使いすぎる電気ー電気を減らしても死ぬことはない
(グローバル化拡張成長の時代の終わり)
●電気代があがり家計を圧迫
電気代ガス代水道代などがあがりめんなみんな困っている。
でも戦争は終わり団塊の世代が生まれたがその時ガストか水道は使っていない電気は裸電球一つしか家になかった。暖房は炭だった。それは江戸時代からの続きだったのである。電気製品などなかった。その時不思議なのは電気が使えないとか電気代が上がるとかそんなことを心配もしない。
そもそも電気も使ってないし電気のことを心配している人もいなかったのである。今になるともう電気なしでは生活できない。電気なしではもう生きてゆくこともできない。それは車がないと生きていけないともともなる。でも車はない社会は江戸時代から続いているし人間はそれでも生きてきたのである。
だから電気なしで生活できないとか水道なしで生活できないとかもう死ぬほかないどこまでなるのはそういう生活に慣れきったためである。
現実に電気水道ガスを止められるともう料理もできないし死ぬほかないともなる。それで貧困家庭はそれが払えないので苦しんでいるのである。でも戦後間もなくは電気水道ガスがなかったのである。別にそれでもみんな死ぬということはなかったのである。
●原発は電気を得るためにやめられないのか
なぜこのことを言うかというとこの辺では原発事故があり故郷に住むめなくなった。
でもまた原発なくては日本はやっていけないとなり原発を再稼働しろと言う世論になっている。これもやはり電気社会になり電気なくしてはもう生きていることもできない。また車なしでわ生活できないというのとも似ている。
特に地方では田舎でわ返って車なしでは離れているから買い物すらできないとなりクルマを持つことが必須になっている。
でも戦後間もなくは車などもっていない。近くの店やで用たしていたのである。離れた場所でも萬屋(よろづ屋)などがありそこで買い物してまかなっていたのである。
だから電気水道ガスがない時代が江戸時代からも続いていたのである。その時電気水道ガス代が払えないとか心配する必要はなかったのである。もう電気なしで暮らせないということになったが人間はそれで死ぬことはないのである。
だから電気がなくてもいいとは言わない。でも原発がなくては成り立たないとかようのは論理的にもあっていないのである。
電気がないからもう死ぬほかないというのはあり得ないのである。そしたら江戸時代であれその後の昭和にしても戦前にしても電気など使わないところがあったからである。そしたらそういう人は生活できないみんな死んでいたともなるからである。
これほどまでに電気が大事になったのはやはり電気文明になりそれがさらに原発文明にもなった。でもその文明も電気が得られなくなると消滅するとなる。でも電気文明になったのはここ百年くらいでしかないのである。だから電気がなくても人間の生活は継続できるのである。
●電気は使いすぎるから減らすべき
電気がなくてもいいというのではない。電気を使いすぎる。そこに問題があり電気がなくていいのかという極論になることはよくない。それは金でもそうである。金はあった方がいい。金がなければ金を全部否定することはできない、電気をすべて否定はできない
でも電気を使いすぎる。それは夜でも煌々と明るくして電気を使っているからである。つまり電気を使いすぎるのである。夜でも昼間のように明るくすることが果たして理に適っているのか。夜は暗く眠るときである。その夜まで煌々と電気により明るくしていることが自然に反しているのである。
他にも電気を使いすぎる。そのことに問題があり最小限の必要な電気を使うなら電気代が上がるとか電気がなくなったら生活できない死ぬほかないというふうになるのはおかしなことなのである。
でも全員がそう思っているからそのことに反対できないのである。そのために原発が必要だとなり再稼働しろとなっている。
そしたらまたこの辺のように事故になり故郷に住めなくなるである。
だから個々人が電気がなくても生活できるし我慢できるとかなればそうはならない。でも現実はみんなが電気なしでわ生きていけないと思っているから原発でも必要であり再稼働しろとなっているのである。
でもお前も普通に電気を使っている。他の人より人より使っているのではないかとなる。そこで説得力がないとはなる。
●電気がなくていいのかと脅迫もされる
でも電気がないと生きていけないとか車がないと生きていけないとか思いこんでいる。それらを全て否定するわけではないが電気代が上がり電気を作るための石油であれ石炭であれ円安で高くなる時どうすればいいのかとなる。
その解決方法は何なのかととえばやはり電気をは使いすぎる。またソーラーパネルとかでも山を丸裸にして埋めている。
それで大雨が降り山に保水能力がなくなりまたソーラーパネルが崩れて被害になる。それも必ず電気なくしては生活できない。
文明そのものを維持できない。そのようにみんな思い込んでいるのである。。それに逆らうことはできないのである。
でも電気代がばか高くなってもう払えないとなるときやはり電気代を減らしたいとなる。そうし得られない時どうするのかとなる。炭の時代に戻ることはできないとしても一体どうすればいいのかとなる。
すると天気を減らす使うことを論理的に必要だとなる。電気を全くなくすというのではなく減らすということである。電気を減らすとなると返って人口が少なくなると自ずと電気を使う量は消費量は減る。
そうなると人口が日本でも相当に減っていくからそんなに電気も使わなくてもいいともなる。すると人口が減ることが悪いことばかりでもないとなる。
●人口減少は電気でも減らすことになる
つまり今世界では人口が増えればそれだけまた電気が必要になり電気に頼り電気がなくなれば生活できないとなるのである。
そして電気がなければ死ぬほかないとまでなる。そのことが何か間違っているのである。
もちろん山尾三省のような生活は無理である。ただ明らかなことは電気を使いすぎることは確かである。夜でも明るくして電気を使うことは自然の理に反するからである。夜だけでも天気を最小限にして暗くなってもいいとかなればそんなに電気ににこだわる必要もないかもしれない。では前が夜暗くして暮らせるのかともなる。
お前は蝋燭で夜も暮らせとなる。そういう極論ではなく電気を使い過ぎることは確かなのだからある程度は減らすことが必要なのである。でも電気を減らすことは至難なのである。
ところが右寄りの人は原発推進派である。それはなぜなのかというと外国に中国でも対抗するには電気でも必要であり原発でも必要である。なぜなら原発からはプルトニウムなど核に使うものが作られるからである。原発が必要だという時核武装が必要だからともなっている。
そして日本は外国と対抗するために少子高齢化でわできないまた経済成長しなければ対抗できない。
でも日本には経済成長できないその時代は終わった。もう一度高度成長時代を夢見てもそれはもうできない。でもいったんそういう時代を経験しているからまた高度成長時代がくるという幻想に憑かれているのである。。
成長時代があっても必ず衰退してゆく。それは中国でも同じだし世界的にも帝国になっても領土を拡大したことを経験している。
でもそれも一時的でありやがては衰退してゆく。それは法則のようなものである。世界史でわそういう興亡があり栄えていた国も必ず衰退するのである
おそらく世界的に見ても経済成長するのは限界になってきたのである。世界的に経済成長すれば電気でもさらに必要になる。でもそのエネルギーでも供給するのが限界にきている
だから世界的にも経済成長するということは限界にきているのだと思う。経済成長神話を信じるのはもう限界なのである。
むしろ世界の人口は減るべきでありこれ以上人口が増えることはエネルギーをさらに使うことになり電気でも必要が増大する。
●歯止めがない拡張成長のグローバル化は資本主義は終わる
グローバル経済資本主義の終わるというときそれは地球の資源でも環境でも人間が増えすぎることで地球環境は破壊される。だからこそもう地球の人口はこれ以上増えれば環境が悪化してどうしても電気もさらに必要になり原発も必要になる。だから世界全体を見てもグローバル経済とか資本主義経済が終わるとされるのである。
確かに次はインドが成長する投資先ともなるがインドは中国とは違って何か文化的に経済成長を阻むものがあるかもしれない。
いずれにしろグローバル化資本主義というのは限界に来たのである。コロナウイルスというのもグローバル化とか資本主義に歯止めをかけたのである。資本主義でも無限に拡張し拡大し発展させる成長させるという主義であり思想である。
それが限界にきてもう投資先がないそれで銀行には金が溜まっても投資先がなく利子も得られないのである。
だからこれからの世界はグローバル化による拡張拡大成長することは限界にきておのずと成長でも行き詰まり縮小化して自国優先主義になり保守的になる。
それが中世化するということでもあるがそのことが全て悪い方に働くとは限らない。世界的な成長神話はもうありえない。
グローバル化というのは実際は経済の戦争でありそれに敗れたものは奴隷化される。日本でも成長の時代は終わり輸出するものもなくなり観光でしか外貨を稼がないとかなり今度は外国から中国でも日本は安いとなりもてなしとかで外国人に使える使える奴隷ともなるのである。
●グローバル化の終わりー自国優先の経済に文化になる
そしてグローバル化とは平和をもたらすわけでもない。世界が全部反映するわけでもない。最悪なの何千万人も死んだ戦争になったのである。国と国の衝突があり共存するのではなく敵対して戦争になったのである
だからどこまでも成長拡大するグローバル化は終わったのである。その世界的な変化を見るべきでありそれに反する成長をどこまでも望むというのは返って方向を誤るとなる。
でもそれは何かマイナスに見るし縮小してゆく世界を受け入れにくいのである。でも世界的に見ればもう世界全体で経済成長するということは限界であり無理なのである。そのことを自覚をしていないとやたらさらに経済成長を望むのだから無理である返って原発でも再稼働しろとか原発なしでは日本の国防でも電気がなくては生きられないとなってしまうのである。
それで老子の小国寡民の思想がとか縮小化する世界に合うものとなる。それぞれの国でその風土と地理にあった生き方を追求する時代にもなっている。だから文化的には国風文化の再興になる
でも右寄りの人の軍事力強化とか国防のために原発が必要だとかにはならないのである。軍事力強化とかにはならないのである。ではどうして国を守るのかとなるから国を守ることは必ずしも軍事力だけではない。なぜなら軍事力を突き詰めて行けば核武装になり敵でも味方でも両方は滅びてしまうからである。
勇ましい国威高揚の右寄りの思想はこれからの時代に合わない。
それぞれが自国優先となりグローバル化は抑えられる。グローバル化は世界の文化を風土でも無視して壊してきたからである。
やはり人間はその土地土地に根付いて生活して文化を作ってゆく。それが自然の理合っている。
あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも
この歌にこそ何かその土地に根付いて充実したものを感じて生きるのである。これからはその土地土地に国々であるものを神から与えられたものを基本にして生きる時代になる。
もちろんそれで外国と関係なくなるわけではない。貿易はあるしそれをなくすことではない。ただ限定されて貿易がある。
基本はその土地土地の国々の財があってありえるのである。それが自然の理に合っているから継続されるのである。グローバル化はその自然の理でも無視するから続かないのである。