運がないとあらゆることがうまくいかない
(教育でも家族運とか時代運とか金運とかあり才能が発揮できる)

私たちの社会はとても不平等です、その不平等をもたらす大きな原因の一つが偶然親から配られた遺伝子の組み合わせが生む遺伝的な素質の格差だときいうことです
それからもう一つの原因は偶然の環境です、遺伝でも環境が親ガチャであり、それで9割が説明されてしまいますー
●私の家族が特殊でも私には良く作用した
人間は生まれつきの才能とかあるけど人間が最も作用するのは運である
どういう親から生まれるかというものがあるが遺伝もあるが環境因子の作用も大きいのである、そしてこの運命自体が不可解なのである、謎なのである
私自身の運命自体不可解そのものだった、家族でもそうである
でも自分にとってはこの運命が環境が幸いしたのである
そうでなければ確実にまともに就職もできず浮浪者となり脱落者となり野垂れ死にのようになっていた
実際三流大学を出て就職もできなかったからである
でも私の家族はそのことで責めることもなかったのである
最近引きこもりとかが増えて問題になっている、引きこもりをたもり人というようになった、私自身このこもり人として生きたのである
だからこれは本当に異常なことだったのである、現実に自分自身が異常化したことを気づいたのは私を育てた二人の母親が病気になり介護になって一人悪戦苦闘した時だった
そこで社会とかかわりもう死ぬような苦しみにあった
誰も助けるものがいない兄弟もいないとかでそうなった
それも余りにも恵まれた結果としてそうなったのである
人間はなんらか不可抗力の運が作用しているとこの本で書いている
それを自分の運命から理解できる、その人の遺伝は確かに大きく作用する
遺伝的資質はどうにもならないのである、外交的な人もいるし内向的な人もいるし性格も様々だからである、自分は内向的な性格でありどうしても集団になじめない性格だった
一人っ子でもあり人とうまく協調できないのである
私の母親も内向的地味な性格の人であり似ている、ただもう一人の母親は全く性格が違っていて外交的陽気な性格だったのである
でも奇妙なことはこうして相反する性格の母親に育てられて自分はたいしてなかった才能でも伸ばすことができたのである
60まで自分のおもむくままに生きていたのである、自分の合わないことはせずにすんだのである、こもり人となると異常にしても自分には合っていたのである
●共同体があって教育もありうる
私が一番嫌だったのは学校である、学校になじめなかった、何かどうも腸が過敏になっていて集団の中に異常に緊張するのである、体までおかしくなる
今でもそうである、人間嫌いであり人間がいると緊張するのである
だから私が自然と木とか石とか山でも自然に接している自然を鑑賞するということに向いていた、そこには人間がいないからである
また体力がないということも実の一人の母親に似ていた、体が細くて重いものも持てない母親だったからである、だから遺伝的には実の母親の影響がまねがれないのである
でももう一人の母親は太っていて社交的であり男優りだった
ただそれだけではなく私の家が父親が中学で死んだ時、もう一人の母と言うべき姉がいて家が維持できたのである
必ずしも家族とか家は血縁とかでも成り立たない、家を維持するということはそれが一つの最小の共同体であり家のために生きることが女性にはある
また江戸時代なら御家大事ということがありまず御家のために臣下でも尽くし働いて維持してきたのである、つまり人間には何らか共同体がありそれを維持することが優先されるそれは必ずしも血縁とかではない、一つの共同体として機能する
それが昔の村だったのである、村とは500人くらいで成立っているときそれは一つの家族も同然だったからである、それで子供の名付け親とか村の人がなり村の子供は村の家族の一員として育てられたのである
村というのはとても一家族だけでは維持できないからである
だから教育というときそういう共同体があってこそ成り立つのである、でも明治以降学校になったときそういう共同体から分離したものとして知識だけを学ぶことになったのである、江戸時代なら侍がいたとき侍が模範としてありその侍は学校教育で育ったのではない当時の社会でエリートとしてあり学校があったとしても藩校で育てられる
その土地と密接に結びついて育てられる、村でも土地土地と密接に結びついて育てられていたのである、有機的に結合した共同体があってその中で子供でも自ずと学び体得していった、学校教育はもうそうした共同体から分離して知識だけとの教育となり福沢諭吉は教育は立身出世のためとして学問をしろとなったのである
それは近代化したとき世界中で学校が教育の場となったことは共通しているのである
その前の教育というときヨ−ロッパだったら貴族階級が家庭教師を雇い教育していたのである、学校はないからそうしていた、でも貴族には蔵書があったりして学校に行かなくても学べる環境があった、だからかえって天才でも生まれ育てやすかったのである
その人にあった教育をしたからだともなる
●教育でも田舎と都会の差が大きい
教育というとき田舎と都会で相当に差がでる、ただ教育という時何か人から教えられる
先生がいて教えられるとかなるがそうではない、先生の上に本当の師がいる
それは自然である、自然が基本的に本当の師である
でも大都会になるとこの自然がないのだから自然から学べない、俳句を作るにしても四季を知らなければ作れない、自然を見なければ作れない、季語を知るには年ごとに季語となるものを自然の中で知識ではなく体感する必要がある
すると都会ではしにくいのである、季節感にして余り感じない人工的空間になっているからだ、ただ自然といっても私は別に子供の時に自然というのは感じていない
ただ子供の時は原始的生活だった、洗濯でも裏の堀川でしていた
煮炊きは竈があり炭で暖をとっていたとなる、囲炉裏が街中の生活にもあった
でも自然がどうのこうのとは子供の時感じない、ただ父親が鮎釣りとか鰻釣りしていたし川に小魚がいたからそういうことで自然は感じていたとなる
また畑などがあり田んぼもあり回りから自然を感じることはあった
でも意外と田舎に住んでいても自然を感じない、自然を知らないのである
自然を感じるようになったのは東京の大学をでてから都会暮らしをしてから都会を嫌いになり田舎に帰って自然を感じるようになった、それでつたないものでも俳句とか短歌を作るようになり意図的に自然を感じるように勤めたのである
でも土いじりなどしていないから農業のことはわからない、田舎でも回りが田畑でも農業している人は一割とか少ないのである、今はみんな会社員か工場で働いているのである
それで意外と田舎に住んでも農業のことがわからない人がいるのである
ただどうしても田舎だから自然が無意識的にも感じるようになる
でも自然はこちらから意識的に働きかけないと感じないこともある
俳句を作ることは季語を体得しなければならない、その季語も多様だから意外とこれも自然のある場所で年々積み重ねた体験が必要なのである
それは一年とかで身につかない、相当の年数がかかる、自然を知るには実際は相当な年数がかかる、木が50年で育つように自然の時間は人間の時間とは相当に違ったものだからである、徐々に時間をかけてしか自然を知ることはできないのである
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった
このキリストの言葉は意外と理解できない、都会ではとても理解できない
鳥をなぜ日々餌を得ているのか?何を食べているのか不思議である
餌があるのか、でも日々貯えることもなく生きているのである
それは単純なことだが人間と比べるとあまりにも違いすぎるからである
人間だったら何も貯えないとしたら不安でしょうがないからである
そのこと当たり前なことでも本当に不思議だとなる
そうして貯えもせず生きていることが不思議なのである
キリストが生れ育ったのはナザレといいう辺鄙な村にすぎなかった
だから自然は身近にあった、でもそこに行ったら何もない、あまりにもありふれた村であり町だったのである、何か特別美しい場所でもなかったのである
ただそういう場所で生きていて自然を観察していてこの言葉が生まれたのである
それが自然が師となり自然が自ずと教育したのであり誰か人に教えられたものでもないのである、だから教育はそもそも人間だけではできない、先生だけではできない
自然が最大の師なのである、それは科学的なものでもそうである
自然からかけ離れたようでももともと自然の観察から生まれたものだからである
ともかく教育といっても学校だけでは先生からでもでも本質的にはできない
キリストがこのことを言っても都会に住んでいる人は何か理解しにくいからである
大都会なら食べ物は食料でもスーパーであれ買うものでありそしてその食料でもどうして作られているのか知らないからである、ただ金で買えるものとしてしか理解できないからである、こうして現代は便利になっても本質的なことを理解できない社会なのである
野菜でも果物でもどうして作られるのかわからないのである
ただ店に並んでいて買うものとしか理解できない、そこに大きな問題が生まれている
本質的なものが理解できないのである、つまり知識と現実の生産とかの場から離れているからであるただ金で買うものとなると金の方が大事になる
でも食料を生産している人がいて食料が得られるということその現場を知らないからそのありがたみも感じないのである、つまり教育といってもそうして知識だけだと記号だけを覚えることになりリアルなものとして現実のものとして理解できないのである
●戦後にはモラルの教育が消失していた
なぜ今教育の問題がうまくいかないのか?それは知識だけの教育であり実地の社会から分離して共同体から分離して知識詰め込みになったからである
教育とはそもそも学校だけではできない、また師だけでも先生だけでもできない
その基盤に共同体があって実地の社会があってできる、現代ではその基盤がなくなったから教育とはただいかに自分のみが得する、楽に生きられるかが問題になる
そして東大を出れば官僚になり上級国民になれるかとなる、それはあくまで得するという立身出世の教育なのである、戦後の教育に道徳教育はない、知識で優れたものが得するという教育しかなかったのである
それはあらゆるものがそうだった、宗教すらカルト教団になり御利益宗教になったのそうである、資本主義社会にはモラルはなくなった
ただ自己の利益をいかに計るかしかないのである、だから教育自体ができない、ただあるのは知識教育でありいかにして受験戦争を勝ち抜いていい地位につき収入をあげ得することだしかなくなったのである
戦前はいい悪いにしろ国家のためにすべてがあった、でもそこには日本的モラルがあったそれは自分だけが利益をあげる得するとかではないものがあった
また戦前と明治とか江戸時代でも特にに江戸時代になると侍が指導者であり侍を模範することがあり侍自身もそう自覚していたのである
だからなぜ明治維新が成功したとなると侍が指導者の立場に立ったからだとなる
江戸時代に育まれた人材がえてそうできたとなる、庶民の革命ではなかったのである
でも大正とか戦前の昭和になると指導者のエリートのモラルが消失した
国民国家となり大衆国家となったとき指導者は国民が大衆が選ぶものでありそれもただ数として選ぶものであり上に立つものに自覚したものはない、やはり利益があがればいい
自己のためのものとして議員でもある、何か公(おおやけ)に尽くすものとしての自覚がないのである、それは選ばれた議員でもない、ただ地位を得て得すればいいとなるとき
自己の利益追求として大衆があるともなるからである
●運の作用が大きい人間
人間の謎は意外と運が作用していることである、だからこの本でそのことを言っているので共感した、そもそもどんな親から生まれるとか決められない、それは運命である、その親から基本的に資質が受け継がれるのである、遺伝があることは確かである
でもそれですべてが決まるかとなると決まらない、環境因子があり家族というのも複雑なのである、いろいろな家族がいてその作用がある、単に実の親がいて子がいるとともならないのである、だから不思議なのは兄弟なのに全く違った人生になる人はいくらでもいるまた兄弟でも性格とか違って同じ運命にはならないのである
◎遺伝、素質
◎環境因子
◎運
ここで意外なのは運なのである、運にもいろいろある、金運とかもあるし人間関係でも人の出合いでも運命的なめぐりあわせがあるとか運が作用している
どういう人と逢うとかでその人への影響が大きいからである
金運とかもある、時代運とかある、団塊の世代は戦争が終わり焼野原から始まったけど
食べる物も満足にない時代から始まったけど高度成長時代がありみんな豊かになった
そしてそれは日本人が優秀だったからとかではなかったのである
その時国際関係でも米ソ冷戦があり日本が共産主義の防波堤としてアメリカに重んじられた、そして朝鮮戦争があり日本が物資の供給国となり経済が復興したのである
その時鉄が不足していて子供の時鉄くず拾いして売って金になったことも覚えている
戦争で鉄が不足したからそれを日本で供給したのである
その後のベトナム戦争でもやはり戦争特需が日本にあり日本は別に戦争で被害がなくても経済的な恩恵があった
だから国家でも運が作用している、時代の運が作用している
私の家が戦後店を駄菓子屋のような店を始めて繁盛したのは別に商才があったとかではない、ただ場所が良かったのである、車がないとき角にあったので場所が良くて繁盛したのである、それも運だったのである、だから何するにも運が作用している
運が悪いといくら能力があるとか優秀だとか言っても成功しないことがある
それで財産のことをfortuneが運となっている、財産でも運があって持てるとなる
だから運が悪い人はこの世でいくらでもいる、不運に若くして死んだとか才能が発揮されずに死んだとかいくらでもいる、戦前は肺病で若い人が大勢死んで国民病ともなっていたからである、それも時代が悪かった、運が悪かったとなる
なぜなら今なら肺病は治るし死ぬ人がいなくなったからである
この肺病は悲惨だったからである、手術で灰の片方を切除した人を知っている
その人は一生身体障碍者のようにして終わった、それも悲惨だったとなる
そもそも人間が才能あったとしても発揮されずに終わった人が多い、それは様々な要因があるが運が作用している、親が悪いとかもある、親ガチャも相当にある
親に恵まれないからそれで一生が犠牲にされたとかある、カルト教団とかの二世問題がそうである、親には子供は従わざるを得ないからどうにもならないとなる
そこで魂まで支配され従属されることになる
私の場合は特別親に恵まれた結果としてたいして才能もないのに発揮できたとかなる
ただ奥手であり遅すぎたとなる、もっと早めに自覚して勉強していれば良かったとはなるでもこれも時代運であり長寿社会になったとき長い目で自らを育てればいいとなる
それも時代運である、肺病でも死ななくなっても良くなったというのもそうである
何か認知症でもアルツハイマーでも効く薬が出るとかでもそうである
時代に恵まれればそういうものも直せるとなるからだ
●運命は不可避的なもの(猫の運命)
不可避という言葉の意味は、「避けられないもの」「回避できないこと」といったような意味の言葉になります。
人間は確かにその人の才能がどうかとか言うけど才能というのは何か開発しないかぎり
発揮できない、天才だと別である、天才は努力しなくても会得するのである
普通の人はそうはならない、自らを知り自らに合ったものを努力して追求しないかぎり
才能も発揮できない、その才能となるのもわずかでも最終的に大きなものとなりうる
だから人間は生まれつきは確かにある、でもそれだけですべてが決まらない
人のめぐり合わせとかも運でありどういう人と出合うとかでも決まる
そして運という時、必ず運がいいとか運が悪いというけど運もめぐるのである
ある人は運がいいとありその運が他の人にめぐってゆく
私が猫を飼っていた、その時別な猫が餌を奪いにきた、でも追い払っていた
それは黒い猫であった、でも飼っていた猫が死んだ時、その黒い猫に餌をやるようになった、でもこの猫は絶対に慣れないのである、黒いからかわいとも言えない
でも自分自身でもなぜこの猫に餌やっているのかわからないとなる
それは飼った猫が死んだからでありその猫に運が恵みがめぐってきたからなのである
人間には何かそうした運が強制的にでも作用している
不可避的なものとして現れたとなる、確かに避けることはできるでも何か飼っていた猫の代わりとなっているのである
誰かの不運が誰かにとってはいい運となる、高度成長時代の日本は朝鮮戦争があり朝鮮人は苦しんだ、でも日本人にとっては幸いしたのである
またベトナム戦争でもそうである、日本人はやはり特需のようになったからである
戦争で死ぬこともなかったのである、このように何らか人間が運の作用が大きいのである
私の父親違いの兄の父親は事故で死んだ、結果として母が再婚して私か生まれた
でも兄は私の家では五年間は一緒に暮らしたが母の実家に引き取られた
そして離婚してその後交通事故で死んだのである
だからそもそも父親が事故で死んだことは不運だったのである
でもその不運があり自分が生まれたということになる
つまり誰かの不幸が誰かの幸いになっていることがある
国家間でも他国の不運が不幸が別な国の幸運とかにもなる
そういうことがどうしてなるのか謎なのである
ただ誰でも一生運がいいとはならない、必ず不運に見舞われ苦しむことになる
そういうことでは人間は平等なのかもしれない