旅に寄ったからといってその土地のことは理解できないのである。文化を知る文化を作るということはやはり相当に時間がかかる。それはやはりその土地土地に違った風土があり地理がありそれを理解するにわ時間が必要だからそうなっているので

文化というものは何か物のように必ずしも金で買えないものなのかもしれない。その土地の風景などは確かに誰でも見れるがそれを深く感じるということは難しい。その土地と風土と一体化したものを感じることは時間が必要であり難しい。でも芭蕉の奥の細道とかなると別に長く住んでいるわけでもないのにみちのくというのを外から見て発見されたのである。なぜならみちのくというとき必ず奥の細道をイメージするからである。だから一人の詩人の力も大きかったとなる。

5月雨の降り残してや光堂 芭蕉

これは空間的なものと時間的なものは表面されている。みちのくという空間的なものと風雨にもめげずに残された光堂という時間軸での表現がありまさにこれが文化なのである。文化というときやはり空間軸地理的なものと時間で育まれるものがあ。時間は歴史で形成されたものは文化なのである

その味わいは深くその価値は返って400年過ぎても価値を増しているのである。文化というときなぜか大都会からは生まれない。東京とか1000万もの都会になるとそこは物流の世界であり物量の世界でありそこで歴史とか風土が感じられない。東京なら確かに江戸時代がありその風景は美しいものだった。でも今東京に行って美となるものを感じないのである。ただ巨大なビルを見上げて人間の小ささを知らしめられるだけである。
だからヨーロッパでも文化が生まれたのはフィレンツェなど5万くらいの都市国家だったのでそんな小さな年からでも文化は生まれる。むしろ小さいからそこで一つの独得のの世界を認識し文化が生まれたとなる。とても東京とかニューヨークとかからは文化は生まれない。巨大な物流の世界であり群衆の世界でありただ経済の場であり文化の場にはならないのである。

文化は地方から発信される。それがインターネットができて誰でも気軽に発信できるようになった。その土地のことを誰でもその場に住んで紹介できるのである。だから私のプログを読んだらどういう場所なのかある程度はわかる。これまではなかなか地方というのは紹介しにくかった。テレビとか紹介テレビとかで紹介しても地元の人がそこに住んで紹介するということができなかった。今ならユーチューブでも簡単に紹介できる。ただそのコンテンツを作る動画を作るスキルが問題になる。動画になると相当に手間なのである。するとそんなにいろいろなことを一人でやるのは無理だとなる。プログで一記事毎日出すのは結構な手間なのである。それに加えて動画を出そうとしたら面倒になったのである。今は家事も全部しているからその暇がなくなったのである。

2023年09月16日

小さきものの声(虫の声)


小さきものの声(虫の声)

深夜に数匹の虫が
懸命に鳴いている
更けゆく夜の静けさに
その声が響き合う
ここに共に生きるのだ
苦しくもここに生きるのだ
小さなるものの声が
ここに響きあう
その命は短くも
その鳴く声が響きあう
ここに生きるのだ
更けゆく田舎の夜の静けさに
その声に耳を傾ける
小さなるものの声が
ここでは大きく響いている

暦では秋になっているがまだ暑い。雲の峰がまだ高く必ず見える。でも確かにその声を聞けば秋なのである。ふけゆく夜の静けさに虫の声が響いている。田舎の夜にその声だけは大きく響いている。
何かこの辺では原発事故で避難区域などはふるさとにも住めなくなった。帰って住んでいる人はどれくらいいるのだろうか。 1割か2割とか小高では3割くらいしか戻っていないだろう。それもみんな老人なのだからいずれは町や村を維持できるのだろうかとなる。

虫の声というときそれが飯館村だとこのように昼間でも響いていた。そこはまさに街でもないし山の村だからそうなっていた
人間はやはり住む場を持つことが大事である。その場が生き死にの場となる。だからこころとはここにあり場を離れて人もありえないとなる。その場アイデンティティとなり人間を作るのである。ただ現代は移動する時代であり何かみんな遊牧民のようになっている。一つの場所に定着するということは拒否されている。

だからこそそこに生きている場というものに愛着がなく補償金をもらったらバラバラになったのかもしれない。つまり金というのはどこに行っても通じる時代であり外国でも金になれば住むという時代にもなっている。だから一つの場所に固執するのは嫌だとなる。でもやはり人間は一つの場に定着してアイデンティティ化する。
それはその土地に根付いて成長する木とかと似ているのである。人間には確かに移動するという習性もあるが定着するという習性もある。移動するのは動物であり鳥であり定着するのは植物的だともなる。でも最終的には人間はどこかの一定の場所に定着してそこでアイデンティティ化して死ぬ定めだとなる。

2023年09月15日

地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか? (金もなければ相手にされない老人)


地獄の沙汰も金次第−墓の効用はなになのか?

(金もなければ相手にされない老人)

100歳以上の高齢者 全国で9万2139人 53年連続で過去最多を更新 きょう「老人の日」


何か埼玉の方に兄さんとかいて具合が悪いから呼ばれて行った。ところがその人は女性は金がないからそのために金を要求する。一回だけだから良かったが今度もまた何か特別なことがあり呼ばれていった。でもその人は金がない。もう今回限りで終わりだと言っている。となると金がなかったら兄さんでも会うこともできない。ただ埼玉とかの方ではそれなりに遠いから簡単にはいけないのである。

何か特別の用事があるというとき金でもくれるのかと思ったらその人も福祉に世話になっているから何もないとなる。臨終の時に必ず呼ばれる。だからまた行くのは金もないのにどうなのかと思った。ただこれが最後となると金を惜しんでもいられない。だからこそこの世の中地獄の沙汰も金次第だとなる。つまり兄弟でも姉妹でも親子でも最後の別れを惜しむとなるとき離れていると交通費がかかり金がないとそれもできないとなるからだ

その人は親しい近くの人がと来てくれと言っても行かない。その人自身が日々の生活に事欠いてその人は援助してくれないからである。その人が失敗したのは一人娘に金を全部預けてしまったことである。自由にする金がないのだからその困った女性に援助はできないのである。ただ人間というのは本当に最後まで金のことがつきまとっている。それは誰でもそうでありその金の縛りから逃れることができないのである。でもやはり金に困っている女性を助けられないということは大きな問題になる。携帯電話で話ししているが直接にあって話すことはないようである。ただ一人で行ったり病院を出たり入ったりしているから話し相手が必要なのである。その女性は話がうまいからである。

とにかく人間は金から解放されるのは死んでからしかない。それはいくら金を持っていても金でもめたり遺産相続で争ったり家族でもいろいろと金から問題が起きてくる。だから人間は本当に死ない限り金から解放されないのでる。そこに人間の不幸がある。おそらく天国とか神の国では金など関係なく生活できるに違いない。だからこそ地獄の沙汰も金次第にな。金を与えれば確かにその人が好きでなくても老人でも何かしてくれる。話し相手にもなってくれる。現実に話し相手になるだけで金を払っているということもあるからだ。

だから老人は金をもっていればその金を目当てに相手にするということはある。老人がなぜ権力を手放さないかというと権力をもっていればそれによって人も寄ってくるし相手にもしてくれる。その老人が嫌でも金のためにそうなるのであ。女性でもその金のために寄ってくる人がいる。それは問題にしてもやはり人間は金から切り離されられないのである。

ただ別に金がなくても老人のこれまで生きたことを語れば興味を持つことはある。老人の価値はやはりこれまでの人生で経験したことを語ることである。ただ正直その人が本当に語るべきものを持っているかどうかが問題になる。例えばカルト教団など入って一生終わった人の話など何も興味あることはない。ただロボットとして何の個性も出さずにその人なりの生きたものは何もないのである。
そしてその教団や組織もいつかは消えてしまうのである。それは会社に入った会社で働いた人でもそれとは違っていてもやはり会社から退職するとその人の価値は相当に減少してしまうのである。でもそこで何か語るべきものがあればそれは価値あるものとなる。

要するに老人の価値というのはもちろんお金があれば金に寄ってくる。だから金があったほうがいいことは確かである。でも何か老人がその人生を語りその語ることに価値があればその老人の価値があるともなる。それは金なしでもその経験したことが価値あるのであり巨額の金を集めても残してもそれがすべての価値になるとは思えないのである。
やはりその人がどういう人生を送ったのかまた語るべきものがあるのかそれが問題になる。ただ芸術家などだったら何らか作品を残しそれでその人の価値も生まれる。でも別にそれが金になるとは限らない。芭蕉は奥の細道を書いたからといってそれで金になったかとなればない。でもその価値は400年でも過ぎても依然としてその価値は衰えないし価値が増しているのである。だから人生は短し芸術は長しなっていたのである。でもそれもごく一部の人せりあとは消えているのである。

いずれにしろ人間は最後に何を残すのか。骨を残すのか灰を残すのかそれも土となって消えた。 5人くらいは土に埋められて一つは骨も残らず灰になっていた。土になっていたので誰のものかもわからなくなっていた。だから人間というのは骨とか灰を残してもそれが誰のものなのかもわからなくなる。その人の人生がどういうものであったのかそれが最後に問われるのである。私の兄はこうしてただ灰になり土になり誰の物だかも分からなくなっていた。それで私は私の墓に隣に小さな墓を作作って供養している。そこには骨も何も埋まっていないのである。

だから骨とか灰は海にまけとか木の下にまけとかとかでも構わないとなる。ただ墓が必要なの何かドラマで常にその墓の前で死者と語り懺悔する人がいる。そして墓に向かってはお詫びしたりする。だからそこには墓の効用があるとなる。もし海にまいたりにしたりすると誰の墓だか誰の者だかわからなくなるからその人に向かって死んだ人に向かって懺悔したり語りかけることができなくなるからである。だから墓がいらないということではない。
墓もそれなりの人間として効用があるものだったのである。ただ墓もも儚くついには誰もお参りするもなく墓の墓場となってしまったのも無常だということである。人間は無常から逃れることができないのである。

また彼岸が来る。お盆から彼岸は近い。お盆とか彼岸はやはり死者を思い出し供養するということに意義がある。ただいまや墓も維持する跡継ぎもなくなり維持できなくなっている。だから墓じまいとかになり。それでは墓にに金をかけるべきではなかった後悔している。なぜなら跡継ぎがいないのだからは卒塔婆のように簡単なものでもよかったのである。立派なものにしてもその後継ぐ人がいないのだから無駄だとなっていたのである。

2023年09月14日

介護施設経営の人の犯罪は青森の人だった (青森の介護施設に南相馬市から送られたのはそのためだったー政経東北の記事より)


介護施設経営の人の犯罪は青森の人だった

(青森の介護施設に南相馬市から送られたのはそのためだったー政経東北の記事より)

sekeitouhoku7.jpg


aomorihito.jpg


【吉田豊】ブローカー問題「借金踏み倒し」被害者の嘆き【南相馬市】
市内で南相馬ホームクリニックという医療機関を運営している。将来的には医療・介護施設を集約した大規模施設を整備する予定だ。一緒に働かないか」。吉田氏からそう誘われたAさんは、2021年5月から同クリニックで総務部長として勤めることになった。

青森県出身。4月現在、64歳。同県八戸市の光星学院高校(現八戸学院光星高校)卒。衆院議員の秘書を務めた後、同県上北町(現東北町)議員を2期務めた。その後、県議選に2度立候補し、2度とも公職選挙法違反で逮捕された。

 青森県では医師を招いてクリニックを開設し、その一部を母体とした医療法人グループを一族で運営していた。実質的なオーナーは吉田氏だ。

政経東北6月号



なぜこの記事に注目したのか私の知っている人がその息子の親は青森の施設に入ったということを知っているからである。なぜそんなに遠くの施設に入ったのか理由がわからなかった。
ただこの辺では原発事故があり混乱していた。それで介護の人材が不足していてそれで青森の方に移されたと思った。青森は仕事もないので介護とかな仕事になると何かで読んだ。だから青森にうつされたのかと思った。でも青森まで行くと時々その息子は呼び出されて車で青森まで行っていたのである。
施設に入るとそれで終わりではない。何かと施設から要求がありそのために施設に通うことがありそれの青森では遠うすぎたのである。だからなんで青森なのかと理解できなかった。
ただ今回政経東北のこの記事を読んでもしかしたらこのことのこのことと関係があったのかもしれない。つまり吉田と言う人が介護施設の運営をしていたからそこにうつされたのかと思った。

青森県では医師を招いてクリニックを開設し、その一部を母体とした医療法人グループを一族で運営していた。実質的なオーナーは吉田氏だ。

これをもしこの記事を読めば辻褄が合うのである。とにかく青森では遠すぎる。そこで息子でも全く放置するわけにはいかない。だから呼び出されてそんな青森まで行くのが大変なことになっていた。だから最近は地元の施設に入れることになった。でも父親はまもなく死んだのである。
それにしてもこんな人がいるのも驚きである。また飯館村でも強盗まで働いた議員だった人がいたのである。そんな人が議員になれることも驚きである。その人は前から悪事を働いていた。でもそれにしてもあまりにも凶悪だったとなる。そんな人が議員になれるということもあるのかと思った。

何か外から来る人にわ信用できないことがある。ただ南相馬市とかでは津波とか原発事故があり工事関係者の人が大量に入ってきた。その中にはヤクザもいて入れ墨をした人たちも入ってきた。それで治安が悪くなっていたのである。ただ介護施設でも暴力団関係が経営していたとかも他であった。そうなると介護施設でもそんなところに入ったら危険だとなる。やはり地元の人で知っている人だと安心だとなる。ただ地元の人だからといって今や信用はできない。そのことを自分も被害にあったのであいた書いた。

何か南相馬市とか原発事故周辺浪江でも大熊でも乱れてしまったのである。多額の補償金でもそれを遊びに使ったとか女に使ったとか復興のために使われたわけでもなかった。その生活も乱れた人も多かったのである。飯館村で強盗した人も娘と一緒に暮らしていたのだがそれが別々になりさみしくなりそれで事件を起こしたともなる。何か知っている人でも小高の人でも詳しいことは分からないにしても妻と離婚したりして一人になって何かそこで寂しくなったりして不安定になっている。原発事故とかで家族でもバラバラになったりしているからである。でも飯館村の議員は考えられない人であった。そんな人が議員になっていることが信じられないとなる。

飯館村でもおそらく他より補償金多くもらっているから金銭感覚が狂い乱れた人がいたかもしれない。それでNHKで津波の被害者と原発の被害者が同じ仮設に住んでいるとかビルに住んでいるとそこで争いがあった。原発被害者は補償金をもらっているが津波被害者は補償金をもらっていないからである。でもNHKでは原発被害者の方に立っていたのである。その報道は不公平なものだったのである。相馬市に避難して仮設に入った飯館村の人がハウスのトマトの栽培なのかそこで働きたいというとき相馬市の津波被害者は優先された。でもその事をNHKではその業者を冷たいとして批判していたのである。

でも津波被害者は補償金を多額の補償金をもらっていた。一方で津波の被害者は補償金はもらえなかったから津波被害者を優先して雇うのはそういう配慮もあってそうしたのだ。だから何も冷たいということはなかったのである。その報道がなぜ問題かというとNHKで報道したからそれも全国に報道されるするとなぜ原発事故の被害者の飯館村の人を雇わなかったのかということでそれが雇わない経営者に批判が全国からされることになったからである。。だからNHKというのは国民から信頼されているからNHKが報道するなら正しいとなるからそこに大きな報道の問題がある。

ただインターネットができてそうしたNHKでも盛んに批判する人たちが増えてきた。それからなかなか批判できない創価なども辞めた人がユーチューブで訴えている
今まではそういうことができなかった。なぜなら創価などは大手の新聞社は全部に聖教新聞を自社で刷らせて批判させないようにしているからだ。今やマスコミというのは常に批判の対象になっているのである。ユーチューブで簡単に放送局作り報道できるからである。創価でも批判できなかったが批判している

政経東北にしてもなぜ放射性物質の除染で大儲けした相双リテックの宣伝を裏表紙でしていたのか。その幹部たちが何億という金を山分けして銀座で遊んでいたという。
とにかく原発事故でわ補償金問題で巨額の金が流れてその金が必ずしも有効には使われていない

何か遊びで使いなくなった人もいる。それで南相馬市の鹿島区のコンビニでーで強盗した人がいた。その人は双葉の人だったと言うことをきいた。双葉だったら相当に補償金をもらったはずだからそんなことありいないと思った。でも大金が入ってギャンブルなのか女なのか何かわからないけど使った人がいたということかもしれない。それは他でも聞いているし高級車を買ったというのは相当数いるから間違いないだろう。

だから別に補償金の復興のためになったということはなかった。でも現在は金なくしてはありえない時代である。日々の生活に事欠く人が補償金が30万ほど入るからと金を貸してくれと言われて貸したからである。それは裁判で勝った結果の補償金である。ただこの補償金も南相馬市なら小高原町鹿島で差があった。原町区は鹿島区の3倍だった。小高は別格であり4人家族だったら一千万くらいになるというから驚く。ただ小高は原町区とか他に移り住んだ人が多い。だから小高はもう維持できるのかと思う。小高を復興とするというより補償金で他に移った方がいいとなっているからである。ともかく補償金が復興のためになったとはならなかったことは確かである。それで水俣病の公害訴訟でも同じことがあり地元の人が報告していた。いったん公害になると終りだと言っていたからである。


政経東北がweb化したことはいいことである。やはりより身近になるからである。ただ詳しくは本を買わないとわからないのである。

posted by 天華 at 17:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

Heavenly and Japanese gardens.(天国の庭と日本の庭)

Heavenly and Japanese gardens.(天国の庭と日本の庭)


heavengarden1.jpg

birdflower.jpg

cottagegardenn.jpg

cottagegardenn2.jpg


石に座っている人は外国人であるのが不思議

Strange that the person sitting on the stone is a foreigner

cottagegardenn3.jpg





イメージクリエーターの著作権はやはりこのソフトを開発した会社にある。というのは文章を入れたとしてもそれが何か自分で創作したと思えないからである。
簡単な文を入れるだけでありそれが創作にはならない、私が前にしてきた他人の絵や写真を変化させたものは結構苦労があった
操作するにに苦労があった。でもこのイメージクリエーターではそんな苦労も感じない、つまり自分が苦労して創作する感覚がないのである。
だからこれを発明した人が会社が著作権でも持つとなる。商業利用するとなるとそうなる。
ともかく芸術の分野でもコンピューターがかかわっている。
だから絵の素材で金をとっていた人は失業するともなる、他でも人間よりすぐれているとなるとそうなる。

The copyright of Image Creator still belongs to the company that developed the software. This is because even if you put in a sentence, it doesn't seem as if you have created something yourself.
I had a lot of trouble with my previous work, in which I changed other people's pictures and photos.
It was difficult to manipulate. But with this image creator, I don't feel any such difficulty, in other words, I don't feel that I have to work hard to create.
So the person who invented this would be copyrighted by the company. This is the case when it comes to commercial use.
Anyway, computers are also involved in the field of art.
So people who have made money from drawing materials will lose their jobs, if they are superior to humans in other areas.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)


画像生成AI “クリエーターの権利脅かされる” 法整備など提言
Image-generating AI "threatens creators' rights" Proposals include legislation.



他人の絵など変化させた私の抽象画も問題なのか。でもここには創作的なものがあった。でもイメージクリエーターには創作的なものを感じられない。
それは一体誰が創作しているのかとなる

Are my abstract paintings that have been altered, such as other people's paintings, also a problem? But there was something creative here. But I don't feel anything creative in the image creator.
It becomes, who the hell is being creative?


2023年09月13日

なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか (山側から発展した日本−地形から見る日本)


なぜ会津が古代から東北で大きな勢力となっていたのか

(山側から発展した日本−地形から見る日本)

fukushimamap.jpg

bunnroku.jpg


秀吉の文禄時代に日本全国で検地が行われた。新地にある文禄の碑は伊達藩で記念に建てた。




会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね (「万葉集」

秀吉の奥州仕置により
蒲生氏郷に広い与えられし会津の領土
七層の黒川城の威容映えぬれ
近江より来る才智優れた武将の氏郷
戦国の世悲しくも若くして花とちり
会津若松の栄の礎となる

東北歴史を見るときなぜ会津を古代でも大塚山古墳から三角神獣鏡は唯一発見されたのか?会津が古代でなぜ大きな勢力を持っていたのか。それはやはり縄文時代からの継続として日本では山の方が生活はしやすいからだった。
日本では平地の方が暮らしやすいと見えるは実際は平地は湿地帯であり暮らしにくかった。だからなぜ飛鳥が最初の日本の国の起こる場所だったのかとなる。

天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

それはの歌のようにかもめが飛んでくるところでありその前は奈良盆地は湖になっていた。そして大阪湾でも広くそれが奈良盆地までも海として通じていた。
つまり平地あったとしてもそこは湿地帯であり住むことができなかった。するとどうしても生活する場所は山の方になるのである。そして山では焼き畑が行はれていた。
そのために秀吉の奥州仕置で厳しい検地が行はれた。会津ではそのとき焼き畑が行はれていてその焼畑にも検地があって税が課せられていたのである。それに反抗して一揆があり農民がかなり死んでいるのである。その焼畑に税をかけられることは非常に厳しいものとなるからそうなった。だから検地というのは歴史的に大きな出来事だったのである。その検地によって日本は戦国時代終はりにして日本を統一して一つの国家として形成されたともなる。そこには農民の犠牲の上に成り立っていたのである。

秀吉の時代はこうして奥州仕置きで検地が行はれた。それでなぜ伊達藩の領地であった新地に文禄の碑があるのか。文禄時代に秀吉によって厳しい検地が行はれたからである。その記念として文禄の日が遺されたのである。他にも全国隅々に検地が厳しく行はれて税がは徴集されたのである
ただその厳しい見地から逃れて税金を納めないようにと隠田が行くられた。日本は山が多いからそういう場所が隠れた田を作りやすかったのである。こんな所に田があるのかとあり隠田が多いのである。するとそこで検地から逃れた隠田にもなる。でもそれが見つけられると厳しい罰が課せられたと言うことがあった。
信長は武力によって天下布武を成し遂げた。秀吉は検地とかでて財政基盤を築き日本統一を成し遂げた。それは必ずしも武力だけではなく財政面での日本国家の統一を成し遂げた。そして朝鮮出兵するということは日本国家の統一をなしてそれだけの財政基盤ができたからそういうこともできた。

秀吉の時代に相馬藩と石田三成が関係して実際に相馬藩内にきていた。そこは自分の住んでいる近くだった田中城があった所である。

相馬 利胤 は、江戸時代前期の大名。相馬義胤(第16代)の長男。陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は三胤、のち蜜胤、利胤

相馬藩主初代となる利胤は、天正9年(1581年)に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれた。
烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。

mitunarifrag.jpg

野馬追いに出ていた石田三成の旗印


ともかく今から考えるとなぜあ山の国の会津は東北で最初に大きな国になったのかということである。それは群馬や栃木の毛野が大きな勢力を持ったこととも通じている。
南相馬市の鹿島区に浮田国造が置かれたのもそうである。それは毛野氏系統だったのである。だから会津でも毛野氏でも山を生活基盤としてそこが大きな力を持ったのである。それは日本は平地があったとしてもそこは湿地帯であり沼地であれ湖でもあり住むことができなかったからである。

福島市でも盆地があり平地が広いなそこは湖であったとされる。だから広い平地があってもそれを今のように田にして利用はできなかった。だから日本の地形からして田んぼでも山の斜面に棚田は作られた。それが県(あがた)となったのである。そして日本で野とは山の斜面のことであり平地のことではない。それが日本の地形の特徴なのである。飛鳥も広い平地ではない段々畑のような地形でもある。ただ藤原宮となると平地になってくる。そして平城宮となると国のまほろばになり広大な平地となる。

いずれにしろ会津は山また山が重なっているのでその地理が分かりにくい。山にしても2000m級の山もありこの辺の地形とはあまりにも違っているので。その奥に尾瀬のように湿地帯があり花々が咲いていたりする。また古い沼にはり神秘的な花が咲いている。そういう風景はこの辺では見られないのである。だから山が多くて地理がわかりにくいのである。会津の地理をしることはそれだけ難しいのである。

会津なる山々重なり奥深し秀麗なる一つ秋のくれかな

福島県というときその半分が氏郷の時代に会津量になっていた。ただ伊達政宗の領地が今の中通りに拡大した。それで伊達市となっている。そしてなぜ福島県になったのかそれも明確でないというのも不思議である。福島県になる前は会津県二本県磐城県が予定されていた。福島市は関係なかったのであるが福島に県庁が置かれた。その理由はやはり広い平野があり盆地になっていたからである。それもやはり地形的な理由だったともなる。なぜなら二本松の城は十万石であり山城でありそこに上ればその天守閣は高く一望すると安達太良吾妻山蔵王でも高い山々がつまりつらなりそこは一つの大きな国と地理的には意識する。だからこそ二本松県に予定されていたということが地理的に直感するのである。

二本松城の景

古風山城偲
天守一望景
桜椿錦染也
陸奥連峰観
安達太良迫
松寄信深情
太古重鎮成

磐城県は浜通りになるともともと古代から相馬まで磐城国だったのである。だからこそ南相馬市内に磐城太田という駅がある。それは古代からの延長としてその名が残ったのである。また浪江の高瀬川を上った葛尾村(かつらお)に磐城落合とかあり磐城とつく地名があるのは古代からので延長なのである。
浜道りは地形的には阿武隈山脈高原に遮られていて別な国となっている。ただ相馬藩と磐城藩に分かれている。新地が伊達藩でありそれも福島県になった。だからすべて地形によって国の作られるということはない。伊達政宗が支配したということで今でも伊達市がありそれは地形と必ずしも関係していないのである。

いずれにしろ福島県はもともと会津が国の始まりであり会津は一つの別個の大きな国だったのである。廃藩置県によってそうした地理的なもの地形的なもの歴史的に作られたものは一つにしたからそこに無理がありアイデンティティーが作れないということがある。やはり国の基本はその地形にあり形作られるからである。その地形を無視することはいくら科学技術が発達してもできない阿武隈山脈を取り除くことはできないからである。だから浜通りになるとどうしても太平洋側とつながり仙台の方位も交通が便利だからつながり福島市の方は交通の便も悪く電車もないから一つの国として意識しにくいのであ
ただ東北中央道が出来て車があれば福島市まで行きやすくなったから便利になったから今は違っているともなる。とにかく福島県は広すぎる。やはり国として意識するのはアイデンティ化するのは江戸時代の藩がそうしやすい。相馬6万石とかなると一体化しやす。でも伊達藩のように60万石となるとその範囲が広くなりい一体化しにくくなるのである。だからこそ日本では小国という地名が多いのは小さなせまい地域で人間でも一体化して住んでいたからそういう地名が生まれたのである。



2023年09月11日

福島県の地理(会津)から韓半島の地理 (地理は現実にその場に立たない限り実感できない)


福島県の地理(会津)から韓半島の地理

(地理は現実にその場に立たない限り実感できない)

geoasia.jpg

●地理は基本的に変えられない

地理を分かるにはその場に立たない限り分からない。地理は地図をいくら見てもわからない。つまり地理はその場に一度でも立つとき実感する。ただ世界はあまりに広すぎるからとてもその場に立ったとしても実感することは本当に難しい。
例えば私の住んでいる福島県の浜通りは阿武隈山脈というか高原に遮られて福島市の方はまったく見えないのである。だから地理的一体感を持てないのである。むしろ男鹿半島とか金華山とか原町市からも鹿島区からも山に登ると見えるのである。
そして鹿島区の山に登ってみたとき近くに大きく男鹿半島は迫って見えたのである。すると男鹿半島とか金華山は身近なものと感じるのである。でも阿武隈山脈と高原に遮られてて福島市は見えない。だから吾妻山も見えないのである。するとどうなるかというと何か常に阿武隈高原に遮られて一体感が感じないのである一体感がもてないのである。
でも阿武隈山脈を取り除くことはできない。結果的に人間はいくら文明が発達しても地理は変えることができないのである。

地理的制約を克服できないのである。ただ山があればトンネルを掘り川があれば橋を渡しどこその地理的制約を克服することはできる。でも基本的に阿武隈山脈取り除くことはできないのでどうしても福島県とあっても地理的一体感を感じないのである。人間はやはり基本的にその土地と一体感を持つのはやはり狭い範囲なのである。だからこそ日本に小国という地名が多いのである。その狭い範囲が一つの国と認識していたのである。

どうしても範囲が広くなると地理的一体感は持てない。だから人間は基本的に地理的一体感を持つところが国となっていたことは確かである。だから福島県はハマナカアイズと三つ分かれている。でもそれが地理的一体感を持てないのである。そこで福島県は何か地理的に分断されて意識的にも一体感が持てない。それは明治維新で無理やりに行政区域として人工的に県を作ったからそうなったのである。

●会津は地理的歴史的にも別な国

だから会津はもともと一つの別な大きな国だった。だから会津県がありまた二本松県がありまた浜通りの磐城県があったということになる。それそれを無理やりに福島県にしたのである。だから福島県は広すぎて一体感を持てないのである。
福島県だけでなく明治維新後は県にしたがそれが地理的一体感など関係なく区切ったからそこに問題が起きた。ただ山形県とかなると面白山でトンネルをくぐると山形県に出る。山寺に出るがそこは山形県なのである。また山形市から峠駅ありりそこを下ると福島市福島盆地に出る。それは境としてわかりやすいのである。でも宮城県と岩手県の境はわかりにくくなる。平泉が岩手県になっても宮城県から平地になっているから境を感じないのであ
る。
地理で大事なのは境界である。なぜなら境界があって地理を認識するからである。それで大陸でわは川が境界となる。ローマ帝国はゲルマン民族の住んでいるドイツ侵攻したがそこにドイツの父なる川としてのライン川がありそこが境界となり遮られて侵略できなかった。そのことが現代のにも通じていた。クライナ戦争で理解した。
ドニエプル川を挟んで攻防があったからである。その川を渡り進行すれば支配地を拡大できる。でもその川を渡るのは難儀でありさえぎられるのである。それは現代の科学技術が発達しても同じだったのである。ドニエプル川を挟んでとロシアは対立してその川を越えて支配地をを広げる。川は境界となっていたのである

このように地理は戦争でもそうだが日々の生活でも地理から離れて人間の生活はないのである。例えば峠という漢字は日本の国字であり中国などにはないのである。というのは日本というのは山が多く当然そのために峠が多いからそれが国字となったのである。

●海がない山国の会津の地理の不利

例えば会津になるとなぜあそこに東北で最大の大塚山古墳があり三角縁神獣鏡金が唯一出土したとしたのかとなるとやはり日本海と関係ありまた山伝いで信州からの影響はあった。また毛野氏が大きな勢力を持ったのか。その毛野氏が私の住んでいる南相馬市の鹿島区浮田国造が置かれた場だったらである。だから常磐高速道の道路のSAにその神社はが祀られている。
でもなぜ毛野氏がこの地に関係したのか。なぜ毛野氏が大きな勢力を持ったのか。それは縄文時代は山の方が生活の根拠でありそれで勢力を持っていたとなる。飯館村に縄文中期の古い遺跡があるという時もそうである。山側のほうは日本では古い。
関東平野があっても湿地帯になっていてそこで米を作ることが最初できなかった。大概日本では平地は湿地帯になっていたからであうる。それで米作りでも山の斜面の県(あがた)で作っていたのである。
例えば会津と言う時山国であり明治維新になぜ薩摩長州に攻められて苦しめられたのか。それはやはり地理的要因が大きかったので。なぜなら明治維新は実際は七つの海を支配した大英帝国は深く関わっていてその後押しがあって明治維新がなされた加治将一氏は書いている。

明治維新はアメリカの黒船が来てイギリスは薩摩と海戦を行ないイギリスの船が日本列島回遊して行っていた。そして太平洋を回り函館に来てそれから新潟の方に回った。新潟も函館と同じく外国船が入る港になる予定だったのである。

1867年まず倒幕工作はし上がってゆく。起動させたのはやはり軍艦だった。イギリスの二隻の軍艦が宮城沖を北上しそこから東北の沿岸を丹念に睥睨しながら秋田沖を南下新潟港に入港した海洋新潟あたりをうろついたのは東北北陸諸藩に対するプレッシャーもさることながら新潟の背後に居る幕府の番犬会津藩をにらんでにことである。地方に軍艦お見せの庶民に衝撃が与えるのは一つだ(加治将一あやつられた龍馬)


会津は海に面していないからそのイギリスの船も観ていない。そのために時勢を知ることができなかったとなる。ただプロイセンと一体化して北海道で会津藩が防備することはあった。だから外国と関係しないということでわなかった。プロイセンはドイツであり陸の国ランドパワーの国だった。でも地理的要因で時勢を見ることは誤ったともなる。それは二本松藩とかでもそうだった。だから明治維新でも地理的要因が大きく作用したのである。だから歴史を見るとき地理を知らないと具体的に実感できないのである。

明治維新は最初に黒船が来たように海をめぐってのめぐって外国と戦い外国人を入れてそれで明治維新がなったのである。それを象徴しているのは船中八策とか船の中で坂本龍馬が考えた新しい日本の羅針盤となるものであった。つまり何か常に明治になっ海に囲まれた日本がその海は江戸時代は鎖国で閉ざされていたがその海を通じてまた外国開け外国人受け入れて明治維新がなったのである。

つまり大航海時代から既にシーパワーは世界を導くものとなりそのシーパワーの先導役の船だったのでだから薩摩でもイギリスの海軍と軍艦と戦ってイギリスの力を身をもって知ったのである。でも会津となると海もないし新潟までイギリスの船が来てもそれを見ることもできなかったのである。そして山に閉ざされた世界で日本から日本も外国も見ていたから遅れたとなる。だから地理的要因がそうさせたと思う。ただこれまで明治維新というのは日本人の力だけで成し遂げたとかして日本人はすごいということがここから始まっていた。でも実際はイギリスとかは深くかかわって成し遂げられたものだったのである。でもほかの国はみんな植民地化されたのだからやはり日本は外国の影響があっても独立していた唯一のアジアの国だったともなる

●済州島の漢拏山の位置

ともかく地理を実感として知るにはその場に立つことである。一回でもその場に立てば地理をある程度実感できる。そして地理を実感するというときその範囲は限られている。
旅してわかったことは日本だといかに韓半島があたかも日本国の延長のようにも感じた。例えば済州島の漢拏山は2000mもの高さがありそこには登れなかったがもしそこに登れば中国を望み韓半島を望み日本を望むことになる。その時意外と韓半島は日本の延長のように思うしまた韓半島から見れば日本は海に遮られても陸続きのようにも感じるのである。そこに韓半島の不思議があった。

済州島漢拏山より

済州島の漢拏山に春風吹き
その高き山を仰ぎ見る
中国を望み韓半島を望み
日本を望み一体となる
地理は神が創り歴史を作る
地理を知らずして世界を知り得ない
汝は今春風を受け海を望み
済州島に立ちアジア創世の地理を体得す
視界を広げよ世界に東西南北に
太陽は未だ知らざる所より昇り沈む

A spring breeze blows over Jeju's Hallasan
I look up at that lofty mountain
Looking toward China and the Korean peninsula
I look to Japan and become one with it
Geography is God's creation and history's making
You cannot know the world without knowing geography
You now catch the spring breeze and see the sea
Stand on Jeju Island and learn the geography of Asia's creation
Expand your vision to the world, east, west, south, north and south
The sun rises and sets from places yet unknown


●百済武寧王陵を訪ねる

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」

と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキ(高野槙)と判明したことも大きな話題となった。このほか、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土し
武寧王は第25代の百済の王(在位501〜523年)。名前は斯麻、又は隆。
『三国史記』によると百済第24代東城王(479−501)の二男。
『日本書紀』によると、倭の加唐島生まれで東城王の異母兄。
異説では第21代蓋鹵(こうろ)王(455−475)の息子。
殺害された東城王の後を継ぎ40歳で即位。
高句麗に攻められて滅亡寸前の百済を建て直し、
民生安定、国力伸長の成果を挙げた百済中興の王です。

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている[2]。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている

春武寧王陵

日本征人来
武寧王陵立
大河岸春草
銀匙使優雅
煉瓦精緻組
中国南朝産
百済栄交流

武寧王陵は大きな河の岸辺にあった。その煉瓦造りであり銀製の匙とかが残っていた。武寧王と日本の関係は伝説化しているが事実である。その大河のの岸辺に立ったとき中国の方を望み地理的に通じ合っていること実感したのである。
それは中国が南朝の時であり中国の文化が入ってきて煉瓦造りの墓がここに作られていたのである。つまり韓半島というのは地理的にも日本と一体感を感じてそれが中国への通じている。だからいかに韓半島が日本にとっても中国にとってもそれが一つの橋のようになっていたのである。そこで日本と唐が争ったというのも理解できるしその後もなぜ韓半島が日本であれアメリカであり対立の場になったか地理的要因が大きいものだったのである。

地理というのはあくまでもその場に立ち実感することが大事なのである。ただ世界になるとあまりにも広すぎて実感することは不可能である。それゆえに地理に関しては常に誤解は生まれるのである。

2023年09月10日

秋になっても暑い(ノウゼン、白菊、涼しい、秋の蝉)


秋になっても暑い(ノウゼン、白菊、涼しい、秋の蝉)

bambookiku.jpg

ノウゼンのここにも一軒なお咲きぬ

民宿にキュウリの花や今日も見る

竹一本白菊添えて主かな

川の音夜風涼しくひびきけり

蝉一つ屋形に鳴きてその声を聴きつつ暮れぬ秋となるらむ

灯ともらぬ家の淋しやその人のまた入院や秋となりしも


まだ暑くて秋がなくなったとかなる。昨日も暑かったのでぐったりした。今日もやはり蒸し暑くとても秋とはは思えない。ただ虫は鳴いている。だから虫が結構鳴いていることは虫はやはり秋を告げている。
でも実際はまだ夏である。だからノウゼンの花が依然として咲いている。ほかの家にも咲いていた。それが依然として夏だと感じる。やはりそれなりの家があって人々が住んでその花も映える。避難区域になったところでは空き家が増えたから花でも映えない。やはり人が住まないと花も映えないことがある。

暑いからすぐ近くの川の岸辺を散歩した。すると川の音が響き夜風が涼しい。それは依然として暑いからである。何か蒸し暑いのである。この暑さはいつまで続くのか。ただセミの声も少なくなっている。だから虫とか蝉はやはり秋をよ感じているのかもしれない。 屋形というときそこに生まれて今も同じ街に住んでいる女性を知っている。

暑いので自転車だと陽射しをまともに受けると熱中症にもなる。
だから今年は本当に原町でも相馬市にも行っていないのである。それだけ今年は暑かった。そしてまだ暑さは続いている。

ただ最近周りを歩くと本当に家は壊されたり空家が多い。遊ぶ子供の声も聞こえず跡継ぐ人もいなくなっている。それはどこでも同じである。八沢小学校廃校になった。そこに体育館もあり運動場もある。そこを何に使うのかとなる。廃校はすでに全国に増えて問題になっている。ただ矢沢小学校は廃校になってもすぐ近くに小学校があるから大して困らないのである。

近くの知っている人の家は灯が灯っていなかった。その人は糖尿病で病院に入ったり出たりしているからまた入院したのかと思う。何か老人は病気の話でありそれで盛り上がる。とにかくこうして老人と病気の人が増えてくるだけなのである。それと空き家も増えてくるだけなのである。それが日本の今の現状なのである

生け花というとき何かやはり工夫が必要である。それで竹一本を切ってきて花瓶に挿した。そして白菊挿した。それは秋にふさわしい。今家を守っているのは自分一人だけである。




日本語の謎ーわかる分け合う分かち合うの意味 (日本に小国の地名が多いのはなぜか)


日本語の謎ーわかる分け合う分かち合うの意味

(日本に小国の地名が多いのはなぜか)

●日本語はなぜ孤立語なのか

日本人の起源をいろいろ言われるが一番の謎は日本語なのである。日本語はどこの言葉とも共通性がない孤立語なのである。だからそもそも日本語というのは縄文時代からのものもあり古い起源のものでありそれがどこの国とも共通性がないということは日本語こそが日本人の独自性を語るものともなる。
なぜなら言語からその人種の国の起源を明らかにすれば印欧語とかはアーリア人の言葉であり共通しているからである。英語は明らかにドイツ語を起源にしている。だから習得しやすいのである。でも日本語はアジアでも共通性がないのである。
ただ漢字とかは中国から入って来たものでありその前に日本語があった。文字がなかったとしても日本語があった。つまり文字は文明が起きたところに必ずある。文で明らかにするということでそれが文明にもなっているからである。だから文字がないところは文明なのかとなる。ただマヤとか文明には文字はなかったが文字に類するものはあった。だからそこも文明があったとなる。

いずれにしろ日本は日本の文明は歴史は海に囲まれて大陸から切り離されて独自の世界を作ったということである。でもイギリスも島国であるがドーバー海峡は比較的大陸に近い。泳いで渡ったりした人もいた。今になると海底トンネルもできている。だからヨーロッパ大陸と海で隔てられても一つのように繋がっている。そしてヨーロッパの王様でもイギリスの王女と結婚したりしている。日本の天皇は韓半島であれ中国であれそこから女性を結婚させるということがなかった。

●韓国語と共通性がない日本語

そして言葉にしても韓半島の言葉との共通性がない。確かにオモニとなると母だから韓国と共通性がある。でもそれはほんの一部であり発音でもなんでも違っているのでは。だから韓国と共通性が言葉の面でもないのである。だから一体日本語というのはどこを起源しているのかわからない。それはその言葉が古く海に閉ざされた中で独自に発展したのかとなる。でもその手がかりとして日本語の意味を解読することになる。

ちはやふる神のみ坂に幣奉り斎ふ命はオモチチがため

このオモが韓国語のオモニと共通性がある。ただ韓半島でも南と北では相当に違っている。日本に影響したのは伽耶国があった南である。
オモから主なものとか面になり重いとなり共通性がある

●分ける分かち合うわかるの語源

例えば分けるということがある。分かつとなり分かち合うとなる。わかるということは分かち合うことでありそれで互いの人が理解し合い結びあうということにもなる。恵みというのもめぐるであり恵みはめぐるのである。
例えばインドネシアの方で鯨を捕る海の民がいてその鯨を山の民に持って行ってわかちあいお互いに結びあうということがあった。それがもともと商業の始まりであり山の幸と海の幸を互いに分かち合うということで一体化したのである。
それが儀礼となり祭りともなったのである。だから商売とは先に人間が友好を示す贈り物から始まったという説がある。
今のように利益だけを求めることではなかった
言葉はそもそも孤立してありいない、人間が共同するために生まれた。英語でも前に接頭語にcoとつけば共同することだからである。

そもそも縄文時代とかは狩猟採集であり生活している範囲が狭いから互いに獲ったものでも分かち合うことでわかり合うことだった。それは稲作社会でも弥生時代になっても生活する範囲が狭いので共に働き分かちあい暮らすほかないからそこに村の共同性が生まれたのである。
このように一つの言葉をとってその意味を読み解くとやはりそこに当時の暮らしがあってその言葉が生まれている。言葉もやはりその暮らした環境とかその風土とかと切り離してはありえない。だからその取れたものでも獲物でもともに分け合いわかちあい分かり合うということが生まれたのである。
逆に世界が拡大して行くと確かに外国から地球の裏側からも物が入ってくる。それは悪いこととは言えない。でもそこに共同性が生まれるからとなると生まれない。何か分かち合うという感覚もないからである。金があってただ買うという感覚しかない。そこで協同性は生まれにくく何か関係が悪くなると争いになり戦争になるのである。

さあ獲物がとれた
鹿が猪が取れた
魚がとれた
みんなで分かち合い食べよう
平等に分かち合い食べよう
ここに平和がある
人々は分かちあい分かりあう
そこがそれぞれの国となる

●小国という地名が多いのはなぜか

oguniss.jpg

aomorioguni.jpg

なぜ日本に小国という地名が多いのか。それはやはりせまい地域で自給自足してわかちあい分け合い割合生きて生活していたかもだからだろう。

隠口の長谷小国に夜延ひせす吾が天皇よ・・・

この万葉集の歌でも隠口(こもりく)というとき入野でもそうだが山間の分け入る奥に長谷がありそこに小国がある。

とにかくなぜ日本に小国という言葉地名が多いのだろうか。それはやはり狭い地域が一つの国と待っていたからだろう。そのせまい地域で他とあまり交流がなく地球自足的生活をしていたからだろう。この辺でも霊山を越えたところに福島市の方に行くところに小国がとありそこのバス停で降りたことがあった。

バス降りて小国やあわれすみれかな

こんな風にもなる。やはり旅する時でもその地理でも地名というものからイメージするとわかりやすくなるのである。

雪閉ざすトンネルぬけて小国かな

青森県の黒石市から温川温泉(ぬるかわ)の宿に泊まった。トンネルをぬけて小国があった。それは相当に山の奥である。まさにこうして雪に閉ざされたところにも小国がある。隔絶した地域にも小国がある。
そこにどういう暮らしがあったのかやはり交通がなければ狭い地域で閉ざされて自給自足するほかなかったのである。

●グローバル経済では分かち合う分かり合う世界にならない

ただグローバル世界になるととてもそんな感覚は消失した。分かち合うというより奪いあうとなるそれは力づくでも奪い合う戦争となったのである。
なぜなら大航海時代というのがありそれで世界にヨーロッパが進出した時それは奪うということである支配するということでもある。世界中は植民地化されアフリカでは奴隷として売られたからである。
だからグローバル化というのは戦争の時代でもあった。それは基本的に他国を支配し奪うということがあったからである。確かに貿易はないものを補う会うということが基本にある。

でもその反面どうしても奪うということがあり支配するものと支配される。だから縄文時代が理想化すればそうゆう奪い合いというのが少ないから平和であったと理想化されるのである。そもそも縄文時代が1万年も続いたというのはやはり狭い世界でも争いがなかったからだともなる。その平和な時代に育まれたのが日本語かもしれない。だから日本語の意味を解読して行くとそこにその生活が反映されているから分け合うとか分かち合うとか分かり合うとかど言葉がそういう生活から生まれたということにもなる。

●印欧語にはもともと秋がなかった

ただ別に日本語だけでなく外国語でもやはり言葉の基になる生活があり例えばドイツ語に秋という言葉がないのは狩猟民族だからとしている。農耕民族だったら秋は収穫の季節であり秋がないということはありえないからである。狩猟民族だったら別にそういうのは関係ないのかもしれない。ただ主語が先にあり次に動詞があるのはやはり狩猟民族系統でありその生活が反映されてそういう文法になったともなる。
なぜなら常に主語があり動詞があるということは獲物を捕らえることが生活の基本としてあったからである。I catch a deerとなればそうである。どちらかというと言葉は狩猟民族由来のが多いことはは確かである。ただ日本は狩猟民族系統の言葉でもない。だから日本語自体がその起源が分かりにくいのである

1. Farmers usually harvest wheat in the summer.(農家は通常、夏に小麦を収穫する。)

(冬と春と夏は理解されていて、彼らはそれらの名称を持っている。秋の名称は、その実りと同様知られていない。)

ゲルマン語の四季の名称(文:下嵜正利)

harvestとはもともと収穫するであり秋という意味はなかった。なぜなら夏に小麦を収穫するとなれば秋ではないからである。ただドイツでは秋が短くすぐ冬に入るからだともしている。でもドイツに秋に行ったらやはり秋があり晩秋だった。そのとき赤いバラが散っていてなんとも言えない赤味を帯びていて心に沁みた

ドイツなれ色合い深く秋薔薇

別にドイツにも秋はありでもすぐに冬になる秋だとなる。国によって季節は違っている。最近日本でも暑くて秋がなくなったとかなるからである。





2023年09月08日

利から離れた場が教育には必要 (宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)


利から離れた場が教育には必要

(宗教も学問も学校も利と結びつき堕落した)

youthfurture.jpg

青年の特権

青年は利を語るなかれ
これをやれば儲かる金になる得する
青年は利得を語るなかれ
青年は純粋たるべし
世俗の欲にまみれざるべし
青年は大いなる未来を語るべし
それは成らずとも語るべし
青臭くとも大言壮語でもよし
喧々諤々議論するもよし
とにかく利欲より離れてあるべし
純粋にその理想を語り目指すべし
それは別に成らずともよし
それが青年の特権なり
大げさなことと批判されても良し
確かに現実がすぐに突きつけられる
でも青年は未来を語るべし
なぜなら未来は青年によって作られるから
老人はただ過去を回想するだけになる
青年には大いなる未来がある
未来を創るのは青年であり老人ではない
だから青年の特権は未来を語ることにある
それが大げさでも非現実的でもいい
とにかく青年は未来を語り利得を求めない
ともかく青年は大望を抱くべし
それがならずとも抱くべし
それは青年の特権なり
いずれはその大望も挫折するとしても
青年は大いなる大望を抱き未来を語るべし
利得を離れてただ純粋に大いなる未来を目指すべし
それが青年の特権であり
神は青年に永遠の命の霊を与える
その時青年は神を知り神の子となる
その先の人生も挫けることはない
神は汝を導き天の国に引き上げる
神の懐は深く大きい過ちも赦す
紆余曲折があっても神は汝を神の国に導く
神に敗北はなく勝利のみがある
汝を再び神の天地創造の技を見る
全能の神の技は尽きることはない
その大自然が神殿でありさらに天にに真の神殿がある
そこに聖徒たちが集い天使が神を賛美する
さらに神は驚くべき技を行うだろう
新しい天と地を見る
人はかくて神を讃え神と共にあり永遠の都に住む
朽ちざる都がありその成すことは虚しくはならない
そこに誠の実りがありその実りを刈り取る
そして神にその実りはは奉げられる
神と結ばれて栄があり神を離れて栄はない
永遠に讃えられべきは一なる神なり
その光は闇を払い消えることはない
永遠の光明のなかにあり悪は見ない
神を見たものはその神々しさに倒れる
全知全能の神を畏るべし



●明治から立身出世も学問となった

教育でもなぜ歪められたのか。それはすでに明治時代から始まっていたのである福沢諭吉が学問のすすめを書いたけどもそれは学問でもって立身出世をする。それが学問の目的と化した。
そこからして学問というのが利益と結びつき一体化した。
学問とは立身出世のためであり何か真理とかを追求するとかではない。社会に出て立身出世するための学問である。
つまり学問と勉強とは社会で得する有利な地位に就く。そのための学問であり勉強である。だから慶応大学とかは学閥が強力であり社会を牛耳っている。それは利権団体として強固なのでそれで慶応大学に入ると就職するにも社会に出ても学閥が強力であり得するとなる。
こうしてその出発点からして歪められていたのである。ただ戦前の大学は全く今の大学とは違って本当に選ばれたエリートでありそれでそこに自由があり青春が謳歌できたのである。だから利だけではないデカンショデカンショとか世の中に出ても役に立たない哲学でも追求していたのである。つまり社会の利から離れた場として大学がありそこでエリートとして育てられていたのである

でも戦後は大学はそういうエリートではない。大衆化したとしたものとなっていた。講義をするにしても千人も入る講堂でするとか高校とはあまりにも違っていたので特に文系は暇つぶしの場であり遊びの場になっていたのである。
だからゼミに入っても教授とあったのは一二回しかなかったのである。教授とかでも何か教えないのである。だから大学というのは何だったのかと何かを教えられる場として入ってきたのだが教えることもないしただそこに自由な時間が与えられていただけなのである。
でももともと何かを追求するために大学に入ってはいない。大学に入れば何か得する社会に出ていいポジションを得る地位を得る。ただそういう利得を得るものとして大学にも入り受験戦争もあり本来の学問の目的など関係なくりの教育であり純粋に何か興味を持って追求するということもなかったであろう。
学生運動というのも戦前の特別なエリートは違った大学になった時起きた。大学は大衆化して起きた現象だったのである。つまり戦後はあらゆるものは大衆化してゆく。そこに今までの選ばれたエリートとか特権階級というものはなくなったからである。だから戦前の大学と戦後の大学はまるで変わったものとなったのである。

●戦後の民主主義は利を求めるだけ

そして戦後は民主主義となりその民主主義でもただ権利を主張して利を得ることが目的化したのである。そこに責任は無い。ただ利を追求することでありそのために教育もあり学校もあり大学もあるとなった。
とにかく人間というのは利と結びつくと歪められ金と結びつくと歪められる。でも子供の時は純粋に遊ぶということが仕事にもなる。それは利と結びつかないのである。だから遊ぶということはもともとは神聖なことであり神は遊ばされるとなる。つまり神は利から離れて遊ばせられる聖なる存在なのである。

神社でもそこは賽銭箱があって利を得る場所になった。そもそも宗教はこの世の利から離れる場所としてあった。でもこの世にある限りそれも不可能であり利と結びつきついにはただ御利益を追求するような場となったのである。
カルト宗教団体となるとむしろ信者を集めて組織団体化して利権団体となり政治団体となり権力を得るためのものとなり完全に利益を追求する団体となったのである。カルト宗教団体は共通しているのはその内部でも出世争いがあり権力争いがありしのぎを削っている。そこは世俗的な場よりさらに世俗的な場所になってしまったのである。ただ共通しているのは利求めることなのである。

大衆化した宗教であり大衆化するということは利益を第一にすることである。利益というのは誰でもすぐに理解する。発達障害の人が簡単な計算すらできないのに利に聡いのである。それは日々の生活の中でいかに金が大事なものか身をもって知っているから金のことを第一にして理解しているのである。
つまり面倒な理屈などなくても知らなくてもいい。どんな人で学がなくてもこの利益だけは理解する。得することは何かを理解する。だから今の宗教はすべて御利益宗教なので利益になる得すると吹き込む金になるとそういうことばかり指導しているのである。だからこそあれだけ人数が増えてくるのである。難しい理論は一切必要ない。ただ利を説くだけなのである。

●教育する場の喪失

要するに大衆化した社会ではもう教育する場というのはなくなった確かに学校はある。それも必ず利益と結びつき利益を得るための学問であり勉強なのである。学校では常に試験がある。その点数を上げるための勉強なのだがそれもただ利になるからそうしているのである。それから逃れられないのはその学生が悪いというのではなく第一親がそう強いてるからである。親もまた常に利を求めているから得したいから子供をそうした得する場に楽に稼げる場に地位を得ること望むからである。だからいくら利から離れた教育をしようとしてもできないのである。

ただ教育というときそうした一部のエリートがしているものではなかった。教育というのはそもそも実用的なものであり何か高等な哲学などは普通の人にとって関係ないものだったのである。職人だったらその技を身に付けるものでありそれはあくまでも社会に出て稼げる力をつけるためにそうしていたのである。だから私の父親は明治生まれであり酒屋で丁稚奉公していた。
それで私も家で店を始めたとき絶えず配達とかさせられていたのである。つまり父親は私を丁稚として見ていたのである。そしてそろばんを習っていたのもそのためである。それは丁稚には必ずそろばんが必要だったからである。でもそういう経験をしているから上の学校に上げたら楽だとして上の学校に上げてくれと言って中学のとき死んだのでは。だから教育ということ自体何か利益を得る社会でも有利な立場に立つそういう観点からしか観ていない。親も子供にそうした立場に立つことを望んでいるからである。

結局なぜ人間は教育でもなんでもゆがめられるのか。それは常に利がが優先され本来の目的がそれによってゆがめられるのである。子供の時に純粋に遊ぶという時そこにには関わっていない。でも大人になればそうして純粋に遊ぶということもない。遊ぶこと自体にも利が関わってくる。そこで本来の目的とは違ったものとなり弱められるのである。

カルト教団などは創価でもひたすら御利益であり後は社会的地位を上げることであり得することであり利益を得ることでありただそのために毎日祈っている。ほかの宗教でもやはり利と結びつき本来の宗教性は何もないのである。そこで語られるのはただ得することであり御利益を求めることだけなのである。だからそこで何か利を離れて未来を語ることなど何もないのである。

●子供と青年の特権は利を離れて未来を望むこと

子供の特権は青春の特権は利から離れて遊ぶことにあり青春の特権は利から離れて未来を語ることである。その未来を語るのは青年の特権なのである。もしかしたら荒唐無稽なことでもいいとても実現しない未来でもいいそのことを語ることが青年の特権なのである。
何か青臭くても良いし大言壮語でもいい。とても実現しない未来を語ってもそれが青春の青年の特権だとなる。そういう場があってもいいのだが今は必ず利と結びつきそういう場が失われたのである。なぜ青春は大事な時かというとそこが人生の出発点となり後々まで影響するからである。その出発点が間違うと人生そのものは間違ったものともなり得る。ただ青春の時はさまざまなことが一気におしいよせる。その性の欲望であれなんであれ一番膨れ上がりその欲望に圧倒されて肝心なものも見えなくなる。

でもなぜ若き時神を知れということが大事なのかそれは若い時しか聖霊を受けることはできないからである。なにか老人になれば悟りが得られる。れは確かである。理解できなかったこと何か自ずとと不思議に理解できるようになるのである。
でも青春の時最も血気盛んな時その時神を知らなければもはや神を知ることはできなくなる。神を知るということはやはり青年の時しかできない。だから青春時代に何か放蕩三昧にして節制しないと神を求めないとその後は得られなくなるし真善美の世界も見えなくなるのである。だからやはり人生の出発点が後々まで影響するのである。そしてあっという間に青年時代も過ぎてしまい老人になってしまうのである。

もう35になったら人生はあとは余禄だというのも分かる。40歳で白髪が生えてきたりするからである。それだけ人生は過ぎ去るのが早いのである。そして人生は夢のようになって終わる。「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」人生となってしまう。ただ今人生百年時代だから違っている。それでも人生は短いのである。それで職人であれ普通に働いている庶民であれなんで働いてきたかわからないという人が多いのである。何のために金をためたのかもわからないと言っているのである。別に知識人でなくても普通に現場で働いている人もそうなっているのである。空の空になてしまうのである。だからこそ若き時神を知れいうことが重要な教えとなるのである。出発点を間違うと一生も間違うとなるかっらである。

詭弁学者は自分の知識を営利の目的をもって諸都市を巡回し謝礼を得るためにさまざまな科学や芸術中でも雄弁修辞のの学問を売りさばいていた。彼らの学問の目的は純粋な真理追求ではなく実利を目的としていたそれは宗教にも言える宗教団体の勢力を伸ばそうとして政治的に経済的に実利を目指す芸術の分野でも思想書くというよりは本を書く制作するというよりは絵を描いて実利をものにする方に進む
離脱の思考ー上野霄里

つまり学問でも芸術でも宗教でもすべて利を求めるものとなった。そのことを厳しく批判している。それは批判とより激しい糾弾になっているのは上野氏の特徴である。それは原野に咆哮する野生の動物とも似ている。
とにかく社会は利によって歪められ本来の素心はなくなったのである。素朴なる心を失ってしまったのである。ただどこに行っても複雑に利益がー絡みあって利から離れられないのである。あらゆるものは利益を目的として社会は機能する。それは宗教でも同じである。宗教はすべてご利益宗教になっているのを見ればわかる。だからこそ宗教はカルト宗教になり大衆宗教になり堕落したのである。でも世俗で認めるのは本来の宗教などではないそうして堕落した利権化した利を求める宗教こそ大衆でもわかるからそれは巨大化してナチスのようにもなる。

つまり大衆がそうしたカルト宗教を作り出し利権化してただただ利益を得るためのものとなってしまったのである。だからそこに本来の宗教を目指すものは何もない。ただ利益を得ることであり権力や地位をあくことなく求めているのである。そして政治化した利権団体となれば批判もできなくなるのである。
現代は個人など認めない。それは拒否するべきものでありそもそもこの世に存在させられないのである。この世で大きな声になるのは必ず背後に利権団体があり宗教でも必ず組織団体がありその団体よ社会は認めたとえそうかのように完全な政教一致でも数が多ければ世間はそれに従う。なぜなら選挙はすべて数で決まるからである。そこに法律も何もないのである。そこから全体主義ファシズムとなったのはナチスだったのである。

●老人でも最後は神の国に向かって前進する

いずれにしろ人間の一生は不連続なものではなく連続している。だからすでに老人になったとしても老人の中に青春があり青年がある。それで青春でも老人の中によみがえる。青春の冒険精神お忘れるなという時人間の一生は連続しているからである。
ただどうしても若いときは無謀であり欲望が溢れて何か理解することにかけている。理解する悟るというのは老人になってからで。ただ私の場合は遅すぎたということである。 70以上になってからようやく理解するようになっているからである。すでに天才ならば若い時に芸術でも何でも理解しているからである。

自分の耳に目に芸術的なものまた美術的なものを触れ示いまだ多くの人が思いもかけない未発なもの蓄える力を養うということが大事です
老いゆけよ、我と共に  手島郁朗

そうして日々蓄えたものが老年になって実りとなる。とにかく人生は連続していてその出発点が青年でありだからこそ若き日に神を知れとなることが大事なのである。出発点を間違うと一生間違った方向に行ってしまうからである。
そういう人たちは集団組織の中に取り込まれて自らの個を失い硫一生ただ集団組織のために生きるロボットとなるのである。そして教祖を偶像化して教祖のコピー人間となり終わる。
ただそういう集団組織の中で利を追求するから利益にはなる。

でも最後にわ普通の人でもただがむしゃらに利益のために働き金を残しても何のために残したのかもわからないと言っている。それは別に集団組織のために尽くした人だけではない。それは最初の出発点が間違っていたからそうなったともなる。ただ利益しか求めていない。そして他者より優れているものとして這い上がろうとして必死になる。集団組織の中でも地位を求め激しく争うのそれはオウムでもそうだった。そこには理系の優秀な人たちがいてその人たちに負けたくないとして高卒の人がサリンを撒いたと言っていた。その内部でも熾烈な競争があり地位を得るために争っているのである。

とにかく人生は連続したものであり若き日のことは老人になっても連続している。別なものではないのである。人生はやはり日々生きたものはその人のものとなる。日日蓄えたものはやがて老年になって実りとなる。ただそれは天才の場合は別なので天才は別であり努力しなくても会得するものはあるからである。
私が参考にしたものは内村鑑三でありキリストの幕屋の手島郁郎であり直接学んだ上野 霄里氏となる。ただ上野 霄里氏は信仰者とは違う。天才思想家行動者哲学者でありキリストの信仰者ではないのである。だからそれのその思想を理解できるのはやはり天才だとなる。でも普通の人は天才でないのだから偶像崇拝化する危険がある。
そもそも師というのは問題がある。なぜならどうしても天才だともともと優れているものを持っていて努力しなくても備わっているからである。だからそれを真似ることは出来ないのである。でも普通の人でも神から聖霊を受けてそれによって神を知り神の国に入ることができる。主と共にそのその生は終わらないのである。その生はさらに天の国に向かって神の国に向かって進んでいるのである。だから真の成果は神の国にありこの世では成就しないのである。

離脱の思考 ー原生人間復権のための試論ー (現代神話シリーズ第4輯) 単行本(ソフトカバー) 上野霄里 (著),

老いゆけよ,我と共に: 手島郁郎英詩講話R.ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」に寄せて 文庫 – 手島 郁郎 (著)
posted by 天華 at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

2023年09月07日

coffee shops in the forest by image creator  Bing Image Creatorの著作権


coffee shops in the forest by image creator 

Bing Image Creatorの著作権
Bing Image Creator Copyright


cofee forest.jpg

cofee forest2.jpg

cofee forest3.jpg

cofeeforest3.jpg

forest cofee 5.jpg



Bing Image Creatorの著作権

著作権について、Bing Image Creator利用規約によれば、Microsoftは、ユーザーが提供、投稿、入力、送信したコンテンツの所有権を主張しません。しかし、Bing Image Creatorを使用してコンテンツを生成することにより、ユーザーはMicrosoftに対して、その事業の運営に関連して、生成されたコンテンツを使用する許可を与えることになります。

商業利用を明示的に許可する文言は見受けられません。Microsoftに問い合わせるか、他の商業利用可能なジェネレーティブAIを活用した方が良いでしょう。

商業利用はできないのか? 何か著作権は商業利用する時問題になる。
何かこれは創作物とはならないように思える、なぜならただ言葉を入れて創作するのであり実際に創作しているのはコンピューターでプログラムを開発した人たちであり会社である。
私自身でもこれを使って絵を作り出してもそこに私自身が創作したという感覚がないからである。第一簡単な短文を書くことなど誰にでもできるからアである。
だから不思議であり一体創作しているのは誰なのかとなってしまうのである。

これまでの私の抽象画は誰かの作品を変化させて作っていた、それでも原画とかけ離れて見分けがつかなくなる。それも創作なのかとなる。でも原画から変化させたことがわかるとやはり著作権が問題になる。ただ私の場合商業利用はしていない、
一切プログを書いても金はもらっていないからである。広告もないからである。
いずれにしとchat gptでも著作権などどうなるのかわからなくなる。
創作しているのが誰なのかわからなくなる。人間なのかロッボトなのかわからなくなる。だからコンピューターは人間の頭脳と深く関係している。それが今までの道具と違ているのである。

Bing Image Creator Copyright

With respect to copyright, under the Bing Image Creator Terms of Service, Microsoft does not claim ownership of any content that you provide, post, input or submit. However, by using Bing Image Creator to generate content, you grant Microsoft permission to use the generated content in connection with the operation of its business.

We do not see any language that explicitly permits commercial use; you would be better off contacting Microsoft or using other commercially available generative AI.

Can't I use it commercially? Copyright is an issue when you use something commercially.
It seems to me that it is not a creative work because it is only the creation of the words, and the real creator is the person or company that developed the computer program.
Even if I create a picture myself using this program, I do not feel that I created it myself. First of all, anyone can write a simple short sentence.
Therefore, it is a mystery to me, and I wonder who is the creator of the work.

My abstract paintings were created by changing someone else's work, but still they are so far from the original that they are indistinguishable from the original. I wonder if it is also a creation. However, if it is known that the work has been altered from the original, then copyright becomes an issue. In my case, however, I am not using them for commercial purposes,
I do not get paid for writing a blog. I don't even have ads.
In any case, I don't know what happens with copyrights in chat gpt.
I don't know who the author is. We will no longer know if it is a human or a robot. That is why computers are deeply related to the human brain. This is what makes them different from conventional tools.

2023年09月06日

失われたファミリー大家族 2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化


失われたファミリー大家族

2025年:単身世帯が1996万世帯 加速する「ソロ社会」化

非人口要因のひとつとして考えられるのは、老親とその子どもとの同居率の低下である。すでにこの傾向は進んでおり、妻と死別した80歳以上の男性とその子どもとの同居率は、1995年の67%が2015年には43%まで低下した


●ファミリーは大きな範囲の人の結合体

現代の社会状況を見ると例えばニートとかことおじとか40くらいでも働かない人が普通に居る。確かにそういう人はいた。でもごく少数でありそれは特殊な人として別に社会の話題になるということもなかった。でもその数が百万とかなればそれは特殊な人の問題として片付けられない。それはさまざまな社会問題を引き起こす。
また単身所帯が増えるというのもそうである。ただ明治以降に家族という言葉が生まれた。また家族の墓が生まれた。それは江戸時代にはなかったのである。何かこれが理解しにくいのである。

江戸時代の墓はホトケッポとか村のの人たちが一か所に葬られた。そこは村の共同墓地であり個々のの家族の墓というのはなかったのである。だから家族という言葉は明治以降生まれた言葉でありその前に家族というのはなかった。家族でも家族が無いにしろそれより大きな家族のようなものが大家族はありたとえ結婚しなくてもそういう大家族の中に所属して共に生活していたのかもしれない。一族郎党とかにもなる。
外国でもファミリートはその範囲が広いからやはり日本と同じように大きな範囲がファミリーなのである。ファミリーというとき親しいという意味があり日々生活する中で顔を合わせて生活する人たちがファミリーだったかもしれない。サクラダファミリーという時やはり教会を中心にしてファミリーが形成されだということでもある。その中心に教会があったとなる。

家族の変化で変化となるとそうした大家族よりもまた大きいファミリーというのは喪失して個々のの家族になった。だから家族の単位は狭い範囲になった。でもやはり今の核家族化したものよりは大きなものだったのである。だから農家は大家族で経営していて東京に働きに出て帰ってきてもそこに長男がいて家を継いでいるから養うということもできた。何か大家族ファミリーにはそうしてを広い範囲の人たちを糾合するものを持っていた。
核家族になると家族よりさらに狭い範囲のものとなりそれは家族としてすら維持できないものとなったのである。だから何かあると介護でも病気でも核家族だけではとても維持できなくなる。今人々が拠り所となるものを失い単身化して孤立化して孤独死に至るということが増える。

●所帯人数が少ないので介護とかで担いない

今所帯というのは構成人数が少ない。本当に一人だけの人とか夫婦とか子供がいても一緒に子供所帯と住む親は少ない。結果的に夫婦の所帯とか単身所帯が増えたのである。夫婦の所帯でも一人がどちらかが死ねば一人になってしまうのである。それよりもまた熟年離婚も増えていて一人暮らしの人は増えたのである。
その人はこの辺の原発事故とか特殊な事情で一人になってしまった。原発避難区域に住んでいて息子夫婦は仙台に住むようになったからである。そしてまた65歳なのか離婚熟年離婚して一人になってしまったのである。その事情は原発事故だけではない。そもそも熟年離婚もどこでも増えているからである。

そして一緒に墓に入りたくないという人も死後離婚も増えている。そういう社会的事情があり単身所帯が増えたのである。それは若い人でも結婚しない人が多いから単身所帯が増えたのである。ある意味でソロ社会になっているというのも分かる。ただ熟年離婚は男の方が衝撃がある。特に妻に支えられてきた人は熟年離婚すると精神的にもショックが大きい。でもそういう人も増えているのである。その人でも男性でも家族に尽くしてきたのだがいろいろな事情もあり本人の性格とか色々あって離婚になった。それで孤立化して不安定になり困っている。そういう人も増えたのである。
やはり人間は拠り所となるものは必要でありそれがないと不安定になるのである。ただ別に単身所帯でも特殊な人がいてそういう人はそういう人生を選びそれでその人生を全うしていた。それはアウトサイダーとか極めて特殊な人だったのである。現在の問題はそういう特殊な人ではなくどこにでもいる一般化した問題なのである。だから社会問題になるのである。

現代というのは村のような狭いところでより合い助け合い生活しているのではない。別に金さえあれば身近でもよりあい助け合うということをしなくてもなんでも物は買えるし何か近くの人と協力して生活するということもないのである。だから近くでも何をしている人なのかもその仕事も分からない人も結構いるのである。
それだけ人間は今互いに知り合うと言うこともないのである。だからこそ逆に家族が拠り所となる。夫婦でも拠り所となる。でもその範囲が狭いし家族といっても少人数であり夫婦だけとかになってしまうのである。そうなると何かある時支えられなくなるのである。ヨーロッパあたりでは介護とかは国ですることになる。そのために多くの税金を払っているからである。

日本にはそれがないから家族に負担がかかるがその家族が少ないから介護とかなると苦しくなる。ともかく70くらいになる職人の人でも家族に尽くしてきても単身所帯となって不安定となってしまったのである。何か息子娘もいても近くに居ないので頼りにならないと言っていた。なにか老人になると体も弱るので近くは見る人はいるといいのである。でも近くに住んでいないと隣の市まで15キロもあるから車で来るのも結構手間になる。それで病気になった人は一人で住んでいるが苦しいとな。いずれはとても一人では生活できなくなる。

いずれにしろ何か家族というのは夫婦とか子供とは別になり一人が倒れるとその負担が大きくなるし家族でも崩壊するのである。
それは介護で一人で悪戦苦闘して家族自体が崩壊したことを自分自身が経験している。そして私自身も単身所帯になったということである。でもそれは私の場合は特殊であったがほかの人は別に結婚して子供を持って仕事して家族に尽くしてきたという人が普通である。それでもやはり単身所帯化しているのである。それはその人自身にも問題があるにしてもやはり社会的な問題として現象化したのであり社会の問題なのである。
なぜならやはりファミリーというとき今の家族をイメージするがもともとはそういうものではなかった。その数でも今よりずっと多い人の集まりがファミリーだったのである。

それが喪失した時拠り所を失い不安定となり孤立化してまた孤独死が増えたのである。何か巨視的に見るとき社会自体が個々バラバラのアトム化社会だとかも言われる。それは経済が広域化グローバル化したということも関係している。金さえあれば別に物は買えるし一人でも生活できるからである。
おそらく江戸時代あたりだったらとてもその後でもファミリーに属していなければ生活できなかったろう。もうそこに縛られるにしてもやはり拠り所となる所がありそこでともに生活して仲間として死んでいったともなる。とにかく何らかの共同性があって暮らしていたなる。共同しなければ基本的に農民社会であれば生きていけなかったからである。
それでなぜ現代でカルト教団が増えたのか?それも大きな家族であるファミリーを喪失した。結果として疑似ファミリーに吸収され所属することで安定化を図る。ただそれはナチス的な組織になるから怖いものがあり危険なものなのである。

●人間社会は得るものがあれば必ず失うものがある

何か無縁化社会とか言われる時それは金だけが支えるものとなり金さえあれば別に孤立してても一応生活はできる。でも問題はなにか事故であり病気であり介護とかなると一人でわ支えることができなくなるから問題なのである。もちろん夫婦がいれば一人が支えることができるがそれでも負担が大きいのである。
そして介護でも家族だけが任されることが負担が大きすぎるのである。だから人間社会の不思議は江戸時代など貧乏であり食うことすらまともにできないし飢饉もあったとか現在ど比べれば地獄だとも言われる。それも事実であり現実であった。
では今の社会がまた江戸時代とか戦前とかと比べていいものなのかとなればそうともならない。それが人間社会の不思議なところである。というのは昔の江戸時代の医者などはそもそもが病気を直すということができないのでそれでもともと治せないということがわかっていて医者を責めたりしないのである。そして医は仁術とかなっていたのであるつまり今風に言えば愛を持って患者に接する同情する。でもとても現実に直す術はなかったのである。

逆に現代では病気は直されるべきものであり治せない医者は責められる。
でも医者は患者に同情を持って接するということも無くただ医は算術となったのである。まず金の計算をするからである。だから人間の社会というのは確かに医学でも進歩してそれは悪いものではない。治らない病気が治るのだからそれは江戸時代などよりずっといいものなのである。
でも何かを得ることが何かを失うということが人間にはある。そのことは人間である限り人間社会であるために変わらないとなる。何かを得ることはとにかく何かを失うことなのである。だから今いろいろ文句をいう不満をいうが過去に比べれば今の社会はいいものだとなってしまうのである。
何か家族というのでも江戸時代から考えるとそもそもは家族という言葉自体明治になって生まれた言葉のようにそれは江戸時代の大きな家族とは違ったものである。小さい単位のの少人数のことであり江戸時代にはなかった言葉なのである。だから言葉というのはそういう社会背景があって理解できるのである

とにかく人間社会は確かにいろいろと科学でも技術でも進歩する。でも必ずそこに失うものがある。家族でもやはりさまざまに変化して作られてきた。何か家族というとき人間社会から始まる出た時からあったように見られる。でもそれは狭い範囲の今の家族からイメージしているから過去の昔の家族のことが理解できなくなったのである。いずれにしろ単身所帯が増えるというときそれはやはり社会が変化してそうなった。だから個々の家族の問題ではなく社会自体の問題であり簡単に解決はできないともなる。
だからとにかく人間社会というのはいくら進歩しても何か必ず問題が起きてきて理想社会など作れないのである。そこに人間の限界があ。それを解決することが人間の力ではやはりできないとなるからである。何か一つ問題を解決してもま新たに一つ問題が生まれるのである。つまり一つの地獄が消える、で。新たな地獄が生まれる、親鸞の言うように(地獄は一定の住みかなり)なのである。時代が変わっても地獄社会なのである。


家族とは明治以降に作られた言葉
(江戸時代の家は一族郎党の広い範囲の共同体ーファミリーの語源)

2023年09月05日

なぜ日本は貧困になり衰退したのか? 盛者必衰が歴史の法則ー新しい歌が起こると復興にもなる


なぜ日本は貧困になり衰退したのか?

盛者必衰が歴史の法則ー新しい歌が起こると復興にもなる


kajijphis1.jpg
加治将一

jphismeiji.jpg

●明治維新はなぜ讃えられるのか?

なぜ歴史というとき人によって見方が違ってくる。歴史をどう解釈するかとなるとそこにさまざまな事実があり様々な人間が関わっていた。でも今になればそうゆうことを人たちを簡単には理解できない。直接会ったわけでもないし何がその人のその人物を見るのかわからなくなる。だから司馬遼太郎の小説に現実のように思えるのである。何か歴史を調べるとき実際は資料でも無味乾燥なのである。でもそこに事実があり真実がある。何か歴史はドラマのように劇的でもない。でもドラマだと劇的に誇張して事実でなくてもそれがあたかも事実のように見てしまうのである。

小説は確かに事実をもとにして書いていることもあるが想像でも書いている。それが見分けがつかなくなる。ただ歴史的真実の考察をすると面倒になる。普通の人は歴史でも何か劇的で刺激的で面白ければ良いとなる。そこで真実や事実は歪められてドラマが小説が真実だとして通るのである。
要するに一般の人にとってそれが真実かどうかなどそれほど重要ではない。何か劇的で刺激的で面白ければいいとなるから小説家はそのためにそれにふさわしいものを提供する。

ではなぜ明治時代時代が特別美化されたのだろうか。日本人だけが植民地化されなかったとか特別明治時代は美化されているのである。実はイギリスであれ外国人が深くかかわって明治維新がなったというのも見逃されていたとなる。つまり明治維新は日本人の力だけで成し遂げたものとなりそれが誇大な誇りとなり日本は凄いとなった。

ただどうしても明治維新がなったのか成功したのはやはり侍がいて侍というのはやはり江戸時代にその前からエリートとして貴族のように社会の中で模範となる人として育てられていた。
明治維新というのはそもそもそうした侍たちがいて成し遂げることができた。その侍たちでも上級の侍ではなく貧乏なの下級武士だったのである。それで下級武士から上に上がろうとして幕藩体制を崩す役割を担った。高杉晋作の奇兵隊は庶民でも参加していた。そこで成り上がろうとする人たちだった。そこに上級侍は主役ではなく下級侍が成り上がるための戦いにもなっていたのである。革命というとき何か必ず上を目指す支配階級に成ろうとする。そのために権力争いになる。そこには何か美名の下に革命を志向しても人間の欲望実現のために革命で既得権者を倒すことを目的にもなる。
ただ侍はやはり何か上に立つ者としてのモラルがありその人たちが明治維新を成し遂げてのである。なぜなら明治時代にあらゆるところで指導者となっていたからである。大学などでもその創始者は侍の出身が多い。侍は読み書きも当然できたし教養もあった。だから明治時代に一番漢詩が興隆したというのも江戸時代にすでに培われていたものが花開いたとなる

●明治時代の指導者は侍がなっていた

確かに江戸時代はすべていいものでもないし貧乏でもあった。ただ江戸時代300年に培われたものは明治維新で生きたということもある。その一つの例が武士道とキリスト教を一体化させた内村鑑三などである。ただ内村鑑三にしてもアメリカのクラークに北海道で教えられた結果である。でも元々いくら教えるにしてもそれを吸収できるものがなければそういう優秀な人は育つことはなかった。いくら弟子でもやはりそれなりのものを持っていて情熱を持っていて教えられて身についたとなる。

つまりそれは個々人でなくても江戸時代という300年の歴史が培ったものはやはり日本にはあったから明治維新が成功したともなる。それを全部否定することはできないと思う。ただやはり問題だったのは実際は民主主義を取り入れても議会制を取り入れても天皇一番上のものとして神のごとくして政治でも行った。それは時代錯誤ともなっていたかもしれない。
それで内村鑑三は天皇方を礼拝すること拒否して不敬罪になったということもあった。そして内村鑑三は日露戦争を批判した。その時日本はロシアに勝利したとか驕りともなった。そのロシアに勝利したということはののちの太平洋戦争にも通じていたのである。
つまり日本はすごい日本は優れている。日本は強いとなり強大なアメリカに挑んで戦争をして300人万人も死んだとなったのである。だから確かにそこに日本人のおごりが出てそれが悲惨な結果になったともなる。やはり日本は島国でありアメリカはどういう国だとかどれだけ大きな国なのかもほんの一部の人しか理解していなかったからである。

それは中国の漢の国に夜郎自大国が戦争しても負けないとなって結果的には負けた。その原因が夜郎自大国は銅の武器しか持っていなかった。漢の国は鉄器でありその武器の差が勝敗を決したのである。
アメリカと日本の戦争でもそうである。最後は核兵器によって日本は完全に敗北した。つまり日本はアメリカのことなど分からなかったのである。だからアメリカなど大したことはないとかその見方が誤って最悪の結果になったのである。人間はおごる時時危険なのである。

●高度成長時代で日本は謙虚に学ぶ姿勢を失った

なぜ日本が高度成長時代には世界でもアメリカでも日本に習いとこ言われていたのである。それが一転して失われた30年代わり日本は貧困の国となったのである。そして日本の悪いことばかり言われるようになったのである。日本は中国よりも遅れた国となりさらに東南アジアとも同等になり今や韓国より貧乏だともされるのである。 30年間給料も全く上がっていないからである。
そして貧困にあえいでいるというのも高度成長時代を経験した者にとっては信じられないともなる。確かに日本人は高度成長によって謙虚さを失った。それは日露戦争によってロシアに勝ったとかなって高慢となりそれが太平洋戦争となりアメリカによって打ちのめされたので。だから常に歴史は奢れる者久しからずで盛者必衰の歴史を繰り返している。

それは別に日本だけではないどこの国でも盛者必衰の歴史を繰り返している。だからアメリカすら衰退してゆくことは確実なのである。いつまでも栄える国はこの世には無いからである。永遠の都は天にありそこで神が治めてその繁栄は尽きることはない。この世の繁栄は常に変化して強いものでも弱くなり弱い者でも強くなり変化してゆくのである。驕れる者久しからず歴史の法則でもあった。日本もまた同じだったのである。それはほかの国でも同じである。

●日本の地政学ー日本の使命ー東西の融合

現在の世界を作ったのはカトリックではなくプロテスタントであり宗教でもプロテスタントがプロテスタンティズムは世界を作った。プロテスタントから科学も発展したという時もそうである。資本主義もまたプロテスタンティズムからも生まれている。社会共産主義というのは何か平等を目指す時それも資本主義を否定するものとしてあったがやはりその資本主義が何かということを解明したのは。社会主義とは平等をめざすからカトリック的なものかもしれない。つまり欧米でもカトリックとプロテスタントは二分されて別のものとして発展したのである。

一方で日本というのは地政学的に東西の分岐点にあり東西を結ぶものとして日本があった。ただアジアとはと中東もアジアでありイスラエルでもアジアである。だからヨーロッパとは違うのである。それはアジアはオリエントでありすべての起源になった場所である。だから宗教というとき仏教でもキリスト教でもイスラム教でもアジアから起こったものでありヨーロッパから起こったのではない。だからキリスト教でもヨーロッパ化したキリスト教でありそれは本来のキリスト教徒も違うと言う人もいる。

つまりあらゆるものの基は実はアジアにありヨーロッパ的なものは新しく別なものなのである。だから真に宗教を理解するのはアジアでありヨーロッパではない。それでキリストが生まれた時東方の三博士が祝福したというのはそもそもはキリストもアジアから生まれたものだからである。イスラエルもアジアなのである。
だからすべての源はアジアにありアジアに帰るのである。ただ現代のカルト宗教などは宗教ではない。それは現代文明に共通した大衆化した宗教であり俗化した宗教でありただあらゆる欲望を叶える資本主義的宗教ともなっていたのである。それはまた大都会から生まれたということでもそうである。自然とかけ離れた大都会で大衆化したナチス的なものとなってそれは現代文明の病理的現象なのである。

いずれにしろ日本の使命は欧米であれアジアであれ東西の文明を融合させる地理に配置させていたのである。なぜ日本が衰退したのかというときやはり明治維新の成功とか日露戦争の勝利とかまた戦後も高度成長時代がありそのために外国から学ばなくなったとか奢りおごり生まれて失われた30年がありそこから回復していないのである。
それはやはり日本という国が新たな文明を創造するという力もない。そこには創造力が必要になる。それが日本はただ真似ることは上手でも改善することは上手でも創造するということにおいてかけているのである。欧米には創造力があり新たなものを生み出す力がある。日本にはそれが欠けている。そのためにやはり失われた30年があり旧来のままの日本がありit革命に遅れてしまったのである。

だから変わり目の早い日本人がなぜそうなったのか理由がわからないともなるやはり日本が奢りが生まれてそうなった。つまり今日本人が必要としてるのはもはや欧米から真似ることではない新しいものを創造することことである。しかしそれは容易ではない一人の天才が出たからといってできるものでもない。でも日本は再び興隆するには今までにないもの新しいものを生みだし創造することが回復することにつながる。だからただ暗記教育とかものまね教育でわそうした新しいものを作り出すことはできないのである。それはあらゆる面でそうでありそれなくして日本の再生は無いのである

●新しい歌が起こる時新しい時代が開かれる

主をほめたたえよ。主にむかって新しい歌をうたえ

今を生きるための神への「新しい歌」を必要としているのです。なぜなら、「新しく造られる民が主を賛美しますように。」(詩篇102:18)とあるように、生きた賛美は主によって刷新された民によって、新しい心をもって歌われるべきだからです。

今どこに新しい歌が起こっているのか。新しい歌が起きたときはどういう時だったのか。それはホイットマンが生まれた時代にアメリカを歌う新しい歌が起きた。それはアメリカという国が新しく生まれた時でありその時賛美されていたのは貴族ではない。ヨーロッパだと貴族になるのアメリカにはそもそも貴族が居ないからである。だからアメリカというのはアメリカ人はすべての人と対等になる。普通に働く職人であり商人であれ農民であれ船乗りであれカーボイであり別に特別な人たちではなかったのである。

アメリカには天皇や王様はいない。最初代大統領のリンカーンでも丸太小屋から始まったからである。アメリカの一開拓者に過ぎなかったのである。だからアメリカ人はフラットなので何か気さくに対等に付き合えるとなる。
でもアメリカでも人種差別がありそうともならない。私も博物館に入ろうとして日本人だと言ったら何か入れないとか差別があったのである。それは厳しい顔をして拒否されたのである。つまりアメリカの人種差別はそれだけ厳しいということである。それはみんな経験していることである。

だからアメリカ人はみんなフラットに対等に付き合うわけではない。アメリカはまたほんの一部の人はその金を集めて莫大な富を少数者が独占している国である。だから確かに貴族というのはいなかったがその莫大な金を独占している人が支配するとなっている。だから今アメリカは全ての人にフラットに付き合えるとなっていないのである。莫大な富を持っていて豪邸の住んでいる人がいるが路上で車で家もなく生活している人もまた多いのである。
アメリカは様々な人種が混交してまた人種差別がある。
ただ確かにアメリカというのは基本的に貴族がいないからフラットな関係になる。だからホイットマンが生まれたのはアメリカの草創期にそういう感覚を共有していた。そのとき西部開拓がありフロンティアスピリットがありそれが北海道に内村鑑三などがクラークに学んだ時代と一致していたのである。

でも時代はちょっとでもずれるとまたそういうフロンティアスピリットの時代も終わっていたとなる。だから時代というのは常に変化しているのである。高度成長日本でも高度成長時代があってそれが失われた30年となったのでもわかる。今やや高度成長時代というのはなんだったのか。そんなに早く時代というのは変化するのである。そのとき盛んに世界は日本に習うべきだと言われていたのである、ジャパンアズナンバーワンとしてその成長ぶりに驚いていたのである。

すべては衣のように朽ち果てます。
着る物のようにあなたが取り替えられると
すべては替えられてしまいます
詩編 102

1【祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。】

このように時代が変わるのが早いのである。高度成長時代から失われた30年がありふりかえると30年ともなれば一時代にもなっていたのである。

とにかく新しい歌が生まれるとき新しい時代が始まることはある。その歌というとき詩だけでない、音楽でもあり絵画でもありり文学でもあり科学的なものでも新しいものが生まれる時神は喜ばれるとなる。それがあって日本もまた再生するとなる。それは歌だけではない社会全体がそういう気分になることである。それはもはや大都会からは生まれない。それは自然がある地方から地方都市からルネッサンスが生まれるのである。

ルネサンスとはフィレンツなどの小都市国家から天才が綺羅星のごとく生まれてその相乗効果がありルネサンスが生まれた、ただ一人の天才のことではないのである。一つの新しい時代がうまれたのである。それは大都会からは生まれないものだった。小都市国家から生まれたのである。一千万の大都会とかなるとそこには巨大な経済力となっても文化が産まれないのである。
文化cultureはcultivate(耕す)からきているからである。
福島県でも会津と海側は風土が違っている。すると文化も違ってくる。土地土地で違った風土があり文化は違ってくるのである。
身近なものでは食文化も違ってくるのである。その土地土地の味が生まれる。だからどこにいってもハンバーグを食べるのは文化がないからつまらないとなる。
つまりこれからはそれぞれの土地土地の文化を掘り起こす文化の時代になる。大量に同じものを作り売るという時代は終ったのである。

posted by 天華 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2023年09月03日

原発事故の失敗の原因 (急ぎすぎたことや目前の利を優先した―人間は核を操作できない)

原発事故の失敗の原因

(急ぎすぎたことや目前の利を優先した―人間は核を操作できない)

論語に、「速(すみ)やかなるを欲するなかれ。 小利を見るなかれ、速やかならんと欲すれば、則(すなわ)ち達せず。 小利を見れば、則ち大事成らず。 

●原発は作るのに急ぎすぎたー小利を求め大利を失う

何か事業を始めようとするときすぐに成功する。そしてみんなから成功者として讃えられる。でもそう簡単には何でも事業でも成功はしない。正直自分自身でもそうだった。何かしようとしてもすぐには達成できない。でもみんな自分自身もそうだったが常に目の前の小利を追求する。儲からなければそもそも事業は継続できないからである。人間は大概毎日毎日目の前の小利を追求して生きている。毎日買い物するにしても安い物をいかにして買うとか計算している。そういうことから人間は逃れられないのである

そしてそうした日々の生活の金の計算はしている。それは発達障害の人でも数の計算ができない人まで金の事は知っている。それは日々買い物して数の計算ができなくても金のことはわかっている。だから金にさとい。数の計算ができなくても利益の事は分かり計算している。

でもこのお金の計算で盲点になっていたのはスーパーのカードで買い物していた。そこに1万円をチャージしていたでもそのカードをなくした結果1万円は戻ってこなかった。だから日々それをカードを出して多少の見返りはあるのだが1万円をもらうのにはもうどれだけの時間がかかるかとても一年二年で1万円を回収することはできなくなっていたのである。つまり時々300円かもらうにしてもそれが1万になるまではどれだけの期間が必要なのかとなる。ここで問題になったのは万が一なくした時それがチャージした分が丸損になってしまうということである
つまり安全策が取られていないからそうなったのである。

●安全はコストがかかるから無視した

だから安全というのは意外と大きな問題なのである。人は安全にはあまり金を払いたくない。ただ保険金かあり保険をかける人がいる。それは安全のためにためである。何か大きな災害はあったりするとそれを補うことができなくなる。何か原発事故などはそうであった。安全に金を掛けたくなかったのである。原発というのは相当に安全を図らないと運転できないものだったのである。
だから安全に金を使わなかったのである。科学者集団が十数メートルの津波が来ると警告していたのに東電ではれも聞かなかった。防潮堤を作るようになったのは事故以後であり津波に備えることしなかった。つまりここでもコストを考えて小利を考えて求めて大利を失ったとなるかもしれない。その損失は国家予算並みだったからである。私がカードをなくしても1万の損であった。でも原発はその被害は20兆円もかかるとか国家予算の雨なので。だからいかに原発は安全対策が必要なものだったかわかる。
そこに金を惜しんだ結果その損が莫大なものになったのである。

速(すみ)やかなるを欲するなかれ。 小利を見るなかれ、速やかならんと欲すれば、則(すなわ)ち達せず。 小利を見れば、則ち大事成らず。 

原発はそもそも日本では操作する技術がまだ未熟でありでも早めに原発を作った。湯川秀樹博士は日本ではまだ原発を作るのが早い戒めていたのである。
確かに日本では原発を操作する技術がもっていなかったし技術者もまだ成熟したものとなっていなかった。
そしてアメリカからマークワンという古い原子炉買わされたのである。そこにやはりアメリカがかかわって原発事故の一因になっていた。アメリカだったらそんな古い原子炉は危険だから使わないからである。ただ外国だからそういうことができる。明治維新のときも薩長とかの薩長と幕府との戦いがありその武器がアメリカの南北戦争で使われた古い銃が大量に入って来たからである。
何か後進国はそうして先進国から古いものは在庫整理のように買わされるのである。特に日本はアメリカに負けたからどうしてもアメリカには逆らえない。

だから原発事故の一端もアメリカにもあったかもしれない。でもその責任も絶対に問われないのである。アメリカには誰もが日本は敗戦国で支配されているのだから逆らうことができないからである。
そもそも原発は日本人の日本人の技術でわ操作できないものだったのだから作るのが早すぎたのである。
でも原発は利益が大きいから国でも早く作りたかった。地元でもやはり金になるから積極的に誘致したという経緯がある。つまり人間はその目の前の利を優先して追っている。そこで安全をないがしろにして大事故となり大損となったのである。

●人間は長い先を見て事業でもできない

これは大きなことではあるが個々人でもいろいろそういうことがある。人間は先を長く見れない。目の前の小利に目を奪われて安全をないがしろにして大事もならなかったのである。ただ民間になるとどうしても長い先を見て事業もできない。でも原発は国家が優先して作ったものでありだからそんなに急いだりする必要もなかった。そして安全を図るより安全神話作り安全だということをにして肝心の津波対策しないし安全を図ることをしなかったのである。

それは国家とか強大な権力がそうさせたとも言える。安全神話を作ったのはそうした政府とか官僚とかマスコミとか司法関係でも警察でもかかわり鉄壁の権力で安全神話を作ったのである。それが地震と津波で砕かれてしまったので。つまりそこに奢りがあり急ぎすぎたこともありただ目の前の利に心を奪われたということもありそれで取り返しのつかない事故になってしまったのである。
ともかくこの格言は人間に関してあらゆるところで適応される。
人間は目の前の事に奪われ目の前の利益に追われ長い先のことが見れない。そんなことをしていれば収入がなければ会社も経営できないとなる。
ただやはり国家となると国家百年の計とかはどうしても必要になる。原発はそういうものだったのである。危険なのだから急いで作るものでもないし目の前の利を求めて作るものでもなかった。

ただそういうことは人間には必ず団体でも個々人でももある。人間は常に利に追われそんな先のことを見ることができない。だから備えることもできない。安全を図ることは大事でもそれがすぐ利益にはならない。ただ三陸では何度も津波の被害があったから強固な高い防潮堤を作って被害を免れた町があった。やはりそれだけ津波の被害を経験していたからそうなったのである。
その費用は無駄なようで無駄でわなかったのである。

だからこそ安全を図るのは国家の仕事であり国家百年の計でもって土木工事でもしなければならない。日本は自然災害が多い所だからそれをするのは国家の役割なのである。中国でも常に大きな水害があり治水が国家百年の計となっている。水を治める者は国を治めるとなっていたのである。

●安全を図る国家の責任―国家百年の計

今回の中国の大水害の被害もそうだったからである。ただ中国のように巨大な国家になると先をを長く見る。それがやはり中国という巨大な国家のだからこそ長く見れるともなる。第一万里の長城などを造る計画をすること自体それを作ること自体途方もない時間をかけている。
そういう長い時間で見れるのは中国でもあったとなる。日本はやはり小さな国だから何かそうした長い先を見て計画して作るということがなかなかしにくい国でもある。
いずれにしろしろ原発は一民間会社が運営できるようなものではなかった。それは国家的事業であり国家百年の計のようなものがなければできないものだったのである。でも急ぎすぎたとか安全を図らずに安全神話を作ったりして国民を騙したのである。

その結果として20兆円もの国家予算並みのものを事故の後始末に使わざるを得なくなったのである。それは海も汚染されて処理水でも海に流すから中国からも韓国からも批判される。それほどの事故の影響が巨大だったし時間的にも長期間その後始末にかかる。だからこそ原発はどれだけ安全を図ることが必要だったか今になるとわかる。でもその安全を図ることにコストがかかるとか怠りそれが大事故となってしまってのである。

ただ人間は何か何でも余裕を持って行いない。絶えず何かに急かされる利に追われる。それも老人になればわかるが時間がたちまち飛んで消えてしまうからである。何か事業でも何でもチャンスを逃せば二度とそのチャンスはあるとは限らない。人間のチャンスは一度か二度でありあとは無い。何かゆっくりと構えてもいられないのであ。だから勉強でも絶えず自ら求めてするのではなく受験勉強とかで点数を取るために追われているのである。

会社を起こしてもまず利益だとなりそのためにどうしても不正なこともしたり弱められるのである。とても悠長に構えて事業もできないからである。だから高齢化の悪い面も多いのだが長い目で見て生きるという事にはいいともなる。もう60くらいで死ぬとなればやはり時間がないのだから何もできずに終わってしまうともなるからである。 60から90までも生きるとしたらまた30年もあれば先が長いとなり人間のなすことはそれで急ぐ必要もないとなってるのである。

●原発は核は人間の能力で操作できないから廃止するべき

事実私は60過ぎてからでも自分のしてきたことを旅にしてもその経験を書いていることでもわかる。何かを理解すること自体人間は時間がかかりすぎるのである。世界を理解するにしても実際に旅をしたりその後にいろいろ学ばないと世界など理解しようがないからである。でも人生200年になったらどうなるのか。世界をくまなく旅をしたりさまざまな経験をして知識を広めて理解が深ま。だから人生百年でも200年にでもなったら先を急ぐことはないとなる。だから長生きは必ずしもみんな悪いとはならないのである。人間はそれだけ成長するにも何か一つのことを理解するにも時間がかかるのである。

それより何かしようとしたら時間がなく人生が終わっていた

中小企業白書によると、 起業後の生存率は1年後で95.3%、3年後には88.1%、5年後には81.7% という結果が出ています

なぜそうなるのか、それだけ時間が限られていて事業でも簡単に成功しないのである。そして失敗したらまたやりなおす時間もないのである。ただ知的な研究などは積み重ねれば実りがある。でもそれでもそのことで収入があるうとはならないのである。
結局人間の成すことは時間が限られているためにやれることはわずかだとなる。要するに人間は時間切れで終わりになるということである。

だから原発にしても作るのは急ぎすぎた。それだけの日本には原発を作る技術もなかった。何か日本は特別技術にすぐれているということで安全神話が作られた。それは技術の未熟さを隠すためのものであり実質は簡単なことでも安全策とっていなかったのである。その理由は金がかかるからそうして頂けなのである。
何か安全神話というのは宗教のようになっていてただ唱えていれば安全だとなっていたのである。宗教の問題はただ仏に神に祈りは何でも叶えてやれる。そこであらゆる欲望が欲望を叶えてくれる。それが今のカルト宗教である。

だから東電が原発事故を起こした時あれはオウムだと言ったのも分かる。まさに安全神話では神話は宗教化していたからである。つまりオウムとわかると宗教であり今の宗教団体というのはほとんどカルトである。そこではあらゆる欲望が叶えられるとしてあれだけの人数が集まっているのである。
だからオームは科学を重視して科学者となる卵がそこに集まったのである。幸福の科学というのもまさに科学を重視しているからそうなる。創価でもやはりそこに医者などがいるとかえって信用される。
つまり現代とは科学が宗教となっているのである。そしてこの科学というのは人間の欲望なんでもかなえてくれるという幻想に陥っている。つまり科学は万能だという幻想に陥っているのである。だからあらゆる病気が治り人間は死ななくなるというまで言う人がいる。それはまさに人間が神の代わりに万能の力を持つということになる。でも人間には限界がありその限界があらわれたのは原発事故でもあった。

そもそも原発というのは人間の能力を超えたものとしてありまた原発は核のごみというか放射性物質というのは自然界にないものを作り出す。そのことは以下に危険なことだったか科学者はもっと考えるべきだった。それを考えていた科学者はいた。でもなぜか原発というのはそうして危険なのにやめられないのか。それは核兵器を持つために必要だからやめられないという人もいる。
でも原発というのは自然界にない物をプルトニウムのように2万年も消えないとかそういう危険なものでありそれを消す技術もなかったのである。処理水を海に放出したがそれは安全だと言っても信じられないのである。
だからそもそも世界でも原発を作るということは禁止すべきだともなる。それを操作する能力が人間には無いからである。そして放射性物質を自然界にはない物質を出すという毒を出すということが解決していないからである。そこに人間の能力の限界がある。それが大きな災いとなって人類が滅びるということもあり。つまり核というのは廃棄しなければならないものであり人間の能力でわ操作できないものだからである。



posted by 天華 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連