安曇氏が鉄生産にかかわり日本列島開拓した先駆者
(南相馬市に多い綿津見神社と安曇族の跡をたどるー原日本考ー福士幸次郎より)

農業を後代において大いに拓いた地域はことごとく鉄の生産地であった
これは鉄というものを知らぬ先住民族の居住地に対して、侵入して行った
我が民族の地歩の実に強みがあった点であり
またこの日本列島といふところはほとんどいたるところ海岸の河口地、潟、沼など砂鉄層が堆積しているといってよいぼどで、鉄を求めて東へ東へと移動移住した
日本の文明は海岸から開けた、そして次に山地に入った
我が姓氏で最も最初に現れ、日向海岸に濃厚な所縁を持つ安曇族である
全国海岸に足跡を残し,後に山地深くまでも入った形跡を示す
コロは生鉄、純鉄を意味する
天照大御神の後裔
タケミコロ(建彌己呂命) - 津島縣直の祖[注釈 4]
タケオシコリ(武忍凝命) - 多氏の祖
イツコリ(伊都許利命) - 印波国造の祖
タケコロサカ(建許呂坂命) - 石城国造の祖
アケコロ(安居許呂命) - 伊賀須知稲置の祖
オシコリミ(忍凝見命) - 筑波国造の祖
クシヌコリ(櫛努古理命) - 三上氏の祖
ヒコソノコリ(比古曽乃凝命) - 針間国賀毛郡山氏の祖
イコロト(伊己侶止命) - 伊甚国造の祖
タケコロ(建許呂命) - 東国造の祖
オトコリミ(弟凝見命) - 桑名氏の祖
タケコリヒトノキミ(武凝人乃君) - 阿蘇国造の祖
ウラコリ(浦凝別命) - 苑県主(吉備氏)の祖
イワコリワケ(伊波己里和氣) - 三尾氏の祖
オシコロミ(押許呂見命) - 山守部氏の祖
タケクニコリワケ(武国凝別皇子) - 伊予三村別の祖
ウタコリヒメ(歌凝比売命) - 丹波道主命の娘
鹿島の郡は古くは香島とも書き、ここの大神と並んで「香取」のそれと同じである
おそらく古くは前者はガシマ,後者はカガトリ、すなわち「金のある島」「金を掘る所」と言ったものだろう、カガは鉄を意味する
民族的特技として注目すべきものは航海と製鉄であった
この航海の習熟があればこそ我らの祖先は、その始め海岸から海岸へと移住地点を転出して奥部地帯の侵入や経営を行う前に、日本列島の先まで進出したのである
クロクワは原初の農耕時代の特徴を残す自然地域において、その先頭に立つ耕地開墾の専業者である、特にその耕地はほとんど山地において着手されるのだから土中の石や岩を処置することがまず主要な仕事である
クロクワの仕事は石を相手の仕事が先でありツルハシのごとく先のとがった土に打ち込む道具、石や岩を割るものとして楔(くさび)などが大事である
くさびのサビは鉄を意味する
さびる⇒さびしいとなる、それは錆びるからきた鉄生産の用語からきたものである
その語源は鉄製かんにかかわっている
高良神社の祭神五姓とは丹波、物部 安曇部、草部、百済という
この草部というのはかや部であり真野の草原に通じている、草は伽耶国に由来しているからである、またカヤは何らか鉄生産と関係している言葉なのである
つまり真野の草原(かやはら)とは鉄がとれる場所として奈良の大和王権から認識された場所であり宮城県の涌谷は黄金のとれる場所として奈良の都から認識された場所なのである
物部 安曇部、草(かや)部
これは九州のことであるがこれが不思議にこの辺と関係している
なぜなら桜井古墳は物部と関係して安曇となるととにかく綿津見神社が原町区には本当に多すぎるからである、20もあるとしたら本当に多い、この三つの部は明らかにこの辺にもあてはまるのである
ただ百済は違うとしても伽耶国とか唐(から)は関係している、唐は中国のことではなく韓国の韓(から)である
九州が出雲より古く出雲をあけ渡す前に、おそらく安曇部族が入っていた
その験しとして安曇族の信仰や伝来物が包囲した形跡がある
阿部氏(安倍)はアヅミのなまったものである
福島県の吾妻山とか安積(あさか)とかも安曇(あづみ)のなまったものだという
なぜこれほど鉄生産が重要なものとして歴史に記されたのか、第一地名にしても鉄の生産にか関するのが膨大なのである、これは何を意味しているのか?
それは日本全国を鉄を求めてきた鉄生産の技術者がいてそこで鉄が発見されると地名となった、そこに鉄があるということで地名化した、鉄はそれだけ貴重なものだからである
そして鉄と稲作は不可分に結びついていた、なぜならます稲作は山地で行われていた
そこは平ではないし石垣を作る、その石はその山地から掘り出したものである
それをするには鉄の道具が不可欠だった、それがクロクワとかなる
それまで石器であった、事実石器で稲刈りもしていた、でも石器となると鉄の道具のようにはならない、相当にその差がある
だから鉄がこれほどに尊ばれたのである、鉄の道具なしでは稲作もあり得なかったのである、田んぼでもそれは最初土木作業になる、すると道具が必要になり鉄が必要になった
だから稲荷とは鋳成りなのである、鉄の道具を祭っていたのである
そして日本列島が最初に開墾したのは海人族の安曇氏であり海岸沿いに航海して海岸から山地に入っていた、それが明確にわかるのは松川浦に山津見と和田という地名がある
和田は綿津見のことである、つまりここから山地に入って行った
川を伝い道として上って行った、事実宇多川をさかのぼり玉野村から平坦な地帯になると八木原という地名があり霊山を越えると犬飼(養)という地名がありそれは安曇族の後継者であり綿津見神を奉じる安曇族なのである
また真野川をさかのぼり飯館村へ向かった、栃窪にも山津見神社があるからだ
原町となると海岸からさかのぼり高倉にも綿津見神社があり大原にも綿津見神社神社があった、そして八木沢峠の八木沢とは安曇氏の後継者の八木氏の姓なのである
だから原町区の海岸から真野川の海岸から松川浦から安曇氏の同族の八木氏が入ってきたのである、それがさらに霊山を越えて石戸村に至りそして福島市の吾妻山にいたり安曇(あづみ)がなまった吾妻(あづま)山になったのかとなる、この辺は定かでないにしろ
これだけ安曇氏の同族の八木氏の跡が地名化して残っている
犬飼氏も安曇氏の同族である
これは明確にその跡が記されている、何か推理ドラマにすると確実な証拠なのである
山に入ると山津見神社になる、これは綿津見神社と一体なのである
海人族でも山で暮らす術をもっていた、焼畑であれ稲作であれもっていた
だから山でも暮らすことができたのである、その大きな要因が鉄を生産して鉄の道具を作れたことによっていたのである
鉄というのが文明を作ったとまでなる、なぜならタタールとチムールとかでも鉄から由来しているとかあり野郎自大国と漢が戦って野郎自大国が負けたのは漢が鉄の武器で戦い野郎自大国が銅の武器で戦い負けたからである、武器の優劣で勝負を決した
信長が銃を使い武田氏の騎馬軍団を破ったのと似ている
石川に飛鳥川が合流する三角州の所が厚味というのです
天平神護元年(765)に古市郡の人、馬の夷人が厚味連の姓を賜っている
この厚味に居住していたのではないか
真野臣は姓録に神功皇后に従って渡った将軍が韓国にとどまって国王の娘をめとって子を産み、その子の子孫が真野氏を称した
真野造は百済王の後とあるから間違いなく渡来系だと思います
(日本の渡来文化ー司馬遼太郎などの対話)
厚味という地名は明らかに安曇氏のことである、安曇氏が居住してその地名化した
つまり奈良でも安曇氏が海から入ってきていたのである
地名化することはそれごけ古いということである
安曇氏に関する地名は相当に多い、でもそれが全部解読されたわけではない、知らないままにもなっている
特に安曇氏の同族で後継者となると八木氏とか犬飼(犬養)がいる、それも相馬市と伊達氏の霊山町の石戸とかで地名化している
ただ吾妻山があづみのなまったものなのか?あづま⇒あづみとなるからそうかもしれない、となると海から福島市の方に安曇氏やその同族や後継者が入っていたとなる