2022年02月28日

プーチンが核で脅す危険-ウクライナのへの侵略 (民主国家と専制国家との世界的対立)


プーチンが核で脅す危険-ウクライナのへの侵略

(民主国家と専制国家との世界的対立)

●核兵器を使うと脅すプーチンの怖さ

プーチンが核兵器を使うとか言うことが怖いと思った、それは今までタブーでもあった
でもこれは核兵器でも持っていれば当然そうなる
原発でも最初に選挙した、原発を爆破して放射性物質をふりまくとか戦争の武器として使われるからだ
核兵器と原発を別物として見ていたがそうともならない、平和利用とかでもなくなる
それは恐ろしい核兵器を作るものとしてもあるからだ
だから日本でも原発をやめられないのは核兵器として利用するためだということがありやめられない、それは隠されているが政府の本音としてある
またアメリカの要請でもそうなっている

プーチンのウクライナ侵攻でわかったことは独裁者の危険でありまた独裁者が核で脅す
テロをしかけているともなる、それは前から言われていたのだ
原発でも核施設でもイスラム関係のテロ集団に乗っ取られるて脅迫されるようになるとか言われて来た、それをプーチンがしている、独裁者はこうして危険なのである
一人の独裁者が最も危険な核兵器を使う、核のボタンを押すことになる
そしたら人類滅亡になる、それがたった一人の独裁者でそうさせられてしまう恐怖である独裁国家の危険がそこにある、共産主義国家の危険がそこにある
中国でも習近平独裁国家となりそうなる可能性がある
つまり誰も歯止めをかけられない、独裁者が権力を握り歯止めをかけられない
そしてナチスのようになってしまう恐怖である
それで公然と民主主義国家に対してプーチンはあからさまな敵意をもつ、民主主義国家との戦いだとしている

いづれにしろ核そのものが人間にとって危険なのである
なぜなら核を使わないとしているがそれが守られなくなることがある
だから今回でもプ―チンが追い詰められれば核を使うと宣言したのである
核を持っていることがそもそもそう言わせる
人間は喧嘩するとき近くに武器になるようなものが石であれ何であれあればそれを使って殺すようにもなる、感情的に抑えられなくなりエスカレートしてゆく
そして核兵器でも使うことになる、このことが怖いのである
独裁者国家だったら一人の人間によって決められる
きちがいに刃物だとかなってしまう、そうして人類滅亡にもなることの怖さである
そもそもそんな危険なものがあること自体がそういう危険を誘発しているのだ
原発でも武器になることが今回のことでもあったからそうなる

●民主主義と共産主義、全体主義、独裁国家との対立

確かに民主主義でも今やそれも様々な問題が噴出してアメリカ自体でももう民主主義ではやっていけないとかなっている、国が二つに分裂するとかもなっている
選挙でも不正だとかなっている、だから民主主義でも行き詰まっているのだ
ただ独裁国家だと簡単に政権を倒せない、一人の独裁者の暴走をとめられないのである
反対したロシアの恐怖はシベリアの強制収容所行きだと前からあったからである
そもそもロシアとか中国は独裁者の支配政治であり反対を許されないのである
それは古代からでも一将功なり骨枯るという世界である
強大な強権国家となり反対を許さない、独裁者は反対するするもの逆らうものを許さないのである、それで民主主義化すると反対が公然と起きるから敵対するとなる

そしてなぜか古代からの政治体制はペルシャ帝国とか相当に古いものでも政教一致であるイスラム系の国家は今でも政教一致である、政治体制としては反対を許さない独裁になりやすいのである
政教一致になると日本がだって国家神道になり村の小さな社まで国威高揚とか戦争の勝利を願った字が刻まれていた、それは本来の社の意義とは違っていたのである
なぜなら武力とは関係ないからである、豊作を祈るものとしてとかあったからである

民主主義国家と独裁国家の対立だというときペルシャとギリシャの戦争でも言われたのである、ギリシャは民主制のボリスの国家でありペルシャは帝国主義の独裁国家であった、王が神のごとくになる政教一致の国家である
ギリシャの民主制は世界的に世界史でもない、大陸国家ではすべてアジア的専制国家であり独裁者が全権をにぎり支配する体制だとなる
民主制と独裁国家は対立するというときそれは政教分離をしている国とに分けることにもなる

イスラム系は政教一致であり不可分に宗教と結びついている
でも欧米系は政教分離であり世界の体制が二つに分かれるともなる
すると思想的に体制的に二つに分かれた国の対決なのかともみる
自由主義陣営と共産主義陣営の両極の戦いだともみる
ソ連があったときはそうだった、でもそこに中国という大国が現れて中国、ロシアと中東の一部とかと二極に分かれる、イランなどはそうである
そこで世界大三次戦争の構図が新たに生まれる、でもそれが核戦争となり人類滅亡の最終戦争にハルマゲドンにもなる
そういう危機を感じたのがプーチンの核で脅すことにあったのだ
つまりウクライナだけではない、核兵器を持ち出せば第三次世界大戦となり核戦争によって人類滅亡になる

欧米系は政教分離であり世界の体制が二つに分かれるともなる
すると思想的に体制的に二つに分かれた国の対決なのかともみる
自由主義陣営と共産主義陣営の両極の戦いだともみる
ソ連があったときはそうだった、でもそこに中国という大国が現れて中国、ロシアと中東の一部とかと二極に分かれる、イランなどはそうである
そこで世界大三次戦争の構図が新たに生まれる、でもそれが核戦争となり人類滅亡の最終戦争にハルマゲドンにもなる
そういう危機を感じたのがプーチンの核で脅すことにあったのだ
つまりウクライナだけではない、核兵器を持ち出せば第三次世界大戦となり核戦争によって人類滅亡になる

●大統領とか市長とか重責を担う者について

今回のロシアのウクライナ侵攻はいろいろとまた考えさせられた
ウクライナのゼレンスキー大統領が役者だったということ喜劇俳優だったこともそうである、そんな人が大統領にもなれるのか?
やはりそこで顔が売れと人気者になり大統領になれた、これも大衆民主主義の結果であった、でもキエフから自分自身も家族も逃げないとして評価されている
それで原発事故の時南相馬市長が爆発した時北海道の方に逃げたとか噂になった
それは結局不明である、原町区の人はそういうことを言っていないからである
でも生命の危険があるときアフガニスタンでもガ二大統領がいち早く逃げたとか非難された、このように大統領とかなるとその責任は重大になる

市長でもそうである、だからそういう重要な地位にある人は本当はよほどの覚悟がないとできないともみる、地位が得られとか権力を得られるとか金になるとかて簡単になれるものではない、そもそもそういう意識がない、生命の危険もあり犠牲にもされる
だから庶民は侍になりたくなかった、責任を問われて切腹させられるから嫌だったというのがわかる
ということはそれだけ責任を感じてやるならばいいとなる、別に俳優でもいいとなる
でもただ権力が欲しいとか金が欲しいとか楽したいとかの動機でもなる
それが今回のことでそんなものではない、命の危険があり犠牲にもされるとなる
とにかく一転してこんな厳しいことに直面することは予想外だったろう
ただこの危機を乗り越えれば英雄ともなり歴史に名を残すともなる
ただ政治経験が全くないことで問われるている、前から交渉してロシアに気配りするべきだったとしている

とにかく人間はそもそも経験しないとあらゆることがわからない、ささいなこともわからない、本を読んでもわからないからである、実際にその立場にたってみないと理解できないのである、それで若い人でも重要な地位についてやらせてみれば経験を積めばやれるともなる、意外な能力を発揮する人もいるとなる
だからこれほどの経験をするということはもし乗り切れば本当に大統領となったともなるただ政治の世界はこれも国際関係でも何が起きるかわからない世界である
一歩誤ると市民でも国民でもどん底に地獄に落とすことになる
それが日本の戦争でも3百万人死んだとかなる、上に立つ人の責任が余りにも重大なのである、だからむしろそんな重大な責任は果たせないと辞退するともなる
でも権力が欲しいということで熾烈に争っている、そういう覚悟あるならいいがただ権力が欲しいというだけで争っているのが問題なのである
本有途に一身をささげて犠牲になることを強いられる立場になるということである
上に立って威張っているだけでありえないのである

●プーチンも高齢でも権力交代ができないことが問題

どうしてこの辺で津波による大惨事があり原発の放射線被害ありとコロナウィルスと災難がつづいている
戦争が起きてその次は飢饉が来ると時事問題の深層に書いた
それが本当に現実になる恐怖である、そして核の最終戦争になり人類滅亡にもなるのかとなる、こんなに災難かつづくことは尋常ではない、現代というのはそういう時期なのかもしれない、人類が世界が終末に来ている
その時ハルマゲドンであり人類滅亡のような大災難が世界に起きる
これほど災難がつづくことが理解できないから

そしてなぜプーチンの歳とかも影響している、フランスのマクロン大統領が会見したら
前より頑固に意固地になっているという
またパーキソン病とかではないとかも疑われている
老人の特徴として何か過去にこだわるのである、プーチンの経歴をみると冷戦時代、ベルリンの壁が崩壊していたときKGBで仕事していてそれでドイツから非難されて追われた
ソ連が崩壊したときのことがトラウマになっているという
過去のソ連の栄光を取り戻したいとしている
老人は過去はどうだったとか過去に何があってこうだったとかこだわるのである
そして現在の事態の変化に適合できなくなるのである
だから老人は政治には向いていないかもしれない、老人でも向いているのは芸術とか思想とか内面的なものに批評することなどに向いている
なぜなら経験しているから批評に向いている、政治評論家として向いているともなる

でも独裁政治だと引退したり権力から離れないのである
政権交代も民主主義でないとできない、それが問題なのである
ただ一方で老人は権力を手放すと相手にされない、権力を持っていると接する態度も違ってくる、それで老人は権力に執着して固執する
でも奇妙なのは権力でもそうだが仕事でも現役から退くと認知症になりやすいのである
社会から無用化すると役割も生きがいもなく認知症になりやすいのである
悪役でも何か現役で役割をもっていると生きがいになり認知症になりにくいのである
でもそれは社会にとって迷惑だともなる、その兼ね合いが問題になる
政治とかなるとそのことで被害を受けることが甚大になる
判断力も鈍った老人が権力を持っていることが国民でも世界でも大被害を受ける
これはアメリカのバイデン大統領でも何か歩く姿がヨタヨタしているようにも見える
この高齢化の問題は世界的なのである、やはり政治となると臨機応変に対処できない
頑固になり意固地になりそれが世界的大迷惑と大被害になるものも怖いと見た

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大災難の時代ー戦争と飢饉が次に起きる
http://musubu.sblo.jp/article/187676033.html

posted by 天華 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年02月27日

相馬六万石の花ー冬椿ー日立木の町場橋の紅梅


相馬六万石の花ー冬椿ー日立木の町場橋の紅梅

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相馬藩六万石や冬椿

城下町石橋わたる冬椿

城下町松は忠義や冬椿

冬の灯や職人の仕事城下町

薬師堂紅梅匂ふ町場橋


日立木の薬師堂に紅梅が咲いていた、今年は寒いから早いとも見た
第一相馬市まで自転車で行けなかった、昨日は春の陽気になり行った
城下町というときそこに歴史があり何かしら感じるものがある
相馬市は原町のように新市街が形成されないから城下町のままの町割りになっている
そこでいつも感じたことは冬椿が似合っているなと見ていた
石橋があるのは小泉川の塩地蔵のある所である

日立木の町場橋とか町場川がなぜ名付けられたのかわからない

ちょう ば ちやう− [3] 【町場・丁場・帳場

@ 宿場と宿場との間の距離。ある区間の距離。 → 長(なが)丁場
A 夫役で、運送・道路工事などの受け持ち区域。工区。持ち場。
B 馬子やかごかき・人力車夫などのたまり場。

歴史的に日本の住宅は、伝統的木造軸組工法により大工や左官、とび工など地域に住む職人により建築されてきた。大工#町大工を参照

日立木を行く
http://musubu.sblo.jp/article/187242550.html

9世紀初頭の丸森町の「町場替」は、過去の水害に対応した空間編成によって
町場が形成され、現在の丸森町の「原型」をつく

丸森町に城下町が川の側にあった、そこに町人の町屋があった、
下級武士とか足軽町とかがあり居住地が分かれていた
その後新町場が生まれたのが今の斎理屋敷のある通りである

(19世紀初頭丸森町の「町場替」と歴史的空間の変遷
https://irides.tohoku.ac.jp/media/files/disaster/typhoon/marumori_machiba_19thcentury_ver1_5.pdf

では新地の町場橋はそこに居住していたのが大工とかの建築関係の人達いてそうなったのか?
それとも宿場と宿場の間の距離にあり町場となったのか?
相馬市の城下町からそれほど離れていない、だから城の延長地域として町場があったのかとなる、宿場町にしては近すぎるからである、ここで泊まる必要などないからである
鹿島町でも宿場町とはならなかった、原町になると宿場町になった
相馬市から20数キロあったからだ
日立木の町場とはやはり大工町とかあるようにそういう職人たちが住んでいたのかもしれない、ここに薬師堂がありそこの碑を見れば相当に古い、ただ町場橋は江戸時代に名付けられたものだろう

ともかく城下町の雰囲気があるとてしも外部から来る人には感じないともなる
城にしても石垣だけだし何かここに城があったのかともみるからだ
でも何か雰囲気として歴史がある所にはある

金沢の松曲がり古り十月桜

金沢の兼六園がそうである、金沢となると百万石だから歴史を感じるものがある
城があるところには一応城下町であり歴史を感じる

春や昔 十五万石の 城下かな 正岡子規

これは松山藩のことであり明治28年の作である、この時代はまだ江戸時代の雰囲気が残っていた、正岡子規が侍の出であったしまだ遠い時代のことでなかったからだ
ここで明らかに十五万というのが活きている、それなりの規模だからである
相馬六万石とは違うからである、何か城というとき何万石とかでその規模が計れる
だから会津藩三十万石・・・とかなりその下にそれにふさわしいものを入れるといい
これが自分にはできなかった、やはりそこに住んでいないとぴったりしたものが作れないともなる、六万石となる冬椿があっていたともなる
私は正岡子規の写生俳句を習って俳句を作りはじめた
この写生俳句はあまり才能を必要としないのである
見たままを写真のようにして作るからである

薬師堂紅梅匂ふ町場橋・・・これも全く写生なのである、そのままであり何かイメージして装飾するものもないからである、でもその場のことを如実に語っているのである
何か葉牡丹でも俳句にしたが十輪とか数字にこだわるのも写生だからである

今日はあたたかったが急にまた北風が唸りふき寒くなった、春は名のみの・・とかなる
やはり今年はまだ寒くなる、自転車は風とか寒さには弱い、昨日も風は吹いていた
でも行って良かったとなる

ウクライナの歴史ー国境からみる世界史 (遊牧民を知らないと理解できない)


ウクライナの歴史ー国境からみる世界史

(遊牧民を知らないと理解できない)

●境界から国境から見る歴史

2014年4月1日までに約3,000人の住民がクリミア半島から逃れたとされ、その80%はクリミア・タタール人だったとされる

現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており

歴史で大事なのは国境なのである、なぜ国境ができたのかを知る必要がある

●自然地理的境界

●歴史的民族的境界

●行政的境界


自然地理的境界というときわかりやすい、基本的には自然の境界だからである
山とか海とか河が境界になる、それは地理的なものとして認識しやすいのである
そしてこれは地球ができたときからあり変わらないのである
地理を人間の力では変えられないのである、山を削って平にするとか川を埋めるとか海をなくすことができないからである
だからそれは人間の歴史が始まる前からあったのである
例えば自分の住んでいる所は福島県の浜通りでありどうしても山脈にさえぎられているから福島県といっても一体感を感じないのである
議員選挙区でも同じでも福島市とは山で遮られてそこは見えないのである

第一福島県とは明治以降の人工的に行政区域として作られた、廃藩置県がもともとの自然境界を無視して作られたのである
だから福島県というと地理的一体感がないのである
会津となると地理的にも歴史的にも古代から別個の大きな国だったのである
そうしてそもそも地形とか変わらないから会津は福島県でも気候的にも雪国であり山に囲まれていて別個の大きな一つの国だとなる
だから阿武隈山脈が高原が実際は依然として境となり障壁となってて一体感が福島県では感じないのである、これは自然を変えられないからどうにもならないのである

この自然境界から世界をみればヨ−ロッパだとフランスとスペインの境はピレネー山脈でありライン河はラテン民族のローマ帝国の進出をゲルマン民族がとめた河だとなる
ゲルマン民族は強固なアイディンティティを形成した民族である
だから今回でも自然的境界からみればウクライナだとドニエプル河をはさんで境界となり別個の国があっとなる、それでドニエプル河を挟んでロシアが東部を支配して西部をヨ−ロッパ側が支配するともなる、そうみればわかりやすいのである

●ウクライナとロシアの国境

でもなぜウクライナとロシアの国境があるのか?

これがわかりにくい、ロシア系とウクライナ系で民族抗争があり紛争になり人もかなり死んでいるのである、だからどうしてその国境が作られたのか?それを知るべきだとなる
確かなことはロシアであれトルコであれタタール人の末裔だとなる
トルコは突厥でありタタールはもともと韃靼人(だったん)人である
東欧系はモンゴルなど平原とか砂漠とか広大な遊牧民の地域から移住してきたのである
羊を飼い馬の操作にたけた民族である、だからこそ移動しやすいから天幕を張り家自体が移動するからヨ−ロッパにも押し寄せて来たとなる
そこで複雑な国家形成となった、東欧の諸国なの成立ちはこうした中央アジアからモンゴルから移動してきた末裔だとなる

一般にはスラブ民族だとしている
民族的にはゲルマン民族のドイツとスラブ民族は別である、またフランスはラテン系民族だとなる、そしてドイツとイギリスはアングロサクソンである
それで宗教でもラテン系のカトリックと後にプロテスタントに分かれたのである
要するに西欧と東欧は歴史的にも民族的にも違っていたのである
だからロシアは東欧は民族的に同一であり歴史を共有しているともなる
ウクライナ人がロシア人とは兄弟関係にあるというのもそうである
ただ同じ民族だとしてもそれでアイディンティティが作れるとはならない
宗教でアイディンティティを作ってきた歴史がある、民族といってもそれも複雑だからである、日本民族でもさまざまな民族がこの列島に移住して形成されたからもう民族のことなどわからないのである

ただ地理的なものから自然の境界からみると国はわかりやすいのである、そのために国境が重要になるのである、日本に国境意識が希薄なのは海が自然境界となっていたからである大陸だとそうした境界がないから万里長城ができたのである
それも山の尾根にそって作られていた、すると山からでもモンゴルの遊牧民が侵入して来たとなる、確かなことは遊牧民は常に移動するから戦争にはたけていた
ゲルが天幕がそのまま移動するのだから移動しやすいからそれが軍隊ともなるからである
ただ移動するときやはり山とか河とか天候でも障害となる、それでロシアは今は雪で凍っているから戦車が通れるが溶けるとぬかまみになり戦車が移動できない
だから冬にナポレオンでもナチスドイツでもロシアに攻めたが雪と寒さで撤退したのである、気候が影響してそうなったのである、地理とか気候は変えられない、それが人間の歴史を作ってきたともなる

とにかく中央アジアとか平原とか砂漠地帯とかは遊牧民の世界でありそこで常に民族抗争があり帝国が生まれては消えていったのである
その境界でも変わりやすいのが遊牧民地帯なのである、日本では魏志倭人伝に日本には
馬、羊なしと記されていた、それが日本の特徴だったのである
中国から来た人がそのことに一番感じたのは常に羊とか馬とともに暮らす人達から見たら奇異に映ったからである
日本は世界でもめずらしい漁労民族でもあったからだ、海の幸の民族たったともなるからだ

●コロナウィルスでも今世界でも国境が境が見直された

コロナウィルスでもそうだったが意外とこの国境が問題になった
グロ−バル化して国境はかえって邪魔なもののようにされていた、でも感染病では国境で水際作戦をするとか江戸時代の関所すらそれは邪魔なものではなく人間の歴史で必要なものとして認識されたのである
関所だと不便になるから無駄だとなるのではない、やはり何か歴史的に作られたものには何でも意味があったとなる、だから世界から国境をとりのぞけとか国境はいらないとかにはならない、むしろ人間は国境があってこそ自分たちのアイディンティティを作るやすいのである、そこで一体感が生れ独自の文化でも形成されやすいのである
そもそも文化とは地理とか土地の多様性から生まれるからである、それで文化はcultureはcultivate(耕す)から来ているのである
いろいろな農産物でも天候とか自然の地理とか土地の状態で違ってくる
ワインでも葡萄でも湖とか河の光りの反射が影響してうまいものができるとかもある
農産物はどうしても土地とか天候の影響を受けやすいからそうなる
それで多様性が生まれるのである

本来、栄養をたっぷりと必要とするような植物が多いなか、ブドウはさほど栄養を極端に必要としないのです。さらに、逆に栄養過多、窒素過多となると出来の悪いブドウが生まれます。

ミネラリティを感じる土壌、といわれているのが石灰質土壌です。

炭酸カルシウムが含まれた土壌であり、大変水はけが良いと言われていますが、保水性もあるために高品質なブドウを作ることができます。

ヨ−ロッパの水にはミネラルが多いとか石灰質だとかされる、つまりワイン文化が生まれたのはそうした適した土地が原因していたのである

ブドウの着色および果実品質向上のためには,着房数を通常より少なくするなどの対応策が必要で,収量を減らさざるをえない状況となっています。
そこで,生産者の収益性の改善を図るために,地表面に光反射シートを敷いて棚下を明るくし,品質および収量を改善する光反射マルチ栽培の技術を開発してきました。

これは人工的に光りの反射を作っているから天然の光りではない、でも光りが影響している、もちろんいろいろな風と日照とかも影響するのである
つまりワイン文化が生まれたのはまさに土壌が適していたからだとなる
日本で日本酒が生まれたのもそうである、農産物は必ず自然の影響を受けるからである
また世界の歴史でも必ず地理の影響を自然の影響を受けているのである
国境はだから大事なのである、自然が境界となり文化が作られ国が作れてきたからであるただ世界となるとその地理が天候でも簡単にわからないのである
ウクライナは比較的暖かい地域であり黒海に地中海に出る港がありそこをロシアが必要としたことは分る、そこが地理的要衝となったからである
またウクライナは山がなく平坦な地域であり日本の1・6倍あるとしても平坦な地域がほとんどなのだからその広さを理解しにくくなる、だから穀倉地帯となりその量は世界も輸出するから影響がある、とにかく日本では広大な大陸の地理が理解できないことがアキレスアキレス腱になっているのだ
結局地理は地図を見ただけでぱわからない、実感できないからである


●境界があって育まれる文化のアイディンティティ

鉄の境界の中にあって
苦しみつつ掟を勝ちとったものは
ヘルペスの娘たちの開花のように
すみやかに移ろわぬ善へと、成熟ししてゆくでしょう

定めた居住区の
境界の範囲の内を
彼は喜んで見て回り
そして休息する、つつましく幸福を味わいながら
(ヘルダーリン詩集より)

鉄の境界というときその境界を死守して国を守ることに通じている
ウクライナでも自国を守という時、その国境を守るということである
そこで国の歴史がアイディンティティが作られてゆく
そこに国を守る戦いがありそうして国の歴史が形成される
ただ人工的強制的圧政的に作られた境界は境界ではない
大陸だとだとその境界がわかりにくいのである
国というとき会津とかだと認識しやすい、また飯館村とかでも小さくても一つの国のように意識しやすい、盆地だと山に囲まれているからもともと日本ではそこが国のまほろばになっていた、それが奈良だったのである
国の中心がどこかなのかも問題になる、ウクライナならキエフである、キエフ公国があったからだ、今のウクライナはまた違った国である、そこでロシア人が多い地域がなぜ国境になったのか、それがわかりにくいのである

posted by 天華 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2022年02月26日

ロシアのヨ−ロッパへの不満ー昨日の友は今日の敵 (ロシアは1500万人くらい死んで犠牲になった)


ロシアのヨ−ロッパへの不満ー昨日の友は今日の敵

(ロシアは1500万人くらい死んで犠牲になった)


なぜ諺が活きているのか、それは人間の本質が変わらないからである
どんなに科学技術が進歩したからと言って人間の心は変わらない、本質的に変わらない
そのあくなき欲がなくならないわげでもない、だから諺は普遍的な真理ともなる
国際関係でもそうである、ロシアが今のヨ−ロッパを作ったというきナチスドイツと協同して戦ったことがありその時は友だったのである、それがアメリカとソ連の冷戦となり
消失した、でもロシアにすれば今のヨ−ロッパの秩序を作ったのは私たちだとしている
それがG7にも入れてもらえないとか不満になっていた
それは日本だってそうである、鬼畜米英とか戦争になっていたのに昨日の敵は今日の友ともなっていたのである、こうして人間はその時々の情勢で変わってしまうのである
中国だってあれほど日中友好を言っていたのに今や中国が巨大化すると尖閣でも台湾でも自国の領土といい日本は黙っていろとなる

日中友好のときは中国は弱小国だったし日本は先進国で大国にもなっていた
それが逆転したとき昨日の友は今日の敵だとなってしまう
これが人間の真実であり人間の友好関係などもろいのである

「中国では井戸を掘ってくれた人を
 大切にします。

  1972年の日中国交正常化は、
  田中先生のご尽力によるものでした。

こんな時代もあったがまるで今は違う、ウクライナに侵攻したロシアをみて日本が制裁したら強い国には逆らうなとか言っている
つまり過去に日本が援助したことなども感謝もしないなのである
「昨日の友は今日の敵」なのである
そういう繰り返しがカルマが人間であり国際関係でもあったのだ
特に国際関係になると三国志の世界でもある、他国は信用できないのである
だから相手の国の国力をそぐことをしていた
相手に力をつけさせないのである、参勤交代にしても日本を治めるのに大名の力をそぐためにしていとなる
ある一藩だけが大きくなることは危険になる、反乱を起こされたりしたら危険になる

ロシアにしてみれば第二次世界大戦ではアメリカとも協力して多大な人数の犠牲をはらったのになぜか冷たいとみるようになった
ただ冷戦の結果としてそうなった
ともかく条約とか交わしても破られるし実行されない、誓っても誓いは破られる
これが人間の現実である、そういう人間の業みたいなものが変わらないから同じことを繰り返しているのだ
歴史は繰り返すというとき人間が本質的に変わらないからそうなる
カルマを繰り返すのである、カルマとは繰り返すこだからである
それは人間個々人にも必ずあてはまる、延々と同じことを繰り返しているのである
誓いを破らいなのは契約を破らないのは神しかいないとなるのだ
だから誓うなというとき人間は誓っても守れないからである

ただ今回はNATOにウクライナは加盟していないし条約も結んでいないから軍隊を送らないとしている、条約は大事だとしている、でも条約はすべてではない、破られる
だから安保条約にしても日本が本当に中国でも攻めて来たら守るのかとなるとわからない信用できないのである、要するに自国は自国で守らない限り守れないということである
だから核を持てとか戦争の準備をしろとかではない、戦後は防衛は全部アメリカまかせになったことが問題である、そこで軍備に力をそそぐことがなかったから経済的には高度成長があり豊かになったのである

結局国際関係は戦国時代と変わりない、弱肉強食の世界なのである、弱者化すれも襲ってくるし強くなれば弱者を襲ってくる
これが人間の本質なのである、それは個々人でもそうである、相手が弱ってくると攻めてくる、それで自分の家でそうなったことを延々と書いてきた
あらゆる人から攻められるだけだったからである

諺(ことわぜ)というとき金の切れ目が縁の切れ目でもそうである
たれも嫌というほど味わった、たいした縁でもないがそうして全部切れたとなる
金があるうちは関係しても金がなくなるととたんに寄り付かなくなったりする
まず金を払いそうしたら多少助けてやるとかになっている
最初から相手が弱ったら金をまずよこせとなる、相手も借金していたからそうなった

今回のロシアのウクライナ侵攻はいろいろ考えさせられた
戦国時代の再現でもあった、ゼレンスキー大統領が私は家族も自分もキエフにとどまり戦うというときもそうである
戦国時代なら城に籠城して戦う、そしてロシア側にすると大統領の首をとりそれで今度はロシアの傀儡政権を作る、戦国時代の再現のように見えた
だから大統領は殿様であり相当な覚悟を必要な地位にある、何か権力を得て贅沢をするとかではない、犠牲にもなる立場にある、それで何か原発事故で当時の南相馬市の市長が逃げたとか話題になった、これは嘘だったらしい
ゼレンスキーはキエフにとどまるということを声明した、それだけの覚悟を見せた
こういうとき何か真価が試されて発揮されることがある
ただ情勢はこういうとき刻々変わるから理解するのがむずかしいのである

これは台湾有事とか尖閣占領とかとも関係している、アメリカはどこまで中国と戦う決意があるというのがわからないのである
中国は日本に対してウクライナを見て制裁などするな黙っていなとなる、強い国には手を出すな黙っていろと言っている、恐喝しているのである
日中友好の時代とはまるで変ったしまったのである
強者になったとき変わってしまったのである、だから人間でもこうして変わるから信用できないとなる

いづれにしろなぜこのロシアの侵攻が恐怖だったのは何千発の核があるとか脅したことである、だから核というのは怖いのである、それを実行したら人類滅亡だからである
それでまた戦争ができないようもなった、でも小競り合いでもしているときなんかの調子で核を使いそれが拡大すると怖い、戦術核とか言っているから一部核を使用するとまでなっているからだ、核兵器と原発も武器になる、放射性物質をばらまくぞとなると武器になる、つまり人間は戦争では何でも武器にしたからである
モンゴルではペストが広がったとき、ペストに感染した人間を城にほうりこんだ
どんなことでもするのが戦争になる、歯止めがきかなくなる
核を持っていること自体大きなリスクでありそれで人類滅亡の恐怖におののくことになる

グロ−バル社会になるとどこかで紛争があると世界全体に影響する
即座に報道されて恐怖する、それが戦前とかの相違であり情報社会の中で起きるから実況中継もある、それを面白がる人もいる、そのことで自制することもある、つまり世界世論がインタ−ネットで形成されやすい、それも見方がいろいろあるにしてもあまり残虐なことがわかると世界世論が形成され責められ不利になることがある
それが情報社会のいい点ではある、でもロシアで情報統制されるし中国でもされる
民主主義国家でないとそうなる、だから政権を倒すことは簡単にできない
暗殺とか暴力になってしまうだろう、それが内乱にも発展する
内乱になると外国勢力が入り込み複雑化してくる、そして犠牲も増える

ただこれが見過ごせないのはグロ−バル化で直接日本にも関係してくることである
実際ロシアは北方領土問題とか隣国でもあり直接関係する国なのである
日本の方に向いていた兵をウクライナに集めたというのもそうである
ロシアは領土が広いから支配するのもむずかしいとはなる
中国人がすでにロシア領内に入り込んで商売して中国人の国のようになっているというのもそうである、そしてシベリアのような寒い地域には住みたくないとなり人口は増えないのである
結局ナポレオンでもナチスドイツでもモスクワまで攻めても負けた
寒さに負けたともなる、寒さが障壁となっていたのである、日本は海が障壁となっていた地政学的にロシアは寒さで苦しめられていたが防衛では有利になっていた
気候でもやはり戦争には常に関係して勝敗が決められるのである
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2022年02月25日

ウクライナのチェルノブエリがロシアが占領 (東欧という複雑な地域の歴史)


ウクライナのチェルノブエリがロシアが占領

(東欧という複雑な地域の歴史)

チェルノブエリがキエフの近くだった、100キロくらいの距離だったのは意外だった
みんなもその場所が意外と認識していなかった
私の住んでいる場所は丁度原発事故を起こした双葉とかから30キロであり仙台市は70キロくらいである、するとチェルノブエリは仙台市くらいの距離にあった
ロシアというと広いからキエフはそんな近くにあったのかと驚く
こうして常にその場の認識ができない、まして世界となるととてつもなく広いから世界を認識できないし誤解がここから生まれやすいのである

そもそもそんな近くでチェルノブエリがあったということは危険な場所にあった
とういうのは映像で見たらそこは広い大陸だから近くにキエフのような大都市があることを認識していなかった、遠くに離れた原野のような所にあるとみていた
だから人々事故後にそこを捨てて他の場所にみんな一斉に移動して誰も住まなくなって
廃墟化した、テレビの映像ではキエフが近くにあるということを報道していない
つまりテレビだけの報道では全容を知り得ないのである
そこから常に世界的事件があったとしても誤解が生まれているのだ
それは日本だってそうである、その場所のことが実感できないからである

それで地理を認識する時大陸なら川を中心にみる、どこまでも平坦な地だったら境となるものがない、するとどうしても大陸の河は大きいから境界になるのである
今回でもドニエプル河の西部と東部があり東部はロシアが支配して西部はヨ−ロッパが支配して分断されるというのもそのためである
キエフの位置はベラルーシに隣接していた,ベラルーシとかなるとなじみがない
ルーシとはロシアのことである、ここもモンゴルと関係して複雑な民族構成になった
そこにユダや人が多く問題になった、何かユダヤ人が勢力があるのがなかなか理解しにくいのである
何しろ様々な民族が混交している大陸でありその民族の興亡が激しいのである
それは何かこうして戦乱があると大量の移民が生まれる、そこで大きな変化に見舞われるのが大陸なのである

歴史的にも、地理的にもウクライナは、ロシア=スラブという環境の中で生きていくしかないだろう

大国ロシアから見れば不思議な話だが、ロシアはつねに西に位置するスウェーデンやポーランドの侵入を恐れてきた。とりわけカトリックの宗教騎士団の侵攻である。ロシアは正教会であり、13世紀のアレクサンドル・ネフスキーの名前はカトリックの侵入を阻止した人物としてロシアの歴史に刻まれている

ウクライナにとって不幸なことは、エネルギー資源を含め最も豊かなのが、この東部であることである。だからウクライナはこれらの地域の分離独立を認めることはできない。

ウクライナを流れるドニエプル川そしてドネツ川(ドン川)が、ロシアへつながっていることだ。北の海しか持たないロシアの重要な輸送路は、黒海である。黒海に入った船はロシアに向かってこれらの川を上る。これと良く似た不幸な地理的地域がドナウ川流域だ。ドナウ川はルーマニア、ブルガリア、セルビア、ハンガリー、スロバキア、オーストリア、ドイツ(流域を含めるとウクライナも通る)を流れる。これらの国は、一蓮托生であり、勝手な行動を取ると紛争に発展する。
https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/20220225-00514936-toyo-column

つまりこうして大陸では大きな河が地政学を構成しているのだ
riverとはライバルのことでありそれが河が地政学になり歴史を作ってきたからである
こうした歴史があり歴史は繰り返すとなる、川がカルマを作っているのである

ロシア南部のルテニア地方に生まれ、1520年頃、この地を略奪に来たタタール人によって奴隷となります。イスタンブールへ連れていかれ、裸で競りにかけられました。

ヒュッレムはそのなかでもひときわ目立つ美貌を持っていて、彼女を買ったのが、なんとオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャだったのです。

「スマン帝国外伝 愛と欲望のハレム」ここに連れてこられたのがヒュツレムだった
ルテ二アとはルテニアの国民としての意味のルテニア人は、ウクライナ南西部の民族ルテニア人(ルシン人)のみを表す呼称とは異なり、広義の『ルテニア人』である。
ルテニアには歴史的背景からユダヤ人が多く、その多くがルテニアの経済を支えている。
様々な民族が混交しているからわかりにくくなる、ユダヤ人は常に迫害されてきた

その中で「ユダヤ人が井戸に毒を盛ったから死んだんだ」とするユダヤ人説があります。ユダヤ人にはこのペストの犠牲者が少なかったからです。

「ユダヤ人の歴史 迫害の克服と信仰の保持 」 黒川知文先生(ユダヤ教編)
https://www.circam.jp/essay/detail2/id=4812

1923年(大正12年)の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した事件である

これと同じだった、だから人間に起ることは世界でも共通していると思った
ただ世界となるとわかりにくくなる、特に宗教がわかりにくいのである
同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントとロシア正教会とかさまざまな分派があるからわかりにくくなる
ただ人間には世界でも共通していことが起きる、それはやはり人間だからだとなる
つまりロシア人もスラブ人でありスラブとしてのアイディンティティを持っているとなるそのためにウクライナと旧ソ連にこだわる理由がある、イスラエルのユダヤ人はこの東欧とかロシアのユダヤ人が主だとしている

ヨ−ロッパとは何かというとき民族的にはラテン系がイタリアとかスペインとかフランスでありプロテスタントがアングロサクソンでありドイツとかイギリスとか北欧になる
東欧はロシア正教会はギリシャ正教会の分派だとなる、それでスラブ民族主義としてアイディンティティがあるとなる
世界で主流となったのはアメリカに移住してたアングロサクソン系だとなる
アグロサクソンが資本主義を作ったともなるからだ

このロシアのウクライナ侵攻でもこうして地政学と歴史のカルマが必ず関係して来る
今だけを見てもわからない、また地理を知らないと理解できないのである
何か起こる時take placeであり場所が問題になるからだ

ともかくチェルノブエリの原発事故と福島の原発事故があり福島大学でウクライナの学者が共同研究していたのが中止させられたかとありこの辺とも因縁が生まれた
そしてなぜ津波から原発事故からコロナウィルス騒動と次々に災難が起きるのか?
そしてこの原発は争乱が起きると危険になる、原発自体が武器にもなる
原発を壊して被爆させるぞと脅されるのが嫌だからロシアではいち早く占拠したとなる
またプーチンが核兵器で脅してきたのもいかに核というのが脅しだけではないか本当にいつ使われるかわからない恐怖がある
また原発は戦争になるとねらむれる、テロも原発で起きるとか言われた、それだけ危険なものなのである
武器というのはやはり持っていれば使うということになりかねない、銃をもてあそんでいたら銃を本当に使って殺人になったという映画を見た
核兵器は持っているだけで危険なものなのである
それで核戦争になるのかという恐怖にもなった、そして人類滅亡になるかという恐怖にもなる、何か一連の災難は終末現象なのかとも見てしまうのである

またプーチンとか習近平とか独裁者は全体主義は一人の人間によって暴走する
その権力を止めるものがない、結局暗殺とかしか方法がないとなる
その権力を止める者がいなくなる、恐怖政治であり倒すにして殺されるという覚悟が必要なるからだ、プーチン皇帝であり習近平皇帝になる、その権力をはく奪することができなくなる、選挙もないし政権は継続されるからだ
民主主義は権力交代がありそれで機能する、でも共産主義にはないのである

いづれにしろヨ−ロッパとロシアの狭間にあって東欧という地域は複雑でありここから問題が起きやすい、それは時系列て歴史でもそうであり地政学でもそうなのである
トルコのイスタンブールでウクライナに友人がいるとして行った人がいた
トルコは黒海にも面しているから近いのである、そこでオスマントルコが東欧地域を一時支配したとなるのだ




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2022年02月24日

冬深し、山眠る、囲炉裏、冬芒(みちのくの冬の俳句と随筆)


冬深し、山眠る、囲炉裏、冬芒(みちのくの冬の俳句と随筆)

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山々のさえぎり隔て冬深む

みちのくの大地に根ざし冬深む

みちのくの人や寡黙に冬深む

沈黙に通じ合わなむ冬深む

沈黙し徒言聞かず冬深む

石一つ境に変わらず冬深む

昼の月何事もなく山眠る

冬の山聳え厳しく朝仰ぐ

大いなる山に忘却雪積もる

沈黙の行をつづけむ冬深む

家古りて囲炉裏を囲み冬深む

風唸り軒に干し柿冬深む

ノスリ一羽寒さ身にしむ止まる枝

山は雪ノスリ一羽や冬芒




昔の生活を偲ぶことはただイメージするだけならそれが理想化されるのである
昔は良かったなというときそれは過ぎ去ったからいいものに見える
でも実際の生活となると過酷だった、綿の布団が戦国時代辺りからできてきた
その前は麻のようなものをかぶって寝ていた、それは綿の布団ではないから痛くなっていたという、人間はいかに贅沢になったか、それを歴史を調べればわかる
ただ実感するのは相当にむずかしい、意外と綿の普及は遅かったのである

しらぬい 筑紫の綿は身に付けていまだ着ねど 暖けく見ゆ 」  
         巻3−336 沙彌満誓(さみ まんぜい)
         
奈良時代にも綿があった、でも日本で使われたのは室町時代からだったとある

敷島の やまとにあらぬ 唐人の 植ゑてし綿の 種は絶えにき 」
       衣笠内大臣家長(1193−1264)

綿の再栽培は文禄の役(1592〜1598)のおり朝鮮から綿種を
持ち帰ったのちで室町末期以降盛んになりました。
種は絶えにきというとき日本で栽培するのに失敗していたとなる
戦国時代になり普及したのである

例えば今普通に使っているものでも醤油とかが普及したのは江戸時代である
味噌はすげに戦国時代に普及している、でも相当に貴重なものだった
醤油は明治になってから普及したら簡単に使えるものでもなかった
それで何もオカズがないときは醤油御飯にしていたのである
醤油をかけると何でもうまいとなっていたのである
こういう歴史をふりかえると今はふんだんに使っているのも貴重だったことを知る

今年は今日も寒い、北風ヒューヒューと外で吹いている、この辺はそんなに寒くないのに今年は寒い、すると寒さの生活を昔の生活を偲ぶとなる
囲炉裏は戦後十年くらい街の中の家でもあった、自分の家にもあった
それをふりかえるとそんな時代があったのかと不思議になる
別に子供の時それで嫌だとか不満もなかった、子供の時は多少貧乏でも餓えるようなことがないなら親の愛情があれば不満もなかったのかもしれない
だから私は一人っ子で大事にされたから不満がなかった
ただ現実に私の母親は子供の時継母に育てられたから悲惨だったのである
また兄も連れ子であり自分の家にいたのは5年間くらいであり大事にされなかったのである、それで死んだけど今も墓を建てて墓参りしている
子供の時冷たくされるのは相当に辛いだろう、ただそのために親二人の介護で死ぬほどの苦しみを味わったのが自分だったのである
人間は何でもいいようにはならない、いいと思うことは必ず反転して悪くなるのである

冬深むというとき今頃はもう春になるが今日はまだ真冬である
だから冬なのである、後二日くらいで天気予報では春らしくなる
冬深むという季語がまだ今でもあっている、みちのくと言っても広いから果たしてそれで一体感を感じるのかとなる、青森辺りは雪に覆われているし全然違った環境である
会津でも雪に埋もれている、だからみちのくという大きい範囲で一くくりにはできない
ただみちのくという感覚は一応共有するものがある
沖縄に行った時あなたは東北人ですねと見ただけてそう言われた
やはり東北人には一目見てもわかるものがあるのかもしれない、それは本当に一目見ただけでそ言われたからである、しゃべりもしないのにそう言われたのである
そういう雰囲気があったからだとなる
何か東北人は寡黙な内気な性格が多いからかもしれない、自分はそもそも内気であり性格的なものが陰だからまた余計にそう見えたのかとなる
確かなことは東北人の気質と関西人の気質は陰と陽のように違っている
これは確かである、でも個々人をみればやはり陽の人と陰の人がいるから一般化はできない

宗教となると修行するということがある、欲をつつしみ口をつつしみ心身を浄めることがある、でもカルト教団とか他の宗教団体でもそういうことをしない、ただ集団で示威行動して欲をつつしめなど言わない、修行もしない、御利益を求めて欲をかえってもてとも
指導しているのだから異常である
何か多少とも欲をつつしめということがあってもいいがそういうことは一切ないのであるだからそれが宗教として認められるのかともなる、ただ宗教を利用して実際は御利益を求めるだけだからである、つまり宗教の初歩的なものもない、ただあくことなく欲望を求める世間と何ら変わりないのである、それで税金を免除されているのもおかしいのである

みちのくとはともかくそれなりその土地の歴史と性格がありアイディンティティが形成されたとはなる、でもみちのくは東北は一つにくくれない、東北でも広いし多様だからである、ただみちのく的なものはある、それは何なのか?その土地と歴史から生まれたとはなる、それは芭蕉の奥の細道でみちのくという感覚が一般化したとなる
でも芭蕉が旅したのは岩手県の平泉までだから狭いのである、その先が実際は広くありそれもみちのくとして延長して見られるようになったのである
ただ何らかみちのくのアイディンティティはあるとはなる
みちのくは繁華な都会とかではなく枯野があっている、その枯野で都会から離れて心をいやす場所だともなる、つまりみちのくは心を癒すホスピタルの場所にふさわしいとなる
喧噪の都会を離れて心を休める癒すにはいい場所だとなる

語られぬ 湯殿に濡らす 袂かな  芭蕉

いろいろ苦労があったことでしょうがここで心も体も癒してくださいということである
ともかく東北に多いのが湯殿の碑なのである、それは農家の人が冬に湯治に行ったことでそうなっていた、那須辺りからも来ていた、やはり温泉は体にいいとなる
そして農家の人達がそこで仲間と一緒にくつろぐとなる、なぜなら昔の村だったら家族のようもなっいていたからである、そういうのは時代の雰囲気として芭蕉も感じていたのである、今はそんなことはない、みんな農民ではないし会社員だからである
でも一時会社員でも高度成長時代は団体旅行で温泉でにぎわったのである
でもその温泉街が廃墟化しているのは驚いた

枯草や温泉街の夢の跡

こんか感じになるのも時代である、ただこの湯殿信仰には何かみちのく的なものが感じられたのである

ノスリが一羽枯れ枝に止まっている、河の岸であり朝であり山脈は雪が残っている
まだ冷たい風が吹いている、冬芒というのが風景としてあっている












2022年02月23日

ウクライナでもドニエプル河を挟んで対立がある (その地理と歴史を知らないと理解できない‐ロシアはモンゴル系統)


ウクライナでもドニエプル河を挟んで対立がある

(その地理と歴史を知らないと理解できない‐ロシアはモンゴル系統)


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中央を流れるドニエプル川の東側は親露派のロシア人、西側は親欧派のウクライナ人、
まさにここで東西が分断されている。

こうしてノヴゴロドを含む全ルーシはモンゴル帝国の支配下に組み入れられ、ルーシの人びとはモンゴルへの貢納を強制された[1このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールのくびき」と呼んでいる

13世紀、徹底的な破壊と殺戮でヨーロッパを恐怖のどん底に陥れたモンゴル帝国の襲来でキエフ大公国は滅亡、以後200年にわたってモンゴルの支配下となった。
キエフは荒廃し、住みついた無法者などが後のコサック騎兵となる。

代わりに中心地はモスクワとなってモスクワ大公国(後のロシア)が成立、ドニエプル川の東側を領土とした。
西方ではポーランド王国が勢力を拡大、ドニエプル川の西側はポーランド領となった。

ルーツを同じくする兄弟とも言えるロシアとウクライナだが、モンゴル支配後から別の道を歩むことになる。
ロシアはキリスト教正教会にモンゴルの文化が加わり、武力による独裁政治(政教一致)を強めたのに対して、ウクライナはポーランドの支配下でカトリックの影響を受けて欧米の民主主義(政教分離)に寄るようになった。

自転車旅行の日本人の報告
https://note.com/asajiryo/n/nf7d74c4a062f

ロシアのモスクワ大公国では宮廷内の貴族の1/3はモンゴル人の末裔だったそうです。そのように見るとロシアは、蒼き狼が言うように「モンゴルの血を受け継いだモンゴル継承国家である」為か、西欧に対するより東北アジアに対して深いシンパシーを持っているようです。

「カール・マルクスはこう言っています。『タタールの軛(くびき)によって傑出したモスクワ国は、モンゴルの奴隷制の血生臭い汚辱がモスクワ国の揺り籠(ゆりかご)と成った。現代のロシアはモスクワ国の変身に過ぎ無い』と」と言っています。

ロシアはモンゴルの継承国家です(2)
https://ameblo.jp/hironk2005/entry-10852570966.html




なぜウクライナでも一つの国なのか?これがわかりにくいのだ
平坦な大陸国家の境界というときライン川のような川になることが多い
ウクライナでもドニエプル川がありこれが境界となっている
モンゴルがここまで攻めてきた、そしてモンゴルの遺産として独裁政治(政教一致)を強めた、ウクライナはカトリックの影響で政教分離になった
カトリックは政教一致のはずだがおそらくそれは中世とかでありその後のことだろう
独裁政治というとき今もロシアはプーチンの独裁政治であり継続している
またアジアは中国も独裁政治なのである

確かなことはドニエプル川を挟んで違った歴史を刻んだごとである
それはライン川でローマ帝国とゲルマン民族の国が分れたことでもわかる
ローマ帝国はライン河にはばまれて入れなかったのである
つまり地政学的には大陸では河が国境になりやすいのである
平坦な平地がどこまでもつづくときそれを分けるのは河だとなるからだ

歴史とか文化を見るとき国境をみるのが大事である
国境が作られたのは自然境界と政治境界、行政境界があるが自然境界が基本にある
だから地理を知る必要がある、その地理が簡単にわからないから世界史とか世界のことが理解できないのである
まず世界を理解する基本は地理なのである

不思議だったのはロシア語を話していてもそれでもウクライナ人であり言葉は影響しないとか言っていた、確かにウクライナ語にしても方言のようなものである
ドニエプル川 (ドニエプルがわ、 ウクライナ語: ДнVпроドニプロー ; ベラルーシ語: Дняпроドニャプロー ; ロシア語: Днепрドニェープル )
発音で共通しているから方言と同じである
日本だったら言葉が違っていると日本人なのかとなるがウクライナではないことがこれでわかる、方言のようなものだから通じるのである

ともかくロシアとは何かわかりにくい、ロシアがモンゴルの末裔だとするとアジア人でありヨ−ロッパとはルーツを異にする、文化の相違もあるとなる
ロシアでは知識人が尊敬されず肉体が強い者が誇れる者となるとしている
だからプーチンでも筋肉隆々な肉体をみせびらかしていた、柔道もしていたのである
そういう価値観はまだ野蛮性がある国なのかとなる

なぜヨ−ロッパとロシアが対立するのか?

その原因がロシアはもともとアジアであり文化も違っていたからなのか?
アジアというときトルコは突厥でありアジアから中国周辺から移動してきた遊牧民なのである、トルコとなる何か日本人と似ていた顔の人がいたので親しみやすかったのである
あの辺になるといろいろな人種がまざりあってわからなくなる
ただロシアが実際はルーツがアジア人でありアジアの方にルーツをもっているからヨ−ロッパと対立しているのかともなる
不思議なのは日本人もアジアであるが唯一西洋化した国なのである
ロシアとか中国は西洋化していないのである、独裁国家でも共通しているからだ
すると日本がG7で欧米についているのも不自然だともなる
でも確かに日本は欧米についていても違和感を感じているだろう
キリスト教国でもないし民族のルーツでもヨ−ロッパとは違っているからだ

いづれにしろこの紛争の影響は福島県だと福島大学でチェノブエリがありウクライナ人の学者も共同で研究していた、それができなくなったとしている
トルコのイスタンブールに行ったときなぜかウクライナに友人がいるからと行った人がいた、日本人でもこうして世界でも身近なになっているのだ
ただなぜロシアはヨ−ロッパと対立するのか戦争も過去にあったが寒さで敗北した
それはやはり歴史的に文化でも共通性がないから対立するのかとなる
でも勘違いしているのはロシアがヨ−ロッパと近いようにもみえる
でもヨ−ロッパとアジアの中間的位置にもある
ヨ−ロッパから分化した延長のようにも見えるがモンゴルに征服されて実際はアジア系統だとなる
対立の根となるものがありそれが理解しにくいのである


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2022年02月22日

これから社会的にも引きこもりの時代になるのか (家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


これから社会的にも引きこもりの時代になるのか

(家族環境の影響が大きすぎるーそして人生を後悔する)


一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」
自分の主体が完全に剥奪された」と振り返る。母が推奨するエリートサラリーマン以外の人生を、自分で選択することができなかった

「僕が罪悪感を持つように、蔑むように言ってくる。僕は一度として受け止められたことも、肯定されたこともない。僕のすることすべてを母は否定した。常に母親から睨まれていて、僕には安心という経験がなかった。僕は間違ってはいけなかった

その後妻は連れ子に、優しい言葉一つかけたことがなかったという。継母から全てを否定されて育ったのが、杉本さんの母親だった
そしてそこが歪んでいるとは知らぬまま、もがき苦しんでいる「息子」たち。その数は一体、どれほどまでにのぼるのだろうか。

一橋大学を卒業後、40年ほど「引きこもり」…当事者が激白 “毒母”が生み出す「高齢引きこもり問題」





人間は家庭環境の影響が大きい、どういう家に生まれたかでその人の一生が決まってしまう、意外と他人の家のことがわからないのだ
だから自分の家が正常ではない、異常なのだということが認識できないのである
人間は自分個人のことでも家族でも団体組織でもその異常性を自覚できない
なぜならその中にいればそれが正常だとなるからだ
例えば日本でもみんな戦争しているとき戦争に反対することはもうできない
そうしたら警察がきて捕まえられる、ナチスでもあれだけ今になると異常でも社会自体が異常に染まると正常になるのである
それが家族にもあてはまる、そして家族でも他者の家族のことがわからないのである
何か家族とは一つの閉鎖された空間でありそこが生活の基本になるから客観的に見れないのである

客観的に家族を個人でも見るには対照的に見れるものがあると理解できる
赤だけ見ていたらそこは赤の世界しかないと見る、そこに黄色とか青とか茶色とかいろいろな色があれば対象的に見れる
そこで日本という国を理解するには外国で暮らしてみるとわかる
ここが違うと実感として理解できる、だから何か評論している人は外国で暮らし人なのである
人間は何か対象的に見るとわかりやすくなる、それは歴史でもそうである
昔はこうだった、こういうふうに暮らしていたとか人間関係でも違っているからそれを知ると現代が見えて来る、そこで歴史を勉強することが大事だとなる

要するにこの話しでも異常な親子関係でも家族関係でもそういう場にいたらそこから逃れられない、そして別な家族もあるということもわかりにくい
だから家族の異常性があっても理解できないのである
家族とはこんなものだと思って他にも別な親子でも家族でもあることがわからないのである
要するに家族とは閉鎖的空間であり他者が入りにくい空間でありそこで異常性が育まれるそういう自分自身がそうした家族で引きこもりなり60まで暮らしていたからわかる
でも自分の場合は何ら叱責されることもなかった
親は二人いたようなもので実際の母親は力がないから影響を受けなかったのであく
ただそれが特殊な家族でありこれから平均的な家族と親を考えることはできない
「あなたはあなたのやりたいこをやりなさい」と言われてそうなったのである
旅ばかりしていたとか自分の好きなことをしていたのである
これは特殊だから普遍化はできない、ただ家族にはそれぞれ違ったものであり他者の家族を理解できないのである
それは親子関係でもそうである、親子関係でもいろいろあるから理解できない
それそれ人間は他者を理解することが簡単にできないのである

親ガチャとか言われるが別にそれは普通にどこにでもある、親が子供のことを思う時
それが親の一方的なものとして子供に押し付ける、子供はそうして洗脳されやすいし
逆らうことができない、それで歪んでしまうとなる
そしてyoutubeで心理相談している人が外発的動機と内発的動機で仕事することを言っていた、外発的動機で仕事していると35以上辺りになるとつづかないと言っていた
つまりそれは外から押し付けられたものでありその人の中から自ずとでてきたものではない、外発的なものとして仕事をしているといづれは押し付けられたものだからつづかないとなりまたこれが自分なのだろうかと悩むとなる

ただ正直内発的動機だけでこの世をわたるとか仕事ができるのかとなるとできない
私はこんな仕事をしたいとか思っても誰も与えてくれないのである
私は芸術家に成りたいとか言っても誰も容認してくれないだろう
第一自分にあった仕事など与えられないのが普通なのである
そこで無理やり仕事についてもやめて引きこもりになるのである
だからこの世で仕事している大半は自発的動機でしている人はまれだろう
強制的にその仕事をさせられているというのが多いだろう
そこで引きこもりが増えたのである、それができたのは経済的に余裕ができたからであるもう貧乏な時代だったら何らか苦しくても仕事が合わなくても食べるために仕事をしなければならない、自分に合わなくてもしなければならないからだ

そうして引きこもりになるのは陰の性格が多いかもしれない、陰の性格の人はどうしても内面に向く、外面的にはぱっとしないから目立たない、でも社会だと陽の性格の人が好まれるし成功しやすいのである
ただ陰の性格に向いたものを求めてそれを追求すればそれなりのものになる
それが解かりやすい礼だと芸術家とか学問とか何か内面的な仕事である
ただこういうものは金にならないとか外発的動機が優先される社会だから内発的動機ではなかなか社会ではできない、もしかしたら昔だったらそういう陰の性格の人は寺に入り修行するのに向いていたともなる

私自身がひきこもりでありそうして内面を追求してきたからである
ただそれは社会に適合できないものとなり異常化する
だから自分自身も大きなものが欠けていて社会性がなく失敗したとなる
社会的常識とか社会性がないことも大きな問題だからである
ただ私の場合は異常な家族環境でもそれが自分の性格にあったことができる環境だったのである、だから芸術とか学問とか内面的なことを一人追求してきたのである
そこに人間はいない世界だった、自然が山とか木とか石とかとアイディンティティ化する同一化する世界を追求してきたのである
相手が人間ではなく自然だったとなる

とにかく子供は親の言うようにいい子になりたいと自然となる
でもそれがいいかとなるとならない、なぜなら人生は親のものではない、親と同じ人生を送るわけでもない、時代が変わると全く違った人生を生きることになるからだ
引きこもりというのも貧乏な時代にはありえないことだった
でも豊かになるとそういう人生も可能になったともみれる
つまり引きこもり人生でもありうる社会になったとなる
時代的にそういう人生すら容認されるともなる、だからなぜ今頃になってみんなアーティストになれというのもそうである
そんなことしていて食べていけるのかとなっていたし団塊の世代だとみんな企業戦士になって働いていた、その頃は高度成長時代でありそれに団塊の世代が適合したのである

でも時代が変わった、時代の雰囲気も相当に変わった、30年間日本がではと全く成長していないし賃金もあがっていない、貧困化している、そうなると時代の雰囲気も変わる
一方で引きこもりなど貧乏でできないとかともなる
また一方ではやはりそういう人達がいて何かその人なりのものもを追求できる時代にもなる
コロナウィルス以降は陽の時代から陰の時代の変化なのかもしれない
何かみんな巣籠り生活とか引きこもりにもなったからである
社会がグロ−バル化したことは世界と広く交わることだがその弊害も顕著になった
グロ−バル化はいいことばかりもたらさなかったのである
別に旅行などはしてもいいがあまりにもグロ−バル経済になったことの弊害が目立つようになっていたのである
聖書でもユダヤ人でも人種的にも広く交わらない民族で独自性を維持できたとしている
広く交わった時はかえって堕落した時代だったとしている
確かに日本でも江戸時代は広く交わらない社会であり鎖国だとなっていた

でもその江戸時代三百年で日本人の独自なものが培われたこともある
そのために明治になって和魂洋才となり日本のいい面とヨ−ロッパの文明が結合していい結果になったともみる、内村鑑三の武士道キリスト教とかもそうである
戦後はそういう日本人的なものがアメリカの戦争に負けて失われた
すると日本人はなんなのだろうとなる、日本人的なものがなくなり欧米的なものに支配される、すると欧米の悪い所にも染まって日本人の良さが喪失したのである
だからアメリカが金の支配する国であり何でも金だというとき日本でもそうなったのである,アメリカの悪い所にも染まった社会になった
極端な貧富の差のある社会でもそうである、つまりなんでもアメリカと似てくるのである当然アメリカに習ったのだからそうなるのである

いづれにしろこのコロナウィルスを契機として何か国自体が引きこもり的なものになってゆくかもしれない、グロ−バル化からまた江戸時代のような内にこもる閉鎖的なものとなりそこでまた日本独自の文化をはぐくむ時代となるかもしれない
すると外に開いた陽の時代から内にこもる陰の時代の変化になる
国風文化の再興ともなる、そうなる陰の性格の人にはいい時代になるかもしれない
内面的な追求とか中世時代に還るとかいわれたのもそうである
時代の雰囲気が変わるのである、何か時代の雰囲気というとき十年違っても変わっている子供の時代街中でも囲炉裏があり炭を使っていたとか洗濯を小川でしていたとかあった
それが電化されて電気製品を使い家事が楽になった、十年くらいでそうなったのである
その変化も大きかったのである

アメリカでも時代が影響していた

アメリカでもホイットマン1819年の文政生れである
1876年(明治9年)7月に札幌農学校教頭に赴任する

この時代は西部開拓の時代とかなり時代の雰囲気が今のアメリカとは全然違っていた
そういう時代は知識人とかは尊敬されていない、歌われたのは普通の平民であり現場で働く肉体労働者が多かった、だから体力が重んじられたともなる
それでロシアではやはり肉体が強くないと尊敬されないとしている
そこでプーチン大統領が肉体を見せびらかしている、肉体の強さを強調しているのかとみる、だからロシアは知識人は重んじられないというのも意外だったのである
常にこうして国々でも時代でも時代の雰囲気を作っている
だから一時代が過ぎるとその時代のことがわかりにくくなるのである
引きこもりというのもやはり時代が作った現象だったのである

ともかくなんであれ人間は親が悪い、社会が悪いとか時代が悪いといっても
必ず責任をとらされる、親のためにこうなったといってもあなたの責任でそうなったのですよと最後はなる、つまり何でも人間は責任をとらされるのである
それで子供が泣いて生まれてくるのはその責任のためだという人もいる
責任からなんでも逃れられないのである
その責任も自覚できないのである、結局いくら親が悪い、社会が悪い、時代が悪いとなっても最後は自分の責任にされるのである
いくら悪い環境でも育ってもそうである、そういう人は余程自分の境遇を自覚して生きないと悲惨な結果にもなる
結局人生最後はみんな後悔に終わる、あの時こうれば良かったとかあの時失敗したとかなる、それを最期に悔やんでもどうにもならないのである




白鳥の詩、石の庭、寒椿 (真野川の白鳥の写真)


白鳥の詩、石の庭、寒椿

(真野川の白鳥の写真)

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石組みの庭の堅固に寒椿

石の庭堅固に組まれ朝に雪

石の庭組まれて堅固冬の暮


白鳥の群れて飛び立つ昨日の雪山脈に残り朝に映えにき




蔵王と白鳥

蔵王は雪に真白く閉ざされて
かなたにその威容や重しも
飄々と風唸り雪に埋もれぬ
その姿の厳しく汚れを拒絶する
白鳥の群れ喜々として朝に飛び立つ
その清しさよ心打つかな
その鳴き声は寒空にひびきわたり
二月になお寒しもなおしばしあり
やがてまもなくシベリアの地へ去る
白鳥は大空を翔け去りぬれ
寒さの中にこそ白鳥の純白は映えぬ
神の創りしものの純美こそ誉でよ
その技の巧みにして奇跡なりしも
去りにしあとにただその美麗な姿を見る
ただ神の成さむとせしイデアを見るなり




朝に毎日外に出て白鳥をみる、朝と夕べに白鳥は飛びやすい、今日は晴れて白鳥の群れが山脈の方に富んだ、山脈は雪が残り映える、背景が良くないと映えない
近くには火力発電所の煙突の煙が見えるのと今工事しているから写真たとまずい
でも白鳥でも飛ぶもの動くものは定点観測しないといいものがとれない

それで八沢浦からは蔵王が大きく見えるので写真をとるにはいい、でもなかなか白鳥を飛んでいるのを撮るのはむずかしい、写真は動くものを撮るのがむずかしい
今日は意外ときれいにとれていた、白鳥はやはり寒い時が一段と美しいのである
そして回りの環境が景色に映えるとさらに美しいとなる
ただ写真でもどうしても定点観測しなといいものがとれない
別に白鳥はどこでもみれる、だから北海道辺りだとさらに映える

蔵王は実際冬にも行ったしそこはいつも雪が降っている、雪に埋もれている感じになる
蔵王に映えて白鳥が映えて群れて飛ぶときさらに美しくなる
ここでは高い山がないから蔵王が見えることは貴重である
ただ蔵王は原町区からは見えないのである

そして神が示そうとしたのは何か?それは神が創造したイデアなのである
白鳥をイメージして作ったイデアなのである、だから白鳥が去ってもそのイデアは残る
イメージとしてイデアが浮かんでくるのである

近くの空家の石組の庭はいい、空家が多いが家自体には今はあまり価値がない
ただ家と言う時、そこに長年住んだ人は愛着がある、何か家族がみんな死んだけど
依然として家族がいる感じになる、いつも待っている感じになるから不思議なのである
私は石に興味がありだから庭に興味がある、庭だと余計に毎日身近だから一体化しやすいのである
それであそこの空家の庭は立派である、だからあの庭には価値がある
家には価値がないのである、あの庭だけを記念に残すといいとかなる
つまり空家が増えすぎたけど何か活かす方法があるともなる

2022年02月21日

安曇氏が大和の建国に深くかかわっていた (安曇氏と物部氏は一体ー綿津見神社が原町区に多いのはなぜ)


安曇氏が大和の建国に深くかかわっていた

(安曇氏と物部氏は一体ー綿津見神社が原町区に多いのはなぜ)

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松川浦の原釜にも龍神社がありこれも安曇系の海人の神社である
原町区だと山の奥の高倉に綿津見神社がある
ヤマトタケルの東征神話の竹湊とはたかみなとかもしれない
なぜなら多珂神社神社が高倉に綿津見神社がありここが上陸地点だった
それは安曇系の海人族が入ってきたことが下敷きとなって作られていたのだ
日本の神話は海人族が作ったものである
だから海の匂いに満ちている、それで倭人とは安曇系の海人族だった
また南相馬市の鹿島区の真野古墳群の寺内から発見された船の線刻画は十人くらい乗れる船だとしたら大きいのである、これは東北で初めて発見されたのである
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大原の綿津見神社がここにあった


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ある神社から分霊をして他の地に祀る事を「勧請(かんじょう)」といい、この勧請によって神社が増加していく。

明治初期、約200人に対して一社の神社
こうして全国に創建された神社の数は、明治時代初期で20万社とも云われる。
明治時代初期の日本の人口は約3500万人だったので、およそ200人に対して一社の神社があった事になる。

氏神(うじがみ)って何?
元々の氏神は、「氏」の神と書くように、その地域に住む豪族が祖神または守護神として祀っていた神のことを指します。




■「物部氏族」の出自は極めて難解で、その一族諸氏(阿刀連、津門首、物部依羅連など)の分布・性格、奉斎神(石上神宮を和邇氏族の物部首〔のちに布留宿禰姓〕と共に奉斎)や祖神の所伝(山代国造と共通の祖神を有する)から検討したが、遠祖の「天目一箇命」・「少彦名神」兄弟の母は、「海神族綿積豊玉彦命」の姉妹、「豊玉媛」(高比売)であり、

https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/d4761b6042228547370f9e65cfbe84ae

倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。後裔に久比岐国造や青海氏、明石国造、吉備海部氏などがある

なお、和氏は百済の国王・武寧王の子孫なので、別系統である。

https://library.answerthepublic.net/japan/A/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E9%80%A0

・綿積豊玉彦
@父:伊弉諾尊 母:伊弉冉尊
A子供:豊玉毘売(彦火火出見尊妃)玉依毘売(鵜草葺不合尊妃)宇都志日金折命(別名:穂高見命:安曇氏祖)振魂命

安曇氏系統の氏神として綿津見神社が全国に建てられた、ここでは八木氏が氏神となっていた

安曇族は2〜3世紀の物部東征とともに大和へ進出。やがて物部の力が衰退して神功皇后の時代になると、安曇氏も新権力のもとで朝廷に服従する側にまわったと考えられます。綿津見三神が住吉三神という呼び名に変わったことがそれを象徴しているように思います。

紀元前から博多湾周辺を治めていた安曇族の王こそが、君が代に歌われた「君」であり、志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです

安曇野市の穂高神社

紀元前から博多湾周辺を治めていた安曇族の王こそが、君が代に歌われた「君」であり、志賀島から出土した漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られた可能性が高いようです。

記事の中で、安曇族は古代中国においては「倭人」と呼ばれた人たちだったのではないかという仮説も書きました。また徐福を日本へ連れてきた海人族かもしれないことや、いくつかの系図から徐福の血筋と関わりがあるとみえ、姻族の可能性が高いとも書きました。つまり古来より北九州を根拠地とする海洋民族がいて、大陸との交易を自在に行い、そのうちに徐福渡来と関わることで親族となっていったという見方です。古代においては航海を掌握する者こそが権力を握るともいえ、徐福は古代日本の海人族である安曇族、宗像族(出雲系)を真っ先に手中に収めたと思われます。

そして安曇磯良とは何者なのかを調べれば調べるほど、出雲伝承の伝える徐福の息子、五十猛(のちの香語山)に繋がっていきました。実際、丹後の海部氏(籠神社宮司家)と博多志賀島の志賀海神社宮司家の安曇氏は親族ということです。一方物部氏とは非常に近い存在でした。武力の物部氏と航海を司る安曇族が協力して九州を支配していたようです。海部氏も物部氏もどちらも徐福の直系です。

出雲伝承では、徐福の連れてきた海童たち(少年少女)は漁業を営む者が多く、彼らは綿津見の神(海神)を信仰していたと伝えています。彼らはやがて出雲の竜神も拝むようになり、両方の神が合体して竜宮信仰が生まれたのだといわれます

https://somosora.hateblo.jp/

これらは総合すると安曇氏と物部氏は一体であるとなる、安曇氏が君が代の「君」だとするとき日本建国の基が海人族の安曇氏にあったとなる
漢委奴国王の金印は安曇族の王に送られたというのもそうである

ただこの辺でわからないのは物部氏に関する神社とかはない、すべて綿津見神社であり
後は対になった山津見神社である、明らかなことは松川浦に山津見という地名と和田(綿津見)が地名化している、それは松川浦の奥まった場所でありそこに船で上陸して山の方に向かったのである、それはわかりやすいのである
なぜなら今でもそこは船が上陸する適地だからである
ただ当時は海が深く陸地に入り込んでいたから船が入り安かった、それは鹿島区でも原町区でもそうである
そして桜井古墳は新田川の岸辺と海に近いのである

また最近大原に綿津見神社があったことを発見した
こんなところまであったのかと驚いた、そこから八木沢峠を上って飯館村に行ける
そしてそこに綿津見神社と山津見神社がある、八木沢は安曇氏系統の同族である
犬飼(犬養)もそうである、こうして点々と安曇氏の八木氏系統の同族が地名化している鹿島区に綿津見神社が見当たらないとしたが栃窪村には山津見神社がある
山の方に入ると山津見神社になる
ただ高倉にも綿津見神社がある、こうして安曇族系統のものが山の方に入っていったのである、でも綿津見神社がそれほど古いと地元の人たちは意識していないだろう
桜井古墳とか鹿島区の古墳なら古いと見るが綿津見神社とか山津見神社が古いとは見ていないだろう、そもそもそうした古代からある神社とあるのに何か謂れも伝承もないことが不思議なのである

ただなぜ桜井古墳が原町区にあるのか?

なぜ原町区に綿津見神社がこれほど多いのか?

物部系の神社とか地名とかがないのか?

綿津見神社が鹿島区に見当たらないのか?

この疑問はやはり鹿島区の真野郷より前に原町区に安曇族系統八木氏が入ってきたからだろう、そして物部氏と一体化したのだろう、物部氏の神社としては海老に近い御刀神社がある、これは海老がエヒであり蝦夷であった、だから刀を使い征服したみる
だから物部氏は原住民の縄文人の蝦夷と戦ったともみる

物部系の神社とか地名とかがないのか?

これは安曇系八木氏が入ってきてそれが主役となり物部氏は従属した立場になったからともなる、そして次に大和王権の国造(くにのみやっこ)が浮田に置かれて中央の奈良の大和王権がかかわり大伴氏がかかわり真野古墳群ができて寺内の前方後円墳から金銅双魚佩が発見された、その下賜されたのは大伴系の有力者だったと推測する
つまり大和王権の支配地域と鹿島区はなり真野郷はなった
浮田国造から中央の大和王権の支配がここに成立したのである
こうして海洋民族の安曇族が日本国家の建国の基となっていたのである







 
 
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2022年02月20日

真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地 (日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)


真野の草原は大和王権の蝦夷征服の前進基地

(日本府任那と似ていた―毛野氏ー安曇氏ー物部氏ー大伴氏がかかわる)

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陸奥 (みちのく) の 真野 (まの) の 草原 (かやはら) 遠けども面影にして見ゆといふものを 笠女郎

真野の草原という時、草原が萱原であり萱がなびいている荒寥とした辺境の地として解釈されてイメージされてきた
でも実際はそんな地域とは裏腹の地域だった、それは伽耶国があった日本府任那と類似していた、なぜそう思ったかというと伽耶国はそもそも日本の国だったから日本府が置かれていたのである、そこは鉄資源が豊富であり日本が必要としたからである
第一萱がなびいているだけの何もない所に国家単位では魅力が感じない
詩的なイメージとして国家単位ではみない、実用的なものとして国家でなくても普通は見る、だから地名は詩的なものとして命名されていない、その土地に欠かせない実用的なものとして名付けられる、だから方角地名が多いのはそのためである
南相馬市などでもそうである、相馬六万石の城がある所を中心にして南だということで名付けられた、そういう名付け方が多いのである、地名は無味乾燥なのが多いのである

天皇(すめろき)の 御代栄(さか)えむと 東(あづま)なる 
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
大伴家持

これも黄金がとれるということで中央の大和王権から注目された、それはアフガニスタンとかでも何もないようでも中国でも外国からみると鉱物資源があることで注目されているのと同じである、単なる草(かや)が茂っている場所など注目されないのである
鉄がとれる、黄金がとれる、石油がとれる、ガスがとれるとかで注目されるのである

だから真野の草原を萱原としたのは歴史を見れば実用的観点からすれば全然違ったものとなっている、ただこれが笠女郎の大伴家持を慕う恋の歌としたことで誤解が生じたのである、確かにそれはあったにしろその背景が古代史全体に韓半島の伽耶国まで関係していたのである
伽耶国は日本の一部であり最近前方後円墳が伽耶国内から十数個発見されたことでも裏付けができたのである、前方後円墳は極めて日本的なものであり韓国にはありえないものだったからである、円墳は大量にあっても前方後円墳は全くない国だったのである

そしてこの真野郷がなぜ日本府任那と似ているのか?
それが「任那から読み解く古代史―大平祐」読んでわかった
この題名は陸奥真野郷から読み解く古代史と題を変えても同じようなものになっていた
それでいかに伽耶国(かや)が日本建国に深くかかわった地域だったかもわかる
そして古代では最初に入植者でも入るから地名化しやすいのである
それで伽耶国の地名がここにも移っていたのである
草原(かやはら)の草は萱ではない、伽耶国とかの国名なのである、原とははらっぱのことではない、国のことである、何もない所ではない、国としてあった場所である
だから多多羅原とかあり多多の国であり多々良とは多田羅とは鉄生産の場だったとなる
そして安達太良とあるとき伽耶国内に安多(あた)という地名があり太良は多々良でありやはり鉄生産と関係していたともなる
つまり伽耶国内にある地名が移っていることはそこに住んでいた人達が移住してきたとなる、そうでなければ地名化しないだろう

九州の「〜原(ばる・はる)」地名は、古代の三韓で「城、集落」を表した「伐(Pur,Por)」と同語源ではないか
https://www.shochian.com/harubaru2.htm

駒原とかはコマとつけばそこに高麗の人が住みついた地域であり栗原だったら高句麗の
句麗(くり)だとなる、この高麗系に原が付くのが多い、伽耶系の人から高句麗の高麗系の人が移住してきたのである

草原はかやはらはやはり伽耶に由来してそうした村とか国とか城があるとか館があるとかの意味となる、だからただ荒寥と萱が茂っているとは正反対でありむしろ人々が集落を形成してむしろ繁華な場所だったともなる
笠女郎はただ遠い所としての真野を言っていたのでありそこがどういう場所が明らかではない、面影にして見ゆというものというのはあくまでも大伴家持のことをさしている
ここが本当に誤解しやすかったのである

●任那での近江毛野氏ー安曇氏の活躍

新羅が遣使して調を進った(たてまつった)、あわせて多多羅、須奈羅、和陀、発鬼(はちき)の四つの邑の調をたて進った

この四つの邑とは継体天皇二三年、新羅が占領した金官、背、安多、委陀(わだ)を意味する、この全体を南加羅の分として調を進っつた

ここに和陀、委陀(わだ)は綿津見の和田なのである、なぜ綿津見の邑があったのか
それは海人族の安曇族の邑だったとなる
安曇氏は日本府任那で船を操作して運ぶ役割をしていた
その技術を買われて重宝された
そして毛野系統の国造が南相馬市の鹿島区の浮田に置かれた、なぜ毛野なのかわかりにくいが海の方より山の方が縄文時代として早い時期に住みついたとなる
なぜなら飯館村も古く縄文中期の遺跡が発見されているからである
それは海側より古いのである、
そこで福島県となる会津が一番古い地域となっていて大塚山古墳から三角神獣鏡が発見された、それは東北ではここからしか発見されていないのである
それは吉備から発見されたものと同はんとされている、同じものだとなる
太平洋側は大和王権でも進出するのがかえって遅かったのである
ただ縄文人は海側でも貝とか魚をとって暮らしていたのである

また任那の安羅と耕地の境界をめぐって争いがあったことから洛東江流域の東方で新羅領と任那領の中間に位置した国、卓淳国がありそこに369年に荒田別、鹿我別を将軍として百済の死者とともに卓淳国に集まり新羅を撃破した

浮田国造は毛野氏の鹿我別が治めたとしている、なじみがないが毛野氏は大きな勢力であり日本府任那にかかわっていた、でもその政争で失敗したとしている
こうして日本府任那とこの陸奥真野郷が似ている
なぜなら綿津見神社がやたら多く安曇氏系統の八木氏が地名化している
八木国造というのもある、物部氏も任那でかかわり原町にある桜井古墳とも関係していたらしい、ただ物部系の神社はない、その理由が何なのかわからない
そもそも安曇系の綿津見神社がこれほど多いということが何なのか、それが問題なのである

地名の移動にしても真野は近江からの移動かもしれない、近江毛野臣ともあるからだ
そのことは鉄の生産のことで書いた、また真野郷の地名として唐神とかありこれは加羅の国のことであり神とは仏のことである
その他ツノガアラシトとは伽耶の加羅の王子でありつのみやとか角部とかツノのつくのはそれが地名化したのである、相馬氏の松川浦のツノミツ神社もそうである
鉄を求めてこの一団は石巻の北上川を上り登米までその跡をとどめている
石巻は和邇山とかあり真野の萱原という地名もある、だからここが陸奥の真野の説があるでも距離的に遠すぎるとういことで否定される、みちのく真野が相馬地域の歴史を知ればここがやはり桜井古墳がありまた真野地域に古墳が多い、それから寺内の前方円墳から金銅双魚佩が発見されたのも大和王権がこの地を支配してそれを賜ったこの地の有力者がいたということである、それは大伴系だともなる
そして笠女郎というときこの笠は韓国の加佐地名から来ていて笠とは何の関係もない

埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣の銘文に

「其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。

このカサなのである、カサという苗字も韓国由来であり韓国にある地名である
そして伽耶郷と安曇郷があるのも興味深い、こうして何か日本府任那と真野の草原が類似しているのである、蝦夷の辺境として奈良の都の人達に認識された
そして多賀城に向かう前進基地となったのがこの辺である、ただここでは武力で制圧するということはなかったのかもしれないが桜田山に第六天の祠があり鹿島神社があるから
やはり大和王権に逆らう蝦夷がいて反乱があったともなる
鹿島神社とは大和王権に組み入れられた場所に建てられた軍神でもあったからだ

●伽耶地域に和陀(和田)の邑あり

綿津見のワダというのも伽耶国内にありそこに綿津見神社を祭る安曇族などが関係していたのかとなる、任那では近江毛野氏が指揮をとり軍事を司っていた
そして真野郷の前進は「浮田国造」でありこれが鹿我別とか荒田別となっていてその人たちも任那にかかわっていたのである
安曇の連(むらじ)もかかわっていた、また物部氏もかかわっていた
そしてなぜ原町地区に綿津見神社が異常に多いのか?
最近大原にも綿津見神社があったことを発展した、こんな所にもあったのかと驚いた
でもそれでわかることはこの道を飯館村に行くと八木沢峠がありこの八木沢が安曇族の一族の系統に連なる八木氏のことだったのである
それは相馬市の松川浦に和田と山津見神社が祭られている、そこから上陸して宇多川をさかのぼり途中に八木原とあるのもそうである、そして霊山町に出ると犬飼(犬養)がありこれも安曇族の系統なのである

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養(犬飼い連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる
最初に縄文人がいたとしてもこの地域を拓いたのは安曇族系であったとなる
そして物部系もかかわったがその跡は明確ではない、物部神社などないからである
物部吉名という人がいて小高に吉名郷があるから物部氏がかかわったことは確かである
そこで桜井古墳がなぜあるのか、あれだけ大きな古墳が原町にあるのか?
それはなぜ原町区に綿津見神社が多いのかということにつながる
その古墳を作った人たちは安曇系の入植者であり物部氏もかかわったとかなる
それしか考えられないともなる
なぜなら大和王権が入ってきたのはこの安曇系入植者の後である
それで桜井古墳のある原町区にはやたら綿津見神社が多い

でも真野郷の鹿島区にはない!

山津見神社が栃窪村にあるが綿津見神社が見かけないのである
それはここが毛野氏の支配地域であり原町区の綿津見神を祭る安曇氏とは別な領域であった、最初に原町区に安曇系が入ってきた、そして土着した
そこで桜井古墳を作ったとなる
その後に真野郷を大和王権が支配した、それは大伴系でありその大伴一族として大伴家持がいて笠女郎が真野の草原の歌を残したとなる、
ただこれらは古代史の正史として記録されていない、ただ神社がそれを記録している
なぜこんなに綿津見神社があるのかそれが解き明かされていない、資料も伝説すら残っていないのが不思議なのである
それは大和王権が政権をとりそうした歴史が消されたためだともなる
伽耶国派滅亡してその跡がわからなくなりわずかな地名とかからしか探る手立てがなくなった、ただ綿津見神社神社がこれだけ多いのだからその謂れを語られてもいいが伝えられていないのである、ただ綿津見神社がいたるところにある
だからそれが語られないということが謎なのである

●海人の安曇氏の日本列島の分布

『新撰姓氏録』には後裔として右京神別の安曇宿禰と河内国神別の安曇連が記録されている。支族としては阿曇犬養連、辛犬甘氏、凡海宿禰、海犬養氏等が伝わる。

安曇磯良は志賀島大明神と呼ばれ、磯良の墓は対馬の和多津美 神社にあることからしても、志賀海神社と和多津美神社は、その創設者が同族であると考えられます。

 対馬には合計4社の和多津美神社であるだけでなく、綿津見神を祀る古社は、対馬から壱岐、志賀島にかけて島や九州の沿岸に集中して鎮座されています。つ まり朝鮮半島の狗邪韓国から北九州の末盧国、すなわち邪馬台国に至る海上航路沿いの要所周辺は「ワタツミ」というキーワードで繋がっていたのです
 https://lifeskills.amebaownd.com/posts/11211578
 
 新羅出征に際し神功皇后は「阿曇連磯良丸命に舟師を率いさせて出征した。九月には諸国に令した船が集
まったので、磯鹿海人(しかあま)名草を水先案内人として壱岐経由して、十月三日、対馬
の和珥津(わにつ)を出港して新羅の南岸へ迫ったとされている」

十二通門
平城宮・平安宮内裏の周囲に12の門がある。その一つに海犬養門がある。蘇我入鹿誅伐に参
加した氏族の功を永久に記念するために門号に氏族名をつけたという説(井上薫氏)がある。

662 年(天智元年)
5 月 「大将軍(おほきいくさのきみ)大錦中阿曇連比邏夫連等、船師(ふないくさ)一百七
十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅(みことのり)して、豊璋等を以て其の位
を継がしむ。」(すでに前年に送って行ったはず?)
http://azuminorekishi.sakura.ne.jp/siryou.pdf


環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)→弥生時代
(海部氏・徐福系物部氏、邪馬台国)→大和朝廷(応神以降、秦氏)

<縄文海人(あま)と弥生海人>
http://g-village.net/iyasaka369/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%B5%B7%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%B5%B7%E4%BA%BA.pdf

環太平洋文明圏縄文王国(安曇氏)→後期縄文王国(和田橘氏)

こういう大きなスケールで海人族が安曇族などが日本列島に分布した
縄文王国とは安曇氏のことだともある、その後に物部氏が日本列島の支配者となった
そうなるとこの辺では安曇氏系統が最初の始祖ともなる
次に物部氏となった、後期縄文王国が和田橘氏というとき和田とは綿津見神社から来ている、つまり日本列島に海人族の安曇氏が拡散して大きな力をもったとなる
ただその後に物部氏が支配して次に大和王権が支配するようになった
その主役となるのが大伴氏だった、その日本の国家形成が相馬地域の東北の蝦夷の辺境にもありそれを物語っているのが綿津見神社が異常に多いことなのである
ただこれは正史に記されないし伝承としても何か残っていないのでなぜなのだろうとなるつまり安曇氏とか物部氏は大和王権が成立するとその記録も消されたとなる
でも神社とか地名とかは残されたのである
地名を考えるとなかなか消されるものではない、地名が古代から古いものでもその地に石のように残っているからだ、地名は一旦決められると変えにくいのである

●春に洛東江を下る

春日さす洛東江を沿い下る
滔々と流れる大河
大地を潤し米麦の豊に実る
金官伽耶は鉄の国
豊富な鉄資源に恵まれて
日本府任那のここに置かれぬ
ここに興亡あり北に高句麗
新羅ありて伽耶諸国を脅かす
しかし今春の日は穏やかに
河は人の争いを知らず
悠々と流れて海にいでるも
そのかなたに日本のありしも
かくて対岸に伽耶山の歌われぬ
ここに栄えし国をし思ふ
大和と一つとなりし国なり
陸奥の真野にもその跡残しぬ
同じく鉄を求めて来たれり
かくて大和王権の知らしめる地となる
辺境にあれど奈良にその地の歌われる
真野の草原は憧れの地ともなりぬ

草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ男鹿鳴くも

洛東江は大きな河である、韓国でも河は大陸の一部だから大きいのである
そして伽耶とか南になると照葉樹林帯になりあたたかいのである
韓国は北朝鮮になると寒い、日本より寒い国である、だからオンドルが作られた
これは日本でも作られた、その跡が発見されたが根付かなかった
つまり日本では西の方近江から西だとあたたかいから根付かなかったとなる
オンドルは下からあたためるから体全体があたたまる、寒い国にとって部屋全体も暖かくなるから暖房には優れている

ともかく伽耶は日本と一つであり日本の一部にもなった、だから最近前方後円墳が十数基発見されたのである、明らかに日本の支配地域になったから日本の前方後円墳が作られたとなる、必ず外国と交流すると文化がもちこまれるからである
土葬から火葬になったことなどもそうである

いづれにしろ韓半島の興亡は日本と密接に関係している、ただ日本府任那が日本がであるように日本と一体化した地域だったのである

洛東江の写真
https://onl.la/mVq85nu

2022年02月18日

この世は迷宮であり怪獣に食われる (3000年前にでも現代も人間の未来も予言されていた現代)


この世は迷宮であり怪獣に食われる

(3000年前にでも現代も人間の未来も予言されていた現代)

●3000年前に予言されたことが現実化している

人間の未来を言う時そのことはすでに300年前とかに予言されていたのである
ます聖書だと善悪の知識の木(善悪を知る木善悪を知る果物を食べた、そこで人間は目覚めて神から離脱した
人間は主人となり神から離れたのである、そして楽園を追放されたのである
その原罪は消えることなく人類にのしかかり現在に至っている

そしてギリシャ神話でも人間の未来は予見されていた、ゼウスから火を盗んだプロメテウスは過酷な罰を受けた、その火とは原子力にも通じている
そして原発事故が起りこの辺でぱ住めなくなった
つまり人間の未来とはすでに3000年前でも予言されていたのである
その時すでに人間の未来は見えていたのである
だから人間が未来を見るというときやはり3000年前に予言されていたことが依然として未来なのである

でもこれから3000年後にどうなるのか?

その未来はどうなるのかと見れることができるのか?イメージできるのか?
とてもできないだろう、でも人間の未来は3000年前に予見されていたのである
それはさらに3000年後でも同じなのである、人間の未来は確かに科学技術は発達するがそれが全部いいようには働かないのである
それが神話とかで予言された通りになっているからだ

●ギリシャ神話の迷宮伝説ーイカロスの迷宮からの脱出の失敗

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ミーノース(ミノス)王に保護されていた大工ダイダロス(イカロスの父)は、王の命令を受け、牛頭人身の怪物ミノタウロス(ミーノータウロス)を閉じ込めるための脱出困難な迷宮(ラビュリントス)を作り上げた。

ミノタウロスはミーノースの息子で、海の神ポセイドンの怒りで牛の頭をもった怪物にされてしまっていた。

テーセウスのミノタウロス退治
ミーノースが降伏させたアテーナイは、毎年ミノタウロスへの生贄を要求されていた。これに怒ったアテーナイの英雄テーセウスは、ミノタウロスを倒すべく自ら生贄として乗り込んだ。

やってきた英雄テーセウスを見てミーノースの娘アリアドネが一目惚れ。彼を死なせたくないと、迷宮からの脱出法を大工のダイダロスから聞き出し、魔法の毛糸と短剣をテーセウスに手渡した。

ミノタウロスを倒したテーセウスは迷宮を脱出し、アリアドネと共に島を脱出した。

幽閉されたダイダロスとイカロス
ミノタウロスの死を知ったミーノースは激怒し、迷宮の秘密を教えたダイダロスを息子イカロスと共に高い塔へ幽閉した。

ダイダロスは鳥の羽根を蝋(ろう)で固めて翼を作り上げ、息子イカロスと共に空を飛んで脱出することに成功した。

ロウで固めた鳥の羽は湿気と熱に弱いことから、「海面へ近づくな、太陽にも近づくな」と父から警告を受けていたイカロスだったが、自由自在に空を飛べる鳥の羽に魅入られ、無謀にも太陽神ヘリオスに向かって飛んで行った。

太陽の熱でロウが溶かされ、イカロスは墜落してしまった。父ダイダロスはシチリア島へたどり着くことができた。

現代のギリシャ・北エーゲ地方には、イカロスが付近の海に墜落したことから命名されたというイカリア島(Icaria)がある。

これは示唆に富んだ神話である、迷宮の中に怪物がいてそれが生贄を要求していたのである、それが遠い昔のことで関係ないようだが現代でもこの迷宮の怪物の生贄になっている人が多いのである、戦争とかで死ぬのもそうかもしれない、なぜなら戦争の理由が良くわからないからである、ただオウムとかでやはり犠牲になった優秀な理系の若者は麻原とかの怪物の犠牲になったのかとなる、これは迷宮からの脱出の物語なのである
この迷宮からの脱出は命がけにもなる
こんなこと現代には関係ないとも見るがやはり現実として社会にあったし今もある
現代文明の迷宮はますます複雑化してもうその迷宮から出れないのである
イカロスが迷宮から脱出しようとした、それは翼を得て脱出しようとした
それは科学技術の力だともなる、でも結局脱出できずに墜落した
それは原発事故とも似ていたのである、原発は迷宮でありそこから脱出しようとまた科学技術に頼ったがそれもできなかった、そこに人間の限界があったのだ

●この世は迷宮であるー脱出しないと怪獣に食われる

ギリシャ神話の迷宮伝説があるがエジプトの地下に隠されているとか言われる
エジプトのピラミッドとは何なのか、それは現代から見ると一つの閉ざされたものの象徴である、つまり人間の組織とか団体とかあるがそれは宗教団体でもカルトでありそれは一つのピラミッドなのである、組織団体は階級を創りそこに人を閉じ込める
そしてそこから脱出できないようにする
映画でピラミッドに入り閉ざされて出れなくなりそのままピラミッドの中で死んでゆく
出れなくなって死んでゆく、これも恐ろしいものだと思った
そういうカルトにかかわり一生を費やした人も相当数いる
現実にオウムとかあり麻原尊師とか言われた人は怪獣だったのである
それに優秀な理系の人達が食べられたとなる、実際に死刑になっているからだ
カルト団体はみんなそんなものである、迷宮に迷い込み出れなくなりそこにいる怪獣に食われるのである、だからこの世とは恐ろしい場所なのである

人間社会とは何かまさにこの世自体が必ず迷宮でありそこに迷い入りピラミッドに閉ざされて出れなくなりそこで死んでゆく、それはまさにこの世を象徴していたのである
なぜならこの世とは何なのか、誰もわからない、要するに大都会でもそこに入ったら迷路であり迷宮である、そこをすべて知ることなどできない、だから3000年前からでも都市は迷宮だったのである、人間は迷宮の中に閉ざされて脱出できないのである
そして怪獣が棲んでいて食われるともなる

そういうことが現代でもある、東京とかでもそこは大迷宮でありその全部を知りえる人はない、一旦そこに迷い込んだら脱出できないのである
何かそこにいかがしいものがあり組織化集団化して悪魔崇拝でもしているともなる
陰謀論でも盛んに言われるのはこの世のことを世界などすべて見ることができないし知ることもできない、そこは複雑な迷路であり迷宮であり誰も知りえない世界である
一旦迷宮に入ると脱出できないことが怖いのである
そこでは組織化して階級化するピラミッドを形成する、創価とか他のカルト団体でもそうである、軍隊の組織と同じだからである、そこで上下関係が作られて権力化する
これは共産主義でも同じだったのである、なぜならソビエト連邦の時、書記が死んだ時
まるで神のように葬られたからである、神格化されたのである
毛沢東でも神格化されて文化革命で大量の人間が粛清されて殺されたのである
共産主義は反対を許さない宗教と同じになっていたのである

●聖書のテーマはこの世からの脱出

それで聖書のテーマでも脱出になっている、この世の迷宮から脱出することがテーマなのである、ノワの箱舟の神話も大洪水の前に脱出することである
出エジプトも脱出である、ソドムゴムラが神によって滅ぼされる前に脱出する
つまりこの世からの脱出がテーマなのである、何かこの世を変えるということではない
そもそもこの世は変えることはできない、いづれは滅びるからである
その滅びを逃れるために脱出するのである

そして最終的にいくら科学技術が発展しても残されるのは大迷宮である
それが遺跡ともなっているのが人間社会であり歴史でもある
人間の歴史でも実際は解き明かせない、謎になってしまうのである
エジプト文明は砂に埋もれてマヤ文明はジャングルに埋もれた、それが何なの今になると発見されても解き明かせないのである、ただ謎を語るだけだとなっている
中国の始皇帝になると地下に大宮殿を作っていた、死んでも地下帝国を造り支配しようとしていたのである

この世は最終的には大迷宮を残し滅びるとなる、それは神の御意にかなったものではないからである、文明という時何か素晴らしいもののように見えるが実際は文明自体が迷宮として砂に埋もれジャングルに埋もれ地下に埋もれるのである
そこに永遠の都ではない、地の都はこうして迷宮となり埋もれる、そこに謎の怪獣が棲んでいたともなる、この世にあることはこうして一時的であり永遠の都ではない
いづれは滅びる都なのである、科学技術の恩恵はあった、でもやはり科学技術も万能ではないしマイナスの面が常にある、それが原発事故として現実化したのである
それは3000年前に予言されていたことなのである
科学技術もやはり迷宮化してゆく、原発など誰も全部知り得る人はなかった
第一吉田所長が肝心の復水器のことを知らなかったのである
どこの会社の社長でも全部を知ってる人などいない、無数の専門に分化しているからである、そして事故になったときお手あげとなり頼ったのがアメリカだったのである
何もできない状態になっていたのである、そこの内部も複雑な迷宮と同じだったのである

●世界大戦で一千万以上死んだ理由もわからない

そして歴史でも不可解なのである、世界大戦が二回ありそれで一千万以上死んでいる
それは何のためなのかということも不可解になっている
人間は何のためにかをはっきりせずそんなに大量の人間が死ぬ
何かわからず迷宮に迷い込んでその命が怪獣にでも食われるとなる
主義主張とかありまた宗教でもそれが現代では異常なのである
巨大な迷宮に入り込みもう出れなくなる、そして怪獣に食われるのである
救いとか悟りとかなど全く関係ない、膨大な数が集められてそれで権力化して社会を席巻する、それがナチスともなり戦争ともなったのが現代である

正義の戦争などないのである、アメリカにしても別にアジアのことなど関係しなくても良かった、ヨ−ロッパでも別にアジアとかかわり植民地化する権利などなかったのである
それは侵略だったのである、そうして世界大戦に発展したのである
それぞれの地域で生活していればこういうことにはならなかった
またクリミア問題でもロシアにも理がありEUにも理がある、でもなぜアメリカがかかわるのかそこに理があるのかわからないのである
それは日本でもそうである、日本がアジアに侵略したとしてもアメリカがなぜかかわるのかその理由がわからないのである
つまり人間の社会で理など関係なくなく強い者の言うことが通るとなる
その背景に軍事力がありその優劣で物事は決まるとなる

共産主義のマルクス主義が宗教のように絶対化してそれを信奉した人たちが学者でも多いそのためにまた反対者は粛清されてソビエト連邦でも中国でもカンボジアでも膨大な人間が死んだ、カンボジアでは二百万も殺された、小さな国でそれだけの人間が死んだ
そして骸骨の山が展示されている、それも何だったのか不可解になる
こうして人間は何のためなのかわからずに膨大な人間が死んでゆく
殺されてもゆく、それを後から歴史としてふりかえってみても何か理解できなくなっているのだ、日本の戦争も三百万人死んでもそれがなぜそうなったのか、なぜ戦争になったのかも良くわからないのである、植民地解放戦争だったというけどそれは後から言ったことでありそんな意識が国民にあったとも思えないのである

●日本人は明治以降ヨ−ロッパ化して不幸になった

こうしてそもそも人間社会とは過去でも歴史でも不可解なのである
だから古代かから迷宮伝説はあり迷宮から出れなくなりそこに住む怪獣に食われて死んでゆく、それがこの世だとなる、それは現代のように情報化して機械化して民主化してとかあってもそうなのである、事の真相というのはわからないのである
グロ−バル化すればさらに世界のことが知られるているとしても実際の真相はわからないそれげフェクニュースにだまされるのである
結局グロ−バル化することはいいことのように見えてもこれも世界が大迷宮化したとなった、もうこうなると誰も世界のことなどわからない、だから知りえようがないから大迷宮化して陰謀論になるのであるそして迷宮に迷いこみそこに住んでいるのは怪獣であり食われるということになる、そもそも世界で起きることを簡単に理解できない、何が正しいのかも理解できない、ニュース自体が画像でも騙されるからである

グロ−バル化したからといって別に世界が協力することでもなかった
結局世界大戦となったように米中とかの戦争の危機にもなる、アメリカでも日本でも中国を援助しても今度は強国になると攻めてくる、それが人間の実体だった
だから江戸時代なら中国でも関係ないし朝鮮とも友好的だったのである
つまり鎖国がみんな悪いことではなかったのである
その時日本は小国寡民であり貧しくても人情に厚く平和に三百年暮らしていたのである
それがヨ−ロッパが侵略してきてグロ−バル化した経済となり遂に米中対立から世界大三次戦争にもなりかねないとなる恐怖におびえるようになったのである

それでイギリス人の外交官が日本がに来てヨ−ロッパの文明を日本人にもたらすのはいいことなのかと疑った、なぜなら日本は平和であり穏やかに暮らしていて満足していたからだという、ヨ−ロッパの文明をもたらしたら不幸になると見たのである
実際日本人はヨ−ロッパ文明を取り入れて幸福になったのか、物質的にはなったが精神的には不幸にもなった、日本の良さがなくなった、戦後もアメリカ化して金しか求めなくなり人は冷たくなった、中国だったら唐の時代でもいいものだけを取り入れた、宦官制度などは取り入れなかった
また直接に中国人の移民が来たりしない、いいところだけを取り入れたのである
江戸時代三百年は国内でも戦争もないし平和の時代であり国外でも中国でも朝鮮でも争わないし友好的だったのである、だからグロ−バル化というのはかえってマイナスなものが目立つようになったのだ、だから老子の言う小国寡民とは日本のことだったのである
小国でも平和であり満足していたのである、これを言ったのは中国が二千年前であり
一億くらいの人口の時だったのである、つまりあの広い中国でも一億でも多く感じていたとういことである


この世は迷宮にして火宅の世

この世とは何なのか誰もわからない
巨大迷宮に迷いこみ出れなくなり
怪獣に食べられる
人は今氷のように冷たい
情は愛は通わない
その頭脳はコンピュターとなり
機械とロボットを使役する
でも延々と人間のカルマは消えず
無意味な労役を課せられる
シュシュポスの神話のように
科学技術も災いとなる
ゼウスからプロメテウスが火を盗んだように
その罰は過酷でありそれが今現実化する
原子力の火が故郷に住めなくした
この世に永遠の都はない
ただ砂に埋もれジャングルに埋もれ
地下に埋もれ海底に沈む
幾多の大帝国の王座は虚しい
一時の栄華に終わり捨てられる
この世はカオスであり治められない
何千万の死者が無意味に葬られる
それもなぜなのか解明されない
この世は混乱の世にして火宅の世
人々は虚しく使役され地に埋もれぬ
その数は膨大にして死者は浮かばれるや
その意味を問うも不明なり
かくてこの世はわからず混乱する
バベルの塔の崩壊して人々の言葉は通じない
この世に理想の国は生まれない
ただ混乱の内に収支がつかなくなり終わる
救いはこの世からの脱出なり
ノアの箱舟を用意して大災害から逃れよ
背徳の都市、ソドム、ゴムラは神に亡ばされる
脱出せよ、この世より、迷宮より脱出せよ
神の手に救い上げられて神の国へ行かむ
神の永遠の都にしか安住はなし
この世にあるのはカルマ(業)の場なり
人間はただ巨大な墳墓を築き去るだけ
そこに眠るのは誰かそれも謎なり
ピラミッドに閉ざされミイラは三千年や眠る
そして謎を語るのみなり
人は迷宮に迷い脱出できずピラミッドに堅く閉ざされ
ただ謎となり眠り遂にここに蘇ることはなし
時に幽霊のように彷徨い出るや
三千年ピラミッドに閉ざされて出でることなしも

2022年02月17日

待つ時間の消失 (待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)


待つ時間の消失

(待つ時間は期待する時間であるー間とか,無用の用とか東洋思想を見直す)

現代かいろいろなものが消失した、それに気づかない人もいる、旅に過ごした人生で感じたことはそもそも旅も消失していたのである
旅とは行程のことであり目的に寄り早く着くことではないから旅があった
今は三時間で平泉に着くとしたら場所の俳句などできない、その時地の果てへ行くような感じであり死をも覚悟した旅だったからである
だからこそ「奥の細道」が生まれたのである
「五月雨の降り残してや光堂」というときこれは時間の感覚の俳句である
でもまた空間的距離も関係していた
なぜなら江戸からはるばる歩いて来て金色堂を見た、その金色堂がまだ残っていた
藤原氏の栄華の形見として残っていたという感懐があり生まれた句である

もし新幹線で三時間で着いたらこういう句は生まれないのである
人間は何でも空間軸と時間軸で構成されている、でも空間軸でもそれが交通の発達で狭くなると距離感がなくなると感じ方が違ってくる
だからそうして失ってしまったものがかなりある、ただ気づかないことがある
別に旅など車でも電車でもしているのではないかとなる
でも歩いて旅していた時代とは感じ方が違うし本来の旅は消失したのである
ということは何でも時代が進歩したとしても必ずそれによって失うものが必ずあるのが人間世界だということがわかる

医は仁術というとき医のモラルとか人間に対して人情とか愛とかで患者に接することだったその時代は病気は直せないものとして見ていたからかえって情を愛を注いでいたともなる逆に今は科学技術が発達したから病気は直せるものとして医者に行く
直せない医者は藪医者だとかされる、情とか愛など関係ないとなる
またて医者の方にしても医は算術だとなる、金もうけの手段としてある、だから人情がなくても
そして科学技術の最先端の機械設備を整えた病院がいいとなる
でも病院で死ぬことは情もない無機質な空間で死ぬことで嫌だとなる
最後死ぬときくらい愛情をもってみられて死にたいとなるからだ
その時はもう病気は治らないからである、老人でも治らない病気が多いからである

こうしてとにかく人間社会は何か進歩したとしても何かを失っているのである
人間とは何かを得れば何かを失うということがある、この辺で原発は歓迎されていた
金になるとかなり電気関係で働く人も多かったからだ
それで財を築いた人もいるからだ、でもそれが事故で反転した、故郷にも住めなくなったからだ、いいと思えるものが最悪ものにもなった、そして貴重なものを消失した
でもそれが貴重なものだと思っていなかった、故郷など別に住んでいるし貴重なものという意識がなかったのである
何か最も貴重なものの価値がわからない、当たり前にあるものの価値がわからないのが人間なのである
家族とか妻とかでもその価値が意外とわからない、でも死んでしまうとそのありがたみがわかる、今や全部家事でもして病気になっても誰も同情もしない、他人がこれほど冷酷だと思わなかったとなる、だから家族がいないことはこの世は一変して地獄に変わったのである
ただここでも失ってみて初めて家族の価値がわかったことになる

そういうことはあらゆることに言える、待つことでもそうである
待つことが何なのともなる、インタ−ネットの通販で感じた
本を注文すると三日四日くらい配達される、その期間が結構待ちどおしいとなることに気づいた
そこに待つ時間があるからである、すぐに例えばインタ−ネットの電子本で読んだりするとそめういうことはないのである
ただ題名しか読んでいないし中味を早く読みたいと待ち遠しいのである
その待つことでそれが配達されたときはうれしくむさぼるように読むということに気づいた、また電子本では手に入らないものが多いからそうなる

この待つ時間が電車にはある、駅で待つことは何か期待している、家族を迎えるために待つというときまた他でも友達を待つということでもそうである
何か待つ時間は期待する時間なのである、そこで駅は人間的な場所だったのである
そうした人間的なものが駅にはあった、それは待つ時間が必ず電車にはあるからだ
そういう時間があったということである、時間の感覚も時代によって違っていたのであるただ新幹線とかなるとあまり待つ時間がない、一時間置きとかではなく、待つ時間が短いと感じない、それよりも余りにも早く着きすぎるから時間の感覚が違ったから今までの駅とは違ったものになる
高速道路のSAとか道の駅には待つ時間がない、ただ立ち寄り去ってゆくだけである
道の駅で待っているということはない、そもそも車には何か待つ時間がない
いつでも家から出て目的により早く着くという乗り物だからである
そこで鉄道の駅とは相当に違ったものとなっていたのだ

人間は待つということは神を待望するというときも待つ時間なのである
神の国を待望する時間なのである、だから雄々しく待てとかなる
待つことに価値を見出していたのである、待つことも不生産なものではなく生産的な価値があった、ただ旅でもより早く目的地につけばいいとなると待つ時間もなくそれは精神的な損失だともなる、充実した旅とはならないからである
人間はこうしてより効率的なことを追求して社会を作ったてきたが必ずそこで失われたものがあった、それに気づいていなことがある

確かなことは待つ時間は期待する時間なのである、それが無駄なものではなく精神的にも豊かにする価値があった、それが消失したとき人間的なもの情的なものも失われたのである、何かすぐにけ手に入ればいいとなるがなかなか手に入らず得ることができないで待つ時間があってその手に入るものが貴重だとなりまたそれが手に入った時の喜びも大きいのである、それが本がすくに手に入らない三日四日かかることでも感じたのである
その待つ時間が実は貴重でありそれがかえって精神的豊かさを醸成していたのである
効率的になれば待つ時間は無駄だとなるのが現代である
それによって失うものがあることを感じないのである

だからともかく人間社会は進歩した効率化した合理化したとかでいいとするが必ず失うものがある、それに気づかない、だから人間とは必ずしも何でも効率化するとか合理化するとか機械化するとか何かいいように全部働かないのである
何かそこで人間的なものを失うことがある、何か不満だというときそういう人間的なものが喪失したとでまた不満になっているのだ

結局用ばかり追求するより無用の用が必要だとか老子の思想が東洋にはある
日本だと間の思想である、何か日本では日本語には間がつくのが多い
それは時間にも間が必要であり間合いが必要であり空間でも間が必要である
そこに人間的なものが生まれる、老子だと無用の用が必要だとなる
それが東洋的思想としてある、おそらく西洋的なものにはない、資本主義とかでもすべて効率的にする合理的にする、無駄をなくすということになる

東洋的思想として禅があるとしてそれは無の境地にいたるとか空を知るとかなるのだから仏教とかでも同じなのである、東洋文化として共通したものがある
それでインドでゼロを発見したとでもわかる、これは西洋文化からは生まれないものだったのである、ここに東洋と西洋の相違があり今見直されるべきなのは東洋的文明であり思想だともなる
キリスト教はもともとアジアから生まれたのである、宗教はアジアから東洋から生まれたそれが欧米化したのである、ギリシャ文明があり本来の宗教が変化したのである

キリスト教と西洋化したヨ−ロッパのものもでありそれは本来のアジアのものとは違っている
ただ現代の宗教は別に東洋的だとかアジアだとか関係ない、資本主義の論理のように適合した全く東洋とかアジアだとか高遠なものとは関係ない、御利益宗教であり要するに金にあればいいとしかないのである、東洋も西洋もないのである
ただ欲望の是認でありカルト宗教になっている、どの団体でも同じなのである
それが世界でも大都市が似たようなものになていることでもわかる
画一化して平均化した大衆社会になっているもの同じなのである

いづれにしろ資本主義とかその変容したマルクス主義とかは限界である、思想的には東洋に回帰する
思想としては東洋が元であり深いからである、それを再び見直す作業も必要になる
だから中国がマルクス主義になっているのはおかしいのである
ただ仏教とかでも結局は資本主義的になっている、欲望の全面的解放であり宗教的なもの皆無である
大衆の欲望を全面的に開放した異常なカルトなのである
そんなとこに思想もなにもない、ただ資本主義の欲望追求と変わりないのである

だから不思議に思うのは中国には仏教遺跡が多い、仏都も多い、そこで唐の時代に日本もその仏教最盛期の時学んだ
でもその仏教も過去のものとなり今の中国は日本でも仏教は関係ない社会なのである
中国こそもっとも資本主義に適合した国だとなっている、だからあれだけ急速に経済発展したのである
でもそれも行き詰まっている、資本主義とその同根の西欧文明から転換が必要なのである
キリスト教は西洋化したものであり本来の東洋にオリエントから発したものなのである
だからこそキリストが生まれたとき東洋の三博士が祝福したことでもわかる
東洋から生まれたから東洋の三博士と通じていたのである






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abstract mountains

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mountains in SWISS

high tower in charch

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tunnel into moutain




2022年02月16日

冬深し、枯木、冬樹、老木、残る雪、春夕日(冬から春へ近辺回る)


冬深し、枯木、冬樹、老木、残る雪、春夕日(冬から春へ近辺回る)

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橲原村の立目石
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大原の柿の木の老木ーいかにも老木らしい
畑に雪も残っている

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この木は古いものではない、ただ10ねんくつらいは過ぎた


玄関に老骨のごと枯木の影

影の濃く冬樹数本一人行く

この道の親しく行くや冬深む

冬の水底まで澄みぬ巌かな

大原に老木一本冬深む

枯草や温泉街の夢の跡

春夕日山の端に没り一番星


春日さし橲原(じさばら)への道我が行きぬ立目石あり残る雪かな

静謐の宮居にあれや花咲きぬたずぬる人もひそけかるべし


今年は寒かった、二月でもまだ冬深むとしいう感覚である、東北だと立春が二月というより三月になるだろう、でも隣の空家のボケの花は咲いていた
二月に春の兆しはある

橲原(じさばら)から大原を回ってきた、今年はやはり雪が残っていた
この辺でぱ雪はほとんど残らない、実際二日ほど春めいたから雪はほとんど溶けたのである
橲原に立目石がありそれが目印となる、でも田畑は荒れてしまった
山村があり漁村がありという風景はそもそもそこに暮らしがあって作られて来た
それが原発事故で荒れ果てた、でも不思議なのはそういう場所でも山村でも生活していたのである、私の家は橲原の木材を利用して建てたと姉が自慢していた
戦後まもなくは木材とかは地元のものを利用していたのである
なぜなら戦後十年くらいは炭だったから燃料になる木材が必要だったからである

何か原発事故以降山村は荒れ果てた、それが淋しい、ここだけではい限界集落が全国各地にあり消滅する危機にある、喜多方の奥の方にもそういう集落がありyoutubeで見た
会津の方でもかなりそうした限界集落がある
そして東山温泉とか他でも温泉街が廃墟化しているのは驚いた
それは高度成長時代の夢の跡だともなる、その頃景気がいい会社とかで団体旅行が盛んだったからである、それが今は減少してコロナウィルス騒ぎでさらに打撃を受けた
ただ私は温泉宿に泊まったことがない、高いから泊まったことがない
何か北海道辺りでひなびた温泉に途中よって泊まったことがある
ただそれがどこかかは忘れたのであく

今は旅ししているのではない、保養でありそれで常に食事が問題になるのである
うまいものを食べて飲めや歌いやになっていた
それが廃墟化しているから一時の夢の跡になってしまったのである
私は温泉街などは好きではない、ひなびた宿とか何か温泉でも秘湯とかがいいとなる
実際に車だと本当に秘湯めぐりをしている人がいる
でも車がないとできない、温泉は交通の便が悪いからである

橲原から大原へ行った、そこに老木がある、柿の木である、いかにも老木らしい
大原でもそこも田畑が荒れ果てた、そこの前田とかに住んでいる人と南相馬市立病院に一か月入院していた、でもその人がいつも心配していたのは猫だったのである
息子はいても農業の跡を継がないからだ、そして今は空家になった
息子は市内に家を建てているから住まない、近くにまだ幽霊屋敷の廃屋が残っているのも不思議である、本当にあそこは幽霊屋敷である
幽霊が未だ住みついているのかとなる、そのために壊さないのかとなる

日本でも山村とか辺鄙な場所が限界集落となり消滅してゆくのは淋しい
というのは街とか都会ばかりだと何かものたりない、自然の中に人間も生きていてこそ自然も活きるとなる、そういう場所がなくなることは何か変化もなくつまらなくなる
いろいろな場所に生きていてこそ変化があるからだ
町とか都会ばかりだったら人間の暮らしに変化がなくつまらなくなる
ただそこに暮らす人にとっては厳しい、だから消滅してゆく

ただまだこの辺では街に近いから消滅するまではならない、でも原発避難区域になった場所は維持できないだろう、一万の町でも6000人の村でも限界集落化して消滅に向かっているとみる、日本はとにかく人口も減り経済力も減退して縮小ししてゆくからである
ただ村は古代からもずっと続いてきたのである、それがなくなることは歴史も失われるそれで飯館村の神社を見たら誰もお参りする人がなくなり神様も淋しいとなる
神様も捨てられたゆくのである

枯木の影が玄関の曇り硝子に映っている、それがまるで百才生きた母のようにも見える
木でも石でも家と一体化する、だから人が住まなくなった空家は一段と淋しくなるのである、つまり庭の石でも木でも人間化していたのである
そのために人が住まないと一段と淋しく感じるのである
田舎はやはり静謐であり冬深むという季語を感じる、これが都会だったら感じない
それで私は瞑想して何も聞こえないとき至福を感じるのである
そういう引きこもりの生活を30年くらいしていたから異常だったとなる
性格が陰でありそうなったとなる、ともかく誰もいない人がいない世界に安らぐのであるそして自然と同一化アイディンティティしてきたのが自分だったのである
それもは家族に恵まれたからできたので家族には感謝しているのである

6号線を川子から金沢の方に喫茶店というか農家の民宿のようなのがある、あそこは休むにいいのだがどうしても食事が限られている、原町には外食に行くのでただ珈琲だけを飲むためには寄りにくい
一人暮らしは食事に料理に苦労しているからである
新田川のユッサとかで食事できるにしても遠いのである、やはり原町の道の駅辺りが自転車で行くのには便利なのである

2022年02月15日

未来に備えることができない人間 (意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)


未来に備えることができない人間

(意味と価値がないものに費やされる人間の膨大な労力)

●人間は未来を見れない

人間はなぜこれほど未来を見るのがむずかしいのか?
それはソロバンのことで失敗したことで語った
子供の時習ってソロバンできたとか自慢していたけど何の役にも立たなかった
その時間と労力は全く無駄になった、ソロバンでは何か考える力も身につかなかった
読み、書き、ソロバンの時代は考える力、思考脳を養うことではなかったからである
社会生活するうえでの単純なスキルを身につければよかったのである
だから高校まで自主的に考えたことがない、ただ視線の点数をあげることしか眼中になかった、何かを理解するのではない試験のための暗記の勉強だったのである
そして大学に入ったらそこは遊びの場だったからおかしなことだった
要するに大学とは自主的に考える自主的に課題があり学ぶ場だったのである
それを高校まで全くしていなかったらできない
するとどうなるのか?遊びであったりカルト教団にはまったりと何か変な方向に行ってしまうとなる

でも大学でぱ多少考えることはした、でも何か文系は理系と違って自ら課題があって勉強していた人はまれだとなる
つまり現代は読み書きソロバンのレベルではとても役にたたない、社会が情報社会とか高度化しているからだ、また規格品の大量生産でも平均的人間でも役にたたなくなる
そういうことはAIが機械がするようになるからだ
すると人間は何をするのか?それが問題になってくる
それは金になるとか収入の問題があったとしてもそれだけではない、例えば退職してからの人生も長い、人生百年としたらその設計をどうするのかとなる
金銭問題も重要だけどどうして生きがいのある張りのある生活ができるのかとなる
そういうことは個々人でも社会でも備えていないのである
まず退職したらボランティアとかすることはむずかしい、一見無料で働くのだから受け入れられると思うが全然違う、ボランティアは現役の人にとっては邪魔なものであり組織を乱すものとして受け入れられないのである
なぜなら仕事とは会社ならば組織でしていて仲間でしてボランティアなどはその組織に受け入れられないのである

●急激に起きる不可解なこと不測なこと

ともかく人間は未来に備えることはほとんど不可能に思える
誰も予期せぬことが起りこんなはずではなかったと老人になってふりかえるからだ
それは未来が見えないからである、それで何か株とかでもうけるとしたら未来を見なければならちないから簡単にできないのである
必ず不測のことが起きて予定が狂うからである、、だからもう未来に備えることが不可能だともなる
自分に起きたことも突然だったので対処できなかった
家族の一人が認知症になり急に暴れたとき対処しようがかった

何なったのかわからず狂気になったのか怖かった
ただそうした急激に起きることでも多少の知識があると役立つとものだとふりかえった
なぜなら認知症など何か全くかわらなかった
だからインタ−ネットで調べてお茶でも飲ませて落ち着かせろとか書いてあった
それでそれを実行したのである、それだけでも効果があった
それはもの忘れで異常な興奮状態になっていたからである
そして認知症については医者すらわかっていなかったのである
だから誰からも助言を受けることができなかった、それでインタ−ネットで対処方法を調べてそれが多少役にたったのである
今回のウィルス騒ぎでもそうである、何なのか未知だから対処しようがないのである

本当に未来を予測することが大事なのかというと命にかかわっているからである
津浪でも原発事故でもそうだった、そのことが見えていたら二万人死んだとか故郷に住めなくなったとかならなかったからである
海岸沿いに住んでいた人達がどれだけ危険だったのか?
その危険をイメージできたていたらとても住むことはできなかったのである
そんな恐ろしいんことが起きることをイメージしていたら予測していたら二万人の命が助かったとなる
また戦争でも三百万人も死ぬことになることをイメージしたらとても戦争などできない
まずそのことをイメージしたらとても戦争などしなかったとなる

だから未来を予測することか命にかかわるから預言者とは未来を予言する人だとなった
未来を予言していれば危険からまねがれるからである、命が助かるからである
ただどうして未来を見ることができるのか?
それができないのである、ただ津波が起きた、原発事故が起きた、戦争が起きたとかなり後から人間から考えるのである、それは個々人の場合でも同じである
人生をふりかえってあの時何々うしいればとか何をしなければ良かったとか反省する
しかし時間をもどに戻せないのである、これが恐ろしいことなのである
その時々で判断して実行したことで誤っていても元にもどせないのである

●やり直すことができない人間

例えば将棋だとコンピュターを相手にしていると待ったをして何回も前の状態に戻して勝負してゆくと必ず勝つのである、でも前に戻せないから人間は歴史でも人生でもどうにもならないのである、その時々の判断実行で未来が決まるとなる
人生でも歴史の勝負でも待ったがないのである
そして人生は実際は真剣勝負であり一回で決まるとまでなる、そんなに何回も勝負できない、たいがい30までに人生の勝負は決まってしまうとなる
例えば女性でも婚期が短いから30まで選ぶ男性でその人生が決められるとまでなる
でもなぜ離婚が多いか、それは一回結婚してみて失敗だったとなるからだ

でも結婚でも何回もできるわけではない、婚期だって短いのだから一回で決まってしまうともなる、要するにチャンスは一回とかしかないのである
人生は長いのだから何回もチャンスがあるとか失敗してもまたやり直せばいいとかいうけどそんな時間は人間にないのである
だから事業でも一回失敗したら立ち直るのは最高に難しくなる
もし人生が二百年とか元気に生きられるならいいが短いからそうはならないのである
人生百年にしても元気でいられるのは80くらいまでだとなるからやはり活躍できる時間が限られている

本当に60とか過ぎて70歳になって一番不思議なのはあの人とあったのは50年前だったなとなることである、それが昨日会ったようにも思えるからだ
あの時若い時あの人と逢ったなそれからもう半世紀も過ぎたのかと驚くのである
それだけ時間が過ぎるのは早かったとふりかえる
もう人間がこの世であうの一瞬だったとも思う、そして後はこの世にいないのである
すでにそうして同世代でも死んだ人が結構いるからだ
70とかなると同世代で一割以上死んだいるからだ
こういうことが若い時は実感できないである、でもどんな人でも老人になると否が応でもそれが実感させられるのである、こんなに人生が短いものかと驚くのである
光陰矢の如しでありさよならだけが人生だとなっているのだ
逢った人があっても二度と合わなくなるのである
それで私の家族が全部死んだから60年一緒にいた家族すら消えていないのである
逢うこともできなくなったのである

だから求道するならもう中学からでもしないと間に合わない、なぜなら若き時に神を知れというときそのチャンスが30までとしたらそうなる
たまたま私の場合は父親が中学で死んだからそのことが頭から離れず人間が死ぬということを一番問題にしていた、それで求道していた、でもカルト教団に入って失敗した
でもやめた、そこからまた迷ったりして師についたりした、でも師から学ぶことができなかった、でもその師を否定して偶像を否定して神に出会ったという不思議がある
ふりかえると何がなんだかわからないのに神を知ったとなる
なぜなら自分は聖書など読んだこともなかったからである
神と出会うというと聖霊を受けるというとき別に聖書を読まなくてもありうる
要するに人間は経験でしかわからないのである、あらゆることがそうである
経験しなければわからないのである、辛いことや苦しいとでも経験しなければわからないだからそうして経験したことから相手のことにも同情するとなる
何か障害児をもった親のこととかあらゆることで経験しないとわからないのである
その苦しみとかがわからないのである

いづれにしろ人生はふりかえれば一瞬だったともなる、出合いも一瞬で終わった
あなたと会いましたね、でも永遠にあなたとはもう会いませんねとなっていたのである
そんなことがありうるのかというけどこれは老人になればみんな否応なく知らして目られることなのである
あの人と逢ったことがあったな、それも一瞬であり永遠に逢わなくなった
それで人の出合いとは何だったのかとなる
人間とは何かこの葉が風に舞うようにただ翻弄されているだけにもなる
そのうちはまたたくまに時間がなくなり消失して茫然としている
後は死ぬだけだとなってしまうのである
最後はみんなだから夢のまた夢だったとなって終わるのである

●意味と価値がないものに使役される人間(人類)

そもそもこの世に生きることの意味とか価値がわからない、何か膨大な労力が徒労だともなる、働くことでもそうである、そんなに働くことが必要なのかという疑問がある
それはオリッピックでもそうである、0.1秒記録を破ったとか何の意味が価値があるのかスキーのジャンプで十センチ伸ばして世界記録だとか何の意味があるのか?
そんなことに膨大なエネルギー費やす意味があるのかとなる

何か人類にとって意味あることなのか?

世界平和のためだとか言うけどロシアがウクライナに攻め入ることが止められるのかとなるとできない、オリッピックでわかったことは一部利権団体の利益のためのものであったり政治的思惑があってしている、そのために世界平和に寄与することなどないのである

そして人間が働くということは別に意味と価値を求めていないのである
要するに

彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた(この岩はゼウスが姿を変えたときのものと同じ大きさといわれる)。シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

何か意味があるわけでもなく延々として無意味なことをさせられる
それは罰なのである、カルマなのである、この世で無価値なこと無意味なことが延々と労苦としてさせられる、労働でもそれが罰だというときそうである
人類は人間はいかにこうして無益なことをさせられるのか?
それはそれはサタンに使役されてそうさせられているとも感じる
近代の戦争では何千万人も死んだ、それが何が意味があるのか、それもわからないのである、何かサタンに仕掛けられてそうして膨大な無意味な死が生まれた
それはどっちが正しいかとかではない、どっちにしろ戦争を制止した方が良かったとなるからだ、戦争の結果として戦争をしたよりいいことはないのである
多少領土の拡張があってもその死者の数からみたら得したとも言えないのである

諸々の価値の根源は人間である、人間はおのれを維持するためにそれらの価値を諸事物に付与したのだ、−人間が元で、それが諸事物に、意義と人間的意義を創り与えたのだ
それゆえ彼自らを「人間」評価する者と呼ぶのである‐ニーチェーツアラストラ

オリッピックでも価値とか意義が認められない、また価値とか意義が認められないことがこの世にはありすぎるのだ、大きく見れば文明そのものでもそうである
そこに美とか真とか善の世界が生れれば別である
今の大都会にそういうものはない、真善美はないのである
そうして宗教でもカルト教団などはただ数を誇り票数を誇り権力化しているだけである
また何でも量で計りGDPとかすべてを量で計る、そこに質を見ないのである
だから全体として数が膨大でも量が膨大でも意味と価値はないとなる
ただサタンに無意味にシーシュポスのように使役されているだけだともみる
無益なこと無価値なことに膨大な労力が使役されるときシーシュポスき同じである
それはもう罰であり業(カルマ)でありただ虚しく使役されて意味も価値も作りたさないとなる
人間の未来とは何なのかというとき意味あること価値あることを目指して働いているのでもない、ただ虚しく使役されている、社畜だと自ら言うように奴隷だとなる
奴隷制度がくなっても人間は自ら奴隷になっているのである

2022年02月14日

葉牡丹(写生俳句と写真)


葉牡丹(写生俳句と写真)

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葉牡丹の十輪ほどや冬の月

葉牡丹の十輪ほど庭に氷張る

石堅く組まれし庭や冬の月


俳句は写生が基本てある、短いからいちいち説明したら表現できないからである
そして写真と写生俳句が合うのである
なぜなら写真とは写生であり写実であるからだ
絵画とも違って写生でありありのままを映しているからである
つまらないようでそれが真実を現しているのである
それで(写俳)という新しい俳句と写真が結合した表現が生まれた
これはデジタルカメラとインタ−ネットができて誰でもできるようになったのである
雑誌だと捨身を出すことは簡単にできない、費用もかかる
でもインタ−ネットだとかからない、またスマホ時代いになって余計に気軽るにできるようになったのである

空家の庭を見て俳句を作っているのも変である
ただあそこの庭は本当に立派なのである、だからもったいなと見ている
誰か活用すればいいと思う、空家の活用はこれから問題になる
ただあそこは家の価値はない、でも庭の価値は相当にある
古い家は価値あるものもあるが住みにくいと隙間風が入るとかで問題である
それでも自分の家には家族と住んだ思い出があり愛着がある

昨日辺りまでは寒かったが今日はあたたかい、なんとなく春めいてきたのである
ただこれからまた寒くなる、今年はまだまだ冬である


大地にほのぼのとその色深く
紫や白に葉牡丹の咲く
冬なれどあたたかく
母の愛のごとく咲く
そこに目立つ美のなきしも
何かほのぼのとあたたかきかな

こんな感じになるのが葉牡丹は鉢にはふさわしくない、地植えで畑に大きいのがもともとの葉牡丹だからである、でもさの鉢植えの花は近くの森の花屋で買ったが良かったとなる

2022年02月13日

これからの社会は暗記脳ではやっていけない-仕事がなくなる時代 (教育でも、思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳を鍛える)


これからの社会は暗記脳ではやっていけない-仕事がなくなる時代

(教育でも、思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳を鍛える)

時代が変われば教育も変わらざるをえない、これまでは読み書きソロバンが基本だった
それは戦前でも同じであり戦後の焼け野原でも同じだった
私の父親は明治生まれで酒屋の丁稚だったからソロバンを習わせた
それでできたので自慢にくなった、でもそんなものは今になると役にたたないしすでに社会に出た時でも役にたなくなっていた
ただ古いテレビドラマでソロバンを使っているとか見た、40年前頃ならまだ使っていたのかもしれない、今になると全くソロバンを使わない

するとどうなるのか?無駄な時間を使って大損だったとなる
貴重な金と労力の無駄になっただけであった
ただワープロを使ったのはコンピュター時代になっても役だっている
コンピュターでも文章を書くのは基本的にワープロと同じだからである
ここはまだ進歩していないのである
例えばタイプライターを外国人はずっと前から使っていたからワープロでもなじみやすいことがあった、それができたのは英語でアルファベットだったからである
日本語は漢字ありかなありカタカナありでできなかったのである

その後の教育でも受験勉強であり暗記することだった、高校まで自ら考えて勉強したことがなかった、思考脳が全くなかったのだ
例えば思考脳は小学校からでも鍛えられる
数学だと何か問題の解答を解くのに十通りとかあるとすれば一つのものを暗記することではないのである

10+20+30=60
10+10+10+10+10+10=60
10×6=60
10+10+10+30=60
10×3+30=60
30×2=60

この問題ではどうして解くかが問題になる、ただ暗記していたらソロバンと同じになる
こういうことは算数でも数式でも必ずあり数学が考えるものとして学ぶことである
算数数学が苦手でも考える教材として学ぶことである
教える方でも考えさせるものとして学ばせるのである、それが暗記だけだとできないのである
つまり今までの教育は暗記脳であり思考脳を鍛える訓練する能力を伸ばしていないのである、それは小学校から暗記脳でありソロバンと同じである
こうしたことも教育で訓練されていないのである

だから私が一番勉強したのは大学出てからである、大学出てからは独学しかないから
自ら興味をあるものを勉強したとなる、ただ田舎だから本が売ってないない、それで仙台市まで本を買うために一週間に一回とか行かざるをえなかった
だからまだ独学する環境が田舎ではなかったのである
今は独学する環境ができている、本でも古本でもあらゆる本がボタン一つ押すだけで届けられるからである、それで思考脳は鍛えられる、でも学校では鍛えられない
学校は集団教育ではあり個々人にあった教育ができないから最大公約数のような教育になる、でも個々人に対応するにはネットなどで学べる時代になったのである
youtubeなどであらゆるものが学べる時代にもなっている

なぜ今までの教育が暗記教育が役にたたなくなってくるのか、それはソロバンが役にたたなくなったことでわかる、そこにいくら金と労力を費やしても徒労であり無駄な貴重な時艱を失っただけだとなっていたからである
なぜなら子供時代の時間は貴重だったからである、そこが出発点になっていたからである
思考脳というとき別に数学とか理系だけではない、社会に出るのに不可欠なのである
それがないと人にだまされたりいろいろある、なぜなのかということを考えないからである、それでカルト教団とかにはまったりする、そこではナチスと似ていて人を考えさせないからである、そうして人生を無駄に消費して終わる
ただ題目を唱えていればいいとかなるとまた一人の師を神のように偶像化することで思考停止になってしまうからである
それより社会全体がもう無思考になって千万単位とか戦争で死んだとかなるから怖いのである、それは結局無思考人間、暗記脳人間の大量生産の結果なのである
それはすでに学校という集団教育の中で作られてきたのである
なぜなら学校というのは世界的なものとして作られて来た、その前は貴族だと個々人に家庭教師をつけて教えていたからである、学校は存在しなかったのである

いづれにしろ教育でも将来を見て対処しないと私がソロバンをしたのに二級くらいとっていたのに何の役にもたたなかった、労力と金の無駄になっただけである
こうならないために未来を見て教育する学ぶ必要がある
ただこの未来は簡単に見れない、だからこそ株でも簡単にもうけられないのである
10代の時すでに十年先見るのもむずかしいからだ
パソコンにしてもコンピュターにしてもこんなに普及してIT時代になると思わなかったからである、それで日本がではその未来を見ないためにデジタル化に遅れ韓国や中国より遅れた国になっていたのである

そうして時代に合わないと会社でも無益化されて仕事しないおじさんとか生まれる
会社でももう今までのように安泰ではない、変化が激しいから技術的にも追いついていけずもう会社にいても何もできない、邪魔になるものとなってやめさせられるとなる
グロ−バル化したことでも競争に負けると会社自体が成り立たなくなったからである
絶えず新陳代謝しないと競争に負ける、すると絶えずイノベーションしなければならないとなる、それは暗記脳とかでは対処できないのである

だから機械化IT化自動化がどんどんすすんで失業者が増える、仕事がなくなる
こうした未来はすでに現実化している、するとそれに対処する教育も必要になる
暗記脳ではもう成り立たない、仕事がなくなっているからだ
そして金のために働くという時代でなくなるかもしれない、ベーシックインカムとかなり働かなくてもいい時代くる、それは兆候として実際に働かない人がニートとか引きこもりとか退職した老人が何千万といる時代なのである
こういう世界も今までになかったのである、そういう時代に対処するにはただ戦前の人のように働き詰めの一生のうよなものにならない
まるで違った世界になる、女中にしてもいらないしでも必要な奇妙だが掃除洗濯ではない料理は難しいから必要になるがそれよりも生け花ができて鑑賞できるとかの能力になる
ただ農業をできる人はやはり花を栽培するとかで重宝される、また話がうまいとかの能力でも評価される、しかし掃除したり皿を洗ったりとか家事でも多くは自動化するから必要なくなるのである、そこで仕事を失うのである

だから本当にみんなアーティスになれというのが不思議なのである
それだけ価値観が変わったのである、ただもう金だけが価値とはならない、金は支給される、てもその人の価値は金で計れない時代になるかもしれない
ホテルでも旅館でもどういう人を歓迎するかと言ったら金がある人が待遇が良くなる
金で人の価値は計られる、でも私は貧乏旅行者だから歓迎されない、それで野宿だったとなる、高価なホテルとか旅館とか温泉とかに泊まったことがないからである
でもそれも変わるかもしれない、その人がどういう人かを見るようになるかもしれない
画家だったら絵にしてくれるから歓迎されるとかまた詩人なら詩にしてくれるとかその人を見て価値が計られるかもしれない、それは金だけをもっていてもそれで価値ある人とは見られなくなるともなる
ベーシックインカムとかなるとその人の価値を何で見るのかが問題になるからだ
金だけでその人の価値を見なくなる、収入はホテルや旅館に与えられるとなるかもしれないからだ、そうすると金だけ人の価値をみなくなるとなる
そういう社会もありうるようになるからだ、それが未来なのである

そうなればただ収入が給料がいいからとして会社に入ることが目的とはならない
何かその人自身の個性的な価値を作りださないと認められないとなる
そういう社会になると価値観ががらりと変わるのである
だから団塊の世代は高度成長時代を生きたのだから金の価値が大きかった
金をもうける人間が価値あるとされてきたのである、でもそれもなくなりその人の自身の価値が計られる時代になる、花にもいろいろあるようにその人の個性を出すことが求められる時代になる、それがインタ−ネットとかyoutubeの時代になる
一人でも個人でもテレビ放送局になる、するとその放送する内容がコンテンツが大事になる、今までのテレビ局は六局しか放送できないことで特権階級になっていたのである
それも終わりとなっていてコンテンツがくだらないから見なくなっている

そして大衆化の時代が終わり個々の人間を相手にした放送ともなる
視聴率優先ではない、何かその地域地域の個性とか変わったことでも注目をひくとなる
だから同じようなことを言っていても表現しても価値がないとなる
youtubeでも同じことを言っている人がいた、これはインタ−ネットの検索でわかった
何かインタ−ネットだと同じようなことを言っていることが出てくるのだ
するとこれはそのパクリなのかとも見てしまうのである、そういうことが多くなっているのだ、これはその人独自のものではないなり価値がなくなる

こういう時代ではもう暗記脳とか受験脳とかは役にたたなくなる
だからそれに備えないと人生を無駄にする、貴重な時間を無駄にすることになる
ただ未来に備えることは至難である、どうなるかわからないからである
ただソロバンが使わなくなったようにそういうことが常に過去にも起きてきた
そのために未来を見る目を持たないとそのために備えないと大損になり人生そのものを失うとまでなる、そうして現実に今の老人を見ればいくらでもそういう人がいる
未来を見る目がなくて今になると何の用もない老人に人間になっていたともなるから怖いのである






posted by 天華 at 17:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

機械とAIが仕事を奪うとどうなるのか? (思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳が必要になる)


機械とAIが仕事を奪うとどうなるのか?

(思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳が必要になる)

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戦前とかなると大正生れの母は働き詰めの一生だった、原町紡績で糸取りをして10年間働いた後東京に出て女中をしていた
働いた金は親にやっていた、それはネパールとかベトナムでも親に仕送りするから似ている、子供は今と違って労働力だったのである、農業でも何でも労働力として大事にされたのである、だから農家だと女の子より男の子が労働力になるから大事にされたとなる
何か私は戦後小さな店を出していて配達とか卵買いとか働かされたのである
私の父親は酒屋の丁稚であり明治生まれだから子供はそうして働くことが普通だったのである、今だったら子供は勉強しろとなるだけである

また私の母親は家が事業に失敗して貧乏になり何か女性としてのたしなみもこせてもらえず働きづめの一生だった、それが貧乏な時代はみんなそうだったのである
その後東京に女中になり働いた、その頃東京で中産階級でも二人も女中を雇ったいたとかなる、それだけ電化されてないなのだから家事が大きな負担となっていたのである
子供の時竈とかまだ使っていたから何か原始的生活だったのである
そのため家事労働が大きな労働となっていたのである

そうして働くことしか知らない、そこで花にも興味をもたない、花嫁修業もない、ただ親のために働かされるだけだった、それが不幸なことだった
だから母親も異常化していたのである、花などいらないとして全く働き金になることしか興味がなかった、戦後は食べ物すらないのだからやはり働き詰めだった
そこで庭の花を植えるとより豆を植えていたのである、食料の方が大事だったのである
戦後は食料で苦労していたからである

そうして時代により人間の価値観でも変わる、女中はもう必要ないのである
電器製品で何でも米でも簡単に炊ける、そうすると結婚しなくても別に独身でも生活できる、もし電気製品がなかったら独身で生活するのは苦労だった
家事に追われて仕事もできなくなる、今でもやはり私は家事を全部しているから追われるのである
その当時は女中が不可欠な女性の仕事となっていた、それだけ家事が手間だからである

今自分の仕事をしているのはインタ−ネットでプログとか毎日書いていることである
でもこれだってもし紙に印刷して書店に置くとかなるとできない
なぜなら書店だって金にならないものは起きたくないからである
また出版となると金がかかる、なぜ新聞とか雑誌でも衰退してゆくのかというと金がかりすぎるからである、本でもめんどうになる、でも出版社とか通さなくても書店に置けなくても別にネットだと同じようなことができる
金にならないにしろいくらでも自分を表現できる、それを即座に放送できるとなる
だから本を作るのに活字を拾う仕事があったがそれもなくなった
みんなコンピュター化したからである、新聞だと紙代だけでも金がかかるし印刷するのにも金がかかる、そして一軒一軒回って配るのにも金がかかる

するとどうなるかとなると莫大な金がかかる、それをどうしてまかなうかとなる
それが宣伝費だとなる、すると宣伝費を出す会社に忖度するとなる
だからこの辺では原発が危険だということを報道もしない
なぜなら東電から電事連から800億円の宣伝費が出ていたからである
つまり旧来のメデアは金がかかりすぎて自立した報道はできないのである
テレビだってその装置からして莫大な金がかかっているから六局が独占していたのであるそれがyoutubeになると個人が放送局になる時代になったのである
つくづくプログなど簡単にできる、ただそのコンテンツは簡単に作れない
だから今まではメデアは放送する装置を持っていて莫大な金をかけてしていたがそんな金は必要ないから誰にでもできるからその放送する内容がコンテンツが勝負だとなった
テレビが面白くないのは今までは放送するだけで価値があったが今はない
ただ芸能人の馬鹿騒ぎでありそんなものはちょっとでも知的なものを追求している人は見なくなったのである
だからどれだけ個人レベルで大きなことをしているのかわかる

ただ問題は誰でも放送できるとなればその内容が問題になり簡単に見られないことである
機械化、コンピュター化、AI化で仕事がなくなるという時、時代が変われば仕事が変わる鉄道ができたとき旧来の馬を使って運んでいたものがなくなる、静岡の大井川の渡しの仕事をもくなる、そこで茶を作ることを仕事にしたとかある
そこに新しい仕事を生れそうしなければ食べていけないからだ
だから今仕事がなくなるという時,ベーシックインカムが言われるのはそのためである
仕事がなくてって別な仕事につける人はいいのである
ところがプログラマーとか機械化でもそれに従事できる人はわずかなのである
すると大勢が機械でもコンピュターに仕事が奪われる、代わりの仕事があってもないとするとどうするのかとなる、それでベーシックインカムが言われるようになった

例えばどういうことになるのかというと、手伝いの女性がいる、でもその女性のすることがないのである、みんな家でも家事は機械化されている、自動化されている
するとこの家に来てもなにもすることがないなとなる
でも主人は花が好きで生け花をしている、するとその女性は花に興味がある
だからその花を鑑賞する目がある、そしてその家に来てすることは花を鑑賞するだけだとなる、他はなにもしないのである、でもその需人は一人暮らしだから話し合い相手が必要である、その女性は話しがうまいのでそれで雇っているともなる
つまり価値観が変わってそうなったのである、これまでは働くことが価値があり働かざるものは価値がないとされてきた
でもその労働が機械がしてコンピュターがするとなると価値観が変わる

一体人間は何をしていればいいのか?

こうなるのである、そこで何が必要かとなると思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳が必要になるのである、それはコンピュターではできないものだからである
感性脳というとき自然の美を鑑賞できることである、食べ物を作るだけではない花でもその美を鑑賞できる感性である、でも意外と女性でも花に全く興味ない人がいる
その人は農家に嫁いでもサラリーマン家庭になっていたから農業のことが全くわからないのである、だから話しても農家のことなど何もわからない、ただ古い家であり紙漉きをしていたとういことで興味をもった
でも庭があるとしてそこに花を植えたとか話を聞かないのである
だから生け花を見ても関心をもたないのである
そうなると現代ではかえって大きく欠けたものがになる

要するに感性脳がないことになる、人間の本来の仕事は実際は感性脳とかが重要である
神の業を讃嘆することが地球とか宇宙を作った神の目的でもあったからだ
その目的に沿うことが本来の目的だとしたらそうなってきたともいえる
つまりベーシックインカムになったら依然として思考脳、感性脳、遊戯脳、創造脳は必要だからである、これは機械化できないしコンピュター化できないからである
そこにに人間に人間たる所以がありそれは悪いことではないとはなる
ただ何であれ理想はこの世では実現しないのである
この世は神の国にはならないからである


2022年02月12日

過剰化社会に現代の歪みが見える (病院も倒産が増え薬剤師も過剰になっている)


過剰化社会に現代の歪みが見える

(病院も倒産が増え薬剤師も過剰になっている)


過剰化社会というとき情報の過剰化のことを書いてきた、グロ−バル化して情報量は天文学的にもなっている、江戸時代だったら村のこととその周辺のことしかわからない
それでも生活できていた、だから情報が少ないにしても回りのことについて深く知っていた、今はとにかく広く浅くであり情報の量が指数関数的に増えてくる
インタ−ネットもいいものとしてもまた情報量がさらに加速して膨大なのである
そして人間は情報に振り回されている、世界で起きることでもそもそも簡単に理解できないからである
情報が多いということはかえって正確な判断もてきなくなる、どうして情報を選別するのかもわからなくなる、そもそも人間の個々人の理解力は限られているからである

例えば昔だったら近くの人が何をしているかどんな職業の人か理解できていた
8割りとか農民だったら農民としての共通認識を得やすいのある
なぜなら職業は同じだから互いに理解しあっていたのである
養蚕が盛んだから仕事を通じて理解しあっている、話しが合うとなる
今は無数の職業があり何をしているかわからないのである
田舎でもわからない、長年近くにいても何をしているかわからない人がいるのだ
私の町は原発事故で避難者が一つの町を形成して住むようになって余計にわからなくなった、また車で遠くの勤め先に行くからまたわからなくなった
会社中心の社会になると会社が移動すると人も家族でも移動するのである
浪江の人は会社が二本松にあるとかで通っていたが二本松に移住した方がいいとなった
会社員だとそうなってしまうのである
農民だったら土地に根ざしで生活しているのだからそういうことができなかったのである

田舎で目立つのは確かに美容院とか歯医者が多いことである、でもそれも過剰だというのもわかる、なぜこんなにあって客があるのかとなるからだ
それび病院でも薬剤師でも過剰でありまた倒産しているという、歯医者でも設備費がかかるから借金しているという、それも今までなら返せたが今は返せないで倒産ともなる
インプラントとかするのも何か利益を得るためだとしている
医者でも何か公定価格になって国で診療費を決めるから高くできない
そこで何か利益を産みだすことをしなければなならい
医者とかで怖いのは薬剤師でもそうだが病気がなくて患者が来なくなると困る、経営が成り立たないとかなり本来なら出さなくてもいい薬を出したり治療でも手術でもすることである
どうも生活保護の人は前にもニュースで報道していたが国から金が出るから無用な治療や薬をだす、それを断ることは別に普通の人でもできないのである
そこに医者の怖さがある

そもそも警察とか医者とか兵隊とか暇な方がいい、むしろない方が平和だ

警察でも犯罪者がいない、すると警官を減らせとかなると食べていけないとかなる
だからあえて犯罪者を増やすとういことまでするとなると怖いとなる
現実に消防士が暇であり火事をわざわざ起こした人がいたのである
また軍隊だと武器会社だと戦争がないと会社がやっていけないとなり戦争起こしてくれ
そうすれば武器が売れてもうかる、そういう人達がネオコンとしてアメリカで力をもっていて戦争を起こすのだという人がいる
武器を作っても売れない、戦争がないと会社がやっていけないとなればそうなる
だからそもそも警察とか軍隊とか病院でも本当は最小限でもいい職業だとなる
これらの職業も大きな業を背負っているとなるからだ
何か人間社会にはこうした矛盾が常にある
現代文明はやはり何でも過剰化してそれでかえって災いにもなる

弁護士でも過剰になりそれもいい商売でなくなった、だから相談するだけでも百万とられたというときやはりその裏を見ると費用の面で苦しいから弁護士でも犯罪者にもなる
背に腹は代えられないとなる、本当は人間社会では特に現代文明ではそうして無駄なものが多いのである、その無駄なものが無駄だけならいいが災いとなることが怖いのである
この世の中本当は優秀な人はまれでありその優秀な人が少数でも成り立つ社会なのかもしれない、それはAIで理解できる、翻訳は高校の先生レベルの能力を軽く持っている
するとAIで学んだ方がいいともなる、AIが先生になっているのだ
それですべてが充たされることになはならないにしてもやはりあることに特化したものが知的な仕事でも機械がコンピュターが代わりになることが見えてきているのである
するとまたそこで大量の人間が無能化されて失業する未来が待っている

ともかく様々な職業が実際はいらないとなっているのかもしれない、過剰に無駄な職業が多いのかもしれない、それが何か害を与えないのならいいが害を与えるから怖いのである軍隊に入ったらなら人を殺すことも仕事だとかなり殺してみたいとかなるのも怖いのである、警官なら犯罪者がいないと立場がなくなる、犯罪者を捕まえてこそ認められる
犯罪者がなくて飯の食い上げだとかなってしまうことも怖いのである
軍隊なら戦争がなければ必要ないとなり戦争を起こしてくれとなるのが怖いのである

これまでの職業が今見直される、必要とされたものが必要とされなくなる
銀行などもそうである、銀行は金を集めるだけで良かった、借りる人がいくらでもいたしそれで利子をとり預金者に配分すれば良かった
今やそれもできないから何のために銀行があるのだろうとなる
地銀でも投資信託とかむずかしいものを売りつける、これは銀行が確実に手数料が入り損しないものだから銀行にとってはいいものなのである
だから必ず転売する、転売して新しい商品を買わせる、その時手数料が大きいのである
客が損してもリスクがあるもなのですと言えばいいだけなのである
でもそれが地銀の本来の仕事ではなかったのである
でも地域でも投資先、借りてくれる人がいなければなんとかして金をもうけねばならないからそうなったのである

つまり今は資本主義社会でも投資先がないとか行き詰まっている、だから資本主義が終わりだとも言われる、でも食べていかねばならないから働く場が必要なのである
そこでベーシックインカムで最低限の収入を与えるということにもなる
なぜならそもそも仕事がAIとか機械に奪われるからである
ただ別にそうなっても人間ができることはある、それが思考脳であり感性脳でり創造脳とか遊戯脳は人間にしかできないことだからである
ただそれで利益が生れるのかというとまたむずかしいのである
ただ人間社会はこうして知的に高度になってゆくとそういう方面に力を注ぐようになるのかもしれない、ルーティンのような仕事は機械がAIするとなるからだ

いづれにしろ過剰化社会というとき無駄な人でも会社でもそういうおじさんがいるとか
社会全体でもニートとか引きこもりが60万にいるとか高齢化で働かない人が千万単位でいるとかこれも現代を象徴しているのである
人間の未来は別に金のためにあくせく働く時代はなくなる、人間のすることは遊びにもなる、つまり思考脳と感性脳と創造脳と遊戯脳にもなる
でもそれは今までのように金も産まないしGDPを上げるわけでもないのである
そういう社会は今までにない社会でありそれに対応するのも適応することがまだできていない、ただ文系の大学では遊びの場だったからそういう社会に適応する場だったのかともなる、でも団塊の世代はみんな会社に就職して企業戦士となったのである
まだ貧乏な時代だからみんな働き蟻になったのである

ただ自分自身のしてきたことは思考脳、感性脳、創造脳、遊戯脳の自己開発だったのである、引きこもりになりそうしてきた、そういう環境が家族で与えられていたのである
だから企業戦士とは全然違った人生を過ごしていたとなる、それは自分の性格が社会に適応できない陰の性格だったからである
とにかく自分は人前で話したり集団の中に溶け込めないのである、体でも異常に緊張して何か体に異常をきたのである、こういう人は確かに陰の性格でありいる
だから奇妙なのは自分の性格にあったのは引きこもりで自由に過ごして思考脳、感性脳、創造脳、遊戯脳を活かす開発することだったのである
ただそのことがこれからの未来ともなっている、それで今までの職業が警察でも医者でも教師でも弁護士でも必要でもその需要はなくなってくる
あったとしても少数でいいとなる、例えば先生でもyoutubeの先生が全国で教えるとか医者ならネットで処方するとかである

だからといって人間の仕事がなくなることはない、何かしら人間的な仕事が残りそれは
機械でもAIでもできないものが残る
例えばいくらコンピュターがAIが優秀だとしてもロボットには愛を持つことがてきないのである、これが致命的なのである
愛というとき医者にも愛が必要なのである、技術的なことだけで医者になれない
なぜなら何か必ず相手は人間だとした時機械の故障のように見れないからである
そこに愛が通わないと医者は病人と接することができない、それを経験したのは病院で私が手術する時誰も頼る者がなく一人の人が待合室で見守ることをしていたがその人は全くが愛がなかったのである

そこにいるだけでも嫌がっていたし会社を経営する人もとにかく箱一つ持つことさえ嫌がっていた、それが態度に現れていたのである、自分のためには実際は何もしたくないとなっていたのである、また自分だけではないその人は他人のためにでも何もしたくない
ただ資格をもって優秀だからみんなに頭がいいとか優秀だとかほめてもらうために事業を起こしたのである、だからその家族自体が事業をするに向いていなかったともなる
事業は自分のためにすることではないだろう、自分が偉いとか優秀だと見せるためにしているわけではないだろう
その人の事業する動機がそんなものだったらそもそも成功するものだろうか?

結局現代に欠けているのは「愛」とか情である、愛となると高級にはあるが人情でもなくなっている、そこには確かに機械があり医学は進歩している、でも欠けているは愛とか人情なのである、医は仁術というとき江戸時代には逆に病気は直せないものとしてあり医者に必要なのは仁術であり愛でもあったとなる
だから確かに現代の医学は進歩して治らない病気も直しているのだがそこに愛は通わない世界となる、病院で死にたくないというときそこが家のように愛が通わない無機質な空間だからである、まるで人間は物のようにかたづけられ数字のように処理されるからだとなる、そこで社会全体が殺伐としているのである
ただ愛という時愛することであり愛されることではないとしている
人か求めるのはただ愛されることであり他者を愛す愛ではないのである
もっと愛してくれとかもっとくれとか何でも要求して与えられる愛のである
でもその人に他者を愛すことはないのである、ただ愛されることだけを望んでいるのである、それも問題なのである





posted by 天華 at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2022年02月11日

真野川の鉄道の下の方に白鳥の群れ (雪の中の白鳥(詩)


真野川の鉄道の下の方に白鳥の群れ

(雪の中の白鳥(詩)

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でも別な画像編集ソフトでコピーして大きく見ることができる





白鳥の群れが真野川の鉄道の橋の下の方に集まっている
結構な数である、真野川の岸で餌をやっている人がいるのか
餌をくれる人を待っているようだ
でも実際は川の近くの田んぼにいる

基本的には水草や草の実などの植物を食しているが、時に昆虫・貝類・甲殻類も食し、穀類も食す。

田んぼにも餌がある、白鳥の一番の不思議はあれだけ大きいものが重く見えるものが飛ぶことで悪、どうしてそれだけのエネルギーがでるのかとなる
それもシベリアまで渡るエネルギーが出ることで驚きである
白鳥は朝と夕方に飛ぶのを良くみかける、それが気持いいのである
ただこの辺でぱ火力発電所から煙がでてくるからそれが白鳥とは合わないのである

今日は雪で朝真っ白になっていたので写真を撮りに行った
白鳥は聖なる鳥のようにも見える、白鳥はヨ−ロッパでも良くみかけた
まさに貴公子なのである、古い教会とか城とかの側に湖がありそこに白鳥が似合っていたのである

白鳥とは神のイデアの傑作である、自然の美は花でもイデアなのである
そのイデアを見ることが美を見ることだ人間も浄化される
とにかく自然のものは生物でも自然とぴったりと調和している
でも人間は調和しないのである、だから人間は隠れているべきだともなる
顔を出すなともなる、そして沈黙の中に美は映えるのである
私は人間は見たくないのである、人間は必ず何かこの地を汚すものだからである

それは火力発電所から煙がもうもう出ているのもそうだった
原発もそうだったのである、風力発電でもソーラーパネルでもやはり自然エネルギーとか言っていたがそうではないのである
人間の作りだすものが自然と根本的に調和しないのである
ともかく自然の美を自然と調和するには沈黙が欠かせないのである
それが普通の社会ではできない、引きこもりだとできるのである
これもマイナス点が大きいのだがやはり神のイデアを見るには沈黙が欠かせないのである
自然と調和するというときなぜ白鳥が餌をとれているのか不思議になるからだ
確かに人間が餌をやるにしてももともと田んぼとかにも餌がある
そうして生きていけることが不思議なのである、なぜならあれだけの大きく重いものが飛ぶには相当なエネルギーが必要と思えるからだ
それがシベリアまで飛ぶとしたらそのエネルギーは相当なものである
そんなエネルギーがどこにあるのかとなるからだ



雪の中の白鳥

純白の衣の朝日に輝き
光りは水面に跳ねぬ
雪の朝白さ白さの映えて
優雅に水の上に浮かぶ
乱れなくその純潔の美
その高潔なる貴族のごとし
鴨の群れは下々と従う
神は我が意を得たりと
そのイデアは地上に成りぬ
太陽は喜々として輝き
また朝にここに喜び輝きぬ
その翼を広げし飛翔の躍動
白鳥は凍れる夜に星座と輝く
田舎にそ何か見るもののあれ
北風の吹きつけ白鳥の鳴く声がひびく
その凍てる空に弦の音のように響く
ふの触れがたき聖なる鳥よ
神は自然の天然の美を与えぬ
純白の雪に覆われて人は見えず
ただ白鳥のみそ映えるべきかな
黙して自然の美を見よ
黙して自然の声を聴け
地も聖なるものとなるべし


the beauty of swan

The pure white robe shines in the morning sun
The light splashes on the water
On a snowy morning, the whiteness reflects
gracefully floating on the water
The beauty of her innocence without disturbance
Like a nobleman in his integrity
The flock of ducks follows with the lower classes
God has found his will.
His idea has come to earth
The sun will shine with joy
And here in the morning it shines with joy
Its wings are spread and its flight is lively
The swan shines as a constellation in the frozen night
There's something to see in the countryside
The north wind is blowing and the swans are crying
It echoes like the sound of strings in that frozen sky
O sacred bird that cannot be touched
God has not given us the natural beauty of nature.
Covered in pure white snow, no one can see
only the swan should be reflected
Be silent and look at the beauty of nature.
Be silent and listen to the voice of nature.
The earth should also become holy.

2022年02月10日

大工から棟梁へー建築の歴史 (人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)


大工から棟梁へー建築の歴史

(人間全体を見ていた江戸時代の大工とか医者)

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パンデミックで医者の裏の顔がバレました!
あれほど素晴らしかった日本の誇りが・・崩れようとしている武田邦彦
https://onl.la/bzpdxBn


●大工ー棟梁の歴史

【棟梁】より
…それが近世に向かって,大工,木挽(こびき),左官,屋根葺,鍛冶など,職人の専門的な分化がすすみ,一方,城郭や町の建設がさかんとなるにつれ,閉鎖的な組織を打ち破って造営工事を合理的に運営する,新しい組織を必要とするようになって,棟梁という個人的技能に基づく工事指導者と組織が成立していったといえる
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%A3%9F%E6%A2%81-1359053

大名達は優秀な技能を持ち『大工職』に縛られない工匠集団を必要としていた。この要求に基づいて創られたのが『棟梁』を指導者とする工匠集団であり、中世的な座の制度(『大工職』)の破壊を目的としていたと考えられる。
https://bingo-history.net/archives/14032

棟梁という言葉は今日では「大工の親方」という意味で用いられることが多いが、元は建物の屋根の主要部分である棟と梁を指していた。棟と梁は建物の最も高い部分にあり、かつ重要な部分であるため、転じて国家などの組織の重要な人物を指し、また「頭領」・「統領」という表記も用いられた(『日本書紀』景行天皇51年(121年)条において武内宿禰を「棟梁之臣」と表現している)。10世紀から11世紀にかけて、各地に「堪武芸之輩」・「武勇之人」と呼ばれる人々が現れて武門の源流となり、それを統率する人物を「武門之棟梁」と称した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%A3%9F%E6%A2%81

町大工
主に木造軸組構法で家屋を造る大工(町場大工とも言われる)

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日立木の町場橋ー相馬市の城跡に近いー大工町だったのか?


町場の由来は、古くから日本各地で相互扶助の単位として町(町場)という共同体のことからであり、江戸時代までは都市部の公的な自治単位として多くの権限を有していた。都市部の庶民のまつりごと(自治、祭礼)は伝統的にこの単位で行われ、その慣行が今でも残っているところも少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5

【太子講/たいしこう】

先述したように、聖徳太子は法隆寺をはじめとする多くの寺院を建立し、建築の神様として古くから信仰されていました。そうした背景から、室町時代末期になると、聖徳太子の命日とされる2月22日(旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講(経典の講義をする会)が行なわれるようになりました
https://wawawork.work/workerstrend/skills/641/

普請においてその町に住むものはその土地の大工を使うのが不文律であり、それをたがえる時はそれなりの理由と挨拶が欠かせなかった。またこの様なことは大工に限ったことではなく町の中でお金が循環するという相互扶助でもある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B7%A5



人間を見る時どうして見るかというと今を見ていたらわからない、時間軸で見ることが不可欠でありそれで何でも歴史がありその歴史をふりかえると見えてくるものがある
どうして今はこうなってるのだろうという疑問があるがそれが解けるともなる
そのために常に歴史的にみる訓練が必要になる

大工という言葉がすでに奈良時代にあるとか古いのに驚く、棟梁はむしろ後にできた言葉である、棟梁というときいろいろな建築にかかわる専門家を束ねる人だった
だからこそ町作り全体にかかわる街の都市の設計者にもなっていたのである
そうなったのは城とか城下町とか大規模化したとき建築家が必要になり束ねる人が棟梁となったのである、武家の棟梁というときそうである
だから大工とか棟梁とかは町全体を作るものとしてかなり地位的にも高く給料も高かったのである、大工は尊敬されまた棟梁となるとまさに殿様の名称にもなっていたのである
それだけ誇り高い仕事となっていた

武田邦彦氏のyoutubeで語っていたことは興味深い、大工はその人がどういう人生を送りたいかを見て家を作る、だから家を建ててもらう人のことを聞かないという
どういうふうな部屋割りにするとか聞かないという、それも何か理解できないがその人がどういうふうな人生を送るのかという時、その人の人生を見るというとそれはその人の全体を見ているのである
それは医療でもありうる、その人を見るときその人の全体をみる、体の部分だけを見ない体全体をまたその人の暮らしとかまでみる、だから患者が何々の薬をくださいと言っても医者は応じないとしている
つまりその主導権が大工に棟梁にあり医者にあって依頼者にはなかったとなる
また町全体を作るためにそれに合った街並みを作ることもあるから勝手な個々人の要求で家を建てられないということもあった
京都の町屋などがそうである、それで江戸でも京都でも街並みができあがっていた
そういうことを棟梁がしていたというのは発見である
つまり個々人でも家作りでも街作りでも全体を見てかかわり指導していた人がいたということである

●現代社会は何でもばらばらに部品化した

現代というのはともかく何でもばらばらの部品化してしまったのである
それを統率するものもいないのである、だから街でも不揃いの醜いものになった
京都でも町屋の前に高層ビルが建ったり常に景観を壊すものとなっている
統一した街作りができないのである、そういう棟梁とかがもういないのである
つまり現代とは全体を見て何かを作るということがなくなったのである
それは医療でも人間全体を見ている医者などいない、人間の体の一部を見るだけであり
人間全体の体だけでなくその人の暮らしとか人生まで見る人はいないのである
だから江戸時代なら医は仁術というときまさに人間の体だけでなくその人の人生とか暮らしとかまで見ていたのである

大工が町で重要なものとして誇り高いものとしてあったというときそれはその木材でも資源でもたいがいその土地で供給されたものである、その土地にあるもので作られていた
今のように外材とか何でも外部からそれも外国から輸入したものではない
すると一軒の家を建てるのに茅葺屋根の家でも村全体でかかわり建てたとなる
それは村全体の中で作られていたのである
それが現代だと大企業のハウス会社が一二週間で組み立ててつくる、まるでプラモデルを作るように作る、そこに地元の大工はかかわらないとなる
すると地元の人がかかわらないから地元の人とのつながりもなくなる
田舎はそうして何でも生活自体その土地と密接に結び合って成り立っていたのである

だから今は何か街自体が密接に結び合わない、何かプラモデルのように作られた人工の街のようになっている、だから解体するものも簡単だとなる
子供が遊びで積木のようにプラモデルのように作りあきたとかなりみんな簡単に壊してしまう、それが原発事故の避難区域で起きた
簡単に街でも村さえも住人が放射線被害で住めないとして廃墟化したからである
それは理由があるにしてもこんな簡単に街でも村でも人がいなくなったということに驚いたからである

そして浪江に住んでいた人は電気関係の人でありその人は回りの田畑が草ぼうぼうになっていても何の関心もなかった、補償金もらって良かったとして喜んでいたのである
他の人も老人でも年金代わりに補償金もらって喜んでいるよと言っていたのである
このように今や人間と人間のつながりは小さな町ですらなくなっていたともなる
だからこそ簡単に解体したのかともみた
実際は浪江のような一割くらいしか帰ってこない街でも別に車があったりすると物は買いに行けるし物は入ってくるからそこで暮らせないということはないのである
それにしてもこういう社会は何なのだろうとなる
それを理解するにはやはり歴史をふりかえることである

●ヨーロッパのartの意味

地名としては日立木に町場橋とかあり仙台市の長町に太子堂駅ができた、でもそこには聖徳太子の堂はないが前はあったからその名をとった
聖徳太子は大工の神様のようになったのは中国から大工技術を取り入れたためだとしている
日立木の町場橋の由来は大工が集団的に住んでいからか?相馬の城にも近いからである
相馬の城下町の延長としてあるからだ、距離的にも相馬市内という感覚にもなるからだ
とにかく大工とは尊敬される職業だった
今でも一人親方を知っているがその人は庭作りでも壁造りでも大工としていろいろできるのに驚いた、器用なのである、人間性は別にして職人として大工として優れているのである、体力的にも見た感じが柔道の有段者のような体つきをしているのである
それはまさに生まれつきの素質があり大工となり一人親方となったのかともみる

私は建築に興味がある、建築はやはりアジアでもヨ−ロッパでも建築そのものが市を作るものとしてエンジニアでありその人は棟梁であり重要な役割を果たしていたのである

こうした中でも建築事業を統括する技術者は「アルキテクトーン」と呼ばれていました。
「アルキ」は「頭(かしら)」のことで、棟梁のことを指します。

都市の住民は、同業者同士の相互扶助のため組合を結成した。13世紀のパリではその数は約100にものぼる。これらはそれぞれが特定の守護聖人をもつ宗教団体でもあり、同業者の増加を制限する閉鎖的集団でもあった。

石の大聖堂をカテドラルを建てたのはフリーメーソンとして知られる、秘密結社であり陰謀論では今でも世界を支配しているといわれるのはそれだけ重要な役割を果たしていたのは日本の大工とか棟梁とかと似ているのである
もともとギルドを組合を形成して大きな力をもっていたからである

「art」は英語だけど、さらに語源を遡るとラテン語の「ars」なのね。
この「ars」には、「技術」や「資格」「才能」といった幅広い意味があったの。

artは医療でもartだった、テクノロジーは実用化したものだがartももともとは実用として通用するものだった、なぜなら医療はまさに実用だからである、artとはだからヨ−ロッパ的概念であり文化であり文明を作ったものだともなる
それは今の日本に翻訳された芸術とういものではない社会全般にかかわるものだったのである、その全体から現代はあらゆるものか分離したのである
絵画でももともとは聖堂と一体化して飾られていた、個々の絵画はなかった
音楽でもカテドラルに荘厳なパイプオルガンが備えられていてバッハのレクエムがその大聖堂全体に鳴り響いたのである

つまり音楽は建築と絵画でも社会自体が一つの全体として統合していた、宗教もそうである、全体を統合するものとしてあった、なぜなら宗教は宗(むね)なるものだからである中国にも仏教文明があり唐時代がある、宗教都市がある、その唐時代の仏教文明が日本がに移植されたのである、仏教というときそれは全体であり技術もその中に含まれていた
つまりこうして全体だったものがすべて個々ばらばらに分離したのが現代社会なのである芸術というときこれもまさに絵画とか建築でも文学でも伝統芸能でもなんでも分離して
孤立したものとして見ているけどそれらでも社会全体のその時代には全体の中に組み入れられたものとしてあった、だから時代によってヨ−ロッパだと建築でも変化しているのである

●万葉集の家を歌ったもの

はだすすき、尾花(おばな)逆(さか)葺(ふ)き、黒木(くろき)もち、造れる室(むろ)は、万代(よろづよ)までに

これなどでも身近に土地でとれるもので家を作ったのである、その土地土地と密接に結びついていたののである

真木柱(まけはしら) ほめて造れる 殿のごといませ母刀自(ははとじ)面変(おめがは)りせず 」 
 巻20−4342 坂田部 首麻

私の家は橲原の同級生のキコリの人が提供したもので作ったと姉がいつも自慢していた
そして三カ月以上を家を作るのにかかったのである、今は一二週間で速成に部品を集めて組み立てるだけである、昔は普請は一大事業だったのである
何か家にはそれぞれ歴史がある、それがわかりにくいのである
農家などは特に江戸時代からの歴史がある、その歴史が原発事故で失われたということが大損だったのである、なぜなら家の歴史が郷土史の基本にあるとしてその家が失われたことでわからなくなる、町自体でもその歴史が喪失してゆくとなる

ただ現代はもともとそうした歴史を無視する社会になった
家でも地元の木材など利用しない、外材となり建てるのもハウス会社であり地元の大工もかかわらないとなる、だから地元でも故郷でも愛着もなくなる
この家ははこうして建てたんだよということを祖父からでも親からでも聞けなくなる
そして町や村自体の歴史まで消失してゆく危機なのである
それは日本全体が2000万軒もの家が廃屋化してゆく恐怖になる
日本全体が廃墟化してゆく恐怖がある、ここはそれが極端化して現象化したのである
温泉街も廃墟化しているし団地などでもそうである
日本自体が廃墟化してゆくのかという恐怖になる、日本がなくなるという人もいる
それだけ空家問題は大きな問題なのである
posted by 天華 at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代

Abstract Oasis City and iced mountain and swallows


Abstract Oasis City and iced mountain and swallows


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Free from Virus

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abstract iced mountain

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Oasis City


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A hidden city of mystery


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vital carving earth

2022年02月09日

学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人 (引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


学校、社会で挫折しやすい陰の性格の人

(引きこもりにも効用があるー沈黙して自然と一体化する)


人間には性格があるし好みがあるしそれにあった生活をしないと歪められる
でも家庭でも学校でも社会でもいちいちその人の性格など見ていない
そして外交的な人、コミニュケーション能力がたけた人が人気者になり目立つのである
内向的な人は好かれない、その女性はいつもにこにこと笑っている
だから店で働く接客に向いている、もともとそういう性格だからである
私自身そういう女性とかに好感をもつ、それは全般的にそうだろう
内向的な人間は学校でも社会でも好まれない、陰気臭いとかなる
積極性もないから何か率先してやれないので目立たないのである

でもそういう性格を無理やり外交的な積極的な性格にはできない、それは生まれついたものだからである、人間には生まれついたものがベースとなって作用してゆく
不思議なのはフラワーアレンジメントで気づいたことは花を挿して飾っておくと時間の経過のなかでその花の特徴がにじみだしてくる
それから花はいろいろな花があってもどんな花とも調和して咲いている不思議がある
目立たない花でも例えば葉牡丹など目立たなくでもそれもぜんたいの中で調和して必要なものとして咲いている、これは滋味だからいらないとかならないのである
滋味な花は滋味なりに全体の中で働きがあり調和しているのである
人間世界にはこういうことがない、根本的に人間社会は調和しないのである
絶えず何らかでいがみあいけなしあい衝突して調和しないのである
人間の性格でも素質でもいろいろあっても認めない、こいつは陰気な奴だとかなり排除される
まず教育でもその人の特性に沿った教育などされない、ただ一律に同じように見て機械的に対処するだけである

そしてその人の興味にそって教育などしない、EDUCASTIONが引き出すという語源があるときその人にあった性格素質を引き出す教育などないのである
どうしてヨ−ロッパには天才が多いのだろうかとなる
それは貴族社会であり貴族社会だと個々人に家庭教師がついていたのである
すると個々人にあった教育ができたともなる、だからそこで天才が生まれやすくなったのかともみる

ただ貴族社会には貴族がいても労働者階級は含まれていない
だから「アテネィの学堂」というラファエロの絵には哲学者と弟子がいるし知的探求する天才はいても労働者階級はいない、庶民はいないのである
ギリシャでもソクラテスとかプラトンとか弟子がいても奴隷が支えていたことは語られないのである
奴隷というとき家事をする召使とかがそうである、そういう人は家事労働が機械化されないとき必要だったのである
もし家事労働に追われていたら知的探求などできないからである
それで私は学校では大学でも何か興味をもてることがなかった
でも大学卒業してから自由に旅行して地名とかに興味を持ち地理に興味を持つようになったのである
人間は自由な時間があれば必ずこの世界に興味を持つ、学校で興味をもって学ばなくてもこの世界は神が創った世界は驚嘆すべき美がありそれに目覚めるのである

つくづく学校はスコーレから暇が語源になっていたことが自分の人生で理解した
高校まで受験勉強とかであり強制されるものだった、ただ大学になると勉強は強制されないのである、むしろ授業に出る者は真面目で面白くない奴だとされていたのである
それで一日マージャンしていたりパチンコしていたりする人がいた
そのつま一生が遊び人、ギャンブル人生になった人も大学出ていたのも当然だとなる
何か文系大学だとレジャーランドとかされていた、自由なのである

でも暇だからその暇をいかに消化するかが問題になったり遊び人になった人もいるのがわかる、学生運動でもそれはマスプロ大学で千人とか入る講堂で授業していたからである
授業がつまらないから学生運動に入ったりカルト教団に入った自分の様な人もいる
暇であること何か空白の時間が生まれたのである
でも自主的に興味をあって高校まで勉強していないから何か研究などできないのである
私は大学出てからの方が自主的に勉強しつづけてきたのである
勉強とは自主的に勉強しないかぎりつづかないし継続できないのである
そもそも点数をとるために勉強とか学問はするものではない、何か必要性があり興味がありするものである、試験のための勉強は教育ではないのである

ただこの暇が意外といいようで普通の人には危険である、暇をもてあますからである
それでよからぬ方向へ向かうことがある、そこでギャンブル人生になった人もいる
ゲーム人生とかにもなる、そしていかに人生で時間の浪費が最大の問題だったことに気づくである、時間は本当に貴重でありあっというまに40才ですでに白髪となりおっさんになる、ふりかえると20代が盛りであり30過ぎるとすでに下り坂にもなる
つまり老人に向かっている、そして死に向かっているのである
だから人間は20代で決まるとまでなる、20代で社会からはずれたり引きこもりになると一生引きこもりになってしまう恐怖があったのだ
なぜなら自分自身がそうだったからである、それも怖いと思った
別に引きこもりにならなくても20代でその人の方向が決まり骨格ができる
そして30くらいでその人の人生は決まるとまでなる
人間の時間は限られていることを老人になると痛切に感じるからだ

まず人間の一生となる恋愛したり結婚したり家族をもったりするとその負担が時間をかけることになるから何か自分のあった知的探求の時間がなくなる
その負担が大きすぎるのである、追われてしまうのである
だから天才とか何か芸術家とか学者でも業績を残したのは8割が独身だったとかなる
それもわかる、人間はそんなにいろいろなことはできないのである
そんな時間がないのである、女性に費やすエネルギーも膨大でありそれで時間が失われるのである
そんなことで浮かれているとあっという間に時間は過ぎて白髪の老人になり今や死ぬだけだとなってしまうのである

理系の工学部とかで機械マニアがいてその人たちは機械マニアでありそこに没頭して優秀である、でも英語とかは得意ではないしだらしいなとか社会常識もないが日本にとって貴重な存在だとしている、そういう人達はやはり機械に対する情熱があり新しいものを作りだす可能性があるからだ、でも社会常識的に見たら異常だとなる
それも問題があるにしろ何かに異常に興味をもって没頭するとそうなりやすいのである
社会常識から外れてしまうのである
ベ―トベンとかでもそうだったとかある、つまり音楽の創作に没頭した結果そうなったとなる、でもそこは天才だから大目に見られていたのである
そういうふうに興味に没頭することは何か新しいものを作りだす人となる
引きこもりがこれだこけ多いとしたら何かそういう人が生まれるのかもしれない
ただ

おそらく最大の人生の誤算は意外と人間はすでに20代でその方向が決まりあとはその余禄みたいになる
それで「若きうちに神を知れ」となる、なぜ若いうちに神を知れとなるのか、そんなこと老人になってでもできる、それができないのである
求道は命もっとも盛んな時にするべきことなのである
病人になったり老いてからするものではない、それはすでに時遅しとなっているのだ
すると20代までだからそれもあっという間に過ぎてしまうのである
そして神を知る機会を失うでのである
だから若い時神を求めない限り神を知ることは不可能に思いるのである
それで朝に道を聞けば夕べに死すとも可なりとなる
その後の人生は余禄のようになってしまうのである
なぜなら30過ぎたら40になり白髪がでてきておっさんになるからだ
すぐに50くなっけ初老となり老人となるのである
そこで少年老い易く学成りがたしとかなる
結局結婚して家族を持ち雑用に追われていると時間が奪われでそうなるのである

そういうことで高齢化というのは悪いことではない、たいし才能がなくても時間をかければ積み重ねがあると雑学であれなんであれ自分の興味にあったものを開発できるからである、そのために私は抽象画を始めたのはパソコンを覚えて60過ぎてからなのかもう70に成ってから本格的に作るようになった
全然が絵の才能がないのにソフトを操作して偶然そのコツがわかったからである
たから長生きすることはこうして何かを発見したり学ぶことで自己開発ができる時間が長くなることで天才でなくても普通の人でも何か発見したり創作できるようになる
つまり技術は日進月歩だからその技術に適合して今までにないものが生まれるのである

それで必ずしも陰の性格でも悪く働くとはならない、引きこもりが批判されるが陰の性格の人はどうしても社会に適合しにくい、でもマイペースで自分の性格にあった環境で好きなことをしていると何か発見するということ創造することがりうる
そして引きこもりでいい面に働くのはいつも他人の顔をうかがったり御愛想笑いしたり
何か会社で上司にごまをすったりとかすなくてもいいことである
私はまるで禅僧のように沈黙業をつづけてきた
するとどうなるのか?自然と一体化してゆくのである
自然を知るには一体化するには沈黙が欠かせないのである
なぜなら大地でも山でも木でも石でも沈黙しているからである
ということは自然と一体化することは沈黙しなければ一体化できないのである
でも社会でそんなことしていたら異常だと見られるのである
でも引きこもりだったらそういうことはないのである

禅寺か自衛隊にブチ込めばよかった
引きこもりだから生産性のない奴は根本から対処せんと

引きこもりは禅寺に入るのが向いている、そこだったら別に社会に適応できなくても修行することで布施されて生きることになるからだ、でも現代でぱそういう場所がなくなったのである、不思議なのは貧乏な時代にこそ古代からでも寺が多かったことである
そういう場所にいれば職業につかなくても良かった
そもそも職業は業となるように何か悪いことをすることでありそれでさけていたのである
そういうことは職業には必ずある、何かしら社会の悪とか権力にとりこまれるとか悪いことがあるからだ
知っている人の息子は勉強が嫌いで自衛隊に入った、それで訓練されるからいいともなる私自身は家族の中にいても禅寺にこもっていたと同じだったのである
ただ一日成さずば食わずとはなっていなかった、食事でも毎日与えられていたし家事もしてくれたしただ暇だけがあったのである
だから好きなことをしていたのである、これはただ特殊な事情で家族に恵まれた結果なのである、それで家族には今でも感謝して供養しているのである
介護の時でも必死になってしたのはそれだけ家族に良くされた何でも自由にやりなさいということでそうできたことで感謝している
引きこもりだから親に殺されることもあったからだ

いづれにしろ人間の不思議はマイナスがプラスに働くしプラスもマイナスに働く
陰の性格は社会的にマイナスである、でもこれも実はプラスに働く、家に籠っていても
それで沈黙業を続けると自然と一体化してくる、それで未発表の詩を百遍以上書いた
それは沈黙業をつづけた結果なのである
だから精神修養には禅宗のように座禅して沈黙することが不可欠である
なぜなら人間は口から悪いものが出るからだ、その口からでる言葉の害は恐ろしいものなのである、その言葉によって人でも殺せるし呪いとなり子の世界を汚す、それが人間の特徴なのである

「口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです」。聖書

人間は最も言葉を慎むことがてきないのである、もし言葉をつつしむことができたらこの世はどれだけ住み心地が良くなるのか、それが見落とされているのである
言葉の害は恐ろしいものなのである、ある哲学者は心で殺意をいだいたら必ず殺すことになる、それだけで他者を殺すことになると言っていた
その殺意は殺意を向ける人だけではない、誰かの弱い人も関係ない人もその殺意によって害を受けて死ぬこともあるとしている
そのために中国でも韓国でも日本人に戦争で被害を受けたと日本人に敵意をむき出しにすることがある、それはすでに心でそう思うことが現実化する
日本を攻めて今度は復讐するのだとなる、それは口で言っているだけにはならないのである、それが現実化するから怖いのであく

posted by 天華 at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育心理学など

2022年02月08日

南相馬市の道の駅からアップ 実験です

南相馬市の道の駅からアップ

実験です



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南相馬市の道の駅からアップ

実験です

夕暮れになりました、そろそろ帰ります

地理が歴史を作る (初夢(はつゆめ)内村鑑三よりー世界を見る)


地理が歴史を作る

(初夢(はつゆめ)内村鑑三よりー世界を見る)


めぐみのつゆ、富士山頂にくだり、
したたりてそのふもとをうるおし、
あふれて東西の二流となりぬ。


その西なるものは海をわたり、
ペクトュをあらい、クンルンをひたし、
テンシャン、ヒマラヤのふもとに水注ぎ、
ユダの荒野に至りてつきぬ。


その東なるものは大洋を横断し、
ロッキーのふもとに黄金崇拝の火を滅し、
ミシシッピー、ハドソンの岸に神の聖殿をきよめ、
大西洋の水に合してきえぬ。


アルプスのみねはこれを見て
あけぼのの星と共に声を放ちて歌い、
サハラの砂漠は喜びて
サフランの花のごとくに咲きぬ。


かくて水の大洋をおおうがごとく、
エホバを知るの知識全地にみち、
この世の王国は化してキリストの王国となれり。


我は眠りよりさめ、ひとり大声によばわりていわく、
「アーメン、しかあれ、
みこころの天になるごとく地にもならせたまえ」と。

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内村鑑三は日本のアブラハムだった、聖書を解読した始祖でもあった
地理論も書いた、なぜ江戸時代に生まれ明治になりそれだけの世界的視野をもてたのか?意外と明治は世界的視野をもっていた人がいたしまた明治が現代と違っていたのは
江戸時代に育まれた鎖国三百年でも日本の精神が醸成された時代だったのである
だから和魂洋才の時代だったのである、日本という伝統的に育まれた精神でも活きていたのである、すると西洋化したとしても日本という伝統精神は色濃く残っていた
それが内村鑑三の場合は武士道だったのである
それでキリスト教に武士道が接ぎ木されたとなる、もう現代になると日本では接ぎ木されるものが残っていないのである

特に戦後は日本的精神はアメリカ化されて物質化されたから残っていないのである
例え民主主義でもそれはあくまでも表層的なものとしてしか受け入れられず日本には本来の民主主義もない、西洋文明がキリスト教文明と指摘したときそのキリスト教でも日本には根付かなかった、ヨ−ロッパから取り入れたの科学技術であった
洋行したとき関心したのは機関車とか科学技術げありキリスト教は受け入れなかった
つまり西洋文明とは科学技術機械文明だとして取り入れたのである

内村鑑三が明治時代にグロ−バル化した世界をすでに見ていた
でも実際に留学したのはアメリカである、アメリカしか行っていないのである
でもその経験がその当時でいかに大きいものだったかわかる
今でも日本を語りうるものはたいだい留学した人だとなっているからだ
つまり外国で暮らすことによって日本を比較して見えるからである
ただ明治と違うのはもはや日本には江戸時代の遺産が消失してしまった

明治はまだ江戸時代が現実に活きていたのである
だからこそ武士道キリスト教というのが成立ったのである
その後は武士道は明治でも消失してわからなくなっていったのである
そして大正時代から戦争へと突入する暗い時代になったのである
内村鑑三が薫陶を受けたクラークの時代はアメリカはホイットマンに詠われた素朴ないい時代だったのである
ところが十年くらい過ぎてアメリカは変わったとしている、別なアメリカになったとかいう人がいる
やはり時代は常に変わっているということである
それでいい時にアメリカに留学したからアメリカのいい面を体得したことが影響した結果人も作られたとなる
人間はどんな人でも時代の影響を受ける、これはどうにもならないのである
現代からとても人物は出にくい、大衆社会とか物質化して世界中が求める者か金しかなくなったからである
それはどこでも同じなのである,グローバル化して世界が均質化したからである
旅行してもたいがい都会は同じようなものに成っているからだ、大衆社会というのも世界的に同じなのである


めぐみのつゆ、富士山頂にくだり、
したたりてそのふもとをうるおし、
あふれて東西の二流となりぬ。

この詩では富士山を世界の中央のように見ている富士山からめぐみのつゆが下り東西二つに分かれるというとき西洋と東洋を二つの川として表現している

ペクトュをあらい、クンルンをひたし、
テンシャン、ヒマラヤのふもとに水注ぎ、
ユダの荒野に至りてつきぬ。

ペクトュをあらい、クンルンとか北京とかなのか、中国でありヒマラヤが世界の尾根としてありそれがイスラエルのユダにつづく、明治時代にはまだイスラエルは作られていない第二次世界大戦の後に建国されたからである
ユダだとういときシルクロードとかユダや人が秦氏とかが弓月という国が中央アジアにありユダや人が日本がに古代に渡ってきたともみる
イスラエルが誤解しやすいのはそこは半分砂漠でありそもそも一神教は砂漠から生まれた砂漠の荒野から生まれた、イスラエルには隊商宿がありラクダをつなぐ場がある
つまりシルクロードであれ砂漠が道となり東西が結ばれていたのである

西安の長安の始皇帝は白人とされているしヨ−ロッパ系でありギリシャ文化も伝わっていた、仏教にギリシャのヘレニズム文化が伝わり仏像が生まれた、そしてインド人はアーリア人とドラビダ人の混血であり目鼻立ちがくっりきりした人が多い
すでに東西文明は交わっていた、そして日本があたかも世界の中心のように地理的にしたのはやはり明治に世界が結ばれたとき地理的に直感したのである
それはやはりアメリカに留学したことでそういう地理の感覚を得たのである
でも行ったのはアメリカだけであり船で行ったのである

つまり明治時代に内村鑑三は日本を地理的にどういうふうに見ていたかというと
東西文明の合流する統合する国だと見ていたのである、だから富士山が世界の中心と見たのである
ただヒマラヤを詩にしても実際に行っていない、わしはヒマラヤに行った、でも春であり高い峰が雲がかかって見えなかったのが残念だった
ただヒマラヤを見るには飛行機からしか見えない、その頂上は飛行機から見たのである
まさに天空に聳える峰なのである
ヒマラヤは三千メートルのトレッキングコースから見ると圧巻である、その高さに驚嘆する、三千メートルは富士山でありそこから8000メートルの山を見るのだから本当に天に聳える山なのである、その感覚は全然違ったものとなる

日本の山は実際は矢間とかあてられ谷間とかでもある、高い峰ではなく谷間を意識していたのである
世界を俯瞰的に見ることはそれは映像で見てもわからない、ただイスラエルがなぜ地上の神の国として定められたのか?、それは地理的なものである
イスラエルが中央アジアの砂漠地帯から地中海に面してそこがヨ−ロッパ大陸に向かっていた、一神教がやがてキリスト教でもヨ−ロッパに伝播して広がる地域にあったのであるつまり地理と神の定めた者であり世界史は地理がわからないと理解できない
地理は上か造ったものだからである、その地理は歴史がはじまってから変わることがなかったのである

でも世界を俯瞰することは神の眼をもつことでありできない、でも世界旅行が簡単になったときある程度は普通の人でもできるようになったのである
とにかくとんでもない場所に日本人でも行っていたからである
ということはこれから世界を詩にする人や絵にする人が出て来る
ホイットマンでもアメリカを詠うことで終わった、でもそのアメリカ自体が広大であり
大きな世界と同じである、中国もまた一つの世界である、インドでもそうである
だからまず世界を理解するときもう地理的に理解することが不可能になる
50歳からバックパッカーで世界を回ったことで多少世界の地理がわかった
でも本当に世界となると広いからとてもその広さゆえに理解できないのである
まず中国に三回行ったとしても広すぎてわからなかったからだ

ただ日本が明治時代にすでに世界的視野を持った人がすでにいたのである
それで東西文明の結節点のような地理に日本があることを指摘したのである
だから現代の政治情勢でも地理から見ると日本は中国とアメリカが対立するときその中間にあって双方を結びつけるものとしてある
つまりアメリカはヨ−ロッパの延長だからである、ぐるっと地球を一周してアメリカがヨ−ロッパ文明の延長でありそれが日本へめぐってきたのである
そしてアメリカは西へ西へと西部開拓に向かった、その西部開拓でも今のカリフォルニアで終わらなかった、アジアへ日本へ向かっていたのである
そして日本とアメリカの戦争となり次に米中対立となってきたのが現代の歴史だったのである

ただ明治以降はグロ−バル化して世界戦争の時代になった、平和的東西文明の融合はなかったのである、ただ地理的に日本は東西を結ぶ国として今でもある
そういう地理を理解することが政治でも経済でも文化でも基礎として必要なのである



地理が世界の歴史を作る

ヒマラヤは天空に聳え屹立し
下界は雲に隠れて見えず
その頂上は天より望む
畏るべき神の業かな

大草原は展かれて遠く
奔馬は本年の力に駆ける
遠くへ遠くへ限りなく
熱を帯びて歓喜して疾走する

大河は悠々と流れ尽きず
二つの国を分かち境界となり
文化を育み歴史を作る
上と下とを結び交易し文明を作る

砂漠は一なる神の棲む場
偶像崇拝を拒否した厳粛な場
シナイ山頂よりモーゼが下る
強靭な山より十戒を授ける

砂漠はまた道にして人結ぶ
オワシスに都市が生まれて結ぶ
その広大な延長の先にイスラエルのあり
神の定めし世界の中心なり

地中海に面してやがてヨ−ロッパへ向かう
地中海は交易の海にしてギリシャは栄える
植民都市のネオポリスの各地に
その船は帆を張りすすむ

やがて地中海より太平洋へ
コロンブスはアメリカへ渡る
地理の定めにより歴史は作らる
広大なアメリカに新世紀は成る

そして極東の東の端の日本の開国
日本は世界に門戸を開き
アジアの歴史の先兵となりぬ
西洋と東洋を結ぶ要の国なれ

陸が草原が河が海が山が歴史を作る
20世紀は海が歴史を作る
日本は海の戦いに敗れたり
中国は今陸を離れ海の戦いへ乗り出す

世界は地理の定めにより地理に成る
海を制するものは世界を制する
陸の帝国は地に埋もれぬ
始皇帝は地下の帝国に眠る

海は展けて新天地を見出す
アメリカの西海岸に陽は没り
日本の東海より陽は昇り
中国の西に陽は没り東西を結びぬ

地球の歴史の興亡は地理による
天地創造の神の定めし業による
今人は世界と交わり生きる
日本よ、その地理により再び興隆せむ


自己と他者を知る者は、
ここでも了解することだろう:
東洋と西洋は
もはや分けることはできないのだ。ゲーテ



現代はすでにそうなっている、もう切り離せない一体なのである
その一体の先駆けとなったのが日本だったのである
そういう地理的位置にあったしこれからもあるとなる
馬が駆けるというときこれがどうしても車だとなるとロマンがないし躍動感がなくなる
この馬は今はないが自転車に乗るとき走る時馬に感じるのである
馬は風を感じるし自然を感じるからである、それで走っている時熱を帯びて躍動感を感じるのである、だから機械に頼る時本然の生き物の力を失っているのである
動物は本然の力で生きているからである、それで躍動感があるとなる

Geography makes the history of the world

The Himalayas rise and soar in the sky
The surgeon is hidden in the clouds and cannot see
Its peak is seen from the sky
Awe-inspiring work of God.

The prairie is spread out and far away
The wild horse runs with the power of this year
Far, far away, endlessly
With feverish joy, it gallops on

The great river flows endlessly
It divides the two countries and forms a boundary
It nurtures culture and creates history
It connects the upper and the lower, trading with each other and creating a civilization.

The desert is the dwelling place of the One God.
A place of solemnity where idolatry is rejected.
From the top of Mount Sinai, Moses descended.
Giving the Ten Commandments from a mighty mountain

The desert is also a road that connects people
A city is born in the oasis and it connects
At the end of its vast extension is Israel.
The center of the world, ordained by God.

Facing the Mediterranean Sea, it will eventually head for Europe.
The Mediterranean Sea is a sea of trade, and Greece prospers.
In the colonial cities of Neopolis
And its ships sail on.

From the Mediterranean Sea to the Pacific Ocean
Columbus crosses to America.
History is made by geography.
In the vastness of America, a new century was born.

And the opening of Japan on the eastern edge of the Far East.
Japan opens its doors to the world
It will be the vanguard of Asian history.
Japan will be the key country connecting the West and the East.

The land, the steppe, the river, the sea, and the mountains will make history.
In the 20th century, the sea will make history.
Japan has lost the battle of the sea.
China has now left the land and embarked on the battle of the sea.

The world is a geography by geography.
He who controls the sea controls the world.
The empire of the land will not be buried under the earth.
The First Emperor sleeps in an underground empire.

The sea will open up and find a new heaven and a new earth.
The sun sets on the west coast of America.
The sun rises over the East Sea of Japan.
The sun has set in the west of China, and the east and west are connected.

The rise and fall of the earth's history depends on geography.
The rise and fall of the earth's history depends on geography.
Now we live in harmony with the world.
Japan, through its geography, shall rise again.



2022年02月06日

自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある (最終責任は神にある-人間の責任の限界)


自己責任とは何なのかー権力をもつ者が責任がある

(最終責任は神にある-人間の責任の限界)

●侍の責任は切腹だから庶民は侍になりたくなかった

自己責任のことを良く言われるようになった、自己責任とは何かということが問われる
それはあなたの責任です、あなたが悪いのですとなる
それは民主主義社会になったときそうなったのである
民主主義では自由でありでもその自由には責任がともなう、だから何でも自由でも事故責任にされる、でもそもそも人間はあらゆることに責任などとれないのである
また他者にしても自己責任は問わない
何かこれは罪を問うのと似ている、罪を犯した女性に「罪なき者はうて」といったとき
誰もその場にいなくなった、みんな罪を犯していたからである
罪を問いうるものとはそれを問い裁ける権能を持つものだとなる

責任もそれと似ている、誰もあらゆることに責任を持てないからである
ただあらゆることに人間は責任が問われる存在である
また確実にあらゆることで責任が負わされて問われる
民主主義社会とは平等な権利があるというときみんな平等に責任も問われる
意外とその責任を自覚していなのである
江戸時代とか封建制とか君主制とかだと責任は庶民にはない、江戸時代だったら政治にかかわることもできないのだから責任は侍にある

だから庶民は切腹などしたくないから侍になりたくなかった

侍の責任は切腹してとれとなっていたからである
つまり侍が威張っていられるからいい、得だからいいとかにならない
それだけの責任をまかせられるからそうなる、その時庶民に責任はない、自己責任もあるにはあるにしても本質的にはないのである
だから確かに侍をうらやむことがあっても侍になりたくなかったのである

庶民はもともと責任はなかった、責任を持つものは何か必ず権限を持つものである
侍は行政組織であり権限をもっていた、逮捕したり刑罰を与えたりする
その責任は相当に重くなる、今でも裁判がむずかしいのは人間には人を裁ける権能がないからである、罪なき者は打てというときがそうである
裁判官でも普通の人でありその人が人を裁くときやはりできないとなるからだ
そこに常に複雑な事情がありそれを酌量すると人を簡単に罰せられなくなる
だから警察とかは一番権力があるのだから責任も一番重くなる
でもその権力故にかえってその権力を悪用するとなる
つまり権力を持つと必ず悪用するものがあり権力は絶対的に腐敗するとなる

●権力をもつ者は責任が大きい

ローマの官僚のピサロがキリストを十字架にする判断をしたとき「自分には責任がない」と言った、でもそういう権力を持つ場にあったから後で責任が問われたのである
つまり権力を持つ立場にあればそれだけで思い責任が課せられていたのである
なぜなら十字架にしないこともできる権力を持っていたからである

そして一旦権力を持つとその権力者を罰することは簡単にできなくなる
権力が大きくなるともう罰することはできなくなる、かえってその権力の悪を追求ずると罰せられる、原発事故が起きたのは「原子力村」という権力集団ができたためである
その権力は安全神話まで作ることができた絶対的なものとなる
政治家、官僚、御用学者、科学技術者、マスコミが一体となり安全神話を作った
そこには海上保安庁とか司法関係の官僚も天下りしていたのである
もうこれだけの権力で固められたら誰も批判はできなくなっていたのである
そこに権力の恐ろしさがある、
神話というとき日本神国神話の戦争もそういうことがあった
今度は宗教が権力を作るのである、天皇は現人神(あらひとかみ)だから負けないとなって三百万人も死んだのである、それで広島を訪ねた昭和天皇がその責任を問われたときしどろもどろになっていたのである、あなたは神なのになぜ負けたのかと問われたことにもなる、その時天皇もその空恐ろしい責任を問われたのである

そういうことは創価とか他のカルト教団にもある、政治と一体化して権力化しているからである、創価などは選挙が聖戦とも位置付けているから常勝だとして信仰の力で勝ったとかなりそれで成仏するとかまでなっている、それは日本神国戦争と似ているのである
だからこそ政教分離がヨ−ロッパで生まれたのである
何かカルト教団に入ってだまされたとして裁判沙汰になった人もいたようである
それも自己責任に成るのか?
政教分離をしていない創価などは確実に法律で禁止されることをしているのだからそれが社会で通用しているのだから自己責任にはならないとなる
いくら政教分離を言っても現実にそれは容認されて自民党が利用しているからである

こういうことはいろいろある、つねに人間社会では責任が問われる
だからこそ契約こまかく責任をとりませんとして契約させるのである
それだけあらゆることで責任が問題になるのが人間社会なのである

●自己責任も必ずあるが何でも責任を問えない

JA東びわこ(滋賀県彦根市)による2016年開催のイベント内企画「おにぎりの早食い競争」で、参加者の男性(当時28)が喉を詰まらせて死亡したのは、主催者側の注意義務違反に原因があるとして、両親が同JAを相手取り、約8300万円の損害賠償をもとめて裁判を起こした

こんなことまで責任をとらされる、これはこんなエベントに参加したこと自体自己責任だとも思う、早食い競争などそんな馬鹿らしいことに参加すること自体常識でそれがどんなことかわかる、それに参加したこと自体が自己責任だともなる
ただ自己責任となるとき本当にどこまで自己責任になるのか判断できないのである
あなたが貧乏なのは自己責任だというの簡単である
実際はその人自身の問題は必ずある、怠け者だと努力しないとかいい加減だとかいろいろある、でもすべてが自己責任とは言えない、そうしてこの世の中は不可解だからインドではカースト制が生まれた、前世の宿縁でそうなったとなる、カルマでそうなったとなる
それが必ずしも理不尽ではないのは人間はみんな明らかにカルマをもって積んで生まれてくるからである

いい親に生まれたのもカルマだとなり悪い親に生まれたのもカルマだとなることがあるからだ、それは確かに不公平なのだけど人間は完全に平等にはできないのである
だからこそ共産主義がいいようで失敗したのである、なぜなら人間は努力することがなくなった、いくら才能があっても働いても結局同じ収入にしかならないとして能力のある人でも馬鹿らしいから働かなくなったからである
どうしてもその家でもやはり何らか徳を積んだり努力する家であってそれを受け継ぐことで豊かになる、そういうことは必ずありみんな働く者でもしないものでも才能あるものもない者を平等にすることはできない、そうするとかえって不平等になるのである
代を積み重ねることとは時間軸で積み重ねる努力があり豊かになることである
だから人間は一代では豊かになれない、だから強制的に共産主義のようにすることは失敗したのである

いづれにしろこの自己責任とか責任問題は様々なことがありそれを問うことはむずかしいのである
ただ侍は権限をもっていたから責任があり庶民にはなかったとなる
今でも権限を権力も持つものは大きな責任がある、だからその責任は厳しいものとなる
ただ得するからと権力を持つことはできないのである
そうなると戦争で3百万人死んだとかなりその責任は誰にあったのかと今になり問われるからである、原発事故でもそうである、その甚大な被害の責任でも誰もとっていない
でも地元の人は故郷に住めなくなったという責任をとらされたのである
政治家とか官僚とか御用学者とか科学技術者とかマスコミでも責任は問われない
でもマスコミでも相当な責任があったのである
これまでは勝手に放送する報道する権利など庶民になかったからである
すると庶民はやはり責任があまりないとなっていた
知りえようかないし発言もできないとなれば責任がそもそもないからである

●責任は万能の神しかとりえない

ただ責任というとき本当はもう人間では責任がとりえようがない、人間は万能でもないし必ずミスがあり事故だってあるしさけられないのである
医療ミスだって必ずありそれもさけえようがない、それをいちいち問うしていたら誰も医者にならないだろう、手術に失敗したら切腹だと成ったら誰も医者にならなくなる
そういうことは他でもある、つまり人間は責任を負いきれない、それは人間が万能ではないからである

すべての責任を負えるのは万能の神しかいない!

実際はこうなっいる、神が人間を創造したというときその責任は実は神にある
創造責任がある、機械でも作った人に壊れたら責任があると同じである
第一神が人間でも作ったとしたらその製作責任がある
だから最後にキリストが十字架で「神よ、神よ、我を捨てたもうた」と神に訴えてその責任を神に訴えたとのである、それで神はその責任をキリストを蘇らさせることで果たしたとなる、つまり人間にはそもそもあるゆることで責任は負えない
なぜなたら万能ではないからである、だから必ず何らか事故になったり問題が生まれる
その責任を自己責任だとして神がその責任を人間に負いとしても無理である
人間にはそんな責任を負える能力などないからである

ただ自己責任であれ責任は人間にありそれを全部問わないということではない、問われるべきものがある、特に権力をもったものには厳しく問われるべきなのである
つまり権力を持つものと持たないものでは責任の度合いが違うからである
権力を持つ者の責任は重いのである、だから簡単に地位あるものとか権力を持ちたいとなるのは問題なのである、そういう重い責任を自覚せずになることは危険である
そうなるとその権力の悪しき利用で甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだとかまた原発事故で故郷に住めなくなったとかなる
だから侍のように切腹して責任をとる覚悟ないと本当はできない
ただ得して楽して威張っていることとかを望んでそういう権力を持つことは危険になる

そして現代の一番の権力が金なのである、金を多くもっている人はやはりその金の大きさに比例して責任が生じている、それで江戸時代でも十両盗んだから死刑になっていた
つまり金を持つことも責任なのである、金がもてない貧乏な人は現代でぱ責任がないとなる、何であれ金を多く持った人は責任が生じる、それを浪費した遊興費とかにしたら責められる
そしてグロ−バル化社会になったとき金を一番もっている権力を一番持っている国が今ならアメリカが一番責任があるのだ、原爆でも落とす権力をもっていたし核も持っている
つまり核兵器を持つ国は人類に対して責任がある
軍事力は最大の権力だからである、それを悪用されると人類滅亡にもなるからだ
だからそれだけの責任が生じている、ただ強ければいいとはならないのである
強いから何でもしていいとはならない、そこには必ず責任が生じている
その責任はカルマとなってのしかかる、アメリカげ原発を落としたということでカルマとなっている、その責任が余りにも重かったのである

●宗教も権力化する、聖なるものの権威の悪用の危険

例え戦争に勝ったとしてもその責任はカルマは重く消えることがないのである
だから権力をもつことは責任でありその責任が必ず問われるのである
それから逃れることがてきないのである
だから侍のように切腹でも覚悟しないと権力は持てないとなる
結局でも権力の濫用が常にありそのために被害がある、だからいかに権力を抑えるかが人類の課題なのである、それは宗教でもそうなのである
宗教も結局宗教の濫用であり神の権威の濫用であり神が味方しているとか仏が味方しているとかなり相手を恐れさせて戦争もしている

確かに旧約聖書時代はそういうことがあった、でもよくよく聖書を読んてみると権力の否定なのである、軍隊を持つことでも民衆の数を数えることでも否定された
そしてみどり子に治めさせよというとき権力の否定だったのである
つまり神は弱い者の味方なのである、弱い者が強い者に勝つ物語なのである
出エジプトでもそうである、強大なエジプト軍に対して海を割る奇跡で逃れたとか
ダビデがゴリアテに勝ったとか弱いも者が強い者に勝つ物語である
権力とは強い者となるために持つ、でも権力は絶対的なものではない、権力とはこの世のものであり権力を永久に維持はできない、常に権力争いがあって権力は変わるのである
維持出来ないのである,アメリカの権力ももう維持できない、中国でも維持できない
内部分裂したりして維持できないのである

宗教が権力と一体となることは最悪なのである、それが証明されたのは日本の神国戦争でもあり宗教戦争でもそういうことがあった、神が味方するとして正当化される
でも人を殺すなというとき何であれ人を殺すことは宗教では否定される
でも宗教ではかえって人を殺すことでも宗教によって正当化されてきたこともある
宗教が戦争を肯定することはありえない、ただ自衛とかなにかそういうことではありえるがそもそも人を殺すことは罪だから戦争は大量殺戮だから否定される
戦争というときそれも強い者が権力あるものが権力で優位にたつものが勝つとなる
でもそもそも強い者が権力だけで軍事力だけで人を治めることは国を治めることはできないのである

ともかく自己責任というときとても人間は責任を負いきれるものではない
それが必要でもあまりに責任を言うと何もできなくなく、だから最近で子供に話しかけることもできない、常にどこかでマスコミで児童への性犯罪とか言われる
すると必ず責任問題になりもう何もできなくなる、子供と接することもできなくなっている、それは常に責任を問うからそうなる
でも全員がそういう人ではない、でも一人でもそういう人がいたとして今は情報社会でそうなるのである
民主主義とは誰ても逆に責任を追及てきる、侍が責任をとったというとき民衆から批判されるからではない、君主に殿に責任をとらされたのであり民衆が責めるからではない
現代は大衆でも民衆でも絶えず責任を問う、事件があれば報道されて責任を問うのである他者の責任を問うことは楽しみでもある、自分自身に被害はないからである
でも「罪なき者は打て」となりそんなに自分自身をふりかえって責任を問えるものかともなる、その責任を問うことでブーメランのように自分の責任も問われるのである

●報道でも出版でも権力に左右される

出版とか報道するにしても権力がないとできない、今まではそうである
勝手出版したり本屋に置けないのである、図書館にも置けない、自分の本は創価を批判したのか個人というだけで地元の図書館に置けなかった、それを管理していた役人はそれだけの権力をもっていたのである
つまり報道とか出版とかでもトランプ大統領すらツイッターとかで発言されなくなったことでもわかる、メデアは中立ではない媒介するだけのものではない
権力機構として機能しているのである
だから権力をもつものは常に監視しなければならない、でも権力者は必ずその力を行使してくる、つまり何かを禁止する力をもっているのである

だからこそ権力を行使できる人は監視する必要がある三権分立になったのである
権力の横暴を止めるものとしてそうなったのである
民主主義の基本がそこにあったからだともなる
共産主義政権にはそれがなく一党独裁となり反対するものは権力で抹殺されて殺されたとなるからだ
権力は大きくなれば監視することも抑制することもできなくなる
そして遂にナチスともなりカルト教団でも席巻されて甚大な被害になる、戦争で何百万人死んだり反対者が千万人殺されたとかも言われる、共産主義だと粛清される
権力とはそういうふうにその使用を誤るともう甚大な被害になる
だから政治の理想は無権力だとなる、それは結局この世では実現しない
来世の神の国で実現するのである、この世は結局そうて権力争いで自滅するのである
それが人間のカルマであり宿命なのである

2022年02月05日

雪の朝、蝋梅、ボケの花(空家の庭の岩−囲炉裏と主)


雪の朝、蝋梅、ボケの花(空家の庭の岩−囲炉裏と主)

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これは写真で見た感じと違う
秀でた岩がそう見えない、だからやはり人間の眼と写真は違っている
実感と違ったものになる

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これは本が映っていたことが意外だったのである
でもそれが良かったのである、カメラはやはり意外ものを映すことがある、
人間の眼とは違う、でもまた実感と違ったものとして映ることがある
この下に石が二つあるからその全体を映っていないのである



秀いでて岩に雪かな朝の庭

庭の石組まれて堅く冬の朝

冬の日や人去り残る庭の石

ボケの花隣に咲くも空家かな

冬深む庭に動かず石二つ

冬籠もるその土地土地に生きるかな

蝋梅に雪や籠りぬ石二つ


ヒヨドリの蝋梅の花啄みぬ餌のともしやここに生きなむ

冬の日に干し物ありやこの家に住む人なしも石の残りぬ

雪の朝何の鳥なれさえずりのひびきて清し足跡残る

我が父と姉と母との残した家に住みつつ冬深まりぬ


今日の朝は雪景色だった、この辺ではそれなりに積もっている、薄くでも積もっている
それで朝は自転車で外にでる、朝は必ず出て外の景色を見る
そして寄ったのが庭が立派な空家である
この庭は相当に価値があるし一千万とかかかったような庭である
かなり高度に設計されて作られているからだ
目立ったの高い所の秀でる岩である、そこに雪が積もっていた

隣の家も空家でありそこに石が残っている、でもそこに洗濯物を干していたりするとき暮らしがあり石も活きていたのである、でも人がいなくなると全体が死んだようになる
そういう空家が近くにもまた一つ見つけた、玄関も閉ざされているか人がいない
すると庭の枯木も一段と淋しいものになっている
そこは確かに家族の人と知り合いの人の家だった

庭にヒヨドリが来て蝋梅の花を啄んでいた、こんなものが食べられて栄養があるのかとなる、でも何かしら食べ物がありそれで生きている不思議がある
二月でも今年は寒い、浜通りは別に雪とかも降らないし気候的には楽である
それで会津とか日本海の方の冬国のことが実感としてわからないのである
毎日が雪の世界がどういうものなのかわからない
でも今は冬ごもりの季節である

何か囲炉裏があり薪をくべてあたたまる、そして土地の人とあたたま、そこで親交が深まる、それが田舎だった、農民社会の田舎だったのである
今はそういうことがない、農家の存在は希薄なのである、田舎でも実際の農家は一割くらいなのである、だから農民社会ではないのである
だから意外と農家のことが農業のことが田舎でもわからないのである

そのために浪江で原発事故でゴーストタウンのようになり回りの田畑が草ぼうぼうになっていても街中に住んでいた電気関係の仕事をしていた人は補償金もらって良かったと何も感じないのである、人間はその職業で感じ方が全然違うのである
電気関係の仕事をしていれば農業は関係ないのである
そしてこの辺でぱそうして原発とかで電気関係で働いている人が多かったから農業に関心がなかったのである、だからまわりのたはたがくさぼうぼうになっていても何か感じていなかったのである
これは農民が6割とか戦前でもそうだったがそうなっていればそうは感じなかったのである

ともかくこの辺でぱ雪国ではないから雪の感覚がわからない、でも深く雪にうもれた生活がどういうものか知る、でも私は風流として見ているだけなのである
実際の生活を知らないのである、それで生活実感を重んじた人から批判されるのもわかる例えば曲家(曲がり家)がある、するとそこにどっしりと根付いた生活がある
馬と一緒に暮らした生活の重みがある、そこが深い雪に埋もれ閉ざされる
そこに自ずと生活の重みが生まれる、田舎にはもともとそうして生活の重みがあった
大地に根付いたような重みがあった、存在感があった
それが工業化社会になったことき希薄化したのである

そういう生活に憧れて実践したのが山尾三省だったのである
ただ正直パンも贅沢などという生活を田舎でも誰も望んでいないのである
田舎でも都会の生活であり車一人一台もっているとかありぜいたくなのである
原発補償金が入ったら高級な車を買ったりさらに贅沢したことでもわかる
もう田舎でも金第一であり金を求めているだけである
昔の様な人間のつながりなどないのである、だからこそ簡単に街でも村でも原発事故で崩壊したのかともみる、昔の田舎と今の田舎は全く違ったモノなのである
でも日本が貧困化してくるとそういう生活を維持できなくなる
電気水道ガス代でもまともに払えない人が二割くらいいるとしたは多い
そうして困窮してくる社会で生活自体を見直さざるをえないのである
ただ電気水道ガスもない世界に戻ることはできない
でも困窮して来たら日本はどうするのかとなる


囲炉裏と主

囲炉裏に主の座が動かずあり
どっしりとして威厳を保つ
赤々と火は燃えてその顔を照らす
茅葺の家で長い冬を過ごす
巌のように主の座がある
外は雪が積もり足跡を残す
前の畑の冬菜が雪の中に育つ
囲炉裏に燃える火は体を温める
主は黙して威厳を保つ
しんしんとなお雪は降り積もる
雪国の冬は長く春は遠い・・・



こんなふうになるのであるそこに都会にはない、現代にはない人間の重みとか威厳があったともなる、ただ現実は生活は厳しいからあくまでもイメージしたものである
自分の場合はただイメージしているだけなのである

2022年02月04日

権力に支配されたマスコミ、メデアの問題 (東京のキー局が地方局を支配するー福島原発事故の原因にも)


権力に支配されたマスコミ、メデアの問題

(東京のキー局が地方局を支配するー福島原発事故の原因にも)


歴史的には、日本の民間放送は東京以外の地方から発展したが、番組製作にかかる莫大な資金やスポンサーの調達を経済が集中する東京が主に担うようになり、在京局がキー局の役割を持つようになった。テレビ放送においてはキー局は番組製作とスポンサー集めを一括して行い


吉野次郎(日経BP記者)は、キー局はその系列ネットワークの力を背景にローカル局を支配しているとしている。
堺屋太一(作家)は国会における参考人答弁にて、日本のキー局制度が東京一極集中の要因の1つになっているとしている




民主主義ではまず知らなければ判断しようがない、その知ることがマスコミにまかされている、報道するにも庶民はできない、権力を持たないとできなかった
だからマスコミがメデアが第三の権力となったのである
でもマスコミでもメデアでも放送するのにその装置から人員から金がかかるから東京一極集中、キー局支配になった、放送も東京により地方の支配になっていた
だから福島民報は県で50パーセント出資している、あとは聖教新聞を刷っている
そしたらそこに公正な報道はないのである
県の広報と同じである、また地方局でも地方の真実を知らせることもできない
東電とか政府の批判もできない、なぜなら中央のキー局の言いなりであり地方の問題を真剣に追求できないのである
そういうことから原発事故が起きた大きな原因でもあった

東京のキー局支配となればどうなるのか?

報道の自治がない、独立性がない!

つまり東京のキー局支配でありその東京支配だとなれば福島原発は容認される
東電が福島に作る危険性も指摘できない、なぜなら政府と東電が東京にあり東京の安全を計ることが優先される、キー局の新聞社でも宣伝費がもらえる仕組みになっている
だから原発が爆発したときマスコミの幹部が全員中国に招待されていたのである
このことが如実にマスコミでも宣伝費で成りたっているから公正な見方とか報道ができないのである
つまり何か大きな会社となるとその費用が大きくなるから巨大なバックが支援がないとできないとなる
そしてそのバックが東電であれまた政府だったら県だったら安泰だとなってしまう
すると必ず忖度するから原発の危険性も報道しないとなる
それは福島県民にとって重大な結果をもたらした、原発事故で故郷にも住めなくなった
県自体が放射性物質で汚染されて大被害になったのである

報道とかは常に反権力の立場にたたないと真実は追求できない、でもどうしても報道に金がかかるからおおがかりになるからできない、報道するものは本当は権力の監視機能としてあるべきものなのである、それが権力側に忖度して宣伝費をもらうことで曲げられる
それはひいては実際は県民であれ国民であれ大被害にもなる
そのことを市民でも県民でも国民でも考えないのである、実際に本当に真実を追求して
報道するテレビ局でも新聞社でもあればそれを支えねばならないとなるからだ
でもそういう意識がない、となると権力側にとりこまれた報道しかできないとなる
だから「政経福島」は確かに地元紙として真実を追求しているものであり読んでいた
でもなぜ裏表紙に相双リテックの宣言をしているのか?
それは相双リテックで除染で莫大な金が入りその何十億とかいう金を幹部で山分けした
その豊富な金が政経東北にも回ってきたのかとなる
つまり報道するにも金がかかる、調べる人員も必要だし金を払うとなると人件費にかかるでも雑誌を出したくらいでその金が得られないとなる
そこで宣伝費が大きくなりその宣伝費を出す会社に忖度するとなる

でもインタ−ネットで報道するなら雑誌を出版するように金はかからない
なぜなら自分自身が無料でプログで報道にかかわっているからである
これは手間がかかっても金はかからないのである、ただやはり記者のような人がプロが必要だとはなる、その人件費をまかなうことで金がかかる
またインタ−ネットでもそれなりの技術を習得しないとうまくいかない
ワードプレスにすればいいがそれもできていない、未だにHTTPSにもできないので困る
技術的なものとして備えられていないのである
またなかなかインタ−ネットだと読まれないのである、いい記事があってもわからないのである
ただこれまでふりかえると津波原発事故の時は相当に読まれていたことがわかった
その後ページ数としては半分に減ったからからだ、読む人の数は減ってないみたいだ
インタ−ネットの報道はなかなか知名度を得るのがむずかしいのである
でも今はスマホはみんな持っているから読む人も増えたのである

これからは報道はネット化する、今までの報道は金がかかりすぎるこたとで自主性を失っていたからである、それは市民でも県民でも国民のためにならなかったのである
一部の特権階級に既得権者にとっていいものでも国民全体になるといいものではなかっただから報道も操作されたものであり真実は報道されなかったのである
まず創価など批判したらどこでも受け入れない、巨大な権力をもっているから圧力でできない、でも結構ネットでは批判している人が多いなと見るのである
つまりネットは個々人が報道している、でも金がかからない、だからしているのだと思う金をもらっているわけでもないからだ、それがかえって強みだとなっている
そして実は県民だけではない、全国にも世界に報道する力をもっている
そのために地方だけに限定することでまた地方のテレビ局などが問題になる
ネットだったらその垣根がなくなるからだ

国境のないネットに県境をつくって自滅した民放
テレビ局を再編して日本にもネットフリックスを

JPPRESSというのもやはりネットの雑誌なのである、月刊誌ではなく日刊紙として出しているのである、それは個々人でプログとかyoutubeでしているのである
そこに多様性が生まれている、なぜ多様化するかというとそもそも人間の見方はその土地とかその職業とか生い立ちとか年齢とか男女でも見方が違ってくるからである
福島県でも浜通り地域と会津の方だと地理的に風土的に全然違ってくる
すると物の見方も違ってくるのである、だからあることについて見方がみんな違ってくるのである、それでグローカルという言葉が生まれた、グローバルとローカルが合体した言葉なのである、これも現代的だしまた地歴という言葉もそうである
地理は空間軸であり歴は歴史であり時間軸で見るのである
必ず何かを見る時空間軸と時間軸で見るからである、そこで多様な見方が生まれるのである

でもネットにも問題がある、今一瞬停電なり記事を書いていたら消えてしまった
これも怖いと思った、インタ−ネットの恐怖は何か一瞬に記録したものが消えることなのである、その恐怖がつきまとっているのだ
東北電力に聞いて見たらやはり一瞬確かに停電したのである、送電線とか中継の機器の関係でそうなることがある、でもそれは自動的に回復すると言っていた、特定の地域で一瞬電気が切れたのである
だから瞬間的でありすぐに一分もかからず回復したのである
パソコンの怖さは一瞬で記録したものか消える、その問題が大きいのである
その技術的な問題が大きなマイナス点なのである、でもどうしてもネットに移らざるを
えないだろう、そんなに金をかけてやれなくなるからだ

何かメデアとはなにかというときメデアとは中立であり媒介するという意味である
でも実際はマスメデアとかありメデアとは中立ではいなメデアという装置をもつものが
判断できる選ぶのである、人物でもマスコミがメデアが選ぶのであり選挙で選ぶのとも違うのである、マスコミの意向に沿った報道をするしマスコミの報道にそった人を選び発言させるのである、だから科学者でありる武田邦彦氏が温暖化はないというとき発言できなくなってネットで発言している
どっちかというと右寄りの人は発言させてくれないのである
つまり中立なメデアはないのである、インタ−ネットすらフェスブックでツイッターでもトランプ大統領の発言を禁止できたからである、まさか大統領までそうできたことなのである、だからGAFAが巨大な権力を世界的に持つことになったのである

何か媒介するものというとき銀行も媒介するものだとしてそういう媒介するものは終わるというのもそうだったのかとなる
また出版社とかでも媒介するものでありそれも終わる
というのはアマゾンで一冊でも本を出版できるようになったからである
電子本でなくてもできる、だからそれを私も試そうとしている、ただとにかく問題は手間がかかるのである、でもは実際はインタ−ネットは出版から販売から全部一人でもできているのである
だからコンテンツが大事でありコンテンツ勝負になるとしている
今テレビ局が面白くないのはコンテンツが作れないからだとしている
残るのはドラマだけだとなる、私もドラマはBSとかじ見ているからだ、時代劇が好きだからである、でもこれも時代劇専用のチャンネルでも見れるからその方がいいともなる
つまり今やこれまでのキー局支配の放送に頼る必要がないのである
問題はコンテンツ作りだとなる、これは個人でもある程度はできる
ただドラマとかなると簡単にはできない、他でもできないものがある、だからそこに生き残りの余地が残されているとなる