2022年08月31日

山の詩ー山明ける、山は修行の場、海側だと山がわからない(秋の蝉、虫の声)


山の詩ー山明ける、山は修行の場、海側だと山がわからない(秋の蝉、虫の声)


蝉鳴いて清流ひびき山明ける

このあたり社一つや秋の蝉


朝静か遠くよりひびく秋の蝉その声部屋に一人聞き入る

秋の蝉鳴く声やみぬ余韻かな我が部屋に一人耳を澄ましぬ

鈴虫のすずろに鳴きてひびきけり田舎に住みて心澄むかな

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる

山明けるというとき海側に住んでいる人は実感できない、常に海から陽が昇るからであるでも日本だと山が多いし山に囲まれいる地理でもある、すると山から陽が昇るという感覚がわからない、日本海だと山から陽が昇り海に陽が沈む、この感覚は太平洋側と反対なのである、この相違は大きい

まず福島県でも太平洋側になると浜通りになると海に常に面していて海から陽が昇る
でも中通りとかなると山から陽が昇り山に陽が沈むのである
この感覚がわからないのである

天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 阿倍仲麻呂

山から月が出るというとき太平洋側では海から月が昇ってくる、そして山に月が傾いてゆくのである、奈良に住んでいて印象に残っていたのは山から出る月になっていた
どうしても海側に住んでいると月と山なのである、でも三笠の山で見ていたのは月が出ることなのである、太陽もそうだが山から昇り山に沈む、月も山からでて山に沈む
この感覚がわからないのである、また京都でも東山とういとき陽が昇る方向にある

陽炎の中やゆらつく東山 許六

名月や膳にすゑたる東山支考

祇園清水冬枯もなし東山 子規


春の夜は東山よりくると云ふ寺寺靄し月のぼるとき 晶子

東山というときこんな感じである、東山から月が昇るのである、でも旅しても何かそういう月も太陽も見ていないからわからないのである
冬枯れもなしというとき東山が常に陽が昇り春の感覚になっているからだともなる
でも陽が沈むとなると全く違った感覚になるのである
それで私が旅して印象的だったのは琵琶湖の湖西にいて東(あずま)から陽が昇ったのを見た時である、あんなところから陽が昇るのかと意外だった、それで東(あづま)だということを意識した、それは関ケ原がありそこから東はあづまなのである
だから名古屋は東(あづま)なのである、そこが西と東の境なのである
旅で感じるのは陽が昇る方向と沈む方向である、アメリカだと西海岸に陽が沈む、太平洋でも陽が海に沈むのである、エジプトだとナイル川の西側に陽が沈むのを見た時感慨深いものがあった、そこは黄泉の国ともされていた

赤々とナイルの岸に沈む陽をピラミッドを背に我が見つめをり

ここに三千年の歴史がありその陽が沈むのは何とも言えぬものがあった
これは大阪城で感じた、満開の桜が散ってゆくときであり太陽が赤々と燃えて沈んでゆくその夕陽がなんともいえぬ人間の興亡と栄をその夕陽に感じたのである
つまりそれは単なる自然としての太陽ではない、人間の歴史が重なり色合いを深くしていたのである、日本でも西になると歴史が長いし日本の歴史を作った場所だったから違っていたのである

この辺でものたりないのは山がないことである、阿武隈山脈は山ではなく高原だというのもわかる、高い山がないのである、ただ蔵王が見えるからあれば山だとなる
でも独立峰が富士山とか岩手山とか岩木山とかあるとそれが心に映じて精神まで形成されるのである、どうしてもこの辺では山の感覚がわからないのである


山明けぬ

山に陽の昇り
山は明けぬ
どうどうと滝の音
ひびきわたり
清らかな流れのひびき
荘厳なる山は明けぬ
山は暮れぬ
大いなる沈黙に
山は億年の重み
山は動かず
滝はひびきわたる
山は重々しく
その実体は真実
口を硬く閉ざして
不言の行を続ける
山は忍耐なり
一切の騒音を拒絶して
寡黙にして真実を示す
山は明けぬ
喜々として陽は輝き昇り
真日さして明けぬ
山は金色の太陽の台(うてな)
山は徒言を言わず
粛々として己を正す
山に雲が彩り映えて
陽は静かに沈みぬ
今日一日輝く照らす喜び
山はまこと神の実在なり
滝の音は流れの音は
雑音にあらじ
その神なる山にひびき調和す
そして山と山は黙し合う
山と山は騒がず
深く静かに重く連帯する
千古変わらずに結び合いぬ

The sun has risen over the mountains

The sun rises over the mountains
The mountains have not yet dawned
The sound of waterfalls
the sound of waterfalls
The sound of a pure stream
The majestic mountains have not yet dawned
The mountains have gone dark
In the great silence
The mountain weighs a billion years
Mountains do not move
The waterfalls echo
dignified  and united mountains 
Its substance is truth
With mouths rigidly closed
And continue to do the work of silence
The mountain is patience
Rejecting all noise
It shows the truth in silence
The mountain never dawns
The sun shines brightly and rises with joy
The true day has not yet dawned
The mountain is a golden sun
The mountain speaks no idle words
It is solemnly correcting itself
The mountains are colored by the clouds
The sun is setting quietly
The joy that shines through this day
The mountain is the reality of the true God
The sound of waterfalls and streams
Are not noises of noise
They echo and harmonize with that divine mountain
And the mountain and the mountain are silent
Mountains and mountains do not make noise
Deeply, quietly, heavily united
They are bound together as they have been for a thousand years


山が信仰の対象となるのもわかる、山で修行するのもわかる、モーゼもシナイ山に登り
神からの啓示を得た、もともと天台宗とか日本の仏教は山岳宗教だったのである
中国でもそうだった、創価とかの団地の宗教とか都会の宗教とはまるで違ったものだったのである、カルト宗教とは文明都市化大衆化したものであり政治化経済化した権力化した宗教とかとは全く縁もゆかりもないものとなったのである
一種の文明の病理的現象として生まれたのである、毎日選挙運動であり人、人、人・・・と絶え間なく交わる世界である
だから自然とは関係しない、都会から生まれたものだから当然だとなる、都会では人は群衆となり大衆となり個々人は存在しない
集団示威行動となりナチス化するのである
現代の宗教はとにかく大衆化して人を集める、会員を増やすことしかない、そして社会的圧力となり権力を持つのである、それが社会を席巻してナチスとかなるから危険なのである、そもそも大都会でも自然から遊離した場所でありもう人工化した世界でありそこに山など関係ない、高層ビルを毎日見上げていたらどうして精神が形成されるのかとなるからだ、自然があり自然とアイディンティティ化することで人間の精神はもともと形成されるそれが都会にはないのである、もちろん都会には都会の良さがあるにてもその規模が巨大化しすぎたのである、東京とかなくとそこが人間の住む世界なのかとなる
一体そこはどこなのか、とても人間の住む世界とは思えない、別な惑星にでも来たのかとなる、その大都会から生まれる宗教は異様な病理的現象であり宗教はカルトとなり歪められるのである




2022年08月29日

秋の蝉(イオンも閉じて相馬市が何か寂れた感じになった)


秋の蝉(イオンも閉じて相馬市が何か寂れた感じになった)


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のうぜんかずらは今年はまだ咲いている、普通は散っている
季節の関係で暑さがつづき咲いているのか
もともとこの花は次々に尽きることないように咲く



うろこ雲新たな沼に映すかな

ノウゼンのなお燃え咲くや揚羽来る

秋の蝉ひびくもなしや五本松

久しきに城跡たずね秋の蝉

秋の蝉ひびくもあわれ城下町

ノウゼンの尽きることなくなお咲きぬ朝揚羽の二羽舞い来たる

日立木の道の駅の近くの五本松があった所に喫茶店があったが閉じていた
喫茶店は相当どこでも減った、休む場所を求めてなかなかなくなった
そして五本松は二本とか残っていたがみんななくなった
そのために秋の蝉が鳴いてもひびくものがないとみる
蝉の声はもともと木に止まり鳴くのだから樹があってひびくとなる
でも石にもひびくともなる、「静けさや岩にしみいる蝉の声」芭蕉がそうである
岩にしみいるというのが何とも日本的であり夏を感じるのである
これは外国語では表現できない、蝉の声が岩にしみいってゆく、一心に鳴く蝉の声がしみいってゆく
その蝉の声も数が多い、森に一斉に鳴いている蝉の声がしみいるのである

松は枯れやすい、道の駅は閉じているが令和4年の秋に新装開店するとある
何なるのかわらない、そしてイオンで休むとしたら閉じていた
地震で壊れた所を直すためなのか、でも地震の後に行った時は普通に開いていたみたいだ一時的なものなのかやめるのかわからない、でもイオンは意外簡単に撤退しやすい
その後が空洞化して困ると他でも言っている、何故そうなるのかというとイオンとは資本でも外から入り土着的ではないのである

商店街だとみんな個々でそこに住んでいる住民なのである
イオンの場合は雇われた人達であり実際の経営は東京の本社でしている
それはレストランのチェーン店でもそうなのである
そうなればコンビニだってチェーン店だから本社がやめるとなればやめる
でも土着的にその土地に根付いていれば簡単にやめないとなる
ここに大型店の問題があった、でも今でもとても小さな店でやっていけない
ただ中型のキクチスーパーとかシシドスーパーだから地元の人が経営しているから
簡単にはやめないと思う、イオンは大資本であり土着的ではないのである

相馬市街を回ってみても何か活気が感じない、もともと商店街はどこもそうだった
だから同じだとなるのがやはり何か全体的に寂れているという感覚になる
でも六号線にトヨタカローラいわきの大型の店ができるみたいだ、やはり車だけは車社会なのだから大きな新しい店を出すとなる、その他は寂れた感じになる
ただもともと相馬市は城下町でありしんみりとしていたのである
そこがいいところでもあった、でも何か暮らすとなると寂れた感覚になる
それはここだけではない日本全体に起きていることである
それで車だけに頼らない社会になると街は返って活気がでるというのもわかる
そもそも街を歩いている人は少ないからである
私自身でも歩くのではなく自転車で走るとなっているからだ
鉄道だと不便なのである、駅らかまた歩くのも大変なのである
鉄道がどうしても廃れているのもわかる、駅からの交通の便がないのである
そこでタクシー利用すると金がかかるから損なのである

うろこ雲が右田浜の新たに生まれた沼に朝写っていた、でもそこの写真をとらなかったのが失敗だった、常に写真をとるようにしていないとまずかった
そして意外は二度と同じ場面をとれなくなるのである

ともかく相馬市に行ったのも久しぶりだった、暑いのと曇りであり雨にもなり行けなかった、相馬市は天候が悪いと行けない、原町の倍の距離があるからだ
んづれにしろ涼しくなったから自転車で走ると快適である
今度は飯館村から霊山から石戸村に行こう、秋はサイクリングには最適である


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ここにうろこ雲が映っていた



価値とは何なのか (貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)


価値とは何なのか

(貨幣で計れない価値ー物々交換ならば価値は等価になる)

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多様な価値


媒介する者についてメデアについて書いたが貨幣でも紙幣でもメデアであり媒介するものである、そのメデアが媒介するものが現実の物より力をも持つようになった
そのことですでにギリシャでは紀元前600年頃から金がすべてとなり社会は金だけを追求するようになり腐敗したと嘆いていたのである
つまり金自体が媒介するものであり仲介するものでありそうなりやすいものだったのである

物の価値は貨幣で計れない

人間の価値も貨幣では計れない

そもそも貨幣では価値が計れない、あらゆるものの価値は計れない、例えば果物があるとする、リンゴがあり梨がありバナナがあり葡萄があり柿がありスイカがありメロンがありみかんがありといろいろある
ではそれを交換するときリンゴが梨より価値があるとか梨よりバナナが価値あるとか水禍りメロンが価値があるとかならない
それは性質が違ったものでありそれぞれの価値は特有の価値を持っている
理想的なものは物々交換なのである、要するに私はリンゴを育てました、でも梨は作っていません、私はリンゴを与えますから梨を下さい、交換してください
こうなるのが理想的なのである、そこにメデアが貨幣が介入するとそもそも歪められる
貨幣自体にはただの金属だし紙幣だったらただの紙切れである
ただ黄金の貨幣だと価値はあるとなる、その貨幣は黄金なのだからそれ自体に価値があるから交換するとなる、でも紙幣だったら紙切れの価値しかない
だからそんなものとは誰も交換しないとなるのである

要するに物々交換だったら貨幣で価値を計ることはできない、そして交換するにしても等価だとなる、物自体の交換だから貨幣が介在しないからである
ただリンゴの味を味わいたい梨の味を味わいたい、スイカの味を味わいたいとかなる
その物自体の価値があって交換するだけなのである
そこに値段はつないのである、ただバナナとか大量にとれるから物々交換となるリンゴ一個にバナナ十本とかが交換するようにもなる
ただ物々交換だったら貨幣で価値を計るようなことはない、ただその物が持っている価値そのものと交換するだけである、そこに貨幣や紙幣は介在しないのである

でも貨幣が生まれたのは遠く持ってゆく、その時運ぶとなると手間である、物々交換するとなると大変な労力になる、リンゴをみかんと交換するのにその場所まで持ってゆくのは大変な苦労である、でも貨幣であれ紙幣だったら買えるとなると便利である
また貨幣でも紙幣でもいろいろなもの買えるということで便利だから貨幣が使われるようになったのである
ただ本質的な価値は貨幣では計れないのである、あくまでリンゴの価値はリンゴが生来持っている味である、その味に価値がありそれは神が創ったものだとなる
そして様々な果物に味がありその味を味わうということで豊かになる
それぞれに違った味があり価値がある、その味があって別な果物の味があって本当は直接物々交換すればいいとなる、金で計ることはない方がいいとなるのだ

それは人間にも通じている、人間の持っている価値は多様である、でもその価値に値段をつけて金が介在すると人間は歪められる、そもそも人間が持っいる価値は多様であり金で計れないからである、でもその計れない価値は金が介在すると無視される
金にならないものは価値がないとして無用とされ社会でも認められない、そこに社会が歪められるのである
それはブナという木が建築用材として価値がないとして無用化された、杉が植林されて杉の林になった、でもブナでも自然では効用があるから自然林を形成していたのである

ブナは漢字で木偏に無と書いてとされるが、由来は材が腐りやすく役に立たないからとされる

これは人間からの一方的見方なのである、自然にあるものは無用ということはない、そこに必要だからある、人間が価値づけすることによって歪められたのである
だからこそ老子は無用の用を説いたのである
例えば大都会を見ればわかる、そこはすべて用で埋め尽くられている,建物で埋め尽くされている、そこに無用の空間がないのである、それで空地とか公園とか貴重になる
でもそういう土地でも必ず何か有用なものとして建物が建ち埋め尽くされるである
そして憩うことも安らぎの場もなくなっているのである
つまり無用の空間がないから窮屈になっているのである
値段もつけられない無用の空間も貴重になっているのが大都会なのである
自然の価値は一様ではない、杉だけの森にしたのは人間側の都合でありそれが災いを産むことがある

松原は人工林だった、それが何か自然林のように思っていた、でも林でも森でももともとは混成林だった、多様な木があった、それで津波で松林が全部流されたことには驚嘆した松原は塩害を防ぐために作られた人工林だったのである
そして砂地に根を張るから津波には弱かったのである、それで根こそぎ全部流されてしまった、それは信じられない光景だった、おそらく自然の森のようになっていたら全部は流されなかったろう、杉の林にしたように一様化したことで根こそぎ全部流されてしまったのである、津波に強いのは竹だった、他にも津波に強い木を植えていればみんな流されることはなかったかもしれない

これもやはり自然というものを無視した結果だったとなる
自然を自然のままに利用しないで人間側の都合で利用すると危険になる
だからこそ文明は滅びるとなる、持続可能ではないとなる
大都会が危険なのは密集地獄のようになっているのは危険である
何かそこから大きな災害が生まれてくるからだ、そもそも地下街などでも危険であり
高層ビルでも危険である、それは人間の力を示すものだがそれが危険なのである
人間はそもそも自然の則(のり)を越えられないからである
だからこそ人間の過去の文明は滅びているのである
人間とは文明とはこうして常に自然に逆らい不自然に生きてきた、その結果として災いが生まれたのである、技(わざ)は常にまた災いになったからである

ともかく価値の交換というとき色でもいろいろな色がある、その一つ一つは多様な独特の価値でありそれに値段はつけられない、赤い色があり青い色があり独特の価値がある
その色もみんな違っているから交換しようとなる、またいろいろな色を欲しいとなる
赤があり青があり黄色がありとそれで豊かになる
でも同じ色はいらないとなる、赤を持っていれば赤はいらない、赤があり青と交換するとはなるのである
そして赤が一番価値があるから高くなるとかない、価値は平等であり等価である
赤には赤の価値があり青には青の価値があり黄色には黄色の価値がありその価値は赤に価値があり青に価値がないということはない、それぞれ違った色でみんな価値がある
優劣はないのである、自然界では優劣はない、みんな調和しているのである
人間界だけが優劣があり上下関係がある、差別がある

価値とはそもそも貨幣とかで計れない、それぞれ特有の価値がありそれは計れない
だから黄金と塩が等価で交換したというときどっちも実は貴重なものだったからである
塩がない砂漠のような所では黄金より塩が貴重になるからだ
価値はまた場所によっても様々な条件で変わるのである
そもそもあらゆるもののこの地球の価値は神が創ったのである
それを人間の都合で変えてしまった、メデアが貨幣でも変えてしまったのである
市場など公正でもないし金融資本主義とかなりもうどうなっているのかわからない
グロ−バル経済はもう公正でもなんでもない、世界のギャンブル場になり一握りの人が莫大な金を得るのである、いかさまなのである
でもそのいかさまが巨大になり見抜けないのである、だからどうしても現代は陰謀論になるのである

この世ではどんなことしても不公正になる法律があってもそうだし経済でもそうであるここの解決は神の国でしかありえない、人間にはとても公正な社会など作れないのである
貨幣は紙幣は便利であってもそこに必ず不公正が生まれている
メデアは報道でも歪められる、社会は必ず歪められるようになっている
そこに人間の限界がある、人間にはとても理想の国など作れないからである

posted by 老鶯 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年08月28日

メデア(仲介するもの)によって歪められる社会 (マスコミからインタ−ネットへ)


メデア(仲介するもの)によって歪められる社会

(マスコミからインタ−ネットへ)
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●メデアの意味

メデアというとき何か?中立であり仲介するものである、でも仲介するとか仲立ちするとかなると実は人間そのものがメデアなのである
何かあれば必ず人から人と口コミで伝えられる、それがだんだん現実に起きたこととは別なものになってゆく、噂がそうである、そこで真実が見えなくなる
それは何か起きたときその現場にもいないし直接当事者から聞くこともできないからである、それは人から人へと伝わりそうして伝えられる内に真実とは別なものとなってゆく
マスコミとか報道機関がないとき人から人に伝えられるのが基本になる
現代の問題はマスコミが伝える、それでマスコミは第三の権力になったのである

メデアというときいろいろなものがメデアなのである、仲介するものなのである
銀行もメデアだというときそうなのかと思った、普通はメデアとは見ない
でもみんなから金を集めそれを投資に回したり金を貸したりして利子をとる
そういう仲介者だということではそうなのかとなる
だからクラウドファンディングとかなるとある製品を作るために直接生産者に投資する手法がインタ−ネットで生まれた、銀行を介さないで消費者が投資するのである
銀行は仲介するものであるがここでは生産者と消費者が直接結びつく関係でありメデアが仲介者がかかわらないのである

現代とは様々な分野でメデアに頼っている、どうしても株などわからないのだから証券会社とか銀行だと前は信用あったから頼る、でも個々人でトレダーとなって株の取り引きをしている人達がいる、その人たちは証券会社を通さないし銀行も通さない
自力投資してもうけているのだ、でもそのハードルは相当に高い、みんなができるわけではない、でもそういう人こそ自立しているしメデアを通さないのだからそれで損するにしろ儲けるにしろ自己責任なのである
でも銀行で投資信託をすすめるけど必ず手数料がとられるしまた必ず転売する
自分の場合は株をもっていたがリーマンショックの時持っていた株が元にもどり上がってきたとき勝手に銀行員が売ったのである、転売して他の商品を買わせるためだった
その株を持っいたらその後上がり続けたから倍にも儲けることができた

これも結局そもそも銀行というメデアに仲介者に頼んだことでそうなったのである
それは証券会社でも同じである、それは株とかわからないからそうなったのである
そして銀行は投資には株には素人だったのである、銀行自体が株を知らない
なぜなら銀行はこれまでただみんなから金を集めると金を貸してくださいという人がいくらでもいたからである、だから金を貸す相手がいないということはなかった楽な商売だったのである、金を貸して利子をとればいいだけの商売だったのである
それがなくなったとき金を貸す会社でももうわずかでありなくなったとき商売が成り立たなくなったのである、細かい金の出し入れは銀行でするのではなく自動化したりして仕事がなくなってきたから苦しくなったのである

●メデアに仲介する者に頼る社会

現代社会はともかくあらゆることでメデアに頼る社会なのである、仲介するというとき
何か言いたいことがあってもメデアを通さないとできない、テレビ局に私が発言したいのですがと言ってもできない、テレビ局で発言する人を選ぶのである
NHKは公共放送というけどそこで発言できる人は限られている、その発言内容までチェックされる、つまりそのテレビ局の意向にそったことしか発言できないのである
それでインタ−ネットはメデアなのだけど制限するものがいない、誰でも一応発言できることでメデアが変わったとなる
それでNHK党とか参政党とか極端な思想の政党でも選挙で議席を持つようになったのである、インタ−ネットでは前々から極端な発言でも許可されていたからである
それも問題があったが確かなことは仲介するものが力をもっていないから権力を持っていないからそうなったのであるつ

ただ問題はインタ−ネットでもプログなどは簡単にできるがワードプレスのように自分仕様にすることがめんどうである、技術的にめんどうなことがある
それで自分のプログでもワードプレスにしようとしたができないとか技術的な問題があるそこに手間だけは省けないのである
そしてインタ−ネットではまずマスコミのように何百万人とか見ないし読まない
だから目立つ人となるとわずかになる、後は膨大な人達は埋もれるのである
ただそれでもインタ−ネットはマスコミのように仲介するものがいないのである
一応自由な発言が許されている、でも読む人は極端に少ないとなっているのである

ともかくメデアに仲介する者に頼るというのが現代社会である、本を出して自分の意見を言いたいとしてもそれもハードルが高い、書店でも置く本を選ぶからである
でもアマゾンとかなるともう天文学的な本が古本でも簡単に地方でも買えるから情報格差はなくなったのである
私は引きこもりでワープロでパソコン通信していた時期があった、それはまだパソコンが出始めのときであり技術的には未熟な時だったのである
それでワープロに通信機能がついていて全国の人たちと通信で会話していたのは不思議な経験だった、そのことが自分には良く理解できていなかった
でもそれがインタ−ネットの発展の初期でありそれが現代では拡大して日常化したのである
ただそこで発言するには技術的にめんどうだったのである、そこに技術の問題があり技術が障壁となる、パソコンマニアがいてしていたともなる
私がなぜそういう初期の時代からかかわっていたかとういと悪筆なのでまずワープロに親しんだ、そして富士通のワープロで親指シフトを覚えて文章をスムーズに書けるので利用するようになった、ローマ字入力だとスムーズに文章化できないのである
ここが意外と一番問題であり入り口としてはつまづくからである
やはり映像もあるが文章が基本になるからである

インタ−ネットは今でも技術的な問題がまだまだある、それがワードプレスにしようとしてもできないことにあった、またホームページを作ったがそれも放置したままである
そこで新しくアップしていない、プログをしていていたホームページを使っていなかったからである、途中十年とか介護になり時間もなくなったからである
何かこのインタ−ネットとか意外と理解するのに時間がかかるのである
それは技術的な問題があるからそうなる、なぜなら最初の時期はパソコンマニアがいて理系の人が意外と多かったことでもわかる、文系の人は技術に弱いからそうなっていた

●宗教も教会と牧師は神と仲介するものだからメデアだった

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宗教でも神と取り継ぐものとして教会と牧師が生まれた、旧約聖書の時代には牧師も教会も存在しない、直接神とエホバとの交信であり信仰である、そこにいたのは預言者だった教会が生まれたのはローマ帝国にキリスト教が公認されてからなのである
そこで教会が強大な力を持つようになりキリストの信仰を仲介するものが牧師ともなった司祭ともなり権力を持つようになった
それに反発したのがプロテスタントなのである、免罪符などを売りつけられて反発した
だから教会とか牧師が神との仲介役になることを否定したのである
カトリックとなるとイタリアではバチカンがありそこは独立国でり兄弟な権力持ったのである、一つの国をそこで形成しているからである

仏教でも寺院はそこは不可侵の領域であり城でもあり僧兵が武装もしていた
だから信長がそこを権力集団とみて攻撃して殺戮したのである
その原因は比叡山でもそこが不可侵のものとなり一つの国ともなり琵琶湖の船運で税もとっていたからである
そこが強大な権力集団と見たから武士団と対立したのである
それはカルト教団でも数を集めて巨大化すると現政権をとりこめる、それが創価であり
統一教会でありオウムでもオウム王国を作ろうとしていたのである
創価は創価王国を作ろうとするために運動しているし幸福の科学でもそこに教祖が王となることを目指しているとなる、統一教会だったら文鮮明が王となっている
つまり宗教を利用してこの世の王となることなのである
そのために権力を掌握せねばならないから政治にかかわり操作しようとしているのである
だから何でもメデアとなるものが力を持つ、何か庶民でももめごとがあると弁護士に頼むでもそうして仲介者に頼むと搾取されることがあるのだ
ただ相談しただけで百万の金をとられたというのもそうである、そういう悪徳弁護士も結構いるのである、それで推理ドラマにもなる、弁護士は遺産とかにかかわるからそうなる労せずして金が入る職業だともなるからである、そこにいろいろいるにしても裁判でも弁護士を頼む他ないからそうなる、つまりこの弁護士もメデアなのである、仲介する者なのである、現代とは専門家がいてその人達もメデアであり仲介するものとなる
そしてその仲介する者が力を持ち搾取されるともなるのである

現代社会とはとにかく複雑であり何でも個々人でできない、すると仲介者に頼る
そのために仲介者がメデアが力を持ち左右されるのである
それはいろいろな分野でそうなっているのである
だから現代社会の問題はメデアに支配されるということにある
それは現代社会が余りにも複雑すぎてそうなっているのである
何かあれば専門家に頼らざるをえないからである、専門家の時代でもあるからだ
ただこうして人間は非力化されてただ専門家であれメデアであれ支配されるだけだとなるただメデアに支配されていることは気づかないことがあるのだ
NHKなどがそうである、いかにも善人のように見せて現実は裏では真実をまげて報道しているとかある、それでNHK党が生まれたのはインタ−ネットの効果だったとなる

●金がかかりすぎるマスコミ報道の問題

現代社会はメデアの役割が仲介するものの役割が巨大化したのである
それでマスコミが第三の権力と化したのである、新聞でもそうだったがこれも新聞を刷る印刷するのに莫大な金がかかりそれを配達するのにも金がかかる、それは本でも同じである、金がかかりすぎるから結果的にスポンサーに頼りスポンサーに忖度する
そして真実は報道されない、福島県の原発事故でもそうだった
電事連とか800億円の宣伝費がマスコミに回っていたから批判する記事は書けなかったまた今カルト宗教団体のことが問題になっているが統一教会でもマスコミに深くかかわり批判できないようにしていた、なぜなら霊感商法で批判されてから20年以上統一教会のことなど話題にならなかったからである、それは意図的にマスコミがそうしていたとなるまた創価などは聖教新聞を毎日新聞であれ福島民報であれ刷らせている

そして金銭面で批判を抑えるのである、つまり新聞というのは余りにも金がかかりすぎるのである、他でも本でも雑誌でも金がかかりすぎる、それで福島県の政経福島でも相双リテックから宣伝費をもらっている、裏表紙で宣伝したからである
相双リテックは除染で莫大な金をもらい億の金を幹部で山分けしていたからである
そんな会社のことを宣伝していることは大問題である、ても結局金の問題でそうなっいるのである、報道するにも金がかかりすぎるのである

まずインタ−ネットなら技術的なものとしても障壁があってもまた手間でもあるが金がかからないのである、だから個人でもテレビ局まで持つようになる、youtubeがそうである
そうなるとマスコミの力はかなりそがれる、何百億円の資本金の会社としてマスコミがあったとしてyoutubeなど手間はかかるが金はかからないのである
このことが画期的なことだったのである
そうなるとテレビでもあまり見ないとかなり新聞を読まないとかなってきた
巨大メデアが小さく見えるようになったのである、平等化したともなる
ただyoutubeでも見られことは至難であるから人気のあるものは見ても多くなると選ばれるから全然見られない人も出でくる、それはインタ−ネットでも前からそうだった
そもそもそんなに多くあっても見る時間が限られているのだからみんなに目を通すことはできない、それがまたインタ−ネットの問題だとなる

●なぜ現代社会がナチス化するのかカルト化するのか?

いづれにしろ現代社会はメデアが力をもった時代である、江戸時代なら村で生活する知識とかあれば良かった、自給自足が基本であり外国まで頼る頼られる時代とはまるで違っていた、国内でも村で自立している生活である、すると村のことを知っていればいいともなる、他藩のことは知らなくてもいいとなる
今は外国のことまで知らなければならない、すると天文学的な知識になる、とてももう処理できないのである
そして様々な複雑なシステムであり社会全体を理解する人は誰もいない、世界だった理解不可能である、福島原発でも吉田所長が復水器のことを知らなかったという、それは大事なものだが資材関係が専門だから知らなかったと言っている
肝心なことすら知らなかった、それは社長でも会社のことを全部知る人などいないのである、一部は知っていても全体を知る人はいないのである

そうなると社会がどうなるのか、どうしてもカルト宗教団体でもナチスでも全体主義になる、ハイルヒットラーが一番わかりふすいからそうなったのである
カルト教団でも教祖がヒットラーと同じだからである
それは複雑に分化してもうあらゆることなど知り得ないからである
知るにしてもメデアを頼る他ないとなりメデアにマスコミに操作されたのである
江戸時代だったらヨ−ロッパでも中世社会だったらそんなことありえなかったからである世界でもメデアに左右される、情報でもフェイズニュースでも信じる
イラク戦争では油まみれの海鳥が全世界に報道されてイラクへの批判が強まった
でもまわりは油がなくそれは作られた映像だったのである、それに全世界がだまされたのである

要するに現代社会は情報でも必ず直接見ることもできないしその場に立つこともない
だから偽りの情報に左右される、外国で起きたことでもその場に行って確かめるなどできないからである、現実にその場に行って聞いたりしら全然違った感想にもなるからである現代が情報社会というときナチスがゲッベルスが宣伝の役割をになったように情報に左右されやすいのである、そしてカルト教団などは金で権力でメデアをマスコミを支配する
必ず権力を持つと自由な報道は抑えられるからである
でもインタ−ネットはなかなか抑えにくいからマスコミの力は減退した
それでインタ−ネットが民主主義を促進する役割があったとなる

私が思うに民主主義でもあまりに巨大化すると機能しなくなる、そもそも人間が理解する範囲はアイディンティティ化できる範囲は狭い、自然でも狭い範囲でしかアイディンティティ化できない、常にその場を歩いて実見していないとできない
旅しても30年とかすぎるともう記憶もあいまいとなりその場がどういう場所だったかもわからなくなる、常にその場で生活していないと理解できなくなる
だから国というとき小さい狭い範囲になる、そこでアイディンティティ化して安らぐとなる、日本の国といっても大きいからアイディンティティ化することはむずかしくなる
それより中国とかに三回行ってもその国土でも人民でも歴史でも理解することは不可能だった、あまりにも巨大すぎて理解できない、アメリカでもそうである

人間は狭い範囲でしか実地に生活する場でないと理解できない、アイディンティティ化できない、ギリシャのポリスでも一万くらいだったのである
それくらいの規模でないともともと民主主義は成立たなっか、人間の認識できる範囲は狭いのである
だから自分自身が相馬郷土史と相馬新報として発言してきたのはまさに狭い範囲で自然とも社会ともアイディンティ化しようとしためである
そういうホームとか基盤を持たないと真実の報道はできない、この場が重要なのである

大衆的アイディンティティは集団や個人の経験から発展したというよりも、世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え、商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは最も表層的な場所のアイディンティティであり感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内面性をむしばむ
マスメデアはその受けてが直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする

読むべき本ー場所の現象学(エドワード・レルフ)
(アイディンティティは場から形成される)
http://musubu.sblo.jp/article/186376894.html

とにかく現代社会は偽りの情報に惑わされる、様々な情報が天文学的になっている
そして現実にその場に立つこともないので偽りの情報に左右されるのである

2022年08月27日

北海道苫小牧から樽前山まで俳句十句 (岩袋のことなど)


北海道苫小牧から樽前山まで俳句十句

(岩袋のことなど)

tarumaesoumaki1.jpg

苫小牧白波よせて夏に来る

ルピナスや船着きおりぬ苫小牧

広き野にサイロの農家菖蒲かな

夏の日やレールの伸びる北海道

沼に鷺車窓より見て北海道

大輪のシラネアオイや湖澄みぬ

波よせて甘草咲くや走り去る

鳥高く大空に飛翔夏の朝

旅たちぬ鳥の飛翔や夏の朝

煙吐く樽前山や藪甘草

どっしりと牛数頭や藪甘草

悠々と牧場に牛や菖蒲かな

頂上の風の荒しも岩袋


風に耐え頂上近く岩袋ここに咲けるや我が登り来る

北海道は10回行っている、でも30年とか過ぎると記憶もあいまいになる
そして今になると旅した場所を思い出すことが仕事になる
そして意外と思い出せない、忘れているのである、印象的な場所として思い出すことはある、でも人間の弱点は常に忘れることにあった
そこで今ならデジタル写真が記憶にとどめて後で回想するにのにいい、でもその時はフィルム写真だからあまり写真をとれなかったので残っていないのである

この場所が記憶に残っているのは樽前山が煙がはいているとかめずらしかった
山の形も樽のようである、ただアイヌ語らしいからちがっているらしい
そこで苫小牧から鉄道が通っていておりたのか、また自転車で行ったのか、覚えているのは鉄道があり踏切りがありその辺を歩いた、するとサイロがあり牧場がありそこに大きな菖蒲が畑に一列に咲いていた、そして広々とした牧場があり牛がいた
その牧場の柵に藪甘草が赤く咲いていた
そういう風景として記憶されていた、全体が記憶されたのである

岩袋を見たのは大沼公園でありそこに上って頂上辺りでみた
山だから風が吹いていてその風に耐えて咲いていた、いかにも岩袋らしいとなる
これを樽前草といっているのは樽前山に多く咲いているからそうなった、もともと岩袋である、岩に咲くからその名がついた、何かふさわしいとなる、岩とともに耐えて咲くとなるからだ

ふりかえると写真が貴重だった、この樽前山が見える牧場でも一枚の写真が残っただけだった、これが貴重なのである、なぜならフィルム時代の写真だからである
旅をするなら今ならデジタルカメラでとにかく記録として大量に写真をとることである
なぜなら30年とかすぎると記憶があいまいとなり思い出せなくなるからだ
人間にとって意外と記録が大事だというとき何百年前にあったものでも記録がないと
なかったことになる
この辺の津浪の記録は相馬藩政記に二行しかなかった、生波で700人溺死と記されていた、生波(いくなみ)とは津波のことでありその時まだ津波という言葉が生まれていない慶長津浪の時生まれた言葉なのである、この記録津波が来るまで学者すら知らなかった
これがいかに貴重な記録だったか知るべきである

ともかくこれだけ旅したとしても30年とかすぎると忘れる、思い出せなくなる
その時写真が残っていれば貴重だとなった
ところが今回の地震でその写真でも本でもばらばらになって未だに整理できていない
だから毎日整理に追われている、写真も整理していたのだがばらばらになってしまったのである

苫小牧の近くには支笏湖があり途中にウトナイ湖とかありその沼は水がきれいだけど浅い支笏湖の宿には泊まった、苫小牧におりるとルピナスの花が咲いていてそこからすでに北海道だとなる
一応思い出して俳句にしたがいいものともならない、そもそも北海道は広いし大陸的だから俳句が合わないのである、北海道に苫小牧で仙台から船でつくとそこから何か空気まで違っているのである、北海道が外国人にも人気があるのがわかる
本州とはまるで違った雰囲気があるからだ
たたすでに二十年くらい行っていない、だから月日が過ぎるのが早すぎるのである
なんとか一枚の写真を探し出した、藪甘草が牧場の脇に咲いていたのである
そこか煙吐く樽前山が見えたのである
北海道はまた旅したいが介護十年してまた出かけると家が留守になるので出れない
何か遠くに行きづらくなったのである
それで思い出す旅を家でつづけているのである

2022年08月26日

なぜカルト宗教団体にだまされるのか? (思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)


なぜカルト宗教団体にだまされるのか?

(思考脳が働かない、カルトは金をとることが目的-日本人はカルトにはまりやすい)

●金を信者からとること自体宗教ではない

なぜカルト宗教団体に入るのか?まただまされるのか?
思考脳が働かない、何でも苦しいからと頼ることの危険
カルトは金をとることを目的にしている

先祖の祟りだとかして統一教会が信者から金をとっていた、確かに親の因果が子に報いとかは現実にあるしほとんどの家に何か悪い因果が働くことは確かなのである
それは事実だし自分もそのことを延々とカルマとして書いてきた
でもそれが現実にあるとして統一教会のようにそのカルマから祟りから逃れるためには
教会に金を寄付せよということが最大の問題なのである

つまりカルト教団の目的は信者から脅して金をまきあげること

これなのである、そもそも宗教に金がからむと宗教本来持っている効用はなくなる
金だけが目的と化してそのためだけのものになる
むしろ統一教会だと先祖のカルマを梳いてるから金を出せということ自体悪質な詐欺なのである
単純に考えると人間は簡単に金だけは出したくない、何で金を出すのだと常になるからだでもなぜカルト教団に金を出すのか不思議だとなる
それは戒名とかでもそうである、いい戒名をつけるには高額な金を払うとかも騙されることである、死んでからいい戒名をつけてもらったからとして何かいいことがあるのか?
もう死んだら金は必要ないのである
というのは死者に供え物をする、それが果物とかではない、金を供え物とすることはできない、死者にとって金はもういらないからである、むしろ一杯の水でもお湯でもあげればいいとなる、死者には金は紙幣はもういらないのである
死者が望むのは物ではなくその人の心だともなる、死者を供養する心があれば水でも供えればいいし野の花でも供えてもいいのである
問題は供養する心が大事になるからだ、現実に死者を愛さないものは墓参りでも供養もしないからである

ともかく宗教に金がからむと不純なものが生まれる、だから宗教で成功することは危険である、巨額の寄付金が集まる、それ自体がすでに何かいかかわしいことをしているから金が集まったのである、でもその金が集まることでカルト教団は力をもつ、この世で力を持つのである、そもそもカルト教団はそうしてこの俗世で力をもって支配したいためにあるこの世で人を支配するには金だとなるから金を集めるのである
先祖が悪いことしたからとか先祖を救うためだとかが現実にあるとしても実際はそれで金を得るためにする、では金を払ったからといってカルマが解消するかとなるとしないのである
そこで得するのはカルト教団でありその幹部達なのである
つまりカルト教団とは悪質な宗教によに詐欺集団なのである
地獄に落ちないようにするには免罪符を売ったカトリックと同じなのである

ただ人間は金を払うことには100円でも敏感なのによく金を払うとなる
まあ、賽銭箱に十円であれ百円くらいならいいが憶の金を払うということはどういうことなのだろうとなる、貧乏に暮らしていたらそんな金を払うことはない、金で苦労していたらそんな金を払うだろうか?みんな金にはシビアなのである
そもそもカルト教団にだまされるのは思考脳が全くない人達である
なぜならちょっと考えればわかるからである、そういう自分もカルトに若い時はまったから他者に厳しくは言えないことはある
でも創価に入っても金はほとんど払っていない、新聞をとったとしてもわずかの金である大きな金を払ったことはないのである

●宗教は人間と人間の問題ではなく神と人間の問題である

宗教が何かというと人間と人間の問題ではない、神と人間の問題なのである
そこが根本的に間違っているのである、たいがい宗教は人と人との関係にあると見ているからである
そもそも神が人を万物を作ったのだから神と人との関係が最優先なのである
でもどうしても社会だと人と人の関係であり人を離れてありえないとなる
でも聖書を見れば神が存在して人がいる、その関係性を記したのが聖書だとなる
だから神が人間に望む者は何なのか、神に供えるものが問題になる
カインは野菜を供えてアベルは羊を供えた、でも羊を供えたアベルは神によみされたのである、羊はやはり人間と通じてそれを犠牲にすることは痛みをともなう、それは人間を神に捧げることに通じている

神が人間に求めるものは金ではない、紙幣ではない、それは死者でもそうである
神に供えるものは神が求めるものは人間そのものであり人間が犠牲になるのことなのである、だからアブラハムはその子のイサクを捧げようとしたのである
その子でも老人になって奇跡として授かったものであり最も大事なものだったのである
だからそもそも信者に金を求めること自体が詐欺である
神が求めるものは金とかでもないし物でもない、正しき義の人を神に捧げることである
その至高の人がキリストだったとなる、神の一人子だったからである
その人は傷なき神への献げものだったのである

カルトとは自らその長が神と称して他者を奴隷にする、サタンでもある、そして会員は犠牲を払わされる、その長は本当の神に成り変わって自らを神とする偶像でもある
ただ実はその会長にしても実はサタンに使われているだけである
その人を操作しているのはサタンなのである、そしてそのサタンに使われた人はまたサタンにいいように使われて捨てられるのである、結局地獄に落とされるのである
この世がサタンが依然として支配しているというとき人間の欲がなくならないからであるその欲があるためにその欲をかなえてくれるサタンに仕えてまた使われるのである
もし欲がなかったら幼児のようだったらサタンはそこに作用できないからである
だからこそみどり子に治めさせよとか老子のように治めずして治めるとかなったのである

神ー人間
自然ー人間
人間ー人間

日本人だと自然が八百万の自然が神となりまた人間と人間の関係しかない
唯一の神と人間の関係が欠落しているのである、それでカルトにはまりやすいのである
日本人は基本的に神と人間の関係がない、日本の宗教だと師が絶対的なものとなりやすい神のようになりやすいのである、法然に帰依した親鸞でも師が地獄に行くなら私も地獄に行くというまで人間と一体化するのが日本人の特徴なのである
それでカルト教団でも偽りの師でも一体化してゆく、偶像化して一体化して従うとなる

●事業化して政治化したカルト教団からは税金をとるべき

ともかく苦しいからと困ったからと安易にカルト教団に相談したりして金をとられるのは問題である、具体的な金ということでそこからカルト教団を判断する
新聞をとるくらいなら仕方がないとなるがそれ以上の金をとるとなると金をとることが目的の団体だと見るべきである
カルト教団の目的はとにかくこの世で力を得ることである、だからこそ金が第一の目的として運動しているし、創価だと票をとることを目的としている
政治家になればこの世の権力を得ることができるからである、だから創価では確かにあまり金はとらないが選挙を最大の目的としているのである

でも何百万の会員がいるとしてその人達の困りごととか苦しみを相談して解放してやることができるのかとなるとできない、そんな数になるとただ数を集めて票に結びつけて権利を得ることしか眼中にはないのである
第一人間は相談を受けて何かしてやれるのは二三人くらいだろう
百万人の相談にのれることなどありえないからである
だからただ頭数を集めてそれを票に結びつけるだけだとなる

だからカルトを制約するには金に注目することである、宗教団体でももともと宗教とも関係ないのだから税金をとるべきだとか金の面からカルトを見てとりしまるべきだとなる
とにかく信者から集めた莫大な金がどう使われているのか、それを見るべきである
そもそもそんな巨額な金が必要なのかとなる、神殿のようなものを建てたり事業に使われたりと宗教がビジネスにもなっている、宗教は本来事業と関係しないのである

でも現実社会では宗教家でももし豪邸に住んでいたり神殿のような豪華な建物を見たりすると信仰していれば大金持ちになれるのだとなり励むことになる
そのこと自体が危険なのである、それが宗教だとなり模範とされるからである
それで宗教者はあばら家のような家に住む方がいいともなる
なぜならそうしたら宗教に励んでも金持ちにはなれないとなることを示しているからだ
現実にシャカでもキリストでも家もない岩窟で座禅して悟りを開いたとかキリストもこの世に枕するところなしとい寝る場所もなかったからである
でもカルトとなるとその正反対でありこの世で成功して栄華栄誉に暮らすことなのである
ともかくカルトを制約するとしたら第一金の面であり巨額の金が集まるとしたら税金をとるべきである、宗教は本来金とは極力かかわるものではないからである
また宗教はビジネスでないからビジネスにかかわることは禁止すべきである
また少人数ならいいが何百万も会員とすることは独占法違反にもなり危険だからそうした巨大宗教団体は制約すべきである
なぜそれほどまでして会員を増やしたいのか?それは民主主義では数が権力になるからである、田中首相が金と数が力だということになる、それは政治とか世俗の世界ではそうなる、それが宗教まで適用されることが問題なのである

宗教はナチスになりやすい、数を集めることにを最大の目的としているのもそうである
結局赤信号みんなで渡れば怖くないとなる、数がすべてを決めるとなるのがのが民主主義ともなる、でも統一教会のように世論がバッシングするときまた数が効果を発することがある、これだけたたかれればもう統一教会は終わりだろう
だから他のカルト団体でもこうして世論でつぶすことができる
だから今創価などは戦々恐々しているかもしれない、火の粉が飛んでくるからである
現実に統一教会をバッシングしているが創価はなぜ責められるのかともなっているからである、創価も明らかにカルトだからである
それもナチス化する統一教会より危険な団体なのである、権力をとるためなら何でもする団体だからである
本当にカルト法が必要である、外国では日本のカルト団体は禁止されている
統一教会でもそうである、日本は余りにも戦後自由になりすぎたのである
それは戦争の結果ではあるがカルトはやはり制限してとりしまるべきだとなる
それは社会にとって危険なものになってゆく、ナチスの再現にもなってゆくからである

●宗教に外国が関係することの危険

確実に統一教会は政治にはいりこみ日本を乗っ取る計画をしていた
統一教会の大きな問題は韓国であり外国勢力がカルトとして日本侵略をねらっていたことなのである、これは非常に大きな問題だったのである
日本人からだまし取った金が韓国に回っていた
そして日本は最終的に韓国に支配されるとなる、そこに在日がからんできて複雑になる
在日とは何か日本人であって日本人ではないという複雑な立場にあるからだ
在日は外国に韓国にでも日本を売りわたす団体なのかともなる
ただ在日は理解しにくいのである、いろいな人がいて理解しにくいのである
明確に在日団体というのは組織があるとも言えないし理解しにくい
ただ下関には戦後韓国に北朝鮮でも帰るために集結したが朝鮮戦争になり帰れなくなり
下関にとどまった一団の人達住みついたという取材がyoutubeで見た
下関には在日の人達が集団的に居住したのである、今でも韓国の釜山に航路があり韓国系であり在日であれ行き来しているからである

統一教会の問題はこうして国と国の関係ともなり問題だったのである
外国にカルト教団を通じて日本の金が奪われ遂に日本の政治家に浸透して日本の政治が歪められる、それが最大の問題だったのである
それは政治だけではない、日本テレビにも24時間テレビで統一教会の人が番組作りしたとかニュースになった、それも統一教会側からそれを発表して一方的な報道をするなと警告してきたのである、つまり今統一教会をマスコミが批判しているがそのテレビ局でも統一教会が深くかかわっていたとして批判するなとなったのである
統一教会こうして日本の主要な権力とかかわり日本支配をねらっていたとなる
宗教はそのための隠れ蓑であり現実は日本政治を左右してその支配下にする
韓国が日本が支配する道具ともしていたとういことで重大な問題になったのである

宗教は個々人の心を問題になるのではない、権力を奪う団体でありやがてはカルト教団が権力を得て支配するためのものである、だから政教分離が必要なのだが自民党自体がすでにカルト教団に侵食されていた、第一創価公明党と一対なのだから自民党自体がカルト政党なのかとなっていたのである
つまり私が追及してきたように政教分離をしていないからそうなった
その法律は有名無実であり何ら行使されていないからである
公安委員長自体が統一教会にかかわっていたからである
これほど統一教会に侵食されていたことは意外である、なぜならどうしても10万くらいの団体がそんな力をもてるのかとなるからだ

ただそこに無料で選挙運動してくれるとか何か巧妙なものがあってそうなった
それでカルト教団の力をそぐにはみんな投票しなければならはないというのもわかる
創価公明でも固定票は限られて減っている、だから投票率が上がれば当選できなくなるからだ、まず自民党は創価公明と手を切るべきなのである
政教分離の法に違反する宗教団体が国土交通大臣になることは憲法違反だからである
宗教団体は国からいかなる特権も受けてはならないとなっているからだ
とにかく日本は戦後75年とかすぎて政治であれ何であれ大きな変革を強いられるているのである、日本の貧困化も深刻であり何か暴動でも起きるような物騒な時代になっているのである、だから自民党一党独裁は終わりつつあるのかとなる
大きな変革の時代でありそこに相当な痛みが生まれる、でもその後に再生する日本があるとなる、期待するとなる

2022年08月25日

墓にまつわる話 (母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)


墓にまつわる話

(母の実家の墓と兄の墓の物語-金金金のこの世の地獄)

●人間最後に残すのは墓

墓は人間が最後に残すものである、でも墓を見てもその人はどういう人生を送ったとかわからないのである、ただ私は必ず墓を見ている、江戸時代のものがあれば古いとして価値あるとして見ている
ただ墓から何か知り得るものは少ないのである
でも身近に関係ある人が死ぬとその墓には必ず物語がある、家族でも死ねば物語がある
墓とは何か死んでも人が訴えるものなのだろう
というのは母の実家の墓は隣の市にあるから良く墓参りしていた
そこには25才で死んだ人が埋まっている、それは母親の兄にあたる人である
肺病で死んだのである、その頃肺病で死ぬ人が多かったのである

それも若い人だったから悲劇だったのである、啄木でも正岡子規でも宮沢賢治でもみんな肺病で若死にしている、肺病は国民病とも言われていたのである
それが悲劇だったのは若い時に死ぬからである
だから20代で死ぬというとき肺病が多かったのである
それでその墓の前に立つと必ずそこで25才で死んだ人のことを思っていたのである
そこで何か心苦しいものを感じたのである
他にも若くして戦死した人の墓もありそれで戦争のことを思うのである

墓はいらないとか海に焼いた骨の灰をまくとか樹木葬だとかなるのが昨今である
でもそうなると墓がないからその人のことを思うことが具体的な物を通して思うことができなくなる、ただ別に墓がなくてもその人を思うことはできる
写真でもいいし墓だけが故人を偲ぶものではない、ただ最後に人間は墓に埋まり訴えるものとしてあるとなる、普通の人は何か作品でも残さないし忘れるられるからである
ただ墓からだけではその人がどういう人生を生きたかなどわからないのである

●分裂不和の母親の実家

ともかく母の実家は分裂不和の家であり争いの家でありそれが後々までも死後もひきづった、それがカルマとなっていたのである
だからその後でももう墓を守る者が一人いたとしてもその人は異常な人間とも思えない人になっていた
ただ実家の墓を守ってくれと言ってめい子に3百万円渡して死んだのである
その三百万円は普通の金ではない、爪を灯をともすようにしてためた金だった
なぜなら共産党員であり赤旗を配って生活していたがその金もわずかである
それで畑とか作って自給自足していた、最低の生活をして金をためていたのである
その人は母の実家では長男にあたる人だったので死んだら墓を守ってくれと言って
三百万円めい子に渡したのである、でもそのめい子は普通ではない、人間なのかとも疑った、非情化した人になっていた

それで育ての親が私に最後に「ひどい娘だわ」と恨みの言葉を残して息を引き取ったのである、白血病でありすぐに死んだから良かった、そのその娘は介護などできないからである、それが救いだったのである、なぜそんなふうになったのかその事情はわからない
ただ私の家にきて「おばちゃんは金あるだから金でめんどうみてもらへ」と言って激怒して去って行った、その人は別に何もしないし何も要求しないのである
もともと関係が希薄だし子供の時一回合ったとかしかないからである
でもそうして血相変えて去って行ったことでひどい娘だわということを自分も思うようになったのである

つまり育ての親は私に恨みを残して恨みを晴らしてもらいたいとまでなっていたのであるでも私の家では兄弟でもうまくいっていないし付き合いもなかったのである
でも最後に電話してきたのはよほどひどい娘だということを言いたかったからだとなる
その娘は金は入るのである、5才まで一緒にいた実の母親は金持ちの家の人と再婚したので金があった、でも認知症になって施設に入ったのである
そこで金だけで目当てで娘は施設に入れた、でも全く母親と思っていないのである
だからこれも最後に金持ちに嫁いだとしても悲惨だったとなる
その娘には母親という感情がないからである、ただ再婚した相手の夫にも子供がいたからその実の親でも遺産争いになっているらしい、でも認知症になったらどうなるのか?
誰が遺産をもらうのかとなれば実の娘だとなるのかもしれない、その辺のことはめんどうになる

●継母にいじめられた私の母親

とにかく母の実家は父親は警察署長だったのである、だから幼少時は母親は恵まれていたのである、でも生糸の機織り工場を経営して失敗した、警察署長だから成功すると思っていたが会社の経営などできない人だったのである、母親もただ威張っている人だったと言っていたからである、そしてその時母親の実の母は病気になっていて後妻を迎えた
その後妻になった女性はものすごく気が強い女性でその継母に私の母親はいじめられたのである、子供の時弁当作ってもらって残したら実の母親が作ったものではないから食えないのかとその弁当をぶんなげたというからひどい女性だった
でも最後に養老院に入り何か精神がおかしくなり目も見えなくなったのである
もともと字が書けない人で手紙でも書いてもらっていたのである
その頃まだ字を書けない明治生まれの人がいたのである
私の父親は酒屋の丁稚奉公だったが良く字は筆で書いていたのである
葛尾村の出でありどこで字を習ったのかおそらく丁稚奉公した酒屋で習ったのだろうか?明治生まれでも一応字を書けていたからである

そしてその継母は死んだら大学病院で解剖してくれという遺言があり解剖されて私の家に骨が来てその実家の墓に葬ったのである
その前に養老院で何か妄想のようなものを見て苦しんでいて母親が見に行った
そして「悪かったな」と言ったという、やはり継母で私の母をいじめたことを後悔したためだろう
そのめい子になる女性は三人母親が変わったのである、でもかわいがられて良くされたのである、だからそんなに非情な女性になる理由がわからない、ただ私は子供の時一回くらいしか逢っていないから事情がわからないのである

●私の異父兄弟の兄の交通事故で死んだこと

そして私の兄についてだが兄は私の母親が東京で女中したとき結婚した夫の子供であり
私の家に再婚して連れてきた、その時私は五年間くらいあんにゃと言って一緒に暮らしたのである、ただその後父親とうまくいかず家を出て実家で暮らしたのである
その実家で母親の継母がいて五年間一緒に暮らしたのである
でもそのめい子は一緒に暮らしたことを覚えていないという、そんなことありえるのか
少なくとも五年間子供のとき寝食をともにした人を全く忘れる知らないとなるだろうか?そういう非情な人になったのだからそうなったのかもしれない
兄は集団就職して静岡の女性と結婚した、でも離婚した
何か市営住宅を金に困り追い出された、そこでトラック会社に入りトラック運転手になった、でもその会社に入ってから交通事故で40才で死んだのである
その死ぬ前に運転手の仲間と一緒に家に寄ったのである、それが最後に会ったとなる
その時は何か元気でありそこで働いていることは悪いことではなかった
ただ死んだ結果何か豹変したのである

それで私と母親と親戚の人がその会社に行った
そこでまたもめたのである
「遺骨はもってゆくな、墓は作ってやる」と遺骨をもってくることができなかった
別に実家に墓がありそこに入れることができたのである
そしてその社長は乞食のようにして来たのを雇ってやったと恩をきせがましく何回も言っていた、ただ正直私の家では兄を良くしなかったことで強く言えない事情があった
何かそのことで責めて来たのである、第一遺骨を引き取るとか墓を作るとか普通は社員が死んからと言わないだろう
だから私はついていいったが何のことか皆目わからなかった
また保険のことを車が持っていないのでわからなかった、自賠責とか任意の保険のことがわからなかった、任意にも入っていたのである

そこで後でその保険金を会社の社長は欲しいからだったとなる
兄には誰も身よりがないと見ていたのである、それで母親が来たので意外だったとなったでも墓を作り保険を受け取る代理人になりかったのである
私はもう嫌で三日くらいいて去った、兄のことでは私自身が悪いと思っていたので嫌だったのである
その後めんどうだから家では弁護士を頼んだ、ところがその弁護士を頼んだ親戚の人は頼んだだけで百万とられたのである、その弁護士も金しか頭にない人でありそんな金を払う必要もないのに払った、その金は自分の家のものでもないからそうなった
結局他人の金でありそうなった、ただその弁護士もずるいと思った
犯罪でもあったのだ、そして兄が働いた運送会社では休業証明書を頼んだら絶対に出さないともめた、それをなんとか出させたのは弁護士ではなく保険会社の人だったのである
弁護士は何もしていないのである、それで百万を得たとなるのである

●兄の一人娘のこと―兄を知る人は私しかなくなったこと

ともかく兄の遺骨は実家の墓に埋めた、でも今度は実家の墓でもめたので墓から兄のうめた遺骨を取り出して私の家の墓の隣に墓標を建てて埋めて供養することにした
でも墓から取り出した遺骨は土になりなくなっていた、まさに土になってしまったのである、でも仕方ないから兄の墓標は私の墓の隣に建てて供養している
そして娘は私の家に来たのだがこの娘も金のことしか眼中にない、保険金は全部娘がもらうことになった、でも中学生であり離婚した母が病気になり入院したとかで会っていたらしくその金は母親にも使われたらしいがその辺はわからない
一時はその母の弟に引き取られたが嫌になり東京に出たのである
高校卒業して東京に出た、保険金で生活して後は生活できないので生活保護になり一人娘を育てたのである

そして私の家でもめごとがありその娘も家に来た、また母親が死んで墓参りもした
でもその後は音沙汰がなくなった、もともと静岡で遠いので事情がわからなくなっていたただ兄が交通事故で死んだ時児童相談所にあづけられた、一年くらいそこにいたが兄の方にひきとられたがこれまたうまくいかず東京に出て暮らすようになったのである
母は唯一の兄の子であり娘だから死ぬとき認知症になっていてもその孫に何百万やれと私に命令した、それも死ぬ一か月前くらいであり認知症にもなっていたが正気にもどったようにそのことを大声で言ったのは驚いた
それでその兄の娘にその金を渡した、でもその後は音沙汰なしである
もともとその娘も金のことしか関心がない、それで墓参りに来るから十万くれと言ってきた、それを送った後は何の音さたもないし兄の墓参りもしないのである
つまりその娘も金しか関心かなくなっていたのである
ただ静岡でありどういう事情があるのかわからなくなっていた

●兄の墓参りする人は自分だけになったこと

そして不思議なのは兄のことを知っている人はいなくなった
故郷でもいない、子供の時遊んだ人はみんな死んだのである
だから兄のことを知っているのは今や自分だけなのである、なぜならみんな私の家族でも死んだからである、兄には悪いことをしたとしても兄を知っているのは自分しかいないのである、そして墓参りするのも自分だけになったのである
これも墓にまつわる話であり墓というのはその人の一生を語るものだともなる
すでに兄が死んだのも30年くらいすぎた、歳月が過ぎるのは早い
そうしてみんな忘れられてゆく、ただ墓が残って語るとなる、そこに墓の意義があるのかとなる

ただ娘も兄が父親としても苦しめられたから墓参りする気持もないのである
もちろん3百万はらって実家の墓を守ってくれとめい子に頼んだとしてもそのめい子にしろ非情化した異様な女性なのだからとても墓を守るとは思えないのである
ただ一応墓参りはしている、私はこういう事情になり母親の実家の墓参りはしない
何か怖くなったからである、母親の実家の墓とか家族自体が何かまともではなかった
それがカルマとなって自分にもふりかかって苦しんだからである
でもなぜか兄は自分のことを恨んでもいいが恨んでもいなかった
そこが救われたとなる、普通なら恨むはずだがそうでもなかった、何か人が良かったのかもしれない、ただ兄のことについては良くわからなくなっていたのである
でも私は墓標を建てて供養している、兄を知っているのは自分しかなくなっていたのである、故郷でも知っている人もいないのである
こうして墓には長い物語があるとなる、ただ他の人の墓についてはわからないのである

結局人間金金金である、親子関係でも遺産となれば金で争うのが普通である
人間はこの世にいる限り金から離れられない、カルト宗教なども金儲けのためだったとかなるし弁護士でも金だったしその金は自分の家のことで介護になったときも死んでからも金金金だったのである、地獄の沙汰も金次第となるがこの世と延長が地獄だともなる
この世が地獄であり金金金しかないのである、宗教でも表面上は善人の顔しているがカルトとになると金が目的なのである
それは統一教会であからさまに現れたし他でも同じなのである
宗教は本当は極力金にはかかわらないことである、金がかかわると宗教となると汚されるからである

そして金の切れ目が縁の切れ目

こうなって終わった無常である、ただ人間のつながりは愛し合う家族だったら切れることがない、墓がなくても遺影とかあり語りかける、すると笑っている
依然として家族がいる感じになるのだ、供え物として何か語りかける、それが極端になると認知症になると死者は死んでいない、死んだことがわからない、そうして死者と話ししているという、これも認知症だからではない、普通の人でもそうなる
その時死者は依然としていて通じ合っているのである
でも恨んで死んだりした死者はもう心も通じない、いくら装っても通じない
死者は冷徹に見ているからである、だから死んだ後も通じ合う関係になっていれば死んでも通じ合うとなる
墓というのはやはり人間にとって必要であり効用があるから作られた
墓だけが死者ではないにしろやはり墓参りもしなければ親子の縁で切れたとなるからだ
墓とは死者とつながる最後の場だとなる、その墓もいつかなくなる、それではかないともなる、無常となるのである




abstract painting-forest way


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way of volcano

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historic ruin

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Diverse flow of wind

2022年08月24日

人間の認識の限界 (空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)


人間の認識の限界

(空間と時間軸の認識の限界ーでも限界を破るべき)

人間というのは何事認識する意識するということに特徴がある
認識というときいろいろあってもまず空間認識がある、なぜならその住んでいる場所の空間認識は自ずと無意識にでもそなわる
でも空間認識にしても狭いのである、だから日本列島を空間認識すること自体難儀になる大平洋側で海から昇る太平洋を見ているのと日本海のように山から太陽が昇り海に沈んでゆくのを見るのとまるで違った空間認識になるからだ
また山国だと山から太陽が昇り山に太陽が沈む、この感覚もまた相当に違っている
その場所場所で空間認識は違ったものとして育つのである

京都だと盆地だから東山というと太陽が昇る山であり京都では意識される
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
これは東山から見る風景である、でも海側に住んでいると山から昇る太陽をいつも見ていないから感覚的にわからないのである
それで近江に行って湖西方面から太陽が昇るのを見た、それは東(あづま)の方向だったのである、あんなところから太陽が昇るのを見て意外だった
そして湖西というと西であり日の没る場所だったのである、それも感覚的にわからなかった、だからいかに地理を頭だけでなく認識することがむずかしいかである
これは地理の本を見てもテレビで見てもわからないのである
その場に立って認識しないとわからないのである

基本的に太陽が昇る方向と太陽が沈む方向で方向を知る、でもこれが太平洋側と日本海では逆になるから認識できなくなる、そして人間の認識はそこに定着していないとできない一時的に旅してもまた同じ場所にいればその感覚が薄れてわからなくなる
アメリカのカリフォルニアなどは海岸は西になり太陽は西に沈むのである
また韓国では日本海は東海であり太陽が昇る場所なのである、それだけ地理の感覚は場所により正反対にもなっているのである
もちろん地理を本とかテレビとか映像だけでもわからない、それは一部分を切り取ったものであり全体を知り得ようがないからである、体感できないからである
そして外国に行ったとしてもそこはさらに一回くらい行っても地理も認識するのはむずかしい、確かに大雑把には認識するから行かないよりはいいとしてもその土地を離れると
記憶もうすれてく、特に外国はそうである、写真をとったとしてもそこがどこかもわからなくなっているのだ、見慣れない物があり認識することがむずかしいのである
ただ何回も行けば違っている、でもそんなことは普通はできないのである

地理を認識するときでは今なら飛行機でヨ−ロッパでもどこでも行ける、でも飛行機で行ったとしても地理は認識できない、飛行機に乗って見えるのは外は闇だけで何も見えないのである、でも船で一か月でもかかってヨ−ロッパなどに行けばまるで違った認識になる途中に港によるし大陸を遠望したりと認識することが違ってくる
それは車でそうである、車はただ目的地まで早く行くというだけであり途中が省かれるからだ、だから歩いて旅すれば地理を体感できる自転車でもできる、坂で苦労して上るからである、それで坂を越えたとき新たな世界が開ける感覚になる
それは近くの飯館村に行くときそうなのである
その峠が長くつづくからである、標高でも飯館村は600メートルとかあり高いのであるだから自転車で行くとその峠を越えるのが一苦労なのである
でも峠をやっと越えた時達成感がある、その感覚は車だと得られないのである
日本は山が多く峠が多い、だから峠というのは日本が作った漢字なのである

ともかく人間の認識は空間と時間軸で決められる、でもその範囲が狭いのである
また時間軸でも短いのでる、そこに人間の認識の限界がある
たとえ飛行機であれ空間を認識することが容易になったとしても現実的には認識できない大陸には長大な川があるとしてその一部を見てもわからない、その川を上から下まで下った時わかる、ナイル川でもそうである、私は船で川を下っても一部だった
河自体が長大だからそれを認識することもまたむずかしいのである
それは中国の揚子江でも黄河でもそうである、そんな大きな川が日本がにないから認識できないのである

空間認識というとき宇宙旅行で月まで火星まで行ったとしても宇宙の広さを認識することは不可能である、なぜなら何億光年のかなたの星があるとしてその空間の広大さを認識できないからである、そこに人間の限界がある
そして地理を知ることのむずかしさはそのように広大すぎてそれを知るには相当な時間を費やさないとできない、もし一億年光年の星に到達するとなるとどうにもならないなる
光の速さの乗り物ができても行けないのである
ただもし人間の寿命が200年とかなればそれだけ空間認識は深まる
なぜなら何度も旅したりして認識を深めることができるからだ
一回だけではない何回も行けるとなるからだ

ただ人間の歴史は空間を広げるものとしてもあった、歩いていただけでは空間認識は広がらない、でも馬に乗れば空間認識は飛躍的に広がった、またそれからテクノロジーの発展で鉄道が生まれて車が飛行機が生まれて飛躍的に広がったとなる
コロンブスとかのアメリカ発見も空間認識を広げたのである
そして地球には未知の領域がなくなった、でも狭い所でも地形とかは複雑であり探求することはいくらでもあるとなる
ここで問題になるのは時間のことである、時間もまた限られているからだ
そこで人間の認識の限界が生まれる、限られた時間内でしか認識できないからである
だからまず人間の空間認識はどうしても限られてくる
時間でも老人になればわかる、あっという間にに過ぎてしまったとなるからだ
30過ぎると体力でも下り坂になるとか40で白髪がはえるとかすぐに老いてくる
それも人間の限界になる、旅するにしてももう体力がないとかなる
要するに人間はみんな個々にわずかのことを認識して死んでゆくとなる

お釈迦様と孫悟空が神通力比べをした話しですが、孫悟空は、自分の神通力一杯で空を飛んで、これ以上遠いところは無かろうと思ったところに大きな山を見つけました。そこで、「これは良し、自分がここまで来た証拠をこの山に残してやろう」と思って「悟空参上!」と大きく書きました。戻って来て、お釈迦様にそれを報告した所、お釈迦様が「そなたが書いた言葉は、これか!」と手を広げられたところ、その手の指に「悟空参上!」と書いてあったという話しです。

これは人間の限界を語っている、それは実際は今でも同じなのである、いくら飛行機で外国に行き宇宙まで月や火星まで行っても空間の広さを実感することは不可能である
まず外国は一回くらい旅してもわからないのだ、空間認識にしても何度も行きその場に立てば自ずと深く認識できるようになる、その空間認識が場の認識がアイディンティティにもなる、でもとても一回くらい外国旅行しても認識できないのである
日本だと私は全国を旅しているから認識する、それでふりかえって俳句とか短歌とか詩にしたりする、それは日本がだからできることである、外国になるとむずかしくなる
大陸だと広すぎて空間認識することが不可能になるからだ
中国に三回行ってもとても空間認識できなかった、アメリカは一回だから余計できない
アメリカだとホイットマンでも空間克服することが詩になる、あれだけ広ければ果てしない空間の中で人間はとまどうのである、そこで人間が一体感を持つことは困難になる
一つの州でも日本より広くなるし砂漠もあるしとなると認識できなくなる

でも人間は空間でも時間でも限界を越えるものだとなる
それを目指している、限界を越えよということである
だからこそ神は人間に時間を越える永遠の命を与えたのである
永遠に生きるということは時間の限界がないことである
そうなれば空間認識でもいかに広くても時間が永遠にあるとすればできるとなる
全能の神は人間に限界を越えさせるのである
それは科学技術でも成されてきたとしてもそこにも限界がある
とても長寿がかなうよにうになっても永遠に生きることはできないからである
老化を止めることができないからである
そういう限界を破る力を与えるのは全能の神だとなる
人間に限界を設けてはいけないのである
もう限界だよということはあらゆることに言ってはならないのである
それは個々人でも俺はこんなもんだとか俺には才能はないとか何がないないとなる
それは自ら限界をもうけて小さくしているのである
人間には限界があってはならないのである、限界を越える力を神が与えるのである

限界を越えよ、限界を越えて新たな世界を見よ
汝を低く狭く見積もるな
神は汝に新たな世界を開く
限界を越えよ、限界を設けるな
限界を突き破れ、神に限界なし
また限界を決めてもそこを深く知れ
神の与えた地を深く耕せ
広く知り狭きも深く知れ
神はさらに汝に天の国を与える
汝はそこで尽くす
その時間も限りなくあれば・・・・




2022年08月23日

なくしたスマホが警察に届けられて思ったこと (警察は市民の味方なのか、警察は権力側につく-財布でも届けると犯罪者に見られる)


なくしたスマホが警察に届けられて思ったこと

(警察は市民の味方なのか、財布でも届けると犯罪者に見られる)

スマホを置き忘れた場所を一日寝たら朝に思い出した、そこは真野ダムの岸の階段だったそこでおにぎりなどを食べた、しかしそれは確実に近いし思い出せる場だった
飯館の道の駅で本当はスマホがなくなっていることを気付くべきだった
そうしたらすぐに引き返していて見つけることができた
その時家に忘れたのかと思ったのが失敗だった
ただなぜそこに忘れたのをその時思い出せなかったのか?
道の駅でスポーツカーのイベントなどがあり気がまぎれたからだったのか、普通だっらすぐに思い出すことである

とにかく人間は忘れ安いのである、でもそこで良くたどってきた道を思い返さないことでし失敗した、真野ダムによってということをそこで食事したことを思い出せばわかったことである、それを意図的にでも思い返すことをしていればこうはならなかった
でも朝目覚めたらどういうわけか即座に気づいた
そして真野ダムまで朝6時に自転車でまた行った、これは私の自転車が電動自転車で優れたものだから行けた、エンジンが優れていて楽に走れるからだ

そして真野ダムについて座った階段の場所を見たらなかった、これはもう探せないとあきらめた、でも掃除する若い人がいた、その人に聞いてみたらそれなら見つけた人がいて
相馬の警察署に持って行きましたと聞いた、それならあると安心した
その人は真野ダムでボートを貸している人だった、そんな人がいるのかと知った
でもその人がいて助かったとなる、ということは今真野ダムで魚釣りなどする人がいても管理する人がいなくなっている、つまりなんらかそうした観光の場所では管理する人が必要なのかとも思った、ただそこで商売すになるかどうかはわからない
でも飯館村は外から来た人が多い、第一飯館村のあいのさわの管理棟でも外か来た人がしていた、地元に詳しくないのにしていた、結局人材がいなくなりそうなった
郵便を配達している人も外から来た年配の人だったからである
あそこには店が一軒があったがそれもなくなった、自動販売機もないのが問題である

それから相馬署にスマホのことを聞いたらめんどうだった、それは本当にあなたのものですかといろいろ聞いてくるのである、すぐに渡せないとかなっている
スマホが買ったのは半年前くらいで安全管理もわからなかった
でもまずどこで落としたのかわかりそこでボートを貸している人に聞いて相馬署にあづけられとわかれば疑いようがないだろう、でもまず警察というのは疑う、疑うのが商売であり簡単には忘れものを届けてもめんどうになる
財布などとどけたら本当にめんどうになる、中の金をぬきとったことを疑われるからである、それで捕まった人も現実にいる、するとみんな財布などは警察に届けるなと言っている、根掘り葉掘りきかれて犯罪者扱いにされるからである

そして警察が市民の味方かというとそうでもない、確かにいい面と悪い面がなんでもあるが警察の商売がそもそもその性格を作っているのだ、それは常に犯罪者を相手にしているから疑い深くなり相手を信用しない、また相手を許すことがなく刑罰を与える仕事だからである、その仕事が業となっている、職業とは何かこうして何らか業を持っているのだ
それは警察に一番現れているのである
だからそもそも警察を市民が嫌うのは当然なのである、そして本当に市民の味方かというとそうはならない、市民生活でも破壊することがあるのだ
私が駅でボランティアのまねごとをしていたら誰かが怪しいと警察に連絡したらみんなの前で職務質問されてできなくなった
つまり善意でしていたことだが怪しいとなり犯罪者扱いになったのである
警察はこうしてまともな市民生活を破壊することがあるのだ

そして警察に対する不満として何か頼んでもしてくれないとか多いのである
警察は困りごとがあってそれほどかかわらない、まずめんどうなのは明確な証拠がなければ受け付けもはしないのである、だから多額の金を盗まれても証拠がないからはと受け付けないのである、殺人とかなれば別だがいろいろ困りごとがあってもかかわらないのである
だから本当に警察は庶民の味方なのか、あからさまに警察を批判する人たちが結構いるし警察に対抗する市民をもいる、警官が好きな人はいないだろう
それは警官の最大の問題は権力をもっているからである、具体的に警察は暴力装置であり権力を代表するものだからそうなる、権力で暴力でおそれさすものだからである
だから警察と誰もかかわりたくない、一種の暴力団にもなりうる
常に権力という暴力装置であり監視しているからである
現実にパチンコ業者と結託して金をもらっているのが警察なのである

警察とパチンコ業界の癒着について

ここでは警察とパチンコ業界は天下り先はわずかだとなっている、金融業が多いとなっている

 竹垣氏は、暴力団とつながっている警察官が罪の見逃しをするケースについて「その課のトップにおったらできますよ。逮捕状請求すなとかね。色んな面で融通きかせてくれますよ。平成になってからの話です。ようけあったよ」と、仰天の打ち明け話。

 警察は権力があるからその権力にこびる利用する人達もでてくる、すると権力を持っている警察は金をもらえば許すとなるのも怖いがそれは人間として起り安いことである
何か前は警察関係は退職すると天下り先がなくなるとかでいかがわしい会社に再就職していたとかある、でも今は警備関係とかいろいろ再就職先があるからないとしている
東電にも検事関係などが天下りしていたのである

愛知県警の創価汚染

愛知県警が全域・全部門に渡って創価学会に汚染されており
創価学会が一声かけたら、警察OBを経由して、

部長や参事官、県警本部で課長以上の地位にある警察幹部
こういった上層部と形容してもよい大幹部の連中が、創価学会の意向に沿った行動を取り
創価学会の意のままに動く状況が、愛知県警内部では確立されている、と考えられる

これも怖い話である、創価と統一教会は似ているのである、どうしたら権力を操作できるかしか関心がないからである、そのために警察の予算をにぎる東京都で議員が力をもって警察を操作しようとているといわれる
阿部前首相は最大の権力者だからいろいろ犯罪にかかわっても捕まえることはできないとなる
でも権力が変わる時、韓国のように裁判になる、つまり民主主義というのは政権交代がないと権力との癒着が生れから機能しなくなるのである
民主主義とは三権分立であり権力の独占とかを禁止して権力を監視する体制のことであるそれは報道でもそうである、報道も大事なことは権力を監視することなのである
でもそれも金をもらえば忖度して真実は報道されないのである
だから権力者が変われば隠された犯罪が闇が暴かれるのである
つまり司法警察の上に政治家がいてそれで左右される
だからこそ創価は政治家を使い支配しようとするのである

警察は市民の味方ではない、権力者の味方だ!

こうなっているともなる、そもそも警察自体が市民が監視しなければ暴力団のようにもなる危険が常にあったのだ、暴力装置なのだから当然だとなる
軍隊でもそうである、軍隊も暴力装置なのだから当然そうなる、

自衛隊の情報保全隊が全国で市民運動を監視し、いつ、どの集会やデモ・パレードで誰が何を言ったか、何人が参加し、ビラや署名運動はどうだったかなどを詳しく調べ、それを報告書として全国の自衛隊情報部門に配布していたことが明らかになりました。私たちWORLD PEACE NOW 実行委員会は、自衛隊による市民運動の監視・調査に厳重に抗議し、監視・調査を直ちにやめ、実態を公表して、責任者を処分することを求めます

自衛隊と警察は同類である、暴力装置だからである、だからこういうことがあるのは警察と同じである、だから市民運動でも監視している、ただ警察も絶対かとなるとそうではない、時の権力を持つものに従うとういことである
だから基本的に権力をいかに監視するかが民主主義の基本となる
統一教会でもなぜ今頃騒がれるようになったのか、霊感商法のことでは警察もかかわっていたろう、それが全くなくなったのはやはり自民党が深くかかわりそうなったのかとみるいくら警察でも自衛隊でもあくまでも国民の意向を無視して成り立たないからである
国民でも騒げば成り立たなくなる、そして今警察自体の犯罪が増えるとまた信用できなくなる、その犯罪も取り締まる方になると隠せるからやっかいなのである

警察がみんな嫌うのは何かしら脛に傷持つ人が多いからである、それは人間として仕方がない、罪を犯さない人などいないからである、正直自分自身がそうである
でも警官自体が結構犯罪を犯していることでもわかる、警察を罪をゆるす場ではない
犯罪者にすることだからである、でも警察自体がその機構が犯罪に加担することが大問題になる、でも時の権力側につくのだから検察司法でも限界がある
三権分立としてもやはり選挙で勝った方が権力を持つ、そして検察司法でもその配下の警察でも従うことになる、全部ではないにしろそうらざるをえないのである
でも問題は警察でも自衛隊でも暴力装置であり強制できることなのである
戦争でも赤紙一枚で戦場に連れていかれて地獄の苦しみを受けたり死んだ人が国民にあった、でも国家は軍隊を持ち強制できたのである、そこに国家権力の怖さがある
だから民主主義は権力の交代が必須として選挙があるのだからそれが機能していない
自民党一党独裁になりそれで絶対的権力は絶対的に腐敗するとなっているのである



他人の共感力がなくなるのはなぜ

お金持ちや権力者になると他人の気持ちを読み取ることが苦手になるデメリットが出るということがわかっています。

本当に金持ちとかは貧乏人に共感できなくなる、金で苦労しなくなるからそうなる
何か人に共感することはその人が経験していないとできない
その人は十円でも二十円でも安く買うことに苦労している、安い店をまわる、昨今の物価高で余計にそうなった
でも自分自身はそこまでしていない、つまりそういう貧困にならないと貧乏に共感できないのである
権力者とか金持ちとかはそうして自分が苦しまないから共感できないのである

仕事でも実際にその仕事に経験して共感するのである
だから苦しい仕事があったとしてもそれをしない人は共感できないのである
そこに人間が理解しえないものとなる

警官が常に上らか目線なのは権力を持っているからである、庶民の気持ちなど考慮しない警察は人はみんな犯罪者だとみる、犯罪者にしたてることでもある
つまり正常に他人に共感できなくなる、悪い奴ばかりと接していると人間はみんなこんなものだとなる、でもその警官でも犯罪を犯しているのである
つまり人間は犯罪を犯しやすいのである、でもみんな犯罪者と見るのは危険なのである
ただ警察は許すとういことはない必ず刑罰を与えるものだから警察は嫌われるのである

ともかく人間が権力を持つことはこうして人間性を歪めたり危険があるから監視する体制がないと社会自体が腐敗して危険になるのであり市民でも国民でも被害を受けるのである

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2022年08月22日

夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う (ただ荒地がまだ多いのが残念)


夏の日に飯舘村へー飯館村には芙蓉が似合う

(ただ荒地がまだ多いのが残念)



栃窪ー大倉

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これも養蚕の家だろう

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大倉から飯館の塩の道は通行止め

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養蚕の家の残るや木槿かな

大倉や一本の杉高く影涼し

蝉鳴いてまた一坂越え行かむ


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道の駅

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荒地が多いから人かこの先住んでいるように思いなかった

飯館村には森におおわれているからこうした森の道が多い、ここをサイクリングするには向いている
でもスポーツカーで行くのには向いていない、バイクでも早すぎるのである


飯樋の馬頭観世音

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石垣が組まれている、この上に城があるように見える

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美しい村を子供たちに残すとある肝心の子供がいないのである
飯館村の外から通っているのである
だからこれも何か虚しいともなる
ただ帰ってきている人達はいる、野球の試合もしていたからわからない

きれいに見るにはクリック拡大




喜々として芙蓉に舞いぬ揚羽かな

飯館の家々離れ芙蓉かな

一面に夏菊覆う道の駅

飯館や木陰の長き道を行く

蝉の声ひびき高鳴り人帰る

その御堂馬頭観世音桔梗かな


ひまわりの高くも咲きて芙蓉咲き飯館広く久方に来ぬ

森の道つづくも先に家あれやソバナの花のうなだれぬ

飯館の家々離れ芙蓉咲く広々としてなごみけるかな

夏菊の風にゆれつつ軽やかに揚羽舞い飛ぶ奥の道かな

四五本のポプラに風のそよぎつつ夏野広がる

石と石組まれつあれや城のごと夏の日に来ぬ畑耕す人


久しぶりに飯館村へ行った、暑いと陽射しが強いと熱中症になるから一か月二カ月なのか
遠くに行かなかった、行けなかった、でも今日はそれほど暑くないと見て行った
大倉のダムの岸で休むと風が涼しくて気持ち良かった
見ると一本の高い杉が立っていた、前の学校の校庭の前だった
何故か一軒店があったがなくなってその後に郵便局なっていた
この郵便局はコンビニよう全国にある、与那国島に行ったとき一番最初に見たのは郵便局だったのである、郵便局は不可欠なものとして全国にあった
郵便夫が昔の恰好して馬籠宿の坂を歩き郵便を配っていた、それは飛脚だったのかとも見た、とにかく郵便というのはそうして人が歩き配っていたのである
それも苦労だったのである

土壁の蔵が飯館村にあったが意外と土壁の蔵はまれである、石の倉が多かった
それは明治以降大谷石とかが出回って石の倉にしたらしい
養蚕の家は見ればわかる、兜の形をした屋根をしているからである
地方の経済が何で成立っていたかというと養蚕だったのである
生糸をアメリカに輸出していたのである
それで私の母親は原町紡績で十年間糸取りをして働いていたのである
でも昼食はたくわんと味噌汁と御飯だと言っていた
そんな食事で良く働いた思う、でも江戸時代の遊女もそんな食事だったのである
今からすると貧乏な人でもサシミを食べているし他も食べているから贅沢だともなる
明治生まれの父は最後病気になりサシミを食べれるようになったけど食べたくないと言って死んだのである
サシミはもう相当な贅沢だったことは確かである、めったに食べられないものだったのである

飯館の道の駅でスポーツカーを集めたイベントがあって人が集まっていた
フェラリーが多かった、スポーツカーは4千万とか五千万するというから驚く
でもそれは投資のためにそうしている人もいる、かなり高く売れるのである
だから資産として持っている、売れば高いからである
昨今ともかく貯金しても利子もつかないから増えない、それより物価高でも目減りしているのである、だからこれを投資として資産として持っていることは悪いことではない
何か盗難防止用の工夫もしているのもわかる
4千万から5千万もするからだ、全国になれば金持ちはいる
ただ正直飯館村にスポーツカーは合っていない、エンジンをふかした音がうるさかった
飯館村にあっているのはサイクリングする自転車である
森の中に道があり木陰で涼しいから気持ち良かったからである

飯館村に合っている花は芙蓉である、芙蓉がいたるところに咲いていた
家々にも芙蓉が咲いている、芙蓉の花は大きく広々とした飯館村に合っている
その土地に合った花がある、この辺だと相馬市は城下町であり藤の花が合っている
原町市はもともと原ノ町駅が機関区でありそこから駅前通りができて発展した
だからひまわりが合っている、そして鹿島区なると草深いとなり月見草とかあっている
藪甘草も合っている
道の駅の前にひまわり畑があり夏菊がおおうように咲いていたのは良かった
でも飯館村は一部は確かに田んぼと畑になったが少なかった
牧草地は放置されて荒地となり草ぼうぼうなのである
これは栃窪村になると田んぼは回復していた、また右田村でも確かに一部は荒地だが
かなり田んぼになり回復しているから比べると飯館村は田畑がまだまだ回復していない
要するににぎわっているのは道の駅だけなのである
今日は日曜日でスポーツ―カーのイベントがあったからにぎやかだった

それからあいのさとの溜池で休んだ、管理棟の人は外部から来た人である
何か話ししても通じない、飯館村は外部から入ってきた人が多いのである
それでも年配の人が多い、だから復興になるのかどうなっているのか良くわからない
どういう状況なのかわからない、ただ荒地をどうして活かすのかが問題になる
飯館村は前は森の中に隠されるように一軒一軒の家があり前は畑であり庭であり花が映えていた、今もそういうことがある、でも人はそんなに住んでいないと見る

それでも蝉が鳴くということはそこに人が住んで蝉も活きるとなる
人間と動物でも昆虫でも共に実際は共生しているのである
そのために原発事故以後蛙がいなくなり鷺もいなくなったのである
鷺は蛙も餌としていたからである、その後田んぼも回復して鷺が戻ってきたときは感動した、それから蛙の合唱を聞いた時も感動した、そのことで復興したと思った
飯館村は田畑が回復していないからそういうことがないと見る

やはりそこに暮らしがあり田畑でもあれば人が耕していればその村も活きているのである何か新しい家にしてもそこに住まず別荘のように利用していては暮らしにはならない
でもなぜ山村が過疎化しているかというと山でも木材をとって売れないとか外材と競争できないとか農業しても金にならないとかなり前から農業には不満が大きかった
それが一挙に原発事故で水でも土でも空気まで汚染されて木すら放射線で汚染されたのである、なぜなら私が計ったら木の幹でも3マイクロシーベルトとか合ったからである
森自体も汚染された、その放射線量は減っていないと思う
つまり原発事故の被害は農業とか林業に大きな被害があったのである
そしてもともと農業はもうからないとか60歳以上の人がしてもうつづかないとかなっていた、現実に私の近くでも一人は60代で病気になりやめた、その人は死んだ
隣の畑もやめた、その人は80くらいになっていたのかもしれない、車にのせられてきて畑を手入れしていたがつつがなかった、そしてそこは草ぼうぼうなっている

今回野飯館村の発見はまるで城の石垣のような所があった、これは人工に組まれた石のようでありここには城があったと言えば誰でも信じる、人工的にしか見えないからである
飯館村は広いからわからない所がある、サイクリングするにはいい場所なのである
これまでは暑くて来れなかった、陽射しが強いと熱中症になるからだ
でも今回は風が涼しくて良かった、すでに秋めいては来ているのである

今回の失敗はスマホをなくしたことである、ヤマハのYPJ-XCは優れモノなのだけど荷物を載せることができない、そのためにスマホを落としやすい場所に入れたみたいだ
スマホでもわかったことは小さいものは落としやすいことである
カードも小さいから三回くらいなくしている、それは小さいからだったのである
だから今度は大きなスマホを買うことにした、これも損だった、何か損がつづいている
どうしても自転車だと荷物を載せられない、それでダリヤの大きなものを買った
それは安かったのである、でも途中でこれも落としてしまったのである

また原町の方から七曲の坂を上りきって下がった所から入る道を行ったら途中で大きな崩落がありまた土砂崩れで道がさえぎられていた
車は通れないが自転車の場合意外と脇の方を通ると通れるのである
ただ自転車も常に危険がある、暗くなると危険である、側溝にまた落ちる所だったが足がついたので助かった、自転車も結構危険なのである、それで私は前歯三本を折ったことがあり頭を打っていたら死んでいたのである、自転車でも十分に死ぬことがある
それがどこかわからないのである、予測しないことで事故になり死ぬとなるからだ


飯館村は森の庭園に

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posted by 老鶯 at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2022年08月20日

お盆の死者へのお供え物の意味 (実際の物を通じて心を通わせる)


お盆の死者へのお供え物の意味

(実際の物を通じて心を通わせる)

●死者への供え物の意味―物を通じて死者と結ばれる

これは神道の直会と同じような意味で 神様に供えた御神酒や神饌を弔問客でいただき身を清める、という神事の一つでした。
みんなで分け合う、助け合う、共食することで神様やご先祖様の気持ちになって穢れを祓い、平安の心に甦生します。
むかしの人たちは、このお盆や正月は身を清めるような暮らしをととのえていたように思います。

意味の甦生〜お中元〜かんながらの道

このサイトは神道でも仏教でも関連して説いている、宗教といっても他宗をみんな排斥することではない、それで日蓮宗は他宗を排撃するから問題なのである
それぞれのいい点を学ぶべきだとなる

お供え物というときこれは死者に捧げる、でも死者は食べることもできないから無駄だともなる、でも不思議なのは物というものには物が憑くとかモノと心は一体になる
それが東洋的思想である、物と心を分離して見ないのである
仏教でも色心不二となるとそうである、色とは物であり心と一体化してみる

それで死者に供え物するとき何か金を紙幣を捧げることはできない
金でも紙幣でもそぐわないのである、現実社会では常に金である、金の効用は余りにも大きい、でも死者との交流となると死者は金を要求しない、金はいらないのである
すると何が必要かとなると献げるものは果物とか食べ物とか花とかである
つまりそうした果物でも物を献げることで死者が食べないにしても死者の霊がつくという感じにもなる、だから厳密にみると死者に一旦献げたものは食べないともなる
死者の霊がついていて物に霊が憑いているともなるからだ
これは金とか紙幣だとそうはならない、だから死者との交流となると果物であれ野菜であれ物を媒介する

●人間の心をゆがめた貨幣

現実社会でも実際の人間のやりとりは物々交換であった、そこに金が介在したとき歪められたのである、金は便利でも人間の心を歪める、現代ではその金でどれだけ歪められているか格差社会は世界で天文学的になっている
それから人間の心は金によって荒廃している、人間の情も通じなくなったとか何かもう
これが人間なのかとまでなっている
それは物と物を直接交換することではない、金のやりとりになるときすでにそうしたことが起きていた

リディア王国はイオニア地方に隣接、エーゲ海に面していたこともあり、交易が盛んで、商工業も発達していました。そのため、エレクトラム硬貨は古代ギリシャ、ローマへと広がっていき、特にアテネ(古代ギリシャの都市国家)では貨幣経済が発展します

紀元前700年前に貨幣がすでに生まれていた、リデアという場所が貿易が盛んな地域でありそれが地中海を通じてギリシャに広がった
ギリシャのドラクマとかなると古いものに感じたからである

貨幣とはどうしても人間生活で必要だから生まれた、でも貨幣とか金とかはこれも媒介するものでありメデアなのである、人間は媒介するものによって歪められる
真実の価値が歪められる、物々交換だったら実際の物だから物と物のやりとりだからそれで人間的になる、物を市場で直接交換していたら全然金で売り買いするものと違ったものになる、それは経験していないが果物でも野菜でも羊でも交換するときどうなるのか?
その世界は貨幣を通じて物を売買するのとまったく違ったものになる
ただそんなことは不可能だからそういう世界をイメージすることもできなっているのだ

メデアとういとき今では情報を媒介するマスコミとかがあった、それは巨大な装置が必要てありテレビなどになるとそうである、新聞でも巨大な印刷場とか装置が必要だから一般の人はできない、でもインタ−ネットで個々人がメデアを持つようになったとき大きな変化があった、メデアとは媒介するものであり情報でも必ずメデアを通じて知るからであるでもメデアによって情報も歪められる、真実が歪められる、それが問題なのである
本当のことは事件でもその現場に行き直接知るならば違ったものになる
それが外国とかなるともうできないからその情報は歪められる、それがイラク戦争で起きた、油まみれの海鳥が全世界にテレビを通じて報道されてイラクはひどい国だったとなったからである、その衝撃が世界中に報道された衝撃が大きかったのである
情報とは必ず直接知ることはできない、何か事件があったとしても人伝えでも伝える人がメデアになる仲介者になるとき正確に伝わらない、そこで単なる噂(うわせ)でも間違って広がり大きな被害になることもある
つまり仲介するものはメデア自体が問題なのである

貨幣でも物と物をやりとりする媒介するものとして生まれた、でも媒介するものだから物と物を直接交換するのではないからそこで公平なやりとりはなくなった
そして媒介するものがメデアでも巨大な力を持つようになる、金は今や世界を支配する
物と物の直接やりとりではない、天文学的な数字の金がグロ−バル経済でやりとりされている、でも金が数字になり数字のやりとりにもなる、そこで現実感を持てくなくなったのである、そしてそこには大きな不正が生まれる、金融経済で莫大な富を得る人が国でも出て来る、アメリカが覇権国になっているから金が集まる、アメリカ国内でも富の格差が極端になる、それで株式市場の
ウオールストリートとかがで不満なものがデモをしたことでもわかる、株でもうけるのは不正だとしてそうなった

いづれにしろ金は公正にはなりえないものなのである、また報道でもメデアでも公正になりえないのである、それは物だったら物と物の直接交換ではないからである
情報でも直接人と接してその現場で聞くこともできないからである
そこに必ず誤解がありその誤解が世界的になると大問題になるのである
物は本当は交換不可能なものでもある、物の価値は決められない、つまりあらゆる物の価値はもともと神が創ったものである、リンゴがあり桃がありバナナがありそういう価値はもともと別々であり金に換算できない、神がその価値を本質的に作ったのである
だからリンゴがバナナより価値あるとかならない、それはみんな別個の価値なのである
他に柿がありみかんがありとそれは別個の価値なのである、そこに金か介在して価値を決めること自体が歪めたものになっていたのである

●物々交換から貨幣を媒介することで心が歪められた、物と心は一体

お盆というときどうしても死者にお供え物をする、それは物でなければならない、つまり物には心が霊がつく、死者の霊が物が憑くとなるからだ
金にはそういうことはないのである、だからお供え物をお下がりとして食べるときは死者に許しをこうて食べるのである
その果物の価値はあくまでも神が創ったものであり人間が作ったものではないのである
この世のすべての価値はもともと神が作ったものである、だから人間はもともと神からいただいて食べるのでありまた死者に捧げるにしても神からいただいたものを捧げるとなる
そして献げるというとき宗教的なものとして動物を犠牲にして神に献げていた
野菜を神に献げたカインは神は嫌われた、でも羊を献げたアベルは神によみされた
それは羊を犠牲にすることは血も流すし痛みもあるし野菜を献じるのと違う
もともと神に献げるというとき人間を献げていた、アブラハムの息子が神に献げることを神に要求されたからである、それは最も尊いものを献げることでそうなった
それが人間に代わって羊を献げることになったのである
神は傷なきもの汚れなきものを献じねばならない、傷物は献げることは神に対する不敬にもなる、神が求めるものは人間そのものなのである、人間が最も神が創ったもので至高のものでからそうなった、神がそれを一番喜ぶとなるからだ

ともかく死者に献げものをするというとき不思議である、一体献げた物を果物でも野菜でも死者が食べるのかとなればそうは見えない、でもその果物でも死者の霊があれば憑くとなる、それだけ果物でも物には霊が憑くとなる
その果物でも農民が自分の土地で苦労して作ったものですよとして献げればもっと死者でもありがいものとして受け取るとなるからもしれない
それは何も死者だけではない、近くの人が苦労してじかにとれたものを食べて下さいというときうれしいとなるからだ、ただそれを金が媒介するとき歪められるのである
でも別に外国の果物でもうまければいいとなるだけだしそんなことをいちいちもう考えないのである

でもこうして媒介するものメデアによって人間の心まで歪められるということはあった
貨幣というのがそうであり情報の伝達でもメデアを通すと歪められるのである
心が通じくなくなるのである、現代は様々なことでどうしても心が通じくなくなる
そもそも地球の裏側からでも果物でも入る時、それはもうどうして誰がどんな所で作っているかもわからない、心がココからその場所をさしていたというときでもそうである
つまり現代は心と物が分離しやすいのである、それは機械や道具によってもそうなった
機械や道具も媒介するものでありそれで老子が鍬を使うと人間の本来の心が失われると
二千年前に警告していたのである
でも今や機械なしでは生活できないし貨幣なしでは生活できない、でも人間の根本的なものがそうした媒介するものメデアで歪められている、それはグロ−バル化して余計にそうなったのである

●お盆の意義とは何かー介護でも冷たくされるとなると恨まれて死ぬのは怖い

お盆の意義は死者との交流である、祖先との交流である、祭りは死者を祀ることから始まったからでもある、そういう祭りも失われてゆく、すると死者とのつながりもなくなる
そこで起きることは何なのか、心の荒廃である、原発避難区域では神社でも小さな社でも荒廃している、誰もお参りするものがなく神様も死んでいるともなる
それはもともと地域にあり地域の生活の中で生きていたからである
そこに住む人がいなくなれば神も捨てられたとなる、それは神とは違っていても何か荒廃したものを感じた、荒れ果てて神様も怒っているというか不気味なものを感じたのであるそうなったのは原発事故のためだったのである、だから原発の被害は単なる経済的損失だけではすまない、精神の荒廃をもたらしたのである、それはもう修復できない
墓すら人が移住して移動しているからである、墓も多数捨てられたままだとなる
その時死者も悲しんでいるとなる、死者でもそこに長く住んでいて愛着があったからだともなる

お盆も終わったけどお盆にも何らかい意義があり生れていた、ただそういうものき意義も失われてゆく、先祖は別に神ではない、でも死者を供養することは必要である
死者が全く存在しないかとなるとそうとはならないからだ
死者も捨てられれば怒り悲しんでいるかもしれない、だから墓も簡単に捨てられないとなる、墓も物であり供え物も物である、でもその物を通じて物が憑くとなり人間の心が通じるのである、それは贈与とういものがあり物を通じて慰めることがある
何か怒っている人でも物を与えて慰められることがある、それでがまんするとかなる
物は何かそうして犠牲の代償ともなる、だから動物でも犠牲にされたのである
人間の罪を贖うものとして犠牲にされたのである、動物が死ぬことを見て罪の意識を深く感じたとなる、果物とか野菜だとそういうものを感じないからである
動物が苦しみ犠牲になるのは人間にも見えるからである
それで罪の意識を深刻に感じたとなる、キリストでも神への犠牲でもあったとなるからだ神の子羊と言われたのはそのためである

ともかくお盆というときそもそも村とかの小さい共同体で生まれたのである
そこで死者を供養するということで始まった
江戸時代に始まったというとき江戸時代でも庶民は墓がなかった
この辺の近くでホトケッポという所に共同墓地がありそこに村の人は葬られた
でも名前はない、個々の墓はないのである、家族墓ができたのは明治以降であり庶民がみんな姓を持つようになったのは明治以降なのである
ここが誤解しやすいのである、だからもともとお盆は村全体の祭りであり盆踊りは死者も一緒に踊る祭りとされていたのである
その盆踊りもなくなるというとき村という共同体が喪失したことにもよる
農民社会でもないし田舎でも隣の人が何をしているか仕事しているのかわからない時代である
そうなると伝統的なものは失われてゆく、すると先祖を祀る祭りも消失してゆくのであるグローバル化広域化社会になると余計にそうなったのである
何かかえって自分の住んでいる場所より外国とつながりを持つ人が増える
近くの人が困っていても助けない、外国の人を助けることが優先されるとかなる
これもグロ−バル化して起きてきた、それは本末転倒のことでありおかしなことである
それもやはり物と心の分離が起りそういうことに拍車をかけたのである
人と人の心は物と心は分断されたということにもなる

ただ死者と人間の関係でも生前が影響している、生前に親子でも関係が悪いと供養もしないだろう、それで介護が問題になる、介護は苦しいけど介護で冷たくされると恨んで死ぬこともある、そうなると供養できるのかとなる
親戚の人は「ひどい娘だわ」と最後に自分に言ってすぐ死んだのである
私の親戚の場合うまくいっていなかった、だから関心がなかった
でも私に最後に「ひどい娘だわ」と言い残したことが忘れられないのである
実際にその娘は信じられないほどひどい娘になっていたのである
育ての親にしても干渉されすぎたにしろあまりにもひどいと見たからである
そういう人が墓参りできるのか?確かに誰も見ていないが死者が見ている

「あなたはひどい娘だ」そう思って死んだ人を供養できるのかとなる
私の場合は特別良くされたしそれで必死介護した、だから供養しても遺影が笑っている
感じになったから救われたとなる、死者にはもう偽ることはできない
死者は冷徹に見ているからだ、生前は偽ることができる、死者には偽ることができないのである、もう死んでいるしわびても遅いともなるから怖いのである
だから介護が苦しくてもそこに死後とつながっているから怖いのである
もう死んだ時点で何もできない、わびることもなにもできない、それが怖いのである
それで介護は苦しくてももっと良くしてやれば良かったとかみんな後悔しているのである私自身でもそうである、もっと良くできたなとふりかえるからである
ただ自分の場合は自分一人であり自分が病気になって四苦八苦して介護していたかのである

2022年08月19日

キクチスーパーのカードをなくして失敗 (何カ月かでポイントたまっても大損だった)


キクチスーパーのカードをなくして失敗

(何カ月かでポイントたまっても大損だった)

キクチスーパーのカードをなくして失敗した、三回くらいなくしている
ただこの前はなくしてもカードが後からでてきた
そのカードには実際金は使っていたのでわずかしかなかった

今回は一万入れたばっかりだった!

だから大損だった、ポイントたまって何カ月一回か300円もらえても一回落としたら
なくしたら何千円も損する、今回は一万近くだから大損になる

「カードなくしたんですが」
「見つかりません」
「一万入れたばかりだったんです」
「そう言われましても、私たちにはどうもできません
「責任は私たちにはないです、あなたに責任があるのです」
「・・・・・・・」

こうして結局何も言えないのである


今はキャッシュレスの時代である、でもこのカードもなくしやすい、キクチのカードは常に使うから出し入れしているとなくしやすい、三つくらい他に使っているから混同して
なくしやすいのである

そして他のカードのように使えないようできない!

他のカードだと銀行であれ郵便局であれカードはなくすと連絡するとカードが使いないようにできる、でもキクチのカードはできない、なくしたらそれっきりであり返ってこないそして常にカードに入金するチャージするからめんどうなのである
こうしてなくすことがあるから大きな金を入れにくいのである

ここで問題になったのは何か?

つまり保証とかの問題である、もしこうしてなくしてもすぐに使えないようして
またカードを作ることができればそんなに損はしないのである
確かに一万くらいだからたいしたことがないともみる
でも一万損したとなると日々の買い物で何か大きく思える
なぜならポイントがたまるからと300円もらえるからとカードを使っていても一旦なくすと大損になるからだ
結局奇妙だがキクチスーパーでは損しない、もうかるのである
一万分なくしても一万は入金していて返すこともないからである
落としたのはあなたの責任ですとなっているからである

でもここに問題があった、カードはなくしやすい、するとその保証が必要だとなる
保険が必要だとなる、その損は大きいからである
もちろん一万とかたいしたことがないと思っても何か今回大きな損を感じたからである
現金支払いはめんどうだとなるしキャッシュレスになるのはいいとしてもこれにも問題がある、そこでキクチスーパーのカードではない別のカードで支払うということを考えた
他のカードだと割引があるし無くしてもすぐに停止できる
ただ今他のカード支払いのことが良くわからない、でもキクチスーパーのカードはなくしたら保証がない、ポイントがたまり何カ月かに一回300円もらっても割りに合わないと思った

何が保険をかけるということはこういうことかもしれない、一万はたいしことがないにしても必ず人間は自然災害とか人身事故とか病気とか突然の災いにあう、その時の保険が必要になる、それは一万の損失とは違って命にもかかわる大損になるからである
だから東電ではそのリスクをさけるために原発でも国に保証されてしていたのである
事故の結果としてその後始末に20兆円もかかるともなっていたからである
時間的にも30年かかるとかの考えられない大損失だったからである
そのリスクがあるのでこれは国で保証して管理するものでもあったのだ

株式でもヨ−ロッパで資本主義が発達したというとき大航海時代に船の株主になり無事に帰ってきたら大儲けになり配分がある、でも失敗したら事故にでもなったら大損になる
それで株主を集めてリスクを分散したとなる、とても失敗したらその賠償ができないからである、そしてとても一人ではその損失を担うことができないから大勢が株主になり
リスクの負担を分散したとなる

車だと常に事故があるから自賠責が強制されている、それに入っていなかったら事故を起こして死んでもとても一人では払いきれないとなるからだ
それでみんなでそのリスクを負担するのである、保険はそういうことから生まれてきた
でもキクチスーパーとかで発行しているカードには保証がないし保険もない
それはカードをなくすことが客にあったとしてもそこに責任がないからである
一万くらいどうでもいいとかなる
でもそれが大きな事故とかなると必ず補償を要求されるから保険をかける必要がある
船の運航でもなんでも保険をかけている、知床の観光船でも結構高い方の保険に入っていたのである、それで船主が高い保険に入って良かったと言っていたのである

ともかくデジタル社会にもキャッシュレスでも問題が盲点があった、そもそも保険のことが良くわからない、それで毎年五万払っていた火災保険とかやめた
農協のものだったがたいして災害にあって家が壊れてももらえなかったのでやめた
でも保険はやはり人間生活で必要だから生まれたことがわかる
ただその金を払うことが損に感じるのである、何もなければ損しただけだとなるからである、病気の保険があるとしても結構毎月払ってゆくのは大変である
でも必ずしも病気になるとは限らないだ

ただ年金というのは保険の一種だったかもしれない、若い時から積み立てていて老後にもらうという保険の一種だったかもしれない、今になると自分は得している
20代からかけているからだ、それも自分が払ったわけではない、親が払ってくれていたのである、その間に空白もないからである、だから私の場合は特別に親に恵まれていたのである、遺産も入り生活にも困らないとなっているからだ

ともかく保険は無駄に思えるのである、それは不慮の事故とか災害でもめったに起らないでも起った時はカードをなくして一万損したということでも大損だと意識した
金も一万でも実感するのである、ところが余りにも金が大きなると人間は実感できなくなる、だから大きな金を無駄にすることがある
一万落とした千円落としたとか盗まれたとかでも意識する、でも大きな金になると意識できくなる、それは人間の日ごろの金の使い方が千円とか二千円であり大きな買い物でも
それほど使わないからである、だから小さい金は常に意識するし感覚的にわかる
だから一万でも大損だと意識したのである

ただ三回くらいカードをなくしてそれがまるっきり損になるとするか使いないなと思っただから対策をしようとしているが今のところわからない
スマホを始めたからその辺のことも調べないとわからない
でもどうしてもキクチスーパーのカードは使いたくないとなった
他のカードはいいのである、シシドスーパーのカードはいちいちそのカードで支払うのではない、ポイントがたまったらやはり何カ月に一回か300円とかもらえるものである
一万とか入金してチャージして使うものではないからいいのである
ツルハでもそうである、ツルハは少額でもたまったら使えるようになっているから損することはない、それでもキクチスーパーでは一番多く買い物しているから困るのである



2022年08月18日

晩夏―お盆は終わる(夏の海、夏燕、夏の鳥、虹 揚羽蝶)


晩夏―お盆は終わる(夏の海、夏燕、夏の鳥、虹 揚羽蝶)

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電線に山鳩がとまっていた
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朝早み釣り人あれや夏の海

夏の海光りまぶしく朝に来る

朝早み波音ひびき夏燕

我も濡れ一雨ふりて夏の鳥

山鳩に虹の断片里暮れぬ

夕燕盛んに飛ぶや夏の暮

雲赤く漁船帰るや夏の海

草深しジャコウアゲハ二羽の飛ぶ

大窓に三度ほど映る夏の月



月見草草叢深く咲きにつつ里は暮れにきつつがなしかも

秋めきて夕風涼し鉢植えの桔梗を買いぬ我が家にそ飾らむ

我が家に帰ればかすか虫の音の聞こえて我は一人かな

石二つ庭の日影に今日もあり黒揚羽来て去りにけるかな

行燈のともしびあわれ幽かにも面影浮かび消えにけるかな

我が墓にお盆に参り花さしぬ家族はみな死に月日は過ぎぬ

我が家に鉢の桔梗やそれぞれの人生を語り郷土に生きぬ


お盆も終わった、今は季節的には晩夏なのだろう、まだ暑いからだ
でも30度くらいだと涼しい、一回外に出たら雨がふったがふぐやんだ
空を見たら虹がかかっていた、でも断片でありすぐ消えた
山鳩が電線に止まり道路の水たまりに雲が映っている

ジャコウアゲハは8時ころ飛びたちまた庭にもどり飛んで消えた
そして真野川の土手の道を行くとジャコウアゲハを二羽みつけた
この辺を飛んでいるらしい、二羽もいたというのはめずらしい
蝶道があるとかいいうからこの辺を飛んでいるみたいだ

晩夏でもあきめいてきている、虫の音も聞こえる、スーパーから鉢の桔梗を買って飾ったやはり今夏から秋に向かっている、でもまだ残暑があり夏である
夏は夏らしいのがいい、でも34度とかなると厳しい、ぐったりして何もできない
頭も働かない、とにかく今年は暑くて遠くに行けない、原町に昨日は行ったが熱中症を恐れているので行けない、だから家に籠っているのである

海の方には夕陽がさして雲が浮かんでいる、そして漁船が帰ってくる
これがこの辺の日常的風景である、朝には海に太陽の光りがまぶしく釣りする人がいた
ここは海からの風が涼しい、会津とか山の方になると暑くなる
でも川があって川風がありそこにもやはり涼しさがある
ともかくまだ夏は終わらない、夏はもう最後に熱く燃える、高校野球のように熱い青春ともなる
ノウゼンカズラは一時散ったが今も盛りに咲いている、この花だけはこんなに咲く、これは夏にふさわしい花である

ジャコウアゲハが私の庭にとまって一夜明かす、今もとまっている (動植物にも人間の心が通じる?)


ジャコウアゲハが私の庭にとまって一夜明かす、今もとまっている

(動植物にも人間の心が通じる?)

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電灯の明かりに見えたジャコウアゲハ

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雨の中で庭に止まっているジャコウアゲハ

8時45分くらいに飛び立った



動植物でも神秘的である、蝶はその中でも謎であり神秘的である
これは科学的に生物的に研究している人がいる
私は文系なのでそれはできない、でも蝶は蜜を吸って生きているのかと見ていた
でも葉も食べるのである
それは日ごろから蜜だけ吸って生きていけるのかと思っていた
花が少ないし簡単に見つからないことがある
葉ならいくらでもあるからなるほど葉をたべていれば生きていけるとなれば理解できる
草食動物があり草や葉だけで生きるからそれありだとなる

ともかくジャコウアゲハを川の土手で見た、その次の日に私の庭に止まって一夜明かしたのだ、このことが不思議なのである
なぜ私の庭に来て木の葉に止まり一夜明かしたのか、そして今も止まっている
だから外で見たとき何か心が通じ合ったのか?
あなたの庭に行きますからよろしくとかなっていたのかもしれない
蝶は曇りとか雨になれば飛ばない、光に反応して飛ぶからである
だから曇って雨になり今日も雨だから動かないのである

動植物は科学的分析しても謎になる、そもそも自然界はまだまだ謎なのである
その謎は解き明かされていないのである
それと私がここで問題にしているのは人間と動植物でも心が通い合うのかということである、何か植物でも愛情をもって育てると育つとか言われる
それは眼に見えない愛というものが通じるかなのかとなる
植物とか花の不思議はその土地に合わないと咲かない、それで私の庭の一部は土地が悪く咲かない花があった、ただ薔薇だけは一杯咲いてのである
だからこれも謎である、こんなに一杯咲くのかとうれしかったからだ

もう一つ今年は7月にノウゼンカズラが一杯咲いた、でもそれから散った
でも今も一杯咲いている、蔦が家に張ったので切ったがすぐに伸びて一杯咲いた
もともとこの花は一杯咲くのである
でもなぜこんなに咲くの不思議である

我が家の栄いけるかもノウゼンの一時は散りてまた咲き満ちるかな

今日もまたニチニチソウに水をやる

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ニチニチソウにはこんなに色が多様である
これは通販で売っている、一万もすると高いと見た


庭に咲く花や家を飾る花はその家と関係しているかもしれない、ただノウゼンカズラは別にどこの家でも咲いている、そして鉢植えのニチニチソウを部屋に飾り水をやる
このニチニチソウという名まえがいいのである、毎日咲いているとなるからだ

いづれにしろ花も神秘でありその種類も多い、だから花も不思議だとなる
ただ花でも美的なものとして見るだけでなく育てるとなると土だと花を科学的に知る必要がある、それが文系では苦手である、花も肥料をやらないと咲かないからだ

ともかく老人の趣味とかで園芸はいい、それは毎日身近で植物と花でもかかわり見れるからである、遠くに行くとなるとめんどうになるからだ
まず多少病気になっても庭があれば慰められる、花や植物や木に慰められる
それで病院に半年とか入院していた人は家に帰ったら回復したということがある
つまり病院には何か癒すものがないのである、無機質な空間なのである
医者でも看護婦でも確かに懸命に仕事している

でも家族の役割はにないないとかある、そもそも医者とか看護師でもどうしても大勢の患者を診るからとてもみんなに親切にはできないのである
だから議員でも番号で呼ばれたとかなる、それはみんな大勢の一人にすぎないからであるその人は妻をなくしているから家には一人である
でもその家は若い時苦労して建てた家であり誇りとなる家である
だから家に帰った時、そこに安心があり家とともに威厳を保てるともなる

病院ではただ病気をもったやっかいものとしかならないのである
そこに病気にどう対処するかとなるとただ身体を看るだけでは人間には対処できない
心の問題がかかわってくる、ただそこは医者でも看護師でも限界がある
だから看護師でも家族の代わりはできないと言っていた
それより私は看護師に虐待されたから看護師は患者をとくに老人をやっかいものであり何ら生産性のない者とも見ている、そもそも病人を嫌がっているのである
老人を嫌悪しているのである、それはこれだけ老人が多ければそうなる
病院でも8割とかもう老人だらけだからである、もし老人でも少なければこうはならない希少価値があるとなる、それが今は全くないから老人にとって生きにくい時代なのである

まず医者とか看護師でも性格の悪い人は普通にいるのである
でも性格は見ない、医者の技量だけをみる、でも直接人の体にふれて看るというときそこに愛が通わないとできない、でも愛といっても大勢になると対処しきれないのである
あなたは特別の人ではない大勢の中の一人にすぎないのである
家族だったらあなたは特別な人であるが病院でも患者は大勢の一人にすぎない
だから番号で呼ばれたりするのである

ただぜいたくを言えば病院には広い庭があり花壇があり散歩できるとかなればいいとなる病院にはただ身体をみるだけではない、癒しの機能があってもいいとはなる

2022年08月17日

カルトの特徴とは何なのか (全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


カルトの特徴とは何なのか

(全体主義になるから共産主義もカルトであり権力を奪い変えようとする)


●カルト宗教は全体を変えて理想国を作ろうとする

そもそもカルトとは何なのか、そのこと自体がわからない、明確に認識されない
だから太平洋戦争でもカルトだったとも言える、天皇を神として日本全員がカルトにはまった戦争だったともなる
そこには確かに天皇がかかわり天皇を現人神(あらひとかみ)とした戦争だったからである、そして必ず地方の村の神社には戦争の勝利する祈願するものが刻印されていた
村の神社というときたいがい五穀豊穣とか祈るものになっているが戦争の勝利の祈願のためにもなったのである、なぜなら村の人達が神社に参り兵士をどこでも見送っていたからである
だからそれも一つのカルトの形態だったともみれる
それは戦争を肯定する神であり戦争では人を殺ししてもいいとなるからだ
オウムでも逆らう者は殺してもいいとしポアしたからである
戦争は一種の宗教戦争にもなる、それで天皇が日本の神は戦争の神ではないとして人間宣言した、天皇自体が殺人命令を出した人だともなっていたからである
日本自体が全員が洗脳されてカルトとの会員のようになっていたともなる
そこでは必ず勝利せねばならない、神の祈り勝利せねばならないのである

それは創価でも選挙が聖戦であり仏戦だからみんな家々に座談会で集まり仏に祈願して必勝を願い祈るのである、完全に政教一致なのである
だから常に常勝関西とか常勝しなければならない、仏が応援するのだから負けないとなるからである、カルトとは何かとなる全体主義なのことは共通している
組織集団化して社会全体で事を成す、また全員が一致して社会を変革しようとする
社会全体を変えて理想国を目指すのである
つまりこの世を仏国にするし天国にもするのがカルトなのである
日蓮宗はそもそも国立戒壇を行うことが教義にある、そうなれば他の宗教は邪宗となり
日蓮宗一色になる、それとともに権力と一体化する
でも日蓮宗でも顕正会会とかあり創価と対立していたりする
それはイスラム教でも二大セクトがあり熾烈な争いとなり殺し合いまでしている
だから日蓮宗内でも争うことになる
国立戒壇となれば憲法違反にもなる、アメリカでもヨ−ロッパでも宗教でも自由である
イスラム教でも許可しているからである
ただこの憲法は絶対的なものではない、民主主義だと数を集めて政権をとれば変えられるからである、だからそれを実行するには選挙を仏戦ともしているのである
日蓮宗は一向宗の念仏とか禅宗とか強烈に批判しているから他者の宗教を許容しないのである

カルトは共産主義とも本当に似ている、共産主義もカルトなのである
マルキシズムは宗教の一種ともなっているからだ、そこに社会全体を変えて理想の国を作るということで全体主義なのである
この世を仏国土にして天国にするということで共通している
でも全体主義は共産主義でもソ連でも何千万が粛清されて殺されたとかある
中国でも毛沢東の文化革命でもそういうことが起きた、それに熱狂したのは宗教的熱狂でありまさにカルトだったとなる
社会全体を変えることが目的でありそこで権力と衝突するから権力持っている者たちと戦うことになる、暴力革命になる、そして権力を得れば権力を我がものとして栄誉栄華になる,カルトというときその目的は内心の悟りだとか心を浄化するとかそうした心の問題ではない、社会全体を変えることでありそのためには権力を得なければならないとなる

●この世に天国は理想国は作れない

カルト宗教団体の場合個々の心の問題は無視する、とにかく社会全体の改革を目指す、そのためにはまず権力を手中にしなければならない、そのために統一教会で政治家と深くかかわり権力を我がものにしようとしていた、選挙で議員を応援していたのである
他のカルト団体でも今は政治とかかわる、政治でもって権力を得て社会全体を変えようすとる、そこは共通しているのである
でもそれで社会が変わるかというと変わらないのである
ただカルト団体の幹部は富とか名誉とか地位を得るのである
ソビエト連邦時代でも共産党の幹部の書記は神のようにまるでエジプト時代と同じように葬られたのである、神格化されたのである
唯物論でもやはり人間が死ぬことは不可解だからそうなったのである

本来の宗教は個々の心に焦点をあてていた、「心の清い者は神を見るだろう」というときあくまでも個々人の心のことであり社会全体のことではない
社会全体を変えよとはしていない、ただ個々人の心が清くなれば社会全体も良くなるという思想なのである
でも全体主義は共産主義でも民族主義でも社会全体を国全体を変えよとする
社会を変えれば全体が良くなるという思想である
でも全体を変えることは共産主義でも失敗したのである、そこに何らかの無理があった
社会全体を変えても人間個々人が良くなるとは限らない、むしろ個々人を変えることが
心を浄化することが社会を変えるとするのがもともとの宗教だったのである

つまり天国でもこの世は作りえない、天国を作ろうとしたら社会全体を変えねばならない理想国にしようとしたらそうなる、でも共産主義でも失敗しているし全体を良くしても個々人の心はその罪とか欲とかは消えないのである
むしろ社会全体を変えようとするのは権力を奪って権力を得て社会を変えようとする
でもその権力を得よとすることは権力を持つことは堕落することになる
そもそも社会を変えようとするより権力を得たい、権力を持ちこの世のことで成功したいという下心なのだから権力を握った時やり放題になる
中国では幹部が兆の金を蓄えたとかなる
だからもし無欲な人が権力を得るならいいともなる、それで聖書ではみどり子に治めさせよとなっていたのである
ダビデでも王になったとき部下の妻を奪うために戦場に送り死なせた
権力を持つと欲でも他者が抑えることはできない、王は絶対的権力となってそういうこともできたとなるからた
社会全体を変えようととしてもその内実は自分自身も権力者を見て権力を我が物にしたいとなっていたのだから社会を変えるより権力を得たいためカルト宗教団体は理論化するのである

この世に理想の国とか天国とか仏国は実現しない、それは人間の欲がなくならないからである、そのことにこそ最大の問題があるとしたのが宗教だったのである
社会全体を変えても制度でも変えても人間の心が悪いものならば依然として社会は進歩したようでしない、それは日本でも一時豊かになっても日本人の心が良くなったわけではない、かえって他者を省みない非情な人達が増えたのである
いくら科学が機械か発達してもこの世に天国は生まれない、仏国は生まれない
天国は神がじかに主となり新たな天と地を作ることでもたらされる
人間は天国も仏国も理想の国を作れないのである、だからこそ共産主義は失敗したのである、人間の個々の運命はあまりにも複雑でありそのカルマでも平等にはできない
そのカルマは個々人で解決するほかないものである、その個々人のカルマを誰かが背負ってくれるのを期待してもできない、なぜなら個々人の家々のカルマは違っていて個々人が家族でも苦しまない限り解決しないからである
仏国土とか浄土とか言っても菩薩とか言っても依然として人間は罪にまみれ欲にまみれて変わらないからである

●政教分離は経済と宗教を分離することでもある

カルトとは全体主義でありそれはナチスでも大日本帝国でもそうだしソビエト連邦の共産主義でも中国でも同じなのである、全体的な妄想に陥る、国民全員が妄想に陥り悲惨な結果となる、カルトがなぜ怖いのか、それは人間の心を支配する
その妄想に陥れると何千万人が死ぬとかなるから怖いのである
人間はありえぬ妄想のためにも死ぬとなる、ただ中国は共産主義から資本主義にもなっていた黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫はいい猫だとなる
それは主義とかより現実的にネズミを食べ物でも得られるのがいいとなったのである
そういうことはもともと中国人にあった、現実利益的であり空想とかを拒否する国民性があった、怪力乱神を語らずとか儒教の教えだったからである

怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。

これは合理的なことであり経済合理性がありそれでイスラム教のような政教一致の国とは違ってあれだけまたたくまに表は共産主義でも資本主義化して経済的には発展したのかとなる、政教分離が近代にとって重要な法律だった、それがイスラム世界とか日本では実行されていないかった、だから日本は天皇を神とした聖戦になって三百万人死んだともなるそれもやはりカルト宗教の一種としてそうなったともみれる
カルトとは国民全体が妄想に陥り合理性とか理性を失うことである
それはナチスでも同じである、ナチスも民主主義の選挙で選ばれたからである
合法的に選ばれたのである、つまり数が多ければそれが正しいとなり権力を握ったのである、すべてを数が多いからと頼る時それが恐ろしい結果となったのである

いづれにしろ政治家はあまりにも安易にカルト教団にかかわっていた
今度は阿部前首相が手かざし宗教の崇教真光(すうきょうまひかり)ともかかわっていた

安倍元首相”手かざし宗教”広報誌で「自分も信者」と発言していた

政治家とは選挙のためなら相手を選ばない、宗教団体はまとまった票になるからその団体がどういうものでもいいのである
そこに日本人がそもそも宗教に寛容であり不摂生のためだともなる
日本は統一教会でもそうだが宗教に寛容なためカルトの吹き溜まりのようになっていたのである
宗教だとキリスト教でもイスラム教でも基本的に偶像崇拝を拒否する、これは共通しているのである、これが日本にないから結局カルトがはこびることになる
第一カルトの創価の応援で一体化しているのが自民党なのだからカルト政権だともなる
自民党はもともと農民とかを票田としていたがそれも弱体化してカルト団体にも頼るようになったのである、都市部でカルト宗教団体が創価などのように増えたからである

●なぜ宗教にかかわるとやめられないの、奴隷の霊が与えられるから

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

ともかくなぜ宗教がかかわるとやっかいになるのか、また宗教団体に入ると簡単にやめられなくなるのか、それは霊と心とかにかかわるものだからである
霊とか心を支配するからである、そして偶像を崇拝するようになる
だから偶像崇拝は危険なのである、唯一の神ではなく様々な偶像を崇拝する
その偶像に一番なりやすいのが人間なのである、だから教祖はオウムでも偶像になり
創価でも池田大作が偶像になりとかまた師でも偶像になる、ただ師を讃美するだけのロボットにされるのである
それで禅宗では師を殺せとして師の偶像化を拒否したから私は禅宗に惹かれるのである

そしてなぜカルト教団でもやめられないのかとなると心を霊を支配されるのからである
自由の霊ではなく奴隷の霊が与えられるのが怖いのである
地獄に落ちるとか罰当たるとかにおびえるのもそうである、それが意外と有効なのであるそのことで奴隷にされるのである、だから一旦霊が支配されると奴隷化されてしまうのである、それが肉体的なことでなく心のことだからやっかいなのである
ただわからないのはそういうカルト教団の幹部でも地獄と罰を恐れている
その恐れは世俗生活で失敗することである、事業でも何かするにも何か事故があったり
生活がうまくいかないことがあることを恐れているのである、それはあくまでも世俗的なことであり宗教自体の恐れではない、カルト教団は損かと得でしか考えない
御利益があるかどうかでし考えない、だから損することを異常に恐れているのである
要するに損得が一番わかりやすいからそうなる
日本人の宗教は神道でも御利益宗教であり何か得があるとして賽銭を入れるのである
それをもらって得するのは神主とかであり本人ではない、それはカルト教団でも得するのは幹部達であり信者は身も心も奴隷にされる
ただその幹部でも地獄とか罰を恐れている、実際はお前たちが地獄に落ちる罰当たりなものだということが自覚できないのである、宗教詐欺罪でありそれは最も過酷な地獄に落ちる罰となっているかもしれないからだ

女性はどうしても頼り安いから霊も支配されやすいから何か女性がまずカルト教団に入りやすい、統一教会でも創価でも最初に女性が会員となり数を増やす、創価だと婦人部であり選挙活動をになうし統一教会でも母親がはまってその子供が二世が苦しんだ
つまりいかにそうしてカルト教団を親にもったものは苦しむかである
それもカルマなのである、宗教だと簡単に捨てることもできなくなるからだ
でも実際は御本尊とかでもそれは字が書いてあるだけでありもともとそこに何の力もないのである、なぜなら簡単に紙だから破ることも燃やすこともできるのである
そうした人もいるしそれで頭が七つに割れるなどない、それを実証もできるのである
だからこそ神は目に見えないものなのである、目に見えなかったらそれを壊すことができない、偶像は必ず形になっているから壊すことができるからである
そういう宗教の基本が日本人は基本的に知らないのである、だから容易にカルトに洗脳されるのである

宗教とは何なのかー個々人のカルマは集団組織で解決しない 
(カルマは個々人が苦しまない限り解決しない)

2022年08月16日

真野川の土手でジャコウアゲハを発見!


真野川の土手でジャコウアゲハを発見!

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この花はシソの科のものらしい、卵をみつけるウマノスズクサではない
尾に黄色の点があるからジャコウアゲハに間違いない




川原や荒地などの明るい場所や生息地の上を緩やかに飛ぶ。河川付近によく見られるのはそこが食草の一つである草本のウマノスズクサの成育環境であるからで、畑の生垣付近などウマノスズクサの成育環境があれば見られる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%82%B2%E3%83%8F#top-page

このジャコウアゲハは希少な生き物で、絶滅危惧種に指定されているようです。

ウマノスズクサはアリストロキア酸という毒性のあるものを持っています。

そんなもの、普通でしたら食べませんよね。

しかし、ジャコウアゲハの幼虫はそれを食べます。

食草がなくなると長距離を飛んで移動すると思われ、今までみかけなかった場所で突然発生することもあるようです。
https://pet-dictionary.net/archives/3253


真野川の土手で見つけた、羽の下に黄色い点々があるから間違いないだろう
これは前は自分の庭で見た、珍しい蝶である
ウマノスズクサに卵を産みその幼虫がこの草を食べる
親になった蝶は他の草も食べている

この蝶はめったに見れない、でも生息地は秋田県とかまでありどちかというと南に棲息する、ただウマノスズクサを探しているから遠くから飛んでくることがある
今回見れたのはラッキーだった、真野川の土手の道は舗装されたのでサイクリングにいいそこでこの蝶を発見した、近間でこうした自然があることは住んでいていい
ただ真野川には鮎もはねていない、鮎の子を放流しても鮎はもどってこなかった
それが淋しい、ただ河口ではいつも魚釣りをしている人がいる
海の魚が河口まで入ってくる、蜆とる人も数人見かけるようになった
ともかく津波で海岸も川も変わった
夏はやはりいろいろな植物や花や野鳥に魚でも自然に生きているのを見れるのがいい
都会だと見れないからである

2022年08月15日

奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)


奥会津の旅(鬼百合十句‐記憶の旅―写真四枚)

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この辺に小林村というのがあった記憶

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蒲生岳
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伊南川

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激流に鬼百合映えて奥会津

夏草に碑の古りあわれ奥会津

鬼百合や我が力だし来たりけり

鬼百合や五六軒の家奥会津

鬼百合や遠く来たりぬ旅の人

鬼百合や激流轟き崖そそる

蒲生岳はるばる来たり夏燕

旅人の休む木陰や奥会津

墓倒れ鬼百合咲くや奥会津

小出にそ鮎釣る人や魚野川

月見草河原に咲いて小出かな



会津の激流

巌はきびしく反り直立しぬ
激流はひびきほとばしる
燕飛びはるか来たりぬ会津の奥
鬼百合の咲き燃ゆるかな
会津の奥処が知らじも
重量に山々閉ざし千古経ぬ
その秀麗なる山岳を望みて
会津の心は養われぬ
鬼百合のここに燃えよ
その命激しくここに燃えなむ
会津の激流はひびき我はさらに
遠くへと山々を分け入りぬ




人間はとにかく忘れやすい、20年前30年前となると記憶していることがあいまいになる
だから思い出して俳句とかにするにしてもそこがどこかわからなくなる
確かに只見線を通って小出に出た、小出駅前に魚野川がありそこで釣りしていた人がいたその川の前に食堂があり鮎料理を食べたことを記憶している
そこはかなり鮎がとれる場所なのである

でもわからないのは伊南川にも行った、でも伊南川は只見町から入り桧枝岐の方に行く
地図ではそうなっている、自転車で桧枝岐まで行ったことがあるから伊南川に沿って
行ったようだ、つまり只見線で小出に行ったの伊南川に沿って行ったのは別々の旅だったのである、これが混同している

会津は川が長いし激流がありこの辺の短い川とは違う、そこに川の魅力があり山の魅力がある、浜通りは海があり海の魅力があるとなる
ただ会津は本当に広いから地理がわからない、でも自転車で三回くらい行っている
会津はもともと福島県でも別個の大きな地域であり国である
それは古代からそうであった、唯一国として認識されていた

会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結びさね

だから会津は古代から大きな国としてあり歴史があり文化があったとなる
そこが中通りとも浜通りとも違うのである
それで大塚山古墳には三角神獣鏡が唯一発見されている、その歴史が古いのである
それは地理的に阿賀野川を通じて日本海から近畿地方から人が入ってきていたからである日本海の方が交通路として最初に開けていたからである
古代とかなると道が整備されていないから海でも川でも道になっていたのである
福島県で一番古い地域は会津だともなる
会津というと白虎隊とか注目されているが実際は古代から独立した大きな国だったのである

旅でも準備して旅を実行して後は回想する旅になる、そして意外と注目されていないのが回想する旅なのである、でも20年30年とかさらに過ぎると記憶もあいまいになるのである、だから写真とかとっているのは後で思い出すのにいい
ただその時はデジタルカメラの時代でないから写真が簡単にとれなかった
でも残った写真を見たら思い出すことがある

ともかく自転車で行ったことは貴重だった、今になると行けなくなった
体力的にも行けない、するとどうしても思い出す旅になる
でもその時思い出せないとするともう旅したことでもしてなかったとまでなる
現実その人は確かに子供の時五年間一緒に生活していた
でも実の兄とかではないので五年間いてもその人を知らないと言っていた
その女性は異常な人だったからそうなったかもしれない、非情な女性になっていたからである、でも50年過ぎたらどうなるのか?

大学時代でも東京で逢った人はそんな人がいたのかとまでなる
人間とはこうして何でも忘れる、そして最後に認知症になり子供まで家族まであなた誰ですかとなってしまうのである、つまり人間は忘れ安いのである
そしてそんな人と逢ったこともないし知らないとまである
それは家族ですら十年に十年と過ぎてゆくとあいまいな記憶になってしまうからである
そして死んでしまうとさらにその人が実在したのかどうかすらわからなくなる
百年前に生きていたとかでもその人が実在したかどうかもわからなくなる
それはもう名前さえ残らない、名前が残っている人はましだとなる
膨大な人間が実際は消えてしまったのである、消えてしまったということはその人は実在しなかったともなるのである
墓が残っていれば誰かがここに埋められて眠っているとか思う
墓は最後の人間存在の証明だとまでなる
ところが庶民は姓もなく墓もなかった、村の共同墓地に埋められていたのである
だから個人はなくただ共同としての墓地があった、それがホトケッポなのである

会津は広くて地理がわからない、ただ山国として魅力がある
でも今は記憶してありそれも定かではない、あいまいになってしまったのである




2022年08月14日

南相馬市鹿島区千倉でバイク事故


南相馬市鹿島区千倉でバイク事故

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常磐線の鹿島駅の近くの踏切のあるところの十字路でバイク事故があった
でもそのバイクは壊れた訳ではない、傷もついていなかった
乗っていた人は若い人で顔にちょっとだけ傷がついていた
でも立って警官に対応していた

救急車が来てタンカーで運ばれた、やはりそれなりに体も傷ついたのか
一応救急車で運んだのか、警察の車も来ていた
あそこは知っている人が常に気をつけている
その女性は用心深いのである、あそこが危険だからそうなっていたのか
私も毎日のように通る場所である
鹿島小学校へゆく道は地下道になっているから安全である
ただ車とかは危険な場所なのかもしれない、自転車で地下道を行けるのだがめんどうなので十字路の方で待っている

何か信号関係の見間違いなのかスピードの出し過ぎなのかわからない
三人でバイクに乗ってきた若い人達がいた
心配そうに事故を起こした人によりそっていた
でもその人は普通に立っているしタンカーで運ばれるような傷を負ったようにも見えないバイクも壊れていなかった
どういう事故だったのかわからない、でもものものしい感じになっていた

バイクは事故を起こしやすい、何らかでバイクの事故の確率は高い
バイクは怖い、自転車でも事故になる、その70代の女性はいつも自転車の事故になることを言っている、相当に用心深いのである
その十字路のことも常に言っていたのである
その女性も必ず毎日そこを買い物とかで自転車で通るからである
ただあれだけ用心深いなら事故は起きないように思う

私の方が危険である、私は何か注意が散漫だからである、だから私は車は買えても乗らない、事故になるからである
車に乗っていたら事故になり早死にしていたかもしれない、やはり向き不向きがある
自分には車は向いていない、それで車社会を批判している
なぜ車でもバイクでも事故になるかというと早すぎるからである
あっと思った時は事故になっている、自転車だと遅いが車はバイクでも早すぎるから不注意であっと思った時すでに事故になっている、止めようがないとなる

でも田舎では車がないと仕事もできないし暮らしていけない
私は別に買い物も近くでてきるしそれほどの不便はない、でもみんながそうはならない
まず事故は怖い、一瞬の油断でとりかえしがつかないことになる
私の兄は高速で事故で40才で死んだ、何らかで身近で家族でも親戚でも交通事故にあっている、交通事故で人生が狂ってしまう
それで推理ドラマでは必ず交通事故になりそこから人生が狂ってしまったストリーになるのである、それだけ交通事故が多いのである
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高校野球は高校プロ野球になった (地域代表ではなくなったー大阪桐蔭は全国のえり優れた選手を集め一強になった)


高校野球は高校プロ野球になった

(地域代表ではなくなったー大阪桐蔭は全国のえり優れた選手を集め一強になった

高校野球はもともと地域代表として全国で戦うとういことで熱くなった
郷土でも応援した、でも今や第一郷土出身者は一人二人とかいない
ほとんどが越境入学した別な県の人達である
特に大阪とか東京とかが人口が多いからそこから全国に散らばる
ただ地域の高校はそうした野球エリートが名前を借りているだけだとなる
大阪桐蔭はえりすぐれた選手を選抜して育てるから当然他の高校は勝てないのである

そもそもスポーツには地域性がない、ただ柔道とかは日本で生まれたので日本文化伝統を受け継ぐもので地域性があり日本はそれで強いとはなっていた
でも勝負にこだわると勝敗がありそれでどこで勝ったのかわからないのにわずかの差で点数で勝敗が決まる、それは勝敗にこだわるからそうなる

野球は別にアメリカから生まれたとしても人種とか国とは関係ない、それが証明したのが大谷である、大リーグでも大活躍であり日本人でもあれだけのスターになれる
だから日本人だからといって身体能力でも劣っていないことが証明したのである
アメリカでは能力第一主義であり能力があればアメリカンドリームを手にいれる
成功すれば大富豪になる、人種とかではなく能力を重んじて差別するのである
日本人でも大谷のように大活躍すればアメリカ国民は賞讃して受け入れる
そこに人種差別はないのである

そういうことはIT分野で起きている、世界の優秀な人を集める、そこでGAFAとがでは世界中の優れた人達が集まり知能集団を作り世界を支配するとまでなる
それがアメリカの活力となり世界をリードするものとなる
つまり才能でもアメリカだけでは世界一にはなれないのである
スポーツでもそうである、サッカーでも世界から優秀な人達集めチーム作りをする
それはサッカーに特化して才能あるものを世界から集めて強くするのである
それがプロの世界でありそこで成功したものは莫大な収入を得るとなる

だから高校野球でも勝負にこだわればどうしても全国から優秀な選手を集めなければ勝てないから高校野球もプロ化したのである
なぜなら高校野球でもその力の差がありすぎると勝負にならない、とても地元出身だけでは勝てなくなったからである
だから地元はもう関係ない、優秀な選手を全国から集めた高校が勝つとなる
だから聖光学院が東京と神奈川の名門校に勝ったとしても中味は福島県出身者は一人くらいしかいないとなる、その一人にクローズアップして福島県の放送局が取材して放送していたのである、でも他の人達はみんな他県の人達なのである
ただ宮城県から二人とか山形県とか東北地域から来ている選手もいるから東北人だと
一応応援するかとなる

それで全国でもそうして東北ブロックとか関東ブロックとか中部ブロックとか近畿ブロックとかに分けてその中で優れた選手を集めればそれなりに強いチームができる
ただそれでもどうしても関東とか近畿地域は強いとはなる
そもそもスポーツは地域と関係ない、どこの地域だから強いとかはない、人によりけりでありどこの出身者だから強いとはならない、ただ大阪辺りだと育つ環境が違うから積極的であり東北とは違っているかもしれない、でもスポーツは高校野球でも地域とは関係ないのである

とにかく高校野球はもう高校プロ野球であり全国から人材を集めなければ勝てないのである、人材という時グロ−バル化するとやはり才能ある優秀な人達は集めないと競争に勝てない、科学分野だと必ずしも地域とは関係ない、数学でも科学だと世界共通だからであるだからアメリカでは世界から人材を集めて世界一になる
黒人でもスポーツ分野では強いからオリンピックで陸上とかでメダルをとる
それでアメリカは有利になる、また英語が世界共通語だとなると英語ができる国はどこでも活躍できるとなる、その英語より数学ができることが世界共通語ともなる
ヨ−ロッパだと東ヨ−ロッパの人達でも英語を話すみたいだ
ウクライナの人達がインタビューされると英語で話ししていたからである
英語は世界で共通語になっていて知的分野の人なら英語でコミニュケーションができる
だからそれほど言葉の壁はないとなる

ただ言葉は地域性がありその土地に根付いた文化の側面がある、日本語は日本という島国から生まれ育まれた言葉であるから文化そのものである
でも世界共通性はない、日本語は漢字やらかなやらカタカナでも交じり複雑だからであるでも文化であるから日本語が英語になったらもう日本文化は消失するとなる
その独自性は失われる、もし理系的なもの科学分野技術分野となると日本語はなくてもいいとなるかもしれない、ただ文系となると日本語が英語になったら俳句とか短歌も消失する、それは日本文化のアイディンティティの喪失となり日本は日本でなくなる
ここにも理系と文系の問題が生まれている

スポーツでもどうしても強くなるには優れた選手を集めなければ勝てない、地域代表としては限界がある、人間の才能は資質は遺伝子でも異質なものが交わる時天才的な人が生れる、混血すると美人が生まれるとか黒人と混血した日本人の大坂なおみは身体能力に優れて世界的に活躍するとかなる、それは明らかに黒人の血が入ってそうなった
ヨ−ロッパの天才でも異質な世界と交わる所に生まれていた
北方系と南方系の交わる場所に生まれていた,ヨ−ロッパは国々が分かれて多様性があるから異質なものと交わり天才が生まれやすいとなる
また異業種の人と交わると刺激を受けやすいとかなる
大工さんとかでもじかに接して仕事をしてもらうと教えられることがあった
要するに人間の仕事も多様だからそうなるのである

とにかく勝負にこだわればどうしても優秀な人を全国からでも集めないと勝てない
勝つこと優先にすればそうなる、大きな得点差になると弱小な高校はみじめだからであるその差があまりにもありすぎるからだ、だから高校野球は出身地とは関係なくプロ化しているのである
でも別に大リーグでも外国人でも優秀な人を入れれば強くなる、それが大谷である
日本でも優秀な外国人を入れないとグロ−バル競争には勝てない
勝負にこだわれば必然的に高校野球もそうなったのである
そうなると高校野球のプロ化であり教育の一環としてやるのとは違ってきたのである
大阪桐蔭とかと比べると格段の差が生まれた、それはプロ化したからである
そうなるとプロ野球のように大金を払ってトレードすることにもなる
実際何かそうしたことを裏で工作しているという記事もある

でも地域とほとんど関係ないとしたら何か高校野球は地域に貢献するとかあるのか
勝ったとしてもそれは地域に育った人でもないし地域とは関係ないとなる
だから高校野球の本来の趣旨とは違ったものになっている
高校野球は別に地域に貢献することもないし地域と関係ないともなる
それは高校プロ野球として行われているとなる
高校野球は教育の一環として行われているとは今は見えないのである
だから別に初めて神奈川の高校、横浜高校に福島県の聖光学院が勝ったとしても福島県で大喜びとかにもならない、前の磐城高校が準優勝したときは福島県出身者だから大喜びになったが今はそうならないのである
ただスポーツでも何でも知的な分野でも科学でもグロ−バルに競うとなるとどうしても世界から優秀な人たちを呼ばないと勝てないのである
だから勝負にこだわれば必然的にそうなったとなる


posted by 老鶯 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月13日

車社会を見直すべき  (歩く旅のことがわからない、人間的感覚が喪失した―俳句で偲ぶ昔)


 車社会を見直すべき

 (歩く旅のことがわからない、人間的感覚が喪失した―俳句で偲ぶ昔)

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高齢者が日常の買い物や通院のために自分で車を運転しなければならない街は、単純に不便で暮らしにくいということです。高齢者にとって、公共機関と徒歩で利用可能な施設は不可欠で、利便性の高い地域に施設が集まっていることが大切になります。また、居住地域が一定範囲内に収まっていれば、送迎・訪問介護等の福祉サービスも効率よく提供できることになります。

なぜ車社会の街は暮らしにくい? 3つの要因で今後注目の「コンパクトシティ」とは

https://magazine.aruhi-corp.co.jp/0000-2950/

車がないと買い物ができない。
車がないと仕事にも行けやしない。
とどのつまり車がないと生きていけない。


地方で普通の生活をするにはテレビより洗濯機より何より、車が必需品なのです。まさにマストアイテム。
地方でそれなりの暮らしを実現しようとしたら1家に1台ではなく1人1台なんです。
電車・バスの生活に不便がないので、よっぽどのことが無い限り車を持つという発想にもなりません。

つまり都会の人々は歩きます。
この地に足着いた「歩く」という行為が、街の活性化にはとても重要だったんです。
https://onl.bz/E7iXyq9

●歩く感覚で見れなくなった社会

くるま社会というとき車によって社会が適応したとなる、社会があって車があるのではない、車があって社会がある、するともともと共同体として機能していた社会が車社会になり共同性すら失われる、社会の問題をいろいろ追求してゆくと車社会にこそ問題があるということを社会全体で追求しないのである
それはトヨタの車が今や日本の輸出品だとかなっていることも関係している

それもあるが今や車無しの生活が考えられなくなっている
まず車ありきの社会である、本当に車無しでは仕事もできない、車持っていない人は本当に変人であり社会で役立たない人達だとなる
だから私は自転車に乗る人とは話しする、でも車持っている人と話ししないのである
そして変なのだがニートとか良く合う、田舎でもまたこうして働かない若い人達が普通にいるようになったのである、その人達は車を持っていないのである
だから車も持てないとういことはもう社会人として能力がないとも見られる
第一車なしでは働くこともできないからである

農家の人でも農地に行くのに必ず車で行くからである、また荷物を載せるにも必要であるつまり農業でも車なしではできないのである、前はリヤカーとか馬車で荷物を運んでいただからそもそも遠くへ荷物を運ぶこと自体簡単にはできない、すると回りにある物だけで自給自足の生活になる
それで農家では納豆でも油までも自家生産だった、カヤの木の実から油をとっていたとかなる、つまり何かを買うということはまれだった
だから村と村でもたいして離れていなくても交わることもなかったのである
隣の村から麦つきに来ていた若者が蛇だったとかいう伝説が残るのもそもそも隣の村でも遠くなっていたからである
今は歩かないから歩く感覚で社会を見れないのである
それで飯館村の大倉村と佐須村で明治になり合併しようとしたができなかった
その理由が民情が違うからだとなっていたのである
民情とは何かとなるとわかりにくいが何かそこでわかりあえないものがあったとなる

私が大倉村から佐須村まで自転車で行くと結構遠いと感じる、そこは山間の道であり余計にそう感じた

そこを歩いたらどうなるのか?

5,6キロでも相当に遠く感じる、つまり歩くということはそれだけ近くても遠くなってしまうのである、自転車でも遠く感じる、でも車だとあっという間につくとなる
それで不思議なのは現代の人間とは遠くが近くなり近くが遠くなったのである
近くが遠くなったというとき近くの人間関係が希薄になったということでもある
なぜなら私の子供の時は私の家では店をしていたが近所の人達が客となり近間で用をたすほかなかったからである、歩いて生活するとなると遠くには行けないからである
歩いていたから商店街もありえたのである
今は車でも郊外のイオンとかに行くから買物でも車なしでは生活できないとなる
それでシャッター通りになったのである

●鉄道の時代

そもそも街自体が駅前通りがあったように鉄道があって通りができた
鉄道が交通の要になっていたときはそうである、原町市(区)は駅前通りができたのは鉄道が開通したからである、原町区は常磐線の機関区にもなっていたからである
福島県では昔のの平駅今のいわき駅とが機関区になっていたのである
そしていわき市には常磐炭田があり石炭を運んだり資材を木材や木を運んだ
森林鉄道がありそれが高瀬川から葛尾村の方まであり岩をけずったトンネルが残っている森林鉄道が網の目のようにめぐらされていたのが日本であった

でも車社会になったとき鉄道の時代は終わり車社会になった
車で物を運ぶ時代となった、自転車屋とかは駅前にあったのは鉄道で物を運んでいた時代に駅前に運ばれたからである、そこでどこでも貨物列車の一部が入る

旅客の乗降、貨物の積卸などを行うために設けられた場所のことを総称して「停車場」(ていしゃじょう)といいます。
鉄道は人と物を運ぶ事業なので、旅客を乗降させたり、貨物の積み卸しをしたりする場所が必要です。こうした場所は、役割によって「駅」、「信号場」、「操車場」に分けることができます

引き込み線が必ず駅にあったのだ、鉄道はもともと貨車であり北海道だったは石炭を運ぶために作られていた、乗客のためではなかった、小樽などがそうである
北海道は石炭の産地であり石炭を運ぶものとして作られた
常磐炭鉱があり東京にいわき市から運んだと同じである
驚いたのは原町紡績にも原ノ町駅から直接引き込み線があり生糸を横浜などに運んでいたのである、その原町紡績に私の母は十年間糸取りとして働いていたのである
人間は常に過去のことがわからなくなる、その最たるものが歩く感覚で社会を見れないことである、この変化は余りにも大きかったのである

常磐高速道路ができて鹿島地区にSAができたがそこは鉄道の駅からすると百倍以上の人が出入りしているだろう、千倍かもしれない、駅だは数人くらいしか乗り降りしないからである、その相違も大きいが高速のSAはそこに一時的にトイレに行くとか食事するしかないあとはすぐ離れてゆくだけで町の方に来ることがないのである
この相違も大きいのである、それは街とは離れた世界でありイオンともにている
経済的効果がないのである、働き口になっていても街自体の活性化にはならないのである道の駅より活性化にならない、道の駅は街中と通じていることがあるからだ

江戸時代を知るにはまず歩いてみなければわからない、お伊勢参りでも東海道でも歩いていたからである、参勤交代でも歩いていた、だから相馬から江戸まで8日とかかかった
往復になると16日もかかる、それは今の感覚では実感できない
そこからして必ず過去を見るとき誤解しているのである
江戸は簡単に行ける場所ではない、頻繁に行ける場所ではないのである

●車は場所をとり他者と交わらないマイカーになる

社会が変わった、人間は冷たくなった、人と人のつながりがなくなった、地方は衰退するばかりだ・・・・
いろいろ言う時それが車社会となったということである、その変化が一番大きかったのである
いかに車社会が社会を根本的に全体的に変えてしまったかそれを知らなければ時代を知ることはできない

それが津波でも車社会が影響していたのである、車が逃げようとし渋滞してそれで車が流されて被害が拡大した
車だと早く逃げられると思ったが都会で渋滞化して前がつかえてかえって被害を拡大したのである、車というのは意外と場所をとることが問題だったのである
鉄道だったら多人数を運ぶ公共性がある
車はマイカーであり個人的消費するものとしてある、他者は無視する公共的なものではない、その問題として場所をとることである、歩くとなれば一人の人間だから場所をとらないが車で移動することは場所をとるのである

そして車は車内で閉鎖された空間であり交わらないのである
それで自転車でテントを張ったがそこに車に乗った人がいて止まっていたがわからなかった、たまたま話しかけたので人がいることがわかったのである
つまり車に乗った人とは旅は道連れ世は情けとならない、情など通わないのである
ただどういうわけかバイクの人とはたまに話ししたりする
バイクと自転車は多少近い仲間だとなる、でもバイクと自転車の相違も大きいのである
何か百キロ走ってきて帰ってきたとかなる、そのスピードは車と同じなのである
だから若い人がバイクにのりそれなりの年配の人が自転車で旅することは相当な相違がある、自転車は相当に疲れるからである

ともかく田舎でもトラック運転手が多いとみる、また物を運ぶ仕事が多いのである
通販時代になり物を運ぶ仕事も増えたのである
あるトラック運転手だった人は足を悪くしたとかで仕事をやめてから自転車に乗って近辺を回っている、その人と良く合うのである、相当な年だけでと自転車で回っている
また老人になると80才くらいで免許を返納する人達が増えた
すると足がないということで困る、鉄道もバスも不便だからである
何か高齢化社会は車社会に合わないのである、むしろ公共交通が必要になっているのだ
ただ正直不便である、ここでは原町まで行くのに鉄道で行ってもそこから用を足すには歩くと遠くなるからタクシーを利用する、すると金がかかるとなる
だから私自身も原町でも相馬でも自転車で行っているのである
ただ自転車は暑さに弱い、今暑いから熱中症にもなるから一か月以上原町にも行っていない、そういう不便が自転車にはある

●人間回復には歩くか自転車がいい

車というのは何か人間的なものを失う、それは別に車だけではない、道具自体が必ず人間的なものを失うものだった、それで二千年前に老子は鍬を使うことで人間的なものを失うと警告していた、道具でも石を投げ合い戦争している時代と鉄器で戦争している時代とではまるで違ったものとなる、鉄だと大量殺戮も可能である
その道具が核兵器まで発展したのが人間である
道具にはそうした負の面が人間が生れてから最初からあったことなのである

また旅の面から見ると歩くことがなくなったということは旅自体が喪失したともなる
車で旅するとなると旅にならない、ただ目的地までいかに早く到達するかとなるだけである、その途中は省かれるのである
実際に地理を理解するには路査(とうさ)することである、実地に歩いてみることであるそうしてこそ地理を実感できるのである、その感覚はいくら地図を見てもわからない
実感できないのである、そこにまた過去を見ることでも誤解が生じているのである
また旅したとしても車の旅は途中が省かれるから記憶に残らないのである
大地を牛のように歩いたら記憶に残る、その記憶に残らないことが意外と重要なことになる、なぜなら老人になると辛い旅とか登山とかてきなくなる
すると今まで旅したことを回想する、でも記憶に残っていなかったら回想もできないからである、それで後で旅しても旅していなかったとか損したことに気づくのである
新幹線で一気に仙台なり青森に行ったとしても途中は通貨しただけであり記憶に残らないのである

老人になるととにかく何を経験したかを語ることになる、旅でもそうでありいろいろな仕事のことでもそうである、みんな体験していることは違うからである
だから老人はその語ることで価値があるとなる、でもニートかが老人になって二三行しか語れることがないというのはあまりにも悲しい、60才まで生きてそれだけなのかとなると何のために生きたかもわからない、つまり老人になると語られることでその人を見ることになる、記憶に生きることになる
それで私の姉は従軍看護婦で四年間マレーシアのジョホールバルで働いたことを死ぬ直前まで語っていたのである、その青春の記憶は認知症になっても忘れることがなかった
そこが人生で一番強烈な印象となったからそうなってしまったのである

老人は語ることで価値がある、それはみんな違っている、ある人は若い時人一倍働いて
立派な庭と家を建てた、その頃トラック運転手でも一か月百万もらったとか言う人もいた稼げば稼ぐほど金をもらっていたのである、その石で組まれた城壁のような庭は価値があり自慢する、そして病院に半年くらいてかえって体が悪くなったが家に帰ったら回復したとかいうのもわかる、家というのはそういう効果がある
他にも15歳で大工の修行して優秀な大工になった人もいる、そこで注目したのが15歳だったということである、もう何か物になるにはその年代でないと物にならないとなっている、明治なのか昔は13歳であり18歳になるともう親方は弟子にしなかったという
もう遅いとなっていたのである、つまりいかに若い時から修行しなければならないかである、それは何でもそうなのである、人間の時間は限られているからである


●俳句で回顧する歩いた時代の感覚

御堂まで一里あまりの霞かな

同じ橋三たび渡りぬ春の宵

夕雁や物荷ひ行く肩の上

井戸の水汲む白菊の朝かな

つくづくと行燈の夜の長さかな

(漱石俳句集)

御堂まで一里あまりの霞かな

御堂というのはそこは休む場所としてもあった、だからそこに寝泊まりした人もいた
また雨宿りもしたのである、それで私は自転車で雨が急に降ってきて本当に御堂で雨宿りした

雨宿り御堂のあれや夏燕

おそらく一里歩いたら御堂で休めるということでこの句ができたのかもしれない
一里という距離感はあくまでも歩いた距離感だからである

夕雁や物荷ひ行く肩の上

荷物を肩に背負い運ぶのは日常的なことである、雁のように飛んで行くことはできない
車だとまさに雁のように飛んで行くともなるから違っている

秋の日や松一本一本や歩むかな(自作)

松一本一本を見つつ歩く、自転車でも一本一本の松を見て走る、車だったら通りすぎるだけなのである、途中が省かれて記憶されないのである

こんなふうな俳句になる、それもこれは自転車で旅したから思い出として記憶されていたのである、現代では記憶する旅がなかなかできないのである
大地を足ずふみしめてゆけば記憶に残る、一歩一歩牛のようにスローに踏みして行けば記憶に残る、でも車で行ったら通り過ぎるだけであり途中は記憶に残らないのである
だから人間が体験するということは車がないとできないということではない
歩くことしかできない時代でも深い体験はできたのである
むしろ人間的感覚で旅ができないから経験ができないから失われたものがある
また貧乏だから体験できないということもない、何でも今なら金がないと体験できないと思っている、でも人間に与えられた時間は平等なのである

いくら金があってもあらゆる体験はできないのである、時間は限られているからだ
でも金があれば留学などできるからそれは大きな体験となる
でも貧乏だからといって体験できないことはない、体験するにしても人間は多様だからである、会社員となるのも体験である、でも変な話だけど問題だけどニートも体験なのである、仕事もしない会社員にもならない、ただ時間だけがるというのも体験なのである
確かなことは人間の体験する事でも時間が限られているからわずかだとなる
私は最初は鉄道の旅だった、それが飽きて自転車の旅になった、でも歩く旅をしていないのである、これは経験として欠けているとなったが歩く旅は容易ではないからしなかったのである、ただ自転車だと歩く旅にも近いからイメージできるとはなる

明治生まれの漱石の俳句でも昔の俳句は今の時代の感覚では理解できない

井戸の水汲む白菊の朝かな

これも井戸があったときの感覚でできた句である、何か瑞々しいとなる、それはなぜか?これも井戸の水だからそうなった、水道の水ではないのである
これも井戸がなくなったときその感覚がわからなくなる、井戸の水は自然の水でありそれで白菊も映えて新鮮な感覚になる

つくづくと行燈の夜の長さかな

行燈だったら今の電気時代の灯とは違っている、現代は明るすぎるのである
そして情報洪水でもあり時間に追われるのである、明治辺りだったら行燈がともりじっとしているほかないとなる、外は真っ暗だとなるからだ

何か現代は科学技術が経済でもグロ−バル化して発展したけどそれが限界に来たともみるSDGs(持続可能社会)が言われるのもそうである、かえって不便な時代でも見直される
その時代が回顧してなつかしくみる、人間的なものがあり情があったとかふりかえる
要するに必ずしも科学技術の発展でも経済発展でもすべてがいいものとして働かないのが人間社会なのである
だから確かに経済不況とか日本の貧困化も問題だが社会を見直すことが迫られている
そのために原発事故とかコロナウィルスとかがありそういうことを契機として社会自体を見直すことが必要である
でも誰も車を手放すとかはできない、つまり車はそれだけ肉体の一部とも化しているからである
車を持たない自分としてはキャンピングカーの旅をしたいと見た
家が移動するのだからある地点まで行ってそこで長い時間を過ごすにはいいとみた
というのは移動することに疲れたからである
でも車社会は見直すべき時代に入ったことは確かである






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2022年08月12日

レバノンの国家破産危機の原因ー貨幣から見る世界史


レバノンの国家破産危機の原因ー貨幣から見る世界史

●レバノンの国家破産の危機





ヘロドトスは、著書『歴史』の中でリディア人のことを「我々の知る限りでは、金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の人々であり、また最初の小売り商人でもあった。」と述べています。

 リディア王国が発明した貨幣(コイン)というアイデアは、その後ギリシャ、ローマに広まり、そしてペルシアや西北インドなどの西アジア政界にも広がりました

 歴史的には、用途によって特定の機能の貨幣があり、複数の貨幣を組み合わせていた[7]バビロニアでは価値尺度としての銀、支払い用の大麦、交換用の羊毛やナツメヤシなどを使い分けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%8F%B2


第一次世界大戦まではオスマン帝国領であったため、この地域ではトルコ・リラが使用された。大戦中にイギリスに占領されるとエジプト・ポンドが流通したが、大戦後にフランスの委任統治領となるとシリア・ポンドの発行が始まり、1ポンド=20フランス・フランの固定相場制をとった。これはシリアとレバノン共通の通貨であったが、レバノンでは1924年から独自の硬貨を、1925年から独自の紙幣を発行するようになった。当時はまだシリア・ポンドとの互換性が保たれていたものの、1939年には完全に独立した通貨となった。1941年、フランスがナチス・ドイツに敗北すると、レバノン・ポンドは8.83レバノンポンド=1イギリス・ポンドのレートで英国ポンドにペッグされた。1949年にはフランス・フランとの固定相場は放棄された。1975年から1990年の間、1ポンドは3アメリカ・ドルの価値があった。2006年、レバノン・ポンドは1アメリカ・ドル=1507.5ポンドのレートに固定された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D
%E3%83%B3%E3%83%89#top-page

国からの金銭給付と預金には年度に紐づけられているものがあります。もし預金者が満期日に自身の米ドルを引き出そうと思えば、銀行からは米ドルを市場から確保するか預金を米ドルに換金して口座内に留め置くよう言われることになります。つまり20日前に、レバノンはバウンド経済に突入したわけです
https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_3222/

レバノン国内には主なものだけで18の宗派が存在し、なかでも多いのは、国民の約55%を占めるスンニ派やシーア派などのイスラム教、次いで約40%を占めるマロン派などのキリスト教。そのほか約5%がイスラム教少数派のドゥルーズ派など他宗教です。

レバノンでは宗派ごとに権力を分散する体制をとっていて、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンニ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出。国会議員数も1932年の国勢調査をもとに18の宗派ごとに割り振られる決まりになっています。

野菜やハーブを多用するレバノン料理や世界最古級の歴史もつとされるレバノンワインなど、料理を目当てにした観光客が多いです。特にレバノンワインは紀元前7000年頃からつくられていたそうで、オスマン帝国時代に一時途絶えたもののフランス統治時代に復活し、本場フランスワインにも負けない味わいだといわれています。

現在レバノンがある地域は、古代ではフェニキア人が土地を有していました。首都ベイルートも、もともとはフェニキア人が築いた都市。彼らは航海技術に優れ、レバノン山脈に自生していたレバノン杉で建造した船を用いて地中海に乗り出し、カルタゴ、バルセロナ、マルセイユ、リスボンなどに植民市をつくりました。

現在のレバノン人とフェニキア人には民族的な繋がりはほぼないとされていますが、レバノンの国旗にはレバノン杉が描かれています。

紀元前10世紀頃、フェニキアがアッシリア帝国に滅ぼされると、この地は新バビロニアやアレキサンダー大王、セレウコス朝シリア、ローマ帝国などが支配。7世紀頃にはアラブ人に征服され、イスラム化しました。

レバノン南部では、シリアやイランが支援するヒズボラと、イスラエルの紛争が継続。2006年にはイスラエルによる「レバノン侵攻」を招く事態に

https://honcierge.jp/articles/shelf_story/9399



  レバノンは国家崩壊状態にある、ではレバノンという国をどう理解するのか、フェニキア人がいたとしてもそれは関係なくなりイスラム国家になりアラブ人が主な人種となり支配している、ただイスラエルとの関係が悪くヒズボラが支配してどこの国なのかわからなくなっている
あの辺はとにかく歴史が古い、7000千年前にワインが作られたというのも驚きであるもちろんエジプトでは小麦がとれるからビールを作っていた

●貨幣から見る歴史

世界史でも貨幣から見ると興味深い、レバノンボンドというときそれはイギリスの支配下にあったからボンドを使っていた、ボンドは世界的には今のドルと同じ役割を果たしていた、世界基軸通貨ともなっていた、エジプトボンドを使われている
中東でもイギリスの支配があったからだ

私はイスラエルの港から船で一時キプロスによった、そこで7時間位船が停泊したのだ
そこで金を使うにはイギリスボンドに変える必要があった、それでドルからだったのか交換した、まずドルが世界基軸通貨だから世界的に通用しやすい、だからこそドルに交換しないと世界では通用しないとなる、その役割が前はボンドがしていたのである
また世界で英語が共通語のようになったのはイギリスが七つの海を支配したからである
キプロスはすでに中世でも十字軍がキプロスを支配したことがあったから古い

1191年、第3回十字軍の途上にキプロス島沖を航行していたイングランド王率いる船団の一部がキプロス島に漂着し、僭称帝により捕虜とされてしまう。これに対してイングランド王リチャード1世(獅子心王)はキプロスをわずか5日で攻め落とし、以後キプロスの領有権はイギリス王に帰することになる。キプロス島はギリシャ正教会からカトリック教会の支配下となり、東地中海でのキリスト教国家の「基地」としての位置を約400年間果たすこととなる

もともと中東は文明発祥の地だから古い、何かどこに立っても歴史を感じるのが中東でありヨ−ロッパであり中国だとなる、日本では歴史が古いとしても二千年前となると縄文時代でありそれが文明なのかどうかわからない、すでに中東やヨ−ロッパでは高度な文明が生まれていたからである、
今はキプロスはユーロ―になっている、2007年まではキプロスポンドを使っていた
となると確かにその頃行ったのだからユーロ―にはなっていない、ヨ−ロッパも旅行したときもユーロ―ではなかった、だから国が変わるごとに両替していたからめんどうだったでもそのことで別な国に入ると意識したのである
やはり国境とかでもないとかえってつまらないとなる、いよいよ国境を越えて別な国に入るとなる緊張感が生まれるからである

ドラクマという名前は「つかむ」という意味の動詞「ドゥラットー(ギリシア語: δρャττω)」に由来している。これはもともとドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである。オボロイ(単数:オボロス)は、紀元前11世紀以降使われていた通貨単位である。

紀元前5世紀以降、アテネでつくられた四ドラクマ硬貨は、アレクサンドロス大王以前のギリシア世界でもっとも広く用いられた硬貨であった。このコインでは、表にかぶとをかぶったアテナ女神の胸像が彫られており、裏にはアテナの使いフクロウの像が彫られていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%9E



コインの旅

キプロスで一時船が停泊して
イギリスボンドの貨幣に変える
7時間ばかり滞在する
次にギリシャのアテネの露店で
何かを売っている
ドラクマを出して買う
そのドラクマの歴史も古い
アレキサンダーはインドまで遠征して
その貨幣が流通する
イギリスのボンド、アメリカのドルと同じ
ベトナムで中国だけではない
日本の貨幣も使われていた
重い金属の貨幣があり運ぶのも容易ではない
国々をめぐり貨幣は変わる
それが旅の思い出となる
またそれぞれの国の歴史を想うようになる
南の島で石貨がある
それは流通しない飾りとしてある
金は交換の道具
だから様々な国と歴史を語る
世界で貨幣のない国は今はない
でも未開の国で貨幣をもっていっても
通用しない所があるだろう
貨幣にはそれだけ長い歴史がある
塩と金が対等にアフリカの砂漠で交換されたと
つまり貨幣がなければそうなる
物々交換になる
ネパールの山岳地帯では物々交換が活きている
交通は容易ではなく閉ざされるから
交通が発達しないと貨幣も流通しない
ともかくいろいろな貨幣と紙幣が残された
でも価値があるのはドルである
ドルはエジプトの果ての辺りで
ロバに乗った少年がワンドーラ―くれと叫ぶ
アフリカの果てまでドルは通用する
アメリカが世界の覇権を握っているからだ
またなぜアンティークコインが安定した価値があるのか
それはやはり貨幣の種類でも中東ヨ−ロッパでは多い
トルコのエフェソスではローマの重厚な遺跡が残っている
そこでローマの貨幣を露店で売っていたが
それは偽物だったから損した
でもあれだけの荘厳な遺跡があると
その貨幣も価値あると思ったのだ
貨幣には何らかの裏付けが必要である
貨幣自体が金とか銀とかであれば価値がある
でも鉄のコインとかではそれ自体に価値がない
だから日本ごと小判であり
石見銀山の銀が価値があり世界から求められた
貨幣のことは語り尽くせない
それだけ貨幣は人間の歴史とともにあったからだ
世界の歴史が貨幣という物から物語になるからだ



キプロスにおける古代貨幣製造はBC6世紀頃に始まったとされています。当初のコインはキプロス文字の銘文を記したタイプとなっており、その後、ギリシャ文字に変化して行きました。

1878年に入ると英国(イギリス)が行政権を獲得し、1879年の3種の青銅貨が発行され余した。その後、1950年までキプロスのコインには英国王(女王)の肖像が描かれることになりました。

ドラクマが手のひらいっぱいの量の金属塊にあたる6ゴーコスに相当したからである

ベトナムで金属の塊りが貨幣になっていた、骨董品を探して回る日本人がいた
その金属の塊りは持つだけで重いしとても持ち運べるものでもなかった
金属が貨幣になり金属そのものがもともと価値があったからそうなる

●国が崩壊するとどうなるのか?

レバノンという国が崩壊しつつあるのは理由は政治がうまくいかない、宗派対立があり
宗派でコミュニティがありその利権があり対立する
4っつくらいに分断されてまとまらない、そして援助したとしてもその金も上の方で一部のものに奪われてみんなに回らない、政治が機能していないからだという
宗教というのは利権化して利権対立になり争う、中東とヨ−ロッパはキリスト教とイスラム教の対立がありまとまらない、絶えず争いがあり戦争があった
日本という国はこの大陸の歴史からはずれていて熾烈な争いからまねがれていたのであるそれで明治維新になり日露戦争とか太平洋戦争となりその争いに巻き込まれたのである
日本はそもそも国際性が養われないのである

中東とかヨ−ロッパの歴史をみればわかる、民族でも様々であり四分ごれつして戦っていた、絶えず陸で国境を接して争っていた、それで悲惨なのだけど国際性は養われたのである、レバノンは外国に出て稼ぐ人がいた、それがカルロスゴーンだったとなる
莫大な富を得たからである、でもその故国のレバノンは悲惨な結果になっている
政治に宗教がからんでくると複雑怪奇になってくる
政治経済に宗教がかかわると経済合理性とかは無視される、科学的なことでも宗教がかかわりガリレオが地球が回っているとしてカトリック教会から刑務所に入れられた
つまり近代はこうした宗教支配から脱することだった
経済合理性と科学とまた宗派で対立するのではなく人権が重んじられるようになりフランス革命はカトリックに反発するものとしてあった
イスラム圏で政教一致だから経済でも科学でも停滞して発展しないのかもしれない
つまり近代は宗教と経済と科学とかを分離することになったのである
宗教が利権と結びつくとこうして政治でも介入して利権争いになる、宗派対立は利権利益の争そいになる
互いに宗教が絶対だとすると譲らないからである、聖戦だとかなり政治的妥協もなくなるからである

レバノンで注目したのは国が破産状態になるとどうなるのかとういことである
水不足になっているのは浄水場などを機能させる人材がいなくなったとかある
水はあるが浄水できないのでウィルスとか毒が交じっていて飲めないという
また電気が使えないので浄水できないとしている
つまりエネルギーとか水が得られないと国家破産状態にもなる
日々の生活に水は不可欠でありエネルギーにしても電気がないと何も動かなくなる
そしてレバノン人の優秀な人たちは脱出している、国を見捨てている
それはロシアでも起きた、ウクライナと戦争になり何十万人がエリートが脱出したとしている、大陸では民族移動がありそれで国も変わる、もともと遊牧民国家の人民は移動するだから移動するのに抵抗がないとなる、日本は島国であり海に囲まれていて脱出できないとなる、だから一億総玉砕とかになったのである、大陸だったら国から脱出するからである

いづれにしろ国が破産する崩壊するとどうなるのか?

そのことを他山の石として学ばねばならない、日本でもそうなるかもしれないからだ
日本は何か実際は相当な危険な地理にあった、ロシアと中国にはさまれアメリカに支配されたがアメリカは本国は遠い、アメリカは大陸と分離した島国である
だから直接攻撃されて戦争しても本国には被害がなかった
ロシアとかだ二千万人がヨ−ロッパから攻められて死んだとかある
戦争とは人間が大挙して移動することでもある、だからこそ遊牧民は戦争に強かったのである
日本の経済が低迷して貧困化して日本国家が破産するとかまで言われる
そういう機器がるときレバノンのことも無関係だとは言えない
レバノンも宗教のことで分裂しているが日本だって統一教会とか創価とか他の宗教団体もありそれらが衝突しないとも限らない、なぜなら中国派とアメリカ派に分断されるからである、創価は中国につき幸福の科学は右寄りであるからアメリカ側になるののか、ともかく日本は大国によって分断されることがありうる
時代劇で大藩にはさまれた小藩がただ大藩の言いなりになるだけで搾取されると嘆いていた、小藩の悲哀が江戸時代にもあった
だから日本がそうした危機が来るのではないか、戦後75年は冷戦などがあり米ソ対立で日本は直接戦争に巻き込まれなかった
でも米中対立とかでは必ずまきこまれる、台湾有事ではもう逃れられない、隣国だからである

日本でもエネルギーが石油でも石炭でもガスでも入らなくなると危機になる
でも原子力発電は危険度が高く失敗した、ウクライナも遠いからと傍観しているが何か日本もウクライナになるのではないか、アメリカは日本を中国と戦争させたいとか言う人もいる、ウクライナの戦争はアメリカがかかわりロシアと対立したからである
日本は明治維新で危機になり70年過ぎて太平洋戦争になり焼野原となった
そして戦争から75年過ぎて大きな危機にみまわれる
それが津波とか地震でも原発事故とかで現象化して次に経済危機から戦争ともなる
それでレバノンであれスリランカであれよそ事にもならない
同じような不安が増大しているのである

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レバノンは世界最大のポンジスキームだった! 世界銀行がレバノン政府の詐欺行為を強く非難【越境3.0チャンネル】
https://onl.bz/nTT2KyF

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posted by 老鶯 at 08:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月10日

盛夏の俳句と短歌(白鷺、夏霞、蝉の声、夏の月) (暑くて外に出れず部屋に籠もる)


盛夏の俳句と短歌(白鷺、夏霞、蝉の声、夏の月)

(暑くて外に出れず部屋に籠もる)

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右田浜に新しくできた沼
ここにアメンボウなどが棲みついた
ただ脇に風車があるから風景としては良くない

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舗装されたサイクリングロードはいい

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なべかんむり山が見えるけどこの辺は高い山がない
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夕方に霞んだ山脈

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きれいに見るにはクリック拡大




暑ければ海に向かいぬ浜通り

草深し蟹横切りて隠る夏

白鷺の川面に映し去りにけり

夏霞山の高くも見ゆるかな

ヒグラシ屋形の森に鳴きにけり

下り来て河口の広く夏の月

草深き夜道を行きて夏の月

老鶯や草深し里月光る

大窓に映りて二階や夏の月


白鷺の木にとまりけり一時や川風涼しまた飛び去りぬ

アブラゼミミンミン蝉や我が部屋に聞こえて今日はニイニイゼミかな

一夏に4種ほどの蝉の声我が聞き分けて部屋にいるかな

草深し鶯鳴いて隠されし花も眠らむ月の光りぬ

昼顔の四五輪咲きて草深し今日またここに我は来たれり

新たにそ沼やあまたのあめんぼう波紋交わり生きにけるかな


暑くて外に出れない、ただ晩方頃涼しくなるので自転車で海の方に向かう
舗装されたサイクリングロードはいい、でも河岸は草に埋もれている
合歓の花は散った、あそこの真野川の土手の道には合歓の木がいくつかあり咲いた
その岸辺は夏草にうもている、白鷺が川面に影を映して毎日一羽来ている
遠くを見ると山脈が霞がかかり夕暮れになる、その時なぜか山が高く見えた
この辺では高い山はない、400メートルの鹿狼山が高いから遠くからも見えるだけである、ただ蔵王が見えるのだが夏は雲に隠れて見えないのである

夏草というとき草深しになる、そもそも草深し里である、南相馬市でも原町区はもともと市であり相馬市は城下町であるから感覚的に違っている
例えば季語にしても「夏草や兵どもが夢の跡」とかなるにしても今はそういう感覚はない
あまりにも遠い昔のことだからである、だから俳句とかでもその時代でしか作れないものがある、その価値はもうそういう時代がないのだから再現できないのだから貴重だとなりその価値が衰えないのである
でも現代は俳句でも文明化して自然が映えないからそういう価値あるものは作れないともなる
鹿島区となると草深し里となる、飯館村はまた高原の村でありそれで涼しいとなる
だから海があり山がありとこの辺は変化にとんでいる、ただ高い山がないのでものたりないとなる、その代りとして一応蔵王が見えるのである
老鶯は俳号にしたが今は天華である、何か老いて鳴いていると確かにあっていたのだが天華の方がいいとなる

今日も暑い、34度くらいになる、もうっとして外に出れない、自転車で夕方に近くを回るだけである
ただ部屋にいても蝉の声は聞こえるようになった、油蝉、ミンミン蝉、ニイ蝉、ツクツクボウシとかである
もうお盆であり秋ともなるが今年は夏が遅い、蝉の声も少ない
それより小さいモンシロチョウなどが少なかった、わずかしか見てない
でも黒揚羽は結構見た、黄揚羽も二三羽見た、黒揚羽は結構見ている
本当にモンシロチョウ類はまれにしか見なかった
何か異変があるのかとなるが全国的にそうらしい、一地域のことではない
また鮎は放流したがその鮎が成長して上ってこない、だから川には魚がいないから淋しいとなる、やはり鮎とか岩魚とかが住んでいるのは会津の山の方がいい、川でも激流などがありいい、でも今は行けない、ウィルス騒ぎで行けない
それよりももう自転車では行けない、体も弱り行けない、また家を留守番する人もいないので行けない、結局自由に旅できたのは姉と母がいた結果だった
介護になって十年その後も何か行きづらくなったのである

ともかく暑いから夜も外にでる、夏の月がでている、田舎だと夕涼みとかなる
都会だとこうはいかない、散歩する場所がない、それで恵まれているのだ
ただ暑い時外で仕事している人がいるが苦しいと思う、また必ず田舎でぱ草刈りがあり
これもこれだけ暑いと危険にもなる、熱中症になる
私は二回くらい前に痙攣したので警戒している、でも運動は必要なので夕方に海の方に行くのである
でも松原も津浪でなくなり涼む場所がない、日影の場所がない、風車が回っている
ただそこに新しい沼ができた、そこにあめんぼうがあまた波紋を広げ泳いでいる
トンボも飛んでいる、何か前もそうだったがこうして水辺ができると昆虫が集まってくるのである、ただ風景としては風車とかあり自然の状態ではない
この辺は風景が変わりすぎたのである

2022年08月09日

高校野球は地域代表ではなくなった (高校野球に人生を見るー聖光学院と日大三高戦を見て)


高校野球は地域代表ではなくなった

(高校野球に人生を見るー聖光学院と日大三高戦を見て)


高校野球は見る方にすると面白い、聖光学院は福島県だけど図を見ればわかるように
福島県出身は三人しかいない、意外と宮城県が多いとみる
宮城県なら東北なのだから大阪とか遠くからの留学生のような人よりはいいとなる
高校野球は前は公立高校の磐城高校でも準優勝とかあった
池田高校も地方の公立高校であり一時優秀もして熱狂したそういう時代はもう昔になった
だから高校野球は全国の地方代表が戦うものではない、全国の選ばれた野球エリートが
地方の私立校に所属して戦うだけだとなる
地元とは関係ないともなる、めうしなければとても強豪チームには勝てないからだ
日大三校は強いと見ていたが意外と聖光学院が強かった

春夏通算3度の優勝・3度の準優勝を誇る強豪校として知られています!

日大三校は強豪チームだった、でも最近東京勢は強いと見えない、勝ちあがってこない
でも日大三校でも東京出身者が5人しかいなかった
これも意外だった、東京だったら人材が集まるかと見ていたらそうではない、全国から野球エリートを集めていたのである
東京すら東京に住んで育った人が出ているわけではなかったのである
そうなると高校野球は一体地方代表でもない、野球エリートが全国の私立校に散って争うプロのようなものなのかとなる
東京すらそうなのだから他はもっと地域の代表ではない、そうなると高校野球は何のなのだろうとなる

聖光学院と日大三高の戦いを見て面白かったのは甲子園特有の浜風が吹いてそれに左右されたことである、それで風にのって大きく伸びたこともあるがさえぎられたこともあったまたライトの方に風が吹いて外野の選手がフライをとれなかった
また盗塁があり二塁になげたが失敗したのは甲子園の球場は勾配がありそれで捕手の玉が高くなったとか地形の影響まで解説していた
それで甲子園で練習していないと損だとも言っていた、すると甲子園で練習している関西の高校は有利なのかとなる、今回は甲子園で練習できなかったからそれで不利になっていると解説していた

ここに私が注目したのは風土とか地理にか関心があり戦国時代の戦いでも必ず地の利が関係してまた天候も関係している、信長の桶狭間の戦いも地の利とその日の天候で勝ったとしているからだ、その他関ケ原の戦いとかも天候が関係していたとかある
勝敗は必ずしも簡単に決められない、時の運が作用するからである
ただそもそも本当に実力がなければ勝てないことはある、高校野球でもいくら運が作用するにしても実力が基本にないと勝てない、だからこそ全国から野球エリートを集めて精鋭部隊を編成しているから強いのである

ともかく私は野球が見ていて一番面白い、見て面白いスポーツだと思っていた
ただ高校野球はそれだけではない、プロ野球とは違った要素がある
その一番の特徴は一回限りのトーナメント制の勝負だということである
一回負ければ即退場になってしまう、そこに緊張感が生まれる
そこで一戦一戦全力を尽くすことで真剣さが生まれる
人生も実際は一回限りの真剣勝負だからである、そしてチャンスをものにしたものが人生の勝利者にもなる

だからチャンスにヒットを打つホームランを打つということが最高に印象的になる
いかにチャンスにヒットするかこれが人生でもある
それもそのチャンスは一回限りの勝負だとなると余計にそうなる
人生でも重大なチャンスは一回か二回なのか本当にない、そのチャンスを逃すとチャンスはもう後はないともなる、そのチャンスは若い時に30くらい前までである
そのチャンスを逃すと後はないとなる、何回もチャンスがある見ているが意外とないのである、だから就職でも新卒で大企業に入れないとしたら一生しょうぼい会社で過ごすとかなるのである、これは別に大企業でくなしてもやはり30前まで人生の方向が決まってしまのである、だから今は引きこもりが多いけど20代で就職に失敗したりすると一生引きこもりになる、これも怖いことだと思った

スポーツでも人間のドラマになる時にる時興味深いものとなる、ただ正直後のスポーツはそういう興味が感じられない、サッカーでもそうである、ただサッカーでも一回シュートを成功することで勝負が決まるとかやはりそれもチャンスをものにしたということである一回のシュートが勝敗を決めるとなるからだ、その時やったとなる
いづれにしろ高校野球に野球エリートがこだわるのはわかる
つまり甲子園という大舞台に出るだけで本当に選ばれた人となるからである
そういう舞台は人生で一回限りなのである、そういうチャンスは与えられないからであるだから甲子園に出た人は最高の思い出となりヒットを打ったことでも忘れられないものとなる、そういうことで人間臭いものがあり高校野球に惹かれることがある
人生をふりかえれば30とかまでは青春は得難い時間だったとなる
「少年老い易く学なりがたし」というのはあらゆることに言えるのである
青春などあっというまに過ぎるからである、だから何であれ青春時代に打ち込むことがあり懸命にスポーツであれした人は後でその時のことが忘れられないとなるのである
なぜなら後は意外とそうした大舞台など人生にはないからである

ただ最近は野球は見ていない、どうしても福島県の高校が戦うとういことで見た
それも実際は違っていたのである、だから将来的には今でも現実的には地域の代表ではない、でも強くないと勝てないのだからそうなった
それで将来的には地域の代表の戦いとなれば東北ブロックとか関東ブロックとか中部ブロックとか分けて代表を選び戦うようにすればいいのかとも見る
もう県代表では勝てないからである、聖光学院に宮城県出身者が多いことでもわかる
そうなると東北の代表なのかともみるからである
そもそも高校野球は県の代表とかみているけど実際は違っている、それは錯覚なのである地域の代表同士の戦いではなくなっているのである
ただ高校野球自体には魅力がある、見ていて面白い、エキサイトするスポーツだとなる


センバツ「私学と公立の格差」埋まらぬ根本原因
https://toyokeizai.net/articles/-/419878?page=4

聖光学院出身高校
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宮城が二人と山形県がいるーこれは一応東北勢であり
地域代表になる、東北ブロック代表となる

日大三高出身中学
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東京も関東地方が多いから関東ブロック代表ともなる
ただ沖縄とか大阪からも来ている

posted by 老鶯 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年08月08日

政教分離とは何か (宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)


政教分離とは何か

(宗教と法律の問題ー宗教は心の内面を追求する)

●法律と心の問題

法律とは何か、それは強制力を持っていることである、法律に違反すれば罰する力を持っていることである、権力で執行する力はを持っていることである
宗教とは何かとなれば様々な罪があるとしても法律に触れなければ罰すること刑罰を与えることはできない、ある人を恨んでいても殺したいと心でも思っても罰せられない
現実に人を殺した時罰せられる
でもあるインドの思想家は心で思ったことは必ず影響する、誰かが殺したいという念を強烈に持つと誰かにその念が伝わり殺すこともありえると言っていた
それだけ念は目に見えない具体的行動とならない場合でも罪だとなる
心で女性を犯したものは実際はそれも罪だとしている

こうなると誰も罪がない人はいない、それで不思議なのは自然界では罪というのはない
動物でも他の動物を食べるにしてもそれが罪とはならない、そうしなければ生きていけないからである、ただ自然界には人間のような様々な悪念はない
自然災害にしても人間を恨んで災害を起こしてはいないのである
津浪でこの辺で多数死んで海を恨んだという人もいたが自然を恨んでも無駄である
それよりなぜ人間が自然災害に備えなかったのかと人間を責めるのである

ともかく人間の思想とか念とかは相当に影響するから怖いのである
それが例え犯罪にならないとしても逮捕されないにしてもそういう念を持つことが危険になる、それで韓国でも中国でも戦争の恨みがありそれで日本に復讐しようとする
そういう念を政府が過剰に作り出す、そして日本人は謝るべきだとなり統一教会ではそれを宗教として正当化して韓国をアダムの国として日本をエバの国としてエバの国は韓国に尽くすのが当然だとして金を奪った
韓国では常にそういう念があり今の国だとしている、常に侵略されてきた歴史があるからだ、そういう念があると全体に影響して全体が恨みの念となり日本人は謝罪するべきだ
金を奪ってもいいのだということが正当化される
そうした集団的念が過剰に政府からでも作られることが怖いのである
それは別に行動にならなければいいというがいつか中国でも日本人を標的にして暴力にもなったし韓国でもなる、結局その集団的念が戦争になってゆく
つまり戦争とは外国に対して国単位で集団で全体に念が大きくなり強くなり本当に戦争となり外国人は殺してもいいとまでなったともなる

韓国人に最も顕著な、他の民族にはあまりない特徴といえばやはり「恨(ハン)」の精神であろう。

この恨(はん)は個人的なことではなく歴史的なものであり国家的恨(はん)だとなる
個人的恨みは批判されることがあるが国家の歴史的なものは肯定されるとなる

●心と念の問題

宗教というのはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも法律ではない、法律の基であっても宗教に強制力はない、逮捕することはできない

「お前は人を殺したいとかの念を持ったから逮捕する」

こうはならないのである

なぜカルト宗教団体が問題なのか?それは法律にふれるから問題なのか?
オウムのように武装して権力得て日本を支配してその教祖が王になるという思想があったそれを具体的に実行しようとして武装化して本当に反対者を殺した
でも思想信教の自由というとき心で思っていただけらならそれが危険思想でも自由民主社会では罰せられることはないのである、刑罰も与えられないのである
宗教と政治の問題が政教分離でもわかりにくいのかというとそこに宗教とは本来どういうものなのか明確にしていないからである

宗教とは個々の心の問題であり政治や法律は現実社会で具体的に適応して執行力がある
でも具体的に心で人を殺したいと思っても恨んでも別に法律でそれが現実化しないかぎりかかわらはないのである
政教分離のむずかしいのは政治と宗教を分離するというけどそれがどういうことなのか明確ではないからである
別に現実に罪を犯すにしてもそれが具体的なものとなり他人を傷つけて殺すとなると犯罪として認定されて罰せられるのである
でも別に心で個々人でも集団でもどう思うかは関係しない、でも推理ドラマでは必ず殺人でも動機を調べる、それはどうしてどういう心から犯罪を犯したかを問題にするからである、それは個々人の心と関係しているから動機を必ず問うのである

カルト宗教団体の問題は思想の問題でも日本は韓国を戦争で苦しめたのだからその贖罪として金でも寄付すべきだとしている、日本人は謝罪すべきだというのはいいとしてそれがた現実になり金を献金するのはその贖罪のためだとなったとき問題が起きたのである
思想が思想のままではありえない、現実化して具体的なものとして行動になったからそれは犯罪と同じだとなった
人間は思想を軽いものとみる、人の思いは念はたいしたことがない、ただ心で思っているだけにすぎないとかなる、でもそれが必ず行動になるとインドの思想家は言っていたのである、阿部前首相を殺した人はその積年の恨みが積もり積もっていたのである
その激しい恨みの念がありあういう行動に出たのである

今政治と宗教の問題になっているのは政治がかかわるものと法律がかかわるものと宗教がかかわるものの区別が明確になっていないからである
一緒くたになっているからである
カルト宗教の問題は思いとか念にとどまっていればいいがそうではない、具体的に政治にかかわり御利益を得ようとする、それが政治権力として創価なら国土交通大臣となっていることである、宗教が心の問題ではない具体的な権力を得て施行できる立場にある
それは明らかに宗教団体の代表がそうなっているのでありその権力を利用して組織団体の力を増大することができる、だから宗教団体が国からいかなる特権を得てはならないということに政教分離の法律に違反していることは確かである
すると法律は執行力があるのだからそうしてはならないと政治に対して検察側が止めるべきだしてそういう地位につかせないようにすることである
つまり法律は無視されて執行もされないということである
だから法律など別に力があれば無視できるとなりそれは民主主義社会の崩壊に通じている三権分立は機能していないとなるからだ

●他者を地獄に落ちるとか脅迫することは犯罪

ただどんな思想を念を持つにしろそのことで具体的な犯罪とならない限り法律で罰することも刑罰を与えることはできない、だからどんなことでも思っても念など関係ないとか
現実にはなるが人間は動物と違って念とか思想の力が大きく作用する
それが人間の特徴なのである、カルト教団の危険なのはその念と思いが集団化組織化していることである
だから何か反対すると創価でもそうだし統一教会とか幸福の科学でも猛反対して組織的集団的に地獄に落ちるとか罰が当たるとか脅迫するのである
つまり宗教はそもそも他者を呪ったり恨んだりしないことが基本としてある
でも宗教になると平気で地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである
宗教が現実社会に適応されると心の問題内面の問題にとどまらない、なにかと言うと地獄に落ちるとか罰当たるとかいうのである、じれで呪縛される人がいる、洗脳される人達がいて問題になる

ただ不思議にそういう人達も実はその地獄に落ちると罰当たることを恐れているのであるとにかくささいなことでもカルト宗教とかなると何か不満があると相手に対して地獄に落ちるとか罰当たるとかいい、相手が不幸になることをみんなて喜ぶのである
それは仏法に逆らったからだとして信仰の問題にするのである
現実社会に宗教が適応される、人間にはいろいろな不幸がある、それをいちいち宗教的に判断する、成功したら福運があり信仰のおかげだとなる、でも商売に失敗することもあるするとそれは信仰がないからだったとかなる、つまり経済のことでも宗教を適応するのである、宗教をあらゆる世俗の世界にもちこみ判断する、宗教も経済てもなんでも一体化するのである
だから何か不満があると反対があると簡単に地獄に落ちるとか呪ったりするのである
人間はともかくいろいろあっても恨んではいけないとか言うのが本来の宗教である
ただそれが実行するとなると最高にむずかしいからみんな何か得すること利益があることが宗教だとして入るのである

要するにカルト宗教団体は確かに外国では禁止されている、統一教会も創価もフランスなどではカルトとして法律で禁止されているのである、世俗社会に宗教をもちこむとあらゆることが宗教と関係づける、そして常に不満があり反対する者は地獄に落ちるとか罰当たるとか脅迫する、そのこと自体が大きな犯罪とも思うのである
何か確かに具体的に殺すとかしなければ犯罪にはならないがそれは宗教的脅迫でありそういうことを口にしてはならないことではないか?
実際に人間を裁くことは神しかできないからである、だからはそういうことを平気で言うカルト教団は強迫団体なのでありとりしまるべきだとなる
脅迫罪というのが現実にあるからである

●世俗化された宗教はナチスにもなる

いづれにしろ集団組織化したカルトは具体的に心だけではない金銭を要求して収奪する
また政治権力を得るということは政教分離に違反するのである
それは心だけでない、具体的に権力を得ることであり権力を行使できる地位を得たことになるからだ、それは政教分離の法律違反だから取り締まるべきなのである
でも自民党はそれをしていない、票をもらえるからそうしている
統一教会でも票をそんなに持っていないのに選挙運動を手伝うとかして自民党に相当に影響していた、ただそんな力が10万くらいの信者の規模であったのかという疑問はある
ただ法律的には多額の金を献金させていたことは具体的でありそれは法律で取り締まるべきだとなる
権力を持てば罰があたるとか実行できるようになる、国土交通大臣なら大きな力をもっているから公明党に票を入れるなら仕事を与えるとかなる、応援しないものには罰を与えるともなる、予算でも公明創価に有利なように配分することになる
福運を団体組織の利権化することができる、第一そうしたいからこそ毎日選挙運動している

ただ思想にしても創価だと日蓮の教えが王仏冥合であり王は政治のことである、そして国立戒壇を目指しているのである、すると現代の政治からすると法律違反になるのである
でも信教思想の自由があるとしたら別にそれも認めさせることができる
選挙で勝てば数で決めるのが民主制だとするとそういうことでも決めることができる
そして数が万能になるとき遂に民主主義の選挙で法律に違反することなくナチスが生まれたようになる、それは合法的政権だったのである
だからすべてが数が多いからといってそれで決めていたら大惨事になる
「赤信号みんで渡れば怖くない」となってしまう
だから何らかの歯止が必要なのである、それが法律なのだがその法律も万能ではない
法律が執行されていないし法律も数によって変えられるからである
だから法治国家といいっても法律も実際は通用しないときどうなるのか?
結局数であり遂に暴力が決めるとなる、それで山上の行動が快挙だとして賞讃されるのは結局選挙でも政治は変わらないからである、そして政教分離などの法律も有名無実であり阿部前首相は最高権力者となり司法でもその悪事に手を出せないとなっていたからである
宗教とはどうしても内面から心から規制するものである、法律とか政治は外面的に規制する、いくら政治でも法律でも外面的に規制しても人々の心を変えることはできない
心が清いものが神を見るだろうという時、その心が清いということは内面的なことであり外からの圧力でできることではない、だから宗教の役割は外面的なものとして政治権力とか世俗的力で経済力でも変えるのではなく心で本当に悔い改めるとかするのが宗教だとなる、そういうものとして宗教がありそれはキリスト教でも仏教でも他の宗教でも同じなのである、ただ現世的なものの力があまりに強いから現世利益の宗教になってしまったのである

心の清いものは神を見るだろう

神は個々人の心を見ている

心の貧しい者は幸いである

悲しむ者は幸いである

・・・・・・・・

これは外面的なことではなく心の問題としてそうなったのである、宗教というのは思いとか念を浄めることなのである、山伏でも六根清浄を唱えて山で修行することは心の問題をとして宗教があったからである、心を浄めるには大都会ではできない、清浄な自然でしかできないからである
でも人間は現実社会に生きることはどうしても世俗とかかわりそこで宗教も世俗化して
現実社会にかかわり心の問題として宗教があったときまるで違ったものとなったのであるむしろ人間の思いは念は御利益権力志向になる、思いとか念を軽く見るのである
それより現世で金持ちになりたいとか高い地位につきたいとか美人と結婚したいとか様々な欲望を具体的に達成したいとなる、それがまた信仰にもなったのがカルト宗教なのである、だからこそ何百万人も集まらない、票にならないからである
世俗的欲望達成のための宗教となってしまったのである
ただ別に世俗社会だったらそういうことも容認される、でも宗教本来の目指したものとは正反対なものでありそれで矛盾しているのである、理論的にも崩壊しているのである
だからこそナチスになっていったのである、そもそもこうして矛盾しているのだから
いつかその矛盾から理論的に崩壊して破綻してしまうとなる
その破綻にしてもナチスのようになることが怖いのである

●宗教団体組織に頼っても問題は解決しない

ともかく宗教とは何かとなるとき心の問題とか内面的なものだとか言っても現実社会ではバンの問題であり日々の生活が優先されるから宗教もその庶民の日々の問題に適応する
いくら高等なことを言っても日々の生活に足しになるかどうかで決まる
生活に困っていれば援助してくれとなる、だから生活保護者が多くもなる
創価とか共産党に頼めば優先的に受けられるとかそうした日々の生活で足しになることで頼り一票にする、心がどうのこうのとか高等なことでは票は集められないからだ
でもそれが極端になるともう心の問題だった宗教が世俗以上に日々の生活のことになり
それで御利益を受けることしかなくなる、そうして創価とかではどうなったのか?
権力を奪い御利益を配分することが目的になる、だから権力異常に執着する
つまり世俗よりも世俗的になり宗教はただ世俗の御利益を得るための手段となる
そして何か反対すると批判すると地獄に落ちるとか罰当たるとか何百万人の会員が攻撃してくるから怖いのである、別に宗教と関係なく底辺層でも相談にのるとかはいいのである宗教がかかわるとややこしくなる、その区別ができなくなるから問題なのである

例えば社会で生きていれば必ず事業するにしても成功失敗はある、それがいちいち宗教に関係づける、信仰があれば成功する、なければ失敗するとかなる
すると事業で成功するには拝むことになる、そして成功した人は持ち上げられる
でも悲惨な失敗もある、その方がこの世では多い、会員でも実際は悲惨な失敗も多いのである、別に会員になっても問題は解決しない、かえって悪いことが起きることがある
近くで会員になったらすぐに息子が若くして病気で死に母親も死んだとかある
他でもそういうことは無数にある、交通事故だって学生時代に創価の人が死んだ
でもそれでも成仏したとかこじつけていたのである、その会員を見ても様々な問題は解決していないのである、むしろ悪くなっていることもある

それはそれぞれの家族とか個人のカルマが影響しているからかもしれない、自分の時はそうだった、なんらか家族とか親戚のカルマを受けて苦しんだとなる
だからそれぞれの問題は一様に解決はできない、一様に解決しようとしているのが組織団体として解決しようとして個々のカルマがありできない
共産党でもみんな平等にしようとしても結局共産主義が失敗したのは個々の運命とかカルマが違っているからである、そういうものを一様にできないからである
ただ苦しい人は藁をつかむ思いでそういう団体に頼る
女性だと頼ることが習性になっているから余計にそうなる、統一教会で息子が事件を起こした女性は夫を早く亡くして頼る人がいなくなりそうなったらしい
人間が困ったら組織団体で何でも解決してくるのか、結局上の人達はそういう人達を利用して議員になったりして得するだけだとなる、それは共産主義でも同じである
貧困ビジネスだという人もいる
問題になった女性は金はあったのである、一億円も献金していたからである
では何が問題だったのか?それは夫が自殺してそれで頼る者がいなくなりそうなった
でも金はあったのだから困ることがなかった、だからすべてが金の問題でもなかった
その解決方法は別にあったし統一教会に入ることではなかったのである
ほとんどの問題が金で苦しんでいる時、この女性自体の問題だったのである

悲しむ者が幸いだとなぜキリストが言ったのか?

そもそも人間には悲しむことが必ずあり愛別離苦がありそういうことはすべて金で解決できない、この女性は金持ちであっても解決できなかった
そうして解決できないことがあり悲しむ者となる、でも神はその涙をぬぐいたもうというとき救いがある、でもカルト宗教団体ではただそういう人達を利用して自分たちが得することしか考えないのである、だからいろいろ苦しみ困っている人達を勧誘するのにはいいのである、藁にもすがり助けてもらいたいとなるからだ
でも現実はそう言う組織団体はそういう人達を利用するだけだとなる
そして問題はそれぞれの問題が必ずしも金の問題ではなく違っていることにあり一様に数式のようにあてはまめて解決できなことである
だからカルト教団でも共産党でも似ている面があるのだ
ただカルト教団の悪質性は常に罰当たるとか地獄に落ちるとか恐喝することなのである
それは脅迫罪であり犯罪なのである、だから法律で取り締まるべきだとなる
つまりカルト宗教団体は法律ですべてではないにしろ取り締まるべきだとなる
現実に外国ではフランスなどでも取り締まっているからである
日本はそういう面でゆるいからと統一教会にでもつけこまれたとなるのである

●裁判で霊感商法は罰せられる、脅迫罪にもなる

「相手方に害悪を告知したり、心理的な圧力を加えるなどして、殊更に相手方の不安、恐怖心等をあおるなど、相手方の自由な意思決定を制約するような不相当な方法でされ、その結果、相手方の正常な判断が妨げられた状態で献金等がされたと認められるような場合には、当該勧誘行為は、社会的に相当な範囲を逸脱した行為として、違法と評価されるといわざるを得ない」

旧統一教会、信者家族らと法廷闘争も 夫の財産を内緒で献金、伝道しなければ「自分も家族も不幸に」…裁判所はどう判断?

これも犯罪として適応されるのか?犯罪ではあるが刑罰を与えられるかどうかである
そこに金銭がかかわっているからその金銭が問題になる
でも宗教が脅迫罪にもなる、先祖で苦しむとか罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのは
脅迫罪なのである、そういうことは誰もわからないからである
神のみぞ知るとういうことになる、霊感商法は金もうけのためにそういうことで脅迫して売る、だから罪であり罰せられるとなる、そこに明確に金銭がかかわっているからである宗教は強要できないからである、信じる信じないを強要できない
そこには信教の自由がある、また結社の自由もある、でもカルト宗教団体の結社に問題がある、それが犯罪集団にもなることである、オウムとか統一教会とかそうである
その団体組織が犯罪組織でもあったからだ、創価でも折伏とか前は宗教を強要していた
そして会員にして票に結びつかせて権力を得るために運動していたし今でも継続されている
やたら宗教で他者を脅迫することは特にそれが金銭が具体的にかかわるときは禁止すべきであり罰するべきだともなる、ただその区別がむずかしいのである

2022年08月06日

昔の暮らしを俳句から偲ぶー明治の貧困を今と比べると・・・


昔の暮らしを俳句から偲ぶー明治の貧困を今と比べると・・・


「殺し掻き」は木が枯れるまで漆を採取し尽くしその後は切られてしまうところからきているようです。
採取された漆は「血の一滴」と呼ばれています。木が傷を付けられ、修復のために流した樹液なので、漆は一滴一滴を無駄にしないように大切に使われています。

谷深うまこと一人や漆掻き

翁住んで壺の漆を干しにけり

漆掻く山に通草(あけび)の赤きかな

(河東碧悟道)

漆はJAPANと外国で言う、陶器はチャイナで中国である、漆の製品は外国と特別重宝された、その漆の技術は縄文時代から始まるから本当に古い、だからどうしてそういう技術を知ったのかとなる、たいがいは中国から入ってきたからだ

漆(うるし)とは、日本、中国、朝鮮半島ではウルシ科ウルシ属の落葉高木のウルシ(漆、学名: Toxicodendron vernicifluum) から採取した樹液であり、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料および接着剤である。その他ベトナムなどの東南アジア、ミャンマー、ブータンにも成分や用途は異なるものの一般的に漆と呼ばれる天然樹脂が存在する

ウルシという言葉はやはり中国から来たのか?ウルシの木があるから古くから漆塗りは始まっていた、ただ日本で一番古くからウルシは使われて日本の特産品となった

なぜウルシのことを言うのかというと私の家の前で漆塗りをしていた家があったのだ
だから身近だったのである、いつも漆を丁寧に塗っていたからだ
何かその頃石屋とかも近くにあり石を一日削っていた、また篭屋があり竹で篭を編んで作っていた、子供の時そういう仕事を見ているとその仕事に親近感を覚える
そして近くの山に入った時でも漆の木がありうるしにかぶれるとか騒いでいたのである
漆はその頃身近なものとしてあった、でも漆を製品化することは相当な手間だった
手作りであり外でも着る物でも機織りでも手仕事であり家で機織り機があり織るおとは手間である、つまり昔は機械で大量生産できないから一つ一つ手作りだから手間でありそうして作られたものは貴重である

今はいくらでも商品があるがその商品がどうして作られているからわからないのである
だからユニクロの製品が貧しい国の労働者が作っているとかその労働も過酷だとかなり問題になった、でもその現場を見ることができない、何でももはや物を作っている現場を見ることは現代ではできない、フィリピンのバナナを作る所で日本人が働いたらその労働がきつかったとか報告がある、そういうことは全くわからないで商品を買って食べているのが現実である
だから物を貴重に思わないから無駄にして捨てるともなる
どうして生産しているかわからないからだ
ただ大工さんに地震で壊れた所を直してもらったりして補助役をしてその苦労の一端がわかる、その大工さん異常に苦労なんだよというから困るが確かに苦労していることが実感としてわかる、でも今人間の仕事が多岐に分岐して理解できないのである
まず仕事を身近で見ることができないからである
だから過去の仕事がどういうものだったか偲ぶ時俳句とかでも役に立つ
文学とかも実地の実際の生活を離れてありえないからである
そして一時代が過ぎるとそうした仕事がなくなったりするから余計にわからなくなる
紙漉きという仕事でも冬に行う、冷たい水を利用するから辛い仕事だったとなる
するとその紙は貴重なものとなる、それだけの労働の結果として作られたからである
でも今は紙なんか大量にあるから捨てるとなる

まず野菜にしろ農作物でも畑じ実地にしている人を見たらいかに大変かわかる
その女性は結果的にはほとんど収穫がなかった、ただネズミに食われた、道具が盗まれた畑をうなってもらって金を払ったとか肥料代がかかり実際は金をかけてもとれたのはほんのわずかだったのである
苦労ばかりで収穫はほとんどなかったのである
そのことで農業とは大変な作業であり簡単に実りにはならないことを知った
何か生産者の立場がわからないのである、私自身でもプログに毎日文章書いているけどこれも手間なのである、最近キーボードを打ちつづけて肩の所が痛くなったのである

そこに力が入りそうなった、それは職業病でもある、体の一部を使いすぎてそうなったのである、つまり何でも文章でも生産する側になると手間であり苦労がある
ただ知的なものはかえって文章を読む人が苦労することはある
芸術だと鑑賞者が優れていないと作品を活きないのである
ただ最近わかったことは何かを本でも理解するには何回も読まないと理解できない
何回も読んでいてその人の言いたいことを納得するとなる

とにかく人間は昔をどうして理解するのか、これはやはりその人の経験が大事になる
経験していればイメージできる、だから子供の時の経験は貴重だったのである
裏の堀で洗濯していたとか今では信じられない時代だったからである
水道でもガスもない、電気も裸電球一つくらいしかない時代である
燃料は炭だったから江戸時代と同じだったのである
そういう時代は今は経験できなくなった、余りにも変わりすぎたのである

漆掻く山に通草(あけび)の赤きかな

通草(あけび)の実は割って食べていたのである、ただ赤いというのは花のことだろう
子供のころは風呂のたきつけの落葉を拾ってきたりとか原始的生活だったのである
水道もなかったから井戸水であり街には井戸がない人は井戸水がある家にもらいに行っていたのである、それは無料だったのである
人間の生活は戦前までそういう生活であり江戸時代のつづきだったのである
それが高度成長時代から急速に変わってしまったのである

現代と過去の仕事の相違は地元で働く人が少ないのである、昔はほとんど地元で働いていた、農業であり漁業であり林業であれそうである、大工であれ建築工事関係でも地元中心に働いていた、今は地元ではなく遠くへ働く人が多いのである
足場の仕事の人は最近横須賀の方に行ったとか前にでも青森に行ったとかある
運輸関係でもトラック運転手などが結構多いし出合うのである
現代の仕事は運ぶことが多いからそうなる、特に通販時代になると運ぶことが多いから
その仕事にたづさわる人も多くなる

六号線トラック休む夏の雲

何かトラック運転手だった人が足悪くしたとか自転車で近間を回っている、その人と良く合うのである、その人が働いていたときはまさにこんな風景だった
俳句でも文学でも必ず時代を反映する、戦前とかまでは馬車が多かった

馬車屋とかもあった、馬車で荷物を運んでいたのである、リヤカーも利用した、でも一番重い荷物を運べるのは馬車だったとなる、それで子供の時馬車の後ろにのって遊んでいたりしたのである、だから馬に自ずと親しむということがあった
この辺では野馬追いがあるから未だに馬に親しむことはある
でもその頃は生活の中で馬が不可欠であり人間とともに活きていた、

元々甲州街道の中には上下の高井戸宿があったそうですが、その間を埋めるように新しい宿ができたので新宿と名前がついたそう。
四谷新宿馬糞の中、、」と書かれているので四谷新宿は馬糞が目立ってしょうがないところだということがなんとなくわかります

鳴雪の句「新宿や馬糞の上に朝の霜」

新宿となると江戸時代でも人通りがある、馬も来る、だから馬糞が目立つ、この辺でも野馬追となると馬糞が目立つのである,インドだと牛の糞を干して燃料にしたりする

菜の花や馬車をこぞりて下る人

馬車にのせられて人達が一気におりる、その数は多い、菜の花と馬と人間がいる
そういう風景は絵になり詩にもなる、でも車時代になるとそういう人間的風景が失われたのである、だから私は車は好きではないのである
車にとって自転車は邪魔物であり歩行者すら邪魔者となっている、それは自転車は道を急に横切ったりするからである、また自転車からしても車は相当に危険なものなのである
特に後ろから来る急に来るから危険なのである

とにかく馬頭観世音の碑が多いのは戦前までは戦後ですら馬車が荷物を運んでいたからである、その供養のためにいたるところに馬頭観世音がある、それはまさに馬の時代だったことを象徴していたのである、新宿でもそんな時代があったことなど今になるとイメージすらできないのである

昔を知るという時、やはりいかに貧乏だったかを知る、それは今の貧乏とはまるで違ったものである

水買うて分かつ蜆(しじみ)や隣同士

隣から薬草くれぬ蜂の毒

(河東碧悟道)

隣同士でこうして物の分かち合いがあった、貧しいから互いに助け合うことがあった
薬草というとき薬ではない、野の薬草をとって分けていたのかとなる、そもそも薬は高いものだから簡単に買えない
今でも金がないと薬も買えないし医者にも行けないとかなる、日本が貧困化してそういう人も増えているのである
蜆というとき真野川で結構蜆がとれていた、私は蜆を暇なのでとって家族とともに食べていたのである、大きな蜆もとれていたのである、津波以後はとれていないが今とっている人をみかけるが少ない、そういう思いでがあったとなりなつかしむ

当時の暮らしをみると

家賃日掛け 2銭

布団損料 3銭
薪小束  一銭五厘
計り炭  一銭
醤油   一銭
たくわん漬け一切れ 5厘
塩魚    二銭
酒コップに一杯代 一銭五厘
白米一升  一四銭

(明治東京下層生活誌ー中川清)

明治の暮らしの家計簿である、これで思いあたるのが家賃日掛け二銭というのは毎日家賃を払っていたのである
というのは私の父親は酒屋をしていて姉は毎日家賃をとりに行っていたということを聞いた、家を貸していたことがあった
父親の通い帳というのが残っている、それは貸したものかもしれない、それでその貸したものをとりに回っていた、つまり酒を飲む金もなかったとなる、それで貸した金が払えないのでわずかの土地を得た、それが今でもかえって税金をとられている
その土地がどこなのかもわからない、これも変なのである
その頃質屋が多いのはやりくりするために多かった、何かを質にしてやりくりしていた
酒コップ一杯代が一銭五厘とは高いかもしれないからだ
一番高いのは白米一升で14銭である、白米は贅沢品だったのである

薪小束 一銭五厘とか計り炭 一銭とかは薪とか炭が燃料だったからである
たくわん漬け一切れ 5厘というのは高いのか安いのか結構高いのかもしれない
なぜなら私の母親は原町紡績に十年間糸取りしていて昼間の食事は味噌汁とたくわんとかあとなにかあったのか、一汁一菜なのである
だからそんな栄養で良く仕事できたなと聞いていた、醤油でも貴重だったとなる
布団損料とかあるのは布団を買えないで借りていたからだとなる
この暮らしは江戸時代の本当につづきである
私の父親は病気になり

サシミ食えるようになったが食いたくないと言って死んだ

これも悲惨だった、その頃店をして豊かになった高度成長時代の始まりだった
その頃バナナを売っていないので仙台市まで姉が買いに行って食べさせた
果物は高いと買えないというがバナナだけは安いから買えるのである
こうして昔を比べると貧困というのがどういうことか本当は今の人はわかっていない
確かに日本は貧しくなっている、でもその貧困の度合いが昔とは比べられない貧困なのである
ただ貧困の中で食べ物でも分かち合うことがあった、そこに人情があったとはなる
また馬と身近に接しいるから情が育まれてはいた、車とか機械になると情は育まれないからである、また隣同士で助け合うとういこともなくなった
すべて金となり何か物を分かち合うことはない、でも金はいくらくれても感謝もしないことがある、物だと物に憑くとか物に心がついて金とは違ったものになるのが不思議なのである、その物は今と違って相当に貴重なものだったのである

とにかく昔を知り今を知ることが大事である、今確かに貧困な日本になっている
では貧困とは何かとなると実際わからなくなっているのだ
今の貧困は電気ガス水道が止められることである、それが一番深刻なのである
でも昔は電気ガス水道もなかった、そこに金を払うことはなかった
ただ日々の食事をするだけで精一杯だったとはなる


posted by 老鶯 at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新-明治以降

2022年08月05日

大衆ファシズムとカルト宗教団体の時代 (地の塩の消失した大衆社会はヒットラーに指導される)


大衆ファシズムとカルト宗教団体の時代

(地の塩の消失した大衆社会はヒットラーに指導される)

●政治とは利権利益の調整

政治とは何かと言えば利権利益の争そいである、互いの利権利益があり奪い合いとなり戦争にもなる、戦国時代は入会権の争そいから始まったというときわかりやすいのである
地域の入会権に戦国大名がかかわり大規模な戦争にもなった
水争いとかなると砂漠地帯では水が命だから水の奪い合いになるとかわかりやすいのである、本質的には人間が争いになるのは利権利益の争そいである
それが自分の住んでいる場所でも起こった

原発事故の補償金でもめたからである、それは今でも尾を引いてる、隣でなぜ多くもらえたのかとか、30キロで区切られたから女性の親は泣いて訴えていた
なぜなら別に放射線量など変わらないからである、だから30キロで区切ったのは問題だった、南相馬市では鹿島区が30キロ以外になり補償金が30キロ内の原町区と小高区とは相当に少なかった、原町区は避難区域になっていないのに三倍もらっていたとかなる
それで南相馬市は一体化感が失われたのである
でも避難者が仮設住宅に押し寄せた、それは相馬市でもそうだし新地とかでもそうである補償金では津波被害者と原発避難者では差が大きかった、それで同じ仮設に住んでいても口をきかなかったという、それも人間は金になるとシビアになるからである

人間はともかく争いの原因は利益利権の争そいである、政治とはその争いを調節することが役割だとなる、でもそれも公平にするのはむずかしい、だからこそその決着は武力になり戦争になる、平和的に解決しようとしてもできないから最後は武力で力で解決するとなる、それが人間の歴史だったとなる
それで三国志とマキャベリズムが生まれた、いかにして権力を得るかとか権力が最大の課題となるからだ、そして宗教でも占いでもなんでも戦争に利用しろというとき統一教会でも同じだった、宗教は戦争のために利用されたのである

●カルト教団も大衆ファシズム

カルト教団とは何かとなれば統一教会でも創価でも幸福の科学でも権力志向が強いのである、政治に深くかかわり権力を操作したいということである
創価なら毎日365日選挙しか関心がない、そのために祈る
それが利益になり利権になるから祈る、御利益のために祈るだけである
あらゆる欲望は肯定されるしむしろもっと欲望を持てと幹部が指導する
会員もそうした欲望を満たすために祈り運動しているからである
だからなぜそれが宗教なのかとなる、政治活動であり御利益を得る経済活動だから税金をかけろというのは正論なのである
それも結局民主主義とは数であり数だ多数になれば法律も数で決められるのだからどんな理不尽なことでも通る、そしてナチスになりファシズムになるのである

つまり現代とはファシズムの時代だったのである、なぜなら民主主義といってももう大衆民主主義でありすべては数で決まる、内容など関係ないからである
だから創価とはでもカルト教団では必死になって会員を増やそうとしている
数が集まれば社会を威圧できるし権力化するからそうする
ただ統一教会はそんなに力があったのかということである
隠されて報道されないのでわからなかった、全国で十万くらいの会員で自民党を操作する力があったのかとなる

キリストがこの世のものをあなたに与える、王にしてやると言ったとき断った
でもカルト教団だったら喜んで引き受ける、それよりそもそもがこの世の王になること権力を持つことが目的だからである、理論的に王仏冥合とかあり矛盾しないからである
それは中世のものであり現代にとても適用などできないのである
ただ理論などどうでもいいのである、権力を得ることが利権御利益を得ることが目的でありそのためにいろいろ理屈が言えるからである

●共産主義も全体主義で大衆ファシズムと化した

現代とは大衆社会であり民主主義と大衆は相性がいいのである、そしてマスコミが大衆を洗脳するのである、実際は大衆があってマスコミがある、大衆の意向にそってマスコミもあったのである、だからナチスがラジオから生れたかというときもそうである
ラジオのようなものでもそんな影響があったのかとなる
ただ現代社会は報道するときその場に立つこともできないし世界になるとさらにわかりにくくなる、だからフェクニュースでも信じやすいのである
マスコミによって操作されやすいのが現代だったのである
でもそれまでは新聞がそうだった、朝日新聞が一番戦争をあおったというのも意外だがそういうことがあった、そこでファシズム的熱狂が起きていたことはいえる
ファシズムというとき全体主義のことである

共産主義も全体主義でありそのために何千万人が死んだとか言われる
カンボジアでは二百万人が共産主義で粛清されてその骸骨が山と積まれた博物館がある
共産主義も全体主義でありファシズムでもあった
また宗教ファシズムにもなるのがカルト教団である
それらを野放しにしているとナチスとなり膨大な犠牲者が出る、何か信教の自由と自由、自由とかまるで絶対の権利になったのが現代である
そこであらゆるものが自由だとなり結果的にはそれがナチスとなりファシズム戦争となったのが現代だったのである

政治というとき民主主義でもポリスは一万くらいしかの人口がない、そこでは直接投票であり誰かの代理人を選ぶ投票ではない、だから一票の重みがあったし責任もあった
現代で一票など何の価値もない、だから組織化集団化したものに頼る、それがカルト教団でもいいとなり問題化したのである
つまり現代の危険はどうしたら大衆洗脳されるものから逃れて各自の自主性を確保するかとなる、そのためにカルト教団などは規制すべきなのだができないのである
自民党はカルト政権だったということが統一教会のことでもわかったしそもそも創価と一体化しているのだからカルト政権であり政教分離に違反している
でも法律など関係ない、政治は数だというときカルト教団も数となれば票を得られるのだからそれでいいとなる、とにかくまとまった票がない勝てないとなるからそうなる

●ノブレス・オブリージュ(地の塩の消失した大衆社会)

現代とはあまりにもあらゆることが自由にしたことなのである
そしてカルト教団でも信教の自由があるとか主張する、あらゆる人が自由を主張する
権利を主張する、しかし義務とか責任は意識しないのである
貴族支配に問題があったが侍支配にも問題ががあったがそこで

ノブレス・オブリージュの精神とは、
「財産、権力、社会的地位というものは、自分自身の能力ではなく、社会から、祖先から与えられたものであるから、自己を犠牲にしてでも果たすべき社会的義務がある」という考えである。

要するに大衆は義務とか責任は感じない、ただ利益を得ることであり利権を得ることしか考えないのである、無責任なのである、そこで起きたことはもう大衆に社会が席巻されて終始がつかなくなる、誰も国でも地域でも責任は持たない、すべては大衆の利益と利権しか追求しない、それで原発事故でも家の前の海に権利があるとして補償金をもらう権利がるとして主張したりあらゆることで権利を主張するようになったのである
そこに責任とか義務などはない、それが意識できないのである
でも結局必ず責任がとらされる、その責任とは大衆戦争だったら何千万人が死んだとか原発事故だったら故郷に住めなくなったとかである
その責任は空恐ろしいものとなったのである

この世には一定数の地の塩が必要である、とても大衆にまかせたらあくことなく権利利益を主張するだけであり社会は餓鬼地獄にもなる、大衆は責任とか自覚しないからである
結局現代文明とはこうして大衆によって消耗される社会だともなる
カルト教団でもそうである、膨大な大衆によって使うようで使われる
大衆に使われて一生も終わる、結局大衆は真善美など追求しない、真善美を追求するのはやはり一定数の地の塩だとなる、その人達がいて下々でも社会は治められるとなる
カルト教団などは真善美など追求していない、権力しか眼中にない、数を集めて権力を得ることしか眼中にない、あとは人間のあらゆる欲望を肯定して御利益を得るために活動しているだけである

そして大衆を使っているようで大衆に使役されて一生を終わる
民衆のためだとかはない、自分の御利益と欲望しかない、その教祖は実際はサタンだともなる偶像でありそれに使役されて終わるとなる
何か善きものは残さない、会館とか各地に建ててもそれも虚しくされる
でもそこに費やされた金とか時間は膨大である、それも何ら実りがないのである
だからつくづくこの世は何なのかとなる、無益なことに膨大な時間と金と人員が費やされるのである、それはサタンに使役されるためにあったのかとなる

●代議制は無責任社会にした

人民の代議士はその代表者ではない、彼らは人民の委託人にすぎない
最終的に何事も取り決めることはできない、人民が親しく承認しなかったような法律は
すべて無効であり決して法律とは言えない
イギリス人民が自由だと自分では考えているが彼らが自由なのは議会の構成員を選挙する期間中だけであり選挙が終わってしまえばたちまち奴隷の身となりなきに等しくなる

戦争を起こすものは人間の関係ではなくものごとの関係である
そして戦争状態は単なる対人関係から生まれない、ただ対物関係から生まれる

人民は代表を持つやいなやもはや自由でなくなりもはや人民として存在しなくなる
(社会契約論ールソー)

代議制では代表者を選ぶのであり選ぶ人は責任もなにもないいてある、すべて委託するだけであり責任を放棄するのとも同じだとしている、だから代議制というのは無責任であり選ばれた人でも実際は無責任である、選んだ人に責任があり選んだ人が悪いのだとか
選ぶ人たちが低劣なる選ばれる人も低劣だとなる
むしろ低劣な人間しか選ばれないともなる、そこに民主主義の限界がある
直接民主制とかはもう国単位では無理である、巨大すぎるからである
それは一万くらいのポリスで可能な政治体制だったのである

そして大衆民主主義とかポピュリズムとなるとき芸能人とかただ名前が売れている人が選ばれることになる、それで青島だとかふざけた人でも東京都知事になる
それは大衆にとって芸能人が身近であり名前も知っているからそうなる、第一大衆は考えるのが嫌なのである、めんどうなのである
だからこそカルト宗教が人を集めたのである、そこで一切考える必要がない、教祖の命令のままに動くロボットとなる、ナチスの党員となるからだ
その人達は機械のように動く、それで怖いのは殺せと命令されたら何の躊躇もなく人間を大量殺戮したとなる、命令されたことに疑問もなく考えることもなくそうしたことが怖いのである、大衆民主主義はそうなりやすいのである

大衆民主主義は最低限の人達のレベルに合わせることである、知性もなにもない芸能人に投票するような人に合わせることである、よくよく考えて選ぶ人ではない、人気投票のようなものになる、つまり大衆民主主義は最低辺のレベルの人達に合う人しか選ばれないということである、そこに絶望がある
経済的には最下層の人達に合わせるのがいい、でもその外のことについては大衆には合わせるべきではない、経済的な富裕層というのではなく何か選ばれた人達、一定の地の塩が必要なのである、一番下劣な人達に合わせて社会はどうなるのか?
もう高等なものを追求することもできない、愚民社会であり最悪は大衆ファシズムとなりナチスとなってゆく、それが今問題にしているカルト宗教のようなものになる
それはただ数を集めることを目的として権力と御利益しか関心がないからである
ただ現代はあらゆることが水平化するから何か優れた人とか認めないのである
それでニーチェのように衆人から逃れよとなってしまう、そして山に入り自然と一体化してロゴスを追求するのてある,アウトサイダーになってしまうのである
別に超人ではなくても自然のロゴスと一体化するのである

●水平化される大衆化される社会はヒットラーが指導者となる

大衆に高遠なことを説いて無駄である、それより大衆からは逃れよとなったのがニーチェなのである、雲霞のように押し寄せて来る大衆を相手にすることではない
結局大衆に消耗されて疲れるだけだとなる、大衆は相手にしないことである
政治の問題は市民とかではない、もう大衆を相手にしているから行き着く先は大衆ファシズムになる、それを象徴しているのがカルト教団なのである
何百万人の会員がいる、その中に百万以上の幽霊会員がいるとかもうそこには何も人間的なものは生まれない、ただ数として人間は処理されるだけなのである
つまり大衆は幽霊化した実体のないものでもある

そもそも現代文明とは人間は数として処理されるだけである、統計的数字として処理されるだけの存在なのである、万物の霊長たる人間はいない、そうなるには大衆より逃れよ
山に入れとかなる、何か大衆に諭すことなどできない、大衆に説教しても無駄である
個々人ならできるが無数の大衆には無駄である、それはただ数としてあるだけであり
リンゴであれミカンであれバナナであれ果物でも違っていてもみんな一個として数えられるだけなのである、カルト教団などは創価などでも毎日数を数えている、票を数えているだけなのである、結局大衆に使役されているのがカルト教団である
結局ロボット集団なのである、その制服はみんな真っ黒なのである
人間的なものはない真っ黒な集団でありナチスの党員と変わりないのである

対話するときは同じレベルの低レベルの人達と会話しても対話しても低レベルにとどまるだけである、現代は高レベルの人でも水平化されるから大衆が力をもっているから高遠なことを説いても無駄である、雲霞のような大衆に席巻されるのである
政治とは金と数だと田中首相が言ったように数を第一にすることは大衆が席巻する時代である、だからこそ自民党がカルト教団に牛耳られる、まとまった票を得られる
無料で選挙応援もしてくれる、金もくれるとかなる
現代とは大衆を操作するものが権力を持つのである

それはナチスを見ればわかる、民主主義があり選挙して勝ったから数を集めてそれがナチスに発展したのである、つまり低劣な大衆扇動者が権力を持ったのである
カルト教団はみんなそうである、その教祖を神のようにあがめハイルヒットラーとなっているのである、それがサタンになっているのである
とにかく代議制というとき他者に住民がまかせることがなかったというとき以外である
ローマでもそうだった、今と違って直接民主主義か責任をもって参加する度合いが強かったとなる、だから代議制民主主義は堕落する、議員に成る人は禄な人がいないとなる
でも現代社会ではエリートとか地の塩とかは否定される、すべて水平化されて大衆化される、つまり優れた者はない、みんな同じだとされる
そして大衆を指導するの扇動するのはナチスになったのである,カルト教団だったら
教祖になる、そもそも宗教もカルト化したとき大衆化したからである

posted by 老鶯 at 17:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層