政教分離しないと逆に宗教が攻撃される-公明党誹謗中傷の問題
(創価公明の批判が強くなる-政教分離が成立した経緯)
四国放送、公式ツイッターで公明党を誹謗中傷
「地獄へ堕ちろ、カス」などと呟く→謝罪へ「原因は調査中」
●政教分離の法律の生れた経緯
創価公明というのは完全に政教一致である、王仏冥合であり王は政治であり仏は仏教であり法華経である
これは中世のことであり今の社会に適合することはむずかしい、ただ歴史的になぜ政教分離が起きてきたのか?そのことが大事なのである
何かしら法律でもなんでも歴史的に考察する必要がある、それは歴史の中で必然的に法律でも生まれてきたからである
キリスト教がカトリックがローマ帝国で容認された結果として政教一致になった
宗教が政治権力をもった結果としてそれに反発してプロテスタントが生まれた
さらにフランス革命で自由、平等、博愛が生まれた、この博愛とはキリスト教の愛とは違っていたのである、キリスト教の呪縛から脱した博愛のである
人権でもそうである、ヒューマニズムとはキリスト教から生まれていないのである
なぜこうなったかというとキリスト教のカトリックの呪縛があまりにも大きいからそこから脱することがフランス革命の精神になったのである
それから戦後は政教分離が盛んに言われたのが日本の戦争が天皇を現人神(あらひとかみ)として御真影として国民にあがめさせて日本は神の国だから負けることがないとして戦地に行かされた、そして三百万人が死んだのである
その反省から政教分離が法律となったのである、現実に戦時中創価の創始者の牧口恒三郎が戦争に反対して獄死していたからである
まさに政教分離を実現していたのが創始者だったともなる
でも戦後の創価は最初は少数者の時は政治にかかわらなかったが公明党を創立して政治化したのである
池田大作がそうさせたともなる、池田大作が神のごとく仏のごとくなったからである
それで偶像崇拝化したのである
政教分離しないとどうなるのか?
今回のように世俗的なことでもそれが宗教問題として攻撃されてくる
またもともと創価公明は会員を選挙の時仏法の戦いと位置づけている、拠点に集まり一票獲得のために座談会を開き祈り日々選挙活動しているのが現実である
それは信心の活動であり宗教的行為なのである、そのことによって御利益があると福運がつくとかになり祈り票獲得が最大の仏法の戦いなのである
それは戦争の時とも似ていたのである、天皇が神であり国民はそのために命をささげるとなる
そういう過ちがあり政教分離の法律が生まれたが実行されなかったのである
●権力を得るための宗教団体の危険
創価だけではない信仰宗教は政治化している、オウムも実は政治団体でもあり政権奪取を企てていた、オウム王国を作ることを企てていたのである、ただそれが武力も辞さないとしてサリンとか武器まで作っていたのである
これも完全に政教一致になっていた、幸福の科学でもやはり政治化しているから同じである、だから日本では政教分離が実行されていないのである
自民党は創価の票をもらえるから批判しない、創価の票が入らないと半分が落選するという恐怖があるからだ、つまり現代の権力は選挙で得られるからそうなっている
そもそも創価は権力に執着している、なぜなら御利益とか福運とかはこの世の権力を得ることによって得られるからである、政権をとればみんな福運がつく、権力を得て楽な暮らしができるとかなっているからだ
権力を奪取した暁には会員は高い地位につけていい暮らしができるとされているからだ
それは共産党でも中国をみればわかる、権力をとったら莫大な富が共産党員に入る
官僚ともなって入るからである、それを目指して毎日選挙活動なのである
この世に不満な人を集めてまた宗教を利用してそうなっているのである
そういう組織団体では結局幹部が得する仕組みなのである、それはみんな幹部はいい暮らしをするようになるからである、豪邸でも建てている、それは今の日本の共産党でも同じなのである、不満な人たちを集めて幹部は得する仕組みなのである
そういう人達は宗教で御利益がなったとはなる、だから座談会では成功した人が信心あって成功したともてはやされる、体験談として語る
ところが実際は相当な数の人は成功もしないし金持ちにもなれない何かさらに不幸になる人が多いのである、それは数が多いから統計的にどうしてもそうなる
交通事故で死ぬ人も一般世間と同じようにいる、むしろ統計的にはもともと不幸な人たちが多いのだからさらに不幸になる人が多いのである
何百万もいれば当然統計的には不幸な人の方が多くなるのである
そういう人達を内部では見ているはずである、それでやめてゆく人も多いとなる
ただ人間はそもそも誰でも苦しむ、苦しまないで一生を終えた人などいない、それは宗教とは関係なくそうなっている、カルマをもち苦しむからその苦るしみから解脱するものとして仏教などが生まれたのである
ただなぜこんなに増えたのかというとそれは高度成長時代はみんなが経済的に豊かになった、それが宗教にも影響していたのである、つまりみんなが御利益が福運があったとなるからである、豊かになる人が多かった時代だからである
今になると日本が経済が衰退して貧乏な人達が増えると御利益も福運もないとなるから減ったともなる
●政教一致団体は自己矛盾になる
いづれにしろ公明党に地獄に落ちろなどと言われるのはまさに宗教政党、政教一致の政党だからである、宗教だと常に地獄に落ちるとか罰当たるとか平気で言ってくる
それも集団で何百万もの人間が言うのだから怖いとなる、何百万人が呪いの集団とも化するからである、それで怯える人達もいる、また内部でも罰当たる地獄に落ちるとなりやめれないともなる、別に政党なら変えることが簡単だが宗教政党になるとできないのである一票入れることが信心であり宗教的行為となっているからである
こうして世俗の価値観と一体になる時、国会議員は一番成功した人であり賞賛すべき人ともなる、でもその国会議員が賄賂をもらっていた、中小の会社に仕事を斡旋して賄賂をもらっていたかとなる、それは世俗社会に深入りして自ずとそうなったと思う
なぜなら世俗社会では別に利益を追求することはみんなしているからである
国会議員ともなればそういう誘惑があり権力をもっているからできるからである
第一そうした世俗の権力が欲しくて信仰と一体化しているのだからそういうなっても何ら不思議なのことではないのである
そもそもなぜ宗教が修道院とか寺とかで出家して妻帯しないとかになったのか?
それは世俗から離れるためであり世俗の欲とか悪に染まらないためにそうなったのであるどうしても世俗の中で生きれば悪にもそまるし利益追求から逃れられないからである
そこにどうしても歪められるものがあるからそうなったのである
職業というとき業(カルマ)であり職業自体が人間の業であり悪にもなるということでそうなった、それでお布施で僧は生きることになったのである
そのために無所有にもなった、ただこのお布施で生きることにしても問題があった
だからヨ−ロッパではキリスト教の修道院では労働していた、その労働も神の奉仕としてしていた、それが資本主義の発生した基だとしているのもわかりにくいがそうなっていたのである、仏教のようにお布施してもらうということを拒否したのである
禅宗でも一日成さずば食わずとかありそういうことがあった
禅宗は自分の性にあっている、なぜなら引きこもりで座禅して沈黙の行をしていたともなるのが自分だったからである
沈黙して自然とアイディンティティ化することを田舎でしてきたからである
つまり一人そうして修行していたともなる、意外とこうしたことが宗教でもあったのだ
天台宗が山岳宗教であり修験道であり山を聖なる場として修行していたからである
日本で一番古いのは天台宗なのである、山寺でもそうだし霊山でも天台宗が築いた寺なのである
現代の宗教は都会の宗教であり創価が団地の宗教となっていたのも全然宗教とは関係ないものとして生まれたのである、政治と経済の宗教である
●大衆民主主義はファシズムになる
ともかく宗教になるとやたら俗人でも地獄に落ちるとか罰当たるとかなるから怖い
地獄に落ちるというのがどういうことなのか?
その真意を知っている人が会員にいるのだろうか?そんなこと欲の塊りのような醜い人が言えるものだろうか?そこからしておかしいと気づくはずのだが気づかないからカルトだとなる、それも法律で制限されない、自民党は利用しているだけだとなる
これを放っておくとナチスのようになるから怖いのである、大衆ファシズムに成り安いのが現代社会だからである
現代とはすべて数で計算される社会である、ボランティアすら一人ではできない、権力がないとできない、十人以上とか人数集めると圧力になり社会は容認するとなる
つまり数は権力なのである、それが選挙である、数を集めることが権力を得ることだから人間は数としてカウントされるだけの存在にすぎないからである
それで最後は数に席巻されてナチスとなったのである
マルクス主義も唯物論であり人間を数としてみる、物としてみる、集団として経済からしかみない、だから全体主義になり宗教だと宗教ファシズムになる、似たものなのである
結局そうして権力は絶対的に腐敗するということになる
それが人間のカルマだったとなるからだ、何んでも個々人でも家族でもカルマの法則が働いているのである
いづれにしろ宗教と政治が一体化したら自己矛盾になる、宗教は絶対に批判は許されない神仏は絶対でありそれを批判はできない、でも政治とか経済とかでは常に批判がある
でも政教一致団体になると政治を批判すると宗教を批判するとみて仏に逆らうやつらは罰が当たるとか地獄に落ちるとか言う
逆に今度は一般の人達から政治にかかわることで別に宗教とは関係ないのに地獄に落ちろとか言われるようになる
別にそれは宗教として批判しているのではない、日ごろから政教一致だから政治のことが宗教にはねかえってそうなる
政治と宗教が別になっていればそうはならない、政治とか経済では常に批判があるからだそれは宗教と関係ないのである、そこが混同される
実際自民党であれ民主党であれ共産党ですら反対する人が地獄に落ちろとか言われないのである、政治には批判がつきものだからである
ただ共産党独裁になると中国のように批判は許されなくなる、それが政教一致になり
カンボジアで二百万人殺されたとかなる、それは共産主義が宗教のようになり批判を許されないものとなったからである
政治として政党を作るのは別に政教一致ではない、それは法律違反でもないのである
組織団体化することも違反ではない、それは政治と経済にかかわるものであり宗教にかかわらないものとして法律違反にならないのである
宗教でも組織団体化することは法律違反ではない、みんな一票を入れる権利があるし政治にかかわる権利がある
ただ宗教が本当に組織団体化したとカトリックのようになる
それは政治化して免罪符を売りつけたり宗教を縦に強大な権力を形成したからである
そもそも組織団体に宗教がありえるのか?
「神は人の心を見ている」というとき組織団体の心など見れるのか?
何百万人の人が集まるその人たちの心を見れるのか、もうそこには心はない、ただ数として集まり社会に圧力をかけるだけの団体である、心は関係なくなる
政教分離が意外と近代国家の基本にある、それが実行されていないのである
要するに法律が生まれるた歴史的背景がありそれを見ないから法律も活きてこないのである
●大衆民主主義はアメリカでももう成り立たない
結局民主主義からナチスが生まれたように大衆民主主義はそうなりやすい、すべて数だけが正義ともなんななる、数で押し切られる、そして数でしか判断できない
そして大衆には責任とか義務とか使命感など養われない、ただ理解できるのは御利益であり得することである
人間社会にはかえって民衆を導く一定数が必要である、それが前は貴族とかなっていた
これにも問題があるにしろ日本だったら侍がいて導くものとしてあったから重い責任が課せられていて切腹させられたとなる
だからそんな重い責任を負いたくないから民衆はなりたくなかったのである
ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige フランス語: [nTbl[s Tbli・])とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。
これがあったのである、今はそういうものが全くない、無責任大衆民主主義であり誰も責任をとらない、でも必ず責任をとらされる、民衆もとらされる、大衆もとらされる
それがナチスであり日本の戦争でも三百万人死んだのである
原発事故では故郷に住めなくなったのである、必ず無責任大衆民主主義でも責任はとらされるのである、自分たちの故郷を守らないと故郷に住めなくなるという責任を取らされたのである、何か人間は責任から逃れられないようにできている
いくら大衆民主主義で無責任社会になっても必ず大衆が責任をとらされるのである
それが自覚されていないのである、そして苦しみとなって現れたときカルマを意識する
何も苦しみがないとカルマでも意識されないのである
今は誰も責任をとらない、原発事故でもとらない天下りした官僚も金をもらうが責任は一切とらない、誰も罰せられていないのである、第一検察も官僚であり天下りしていたからである、罰することもできないのである
民主主義は機能不全にもなっている、その行き着く先は選挙で選ばれたナチスとかにまでなる、アメリカでも民主主義が機能しなくなっている、それで国会に暴力で乱入したりする、おそらく民主主義は大衆民主主義となり崩壊してゆく、政教分離も実行できない
ただ国会議員になることはなど制限すべきであり禁止すべきかもしれない
国会議員とかなると権力が大きいからである、それで公明党議員が逮捕されたとなる
下請け会社の何百社に斡旋していたとかなる、それだけの権力が持てるということであるそれなら市町村単位とかでは有効になるかもしれない、実際に公明党とかの村長とか町長とか市長がでていない、共産党の市長でも一人くらいであり自治体の長にはなっていないからだ、そもそもギリシャのボリスのような一万くらいの人口から選挙があった
だから狭い範囲だと成り立つとなるがアメリカでも何億とか有権者で決めることが無理になったのである、その選挙も不正だったとかなるのもそうである、ただアメリカでは定期的に共和党と民主党で政権交代しているからいいのである
日本では政権交代が一回くらいしかない、戦後70年は自民党一党独裁にもなっていたから問題なのである
宗教は自由である、でも宗教が政治権力を得るためのものになることはこうして問題が大きいのである
国会議員になるのは宗教政党はなれないようにするのも法律化することも必要である
そのために歪められてしまうからである
●民主主義とは権力の暴走を権力を監視するものだった
民主主義とは三権分立があり権力を相互に監視して権力の暴走を防ぐものとして成立した
ジョン・アクトンの「権力は必ず腐敗する。されど民衆(大衆)はさらに腐敗する。」
権力は必ず腐敗して横暴になり暴走するからそれを監視して制御することが必要になる
それが一党独裁で政権を腐敗させない横暴にさせないものとして民主主義が生まれた
権力を持つと人間はどうしても横暴になり腐敗するからだ
だから政治の理想は老子のように治めずして治めるとか聖書のみどり子に治めさせよとか極端な思想になる、つまりそれだけ権力をもったものにどれだけ人間は苦しめられてきたか、そのためにこうした極端な思想が生まれた
権力とは人間の欲望と密接に結びついている、権力をもつと中国のように人民を奴隷のようにして王だけが栄誉栄華の生活になる、地下まで王の大宮殿を作っていたのが始皇帝である、その権力は日本では考えられないものとなる
死んでも地下で王として君臨しようとしていた、酒池肉林でもそうである
中国人の欲望は強いからである
とにかく人間の歴史は血で血を争う歴史であり権力争いの歴史だったのである
その原因が人間の決められない欲望にあった、欲がおさえられないから権力争いになる
それは現代でも継続しているのである
民主主義になったからといって人間の欲は変わらないから同じことが起きる
でもその権力を相互監視するシステムとして民主主義があった
そうしてもまた権力は誰の手に渡ったかというと大衆なのである
大衆を数として集め権力を得ようとする宗教でもしばり権力を得ようとする
宗教もまた権力と結びつき腐敗するのである
そういう人間の歴史があり民主主義が生まれた、でも政治に関してはうまく機能しない
民主主義は機能不全に陥り一番ファシシズムになりやすいものだったのである
数がすべてであり数を集めたの者が権力をとるということになる、選挙はその最大の手段だとなる、何かそこでは正義もなにもないのである、数が正義を決める
暴力が正義を決めると同じである、数の暴力なのである
また依然として暴力が正しいか正しくないかより力で決められるのも変わっていないとなる,アメリカ自体が世界一の軍隊をもっていてそうしているからである
アメリカが世界の検察官であり警官であるがそれは世界一の軍隊を有していることでそうなっているだけである、アメリカが正義でも何でないのである
ただ力が正義になる、それは中国でも同じである
この島は俺の物だと言えばそうなる、もともとこの島は歴史的我が国のものだったと言っても無駄だとなる、巨大な軍隊が侵略して占領すればどうにもならないからである
そういうことで国際問題に法律は適応しない、力の強い国が法律になるのである
それがアメリカであり中国になってゆくのである、覇権国が法律を作り実行する
従わない者は暴力でもって罰せられるとなる
結局人間は人間を治めることもできない、神によって治められるほか真実の平和は恒久平和などないのである
宗教もまた権力求めるものとなったのが人間社会だからである