2021年12月31日

寒雀、葉牡丹、氷る(年の終わりに今年の感想)


寒雀、葉牡丹、氷る(年の終わりに今年の感想)

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俳句は写生である、だから写真と相性がいいのだ
写真を見ただけで別に説明しなくてもわかるからだ
写生俳句とはせつめいしないことことだからである


大晦日とか気分がなくなった、ただ単に年が終わるというだけである
年はあらたまるというだけである一つの区切りとなるだけである
でもこの区切りだけが残る、今年は終わり来年に期すということになる

今年の一年は何か家事に追われプログを書くのに追われフェスブックも試しにしたが何もできなかった、コメントもしなかった
とにかくプログに記事をのせるだけで時間がとられる
そして家事に追われる

今日もスーパーとダイユーに行った、灯油を買った、買い物も結構手間なのである
自分の仕事は今これまで書いたものの整理とか記憶の旅をつづけていることである
今年の旅で印象に残ったのは相馬市から福島中央道ができて寂れた昔の道を霊山町の方まで自転車で行ったことである
この道はあまり行っていない、相馬市の方から行っていなかった
飯館村の方から行っていたからである
でも宇多川は相馬市を流れているのを見ると小さいのである
この辺の川は小さい、新田川でも流れが浅い、真野川と高瀬川は大きい、ただ不思議なのは宇多川はさかのぼると上流は渓谷のようになっているから大きく見えるのである
真野川は大きいが長いがあんな渓谷のようになっていないのである

旅という時、いつも言っているが相馬市から霊山町まで自転車で行くだけでも旅になっていた、それは自転車だからそうなっていたのである
その道は一つの旅の行程となっていた、ここを車で行ったりバイクで飛ばしたりしても
心に残らない、ただ通り過ぎるだけになる
だから短くてももし歩いたり自転車などで行けば旅になっていた
そして霊山を越えて霊山町の方に行ったがその辺を行ったことを忘れていたのである
それげ霊山神社に行けなかったのである
とにかく人間は忘れやすい、自分の書いたものすら忘れていて読み直して感心しているのも不思議だとなる
それでその整理が大変な作業になっているのだ

ある意味で今年はそうした整理の年だった、これは来年もつづく、そして詩集とかにまとめたいのである、今年は確かにコロナウィルス騒動だったが自分には何にも関係なかったもともと介護が十年つづき巣籠りになっていた
家から遠くへは出れなくなっていたからである,ワクチンも打たなかった
一人しか濃厚接触者がいないからうつらないと思ったからである
コロナウィルス騒動は何か騒ぎすぎという感じにもなる
実際の危険は一割くらいでも十倍の危険に水増しされているか感じである

オミクロンとかでも何かもういい加減あきたともなる、これも油断なのかもしれないが
人間はあきる、いい加減もう終わりにしろとかなる
これも油断になるのかもしれない、ただこれはいい加減もう終わりにしたいとなる
あまり反応しなくなもなる、それが危険にしても人間の心理でそうなる
本当に日本だとどれだけの被害があったのか明確ではない
何か誇張されているともみる、結局情報社会になると何でも過剰に反応しやすいのである小さな火花でも全世界が爆発するようにも感じるのである
マクルハーンが世界が村になるというのが情報化社会である
世界の果てに起きたことも隣の村で起きたように感じるのである
世界で起きる犯罪でも隣で起きる犯罪者がいるとも感じるのである
だからもう誰も信じられないともなる、子供に近寄れない時代になったのである
子どもに話しかけたらいたずらする悪い人だとなるからだ
それは常に報道されるからそうなるのである

スマホを買ったけどこれも使いこなすのがめんどうなのである
何か買うということは受け身ではない、使いこなすのがめんどうでありそれで老人は使いこなせないから買わないともなる
ただ自分はパソコンをしていたからのみこみが早い、でもスマホの一番の問題は画面が小さいことなのである、これが意外と相当に脳に影響している
広い画面で見るのと狭い画面で見るのではまさに視野狭窄にもなる
でも軽くメモするとかにはいい、写真でもなんでもメモして記録してそれを見ると記憶しやすいのである、他にもスマホでできる効果的なことはある
でもどうしてても画面が小さいから何かすんなりと操作できないし使いにくいとはなる
ただスマホはスマホとして使用が違っているから必需品になる

今年をふりかえると調子は良かった、バイオリズムとしても良かった
やはり介護というのは心身ともに疲弊するのである
介護が終わってもしばらくは疲れが残るのである
だから正常化することが時間がかかるのである

推理ドラマで財産持っている親が子供に財産を残さないで他人の若い女性に遺言書で相続させるとした、それで実の子供たちが怒った
実の子供たちは誰も親のことを心配することなくただ金だけを遺産だけを欲しいとなっていたのである、事業に失敗したとかあり親のことより財産の方を心配していたのである
これも良く推理ドラマででてくる
その親がガンになっていたとしても子供たちは金の方を心配していたのである
何かこれも淋しいと思う、親子でもこんなものなのかと悲しいとなる

だから財産を猫に残したということが外国辺りで本当にあったのである
また和歌山県のドンファンとか言われた人も殺されたのか何かわからないけど愛犬がいてめんどうを見るように財産を残すとなったのである
子供を育てても親から金が欲しいだけだとなれば淋しとなる
自分の場合は特別親から良くされたから毎日姉と母のことを思っている
今になるとこの父親のように自分のことを心配したり思ってくれる人がいなから余計にそうなったのである

金に追われ余裕なき女(ひと)寒雀

家に来る人はまさに寒雀である、全く金に余裕がない、食べるものすら節約するとなる
でも一人暮らしは贅沢だという人もいる、江戸時代なら長屋であり個室などないからである、戦前でも農家ではないとその住まいは個室がない、そういうのが多かった
個室は贅沢だったのだ、戦後の焼け野原からでも子供に個室などなかった
子供部屋はなかった、だからコトオジなどもいなかったのである
ここが何か今貧乏になっても贅沢だと見るのである
物でも計り売りであり酒屋に買いに行かされた記憶がある
相当に戦前でも本当に貧乏だったのである、食べ物でも味噌汁とたくわんがオカズでありそれは江戸時代と変わりなかった、私の母がそうだった
梅干し弁当でありそんなもので良く生きていたと思う
今は貧乏でも結構贅沢な面があるのだ
そして仙台市に目の手術に行った、二回も行ったのである
それで直ったみたいだ、これも江戸時代からすると贅沢である
なぜなら眼は直せなかった、それが約一割近く盲人がいたのである
盲人が多かったのである、栄養が悪いこともあった
そうはいっても日本の問題が貧困化にあることは確かである、これからもそうである
だから座頭市とかの時代劇がある、盲人がいたるところにいたのである

来年もまた来たらむや寒雀

こんなふうにもなる、相当に貧乏な人が増えていることは確かである
ただそういう人と接触しなければわからないのである

木の葉散り氷に閉ざし籠もるかな

来年も書き続けますのでよろしく

2021年12月30日

先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の因果ー分裂不和の家で子孫も栄えず―国家の繁栄も同じ?


先祖の代にいじめ・家庭内暴力・兄弟対立があると、子孫にもその影響が出てくる

登校拒否や閉じこもり、家庭内暴力の問題が起きている場合、背景となっている先祖の代にいじめの問題があることがよくあります。本人は知らず知らずしているのですが、先祖の怨みが乗り移ったかのように先祖の人生をトレースしていることがあるのです。

母親の実家はとにかく不和分裂の家だった、それは再婚したためだった、その家の事情があってそうなった、継母にもなっていて自分の母親はいじめられて悲惨だったのである
そして自分の家ともうまくいかず争っていた、その原因が再婚した女性にあったのだ
それが子孫にも影響したのである、不思議に自分にとってばあちゃんにあたるとしても
そういう感覚はなかった、交流もなかった、だからその後でも親戚関係が希薄であり結局絶縁したのである、もともと絶縁したような状態だったから当然だったともなる
母親の父親が再婚した相手は気が強く二人の妻が家を出ることにもなった
結局その家は栄えることがなかった、また人物でも出なかった
実家の墓があるにしても嫁が家をでて別に家を建てて墓を建てたからそこからして分裂しているのである

ただ自分の家でも二人の女性が姉と母が争っていても姉が父が死んで父親代わりのようになって家を支えたし自分も支えられたのである
だから姉の功績は自分にとって大きいとなり感謝している
家の不思議は家というのは血縁だけではない一つの共同体なのである
その共同体でも協力することがないとやはりいくら血縁でも家族でも支えられないのである
それで家系でも離婚した家とかいろいろ不倫とかもめる家は共同体として維持できないのである、そして分裂不和になりその家に栄えがないし人物もでてこないとなる
人物も育てられないのである、だから家族が人間の基本としてあるから家族が良くないとその家は栄えないし人物も出ないとなる
ただ家系の法則でも必ず例外がある、その家は両親が父親でも真面目であり母親も正直な今にはいない珍しい女性だった、情にも篤い古い時代の良さを残した人だった
でもその息子は全くふしだらであり嫌われ者であり何もいいところがなかったのである
そして最近死んだのである、だからこれは何なのだろうとなる
家系が悪くはないのになぜそうなったのか不可解だとなる

とにかく人間には不可解なことが常にある、そこに神の采配があるのかとなる
ただ例外があっても一般的には良い家系では栄える率が高くなるし人物もでるとなる
ただ何らか家系でも必ずプラスの面とマイナスの面がでてくる
すべていいようには働かないのである、何か必ずカルマを背負っていてそれが現れるのである
それは家だけではない、その土地とかにもある、この辺では原発で一時的に栄えたがそれが裏目になり衰退してしまったからである
それがカルマとなって故郷にすめなくなったとかなり消滅の危機にもなったのである
でも原発で財を築いた人もいるのである、その富は呪われたものとなったのである
例えば誰も地域で今原発で豊かになった人を認められないのである
漁業組合とかでも事故前は原発御殿が建っていたとかうらやましがられていた

事故後も補償金で何も困ることもない、そして何かトリチウムを海に流すと魚がとっても売れないと騒ぐがそこでまた補償金交渉となり水増しされるとかなる
これも矛盾なのである、そんなことして金をもらって回りの人が喜んでいるのかとなる
もし何か漁業で魚が一杯とれてもうけたとした何も言わないのである
他にも大熊町長の五億円入った金庫が津波で流されたとかあった、それも流されて当然だとかなった、そんな金があったのかと驚いている、他にも原発で働いて金になったというのはある、原発はそれだけ金の成る木だったからである
除染でも今度は相双リテックが何十億の金を山分けしたとかある
そういうことで金持ちになった人を回りで喜ぶのか?そういう金は運霧消散してしまうかもしれないちょうどギャンブルでもうけたように消えるかもしれない
でも別に金もうけた人が悪いとはならない、何かやはり正当なものとして金儲けていれば周りにもその恵みが回ってきて別に非難したりしないのである
地域を豊かにする家とかあるからだ

そういうことは国単位でも言えるとなる、アメリカの富はどうして増えたのか?
それが世界に貢献する世界を豊かにするものならいい、確かにそういう面はあった
でも軍事力で武器を売ってもうけたとかなるとそういう国は栄えるのだろうか?
武器会社が戦争を起こしてもうけるのだという陰謀論がある、そういう国が栄えるのだろうかとなる、そういう国はやはり衰退してゆくのではないか?
中国でも一帯一路政策で自分の国だけが栄えようとして他は中国のために犠牲にするとかなれば栄えないとなるだろう
それは最小単位の共同体の家でもそうだとなる
家が栄えるという時家が拡大したのが国にもなっている、ハウスブルクとかでもヨ−ロッパで大きな国となって栄えたのもそうである、ハウスとは家でありブルクは城だからである、城とは家の延長だったのである
この辺では相馬氏がそれと同じだったのである、御家という野馬追の旗があり御家中とかあり家が拡大したものが支配者となったのである

そもそも江戸時代三百年は徳川家が支配した、継続した、それはなぜできたのか?
それはやはり家が栄えて継続したからだともなる
つまり人間の歴史の中心に家がありその家が拡大したものが国家にもなった
国の家にもなったのである、栄えた家が国家の中心になったともなる
ただ家にも栄枯盛衰がありそれは人間の社会ではさけられない、永続して栄える家などないのである

どうしてその家が栄えてまた衰退したのか?
それは国家が栄えて衰退するのとも似ている、不和分裂の家だったらとても栄えることはありえないとなる
また国内でも常に内乱があり争っていたら栄えることはないだろう
天皇とは何かというとき日本ではそうした国を治めるものとしてあった
でも南北朝時代になると全国隅々まで争乱となった、二人の天皇がたてて争ったからである、その傷痕はあまりにも深いものだったのである明治天皇が南朝の系統だったとか言われるのもそうである、そこまで尾を引いていたのである
いづれにしろ国内でも分裂して争っていたら国の栄はないのである
国家でも家の延長だからである


とにかく自分自身の家でも母親の実家は不和分裂の家だった
自分の家でも必ずしも調和はしていなかった、でもそういうことがあっても自分には家族でも力を注がれたのである、それは死んでから特に感じるようになった
結局自分のために家があったとまでなる
そのために犠牲になったのかとまでみる、ある家から一人の人物が出るとして何かそこには犠牲となって死んでいる人が結構多いのである

国家レベルでもそうである、日本だったら戦争の犠牲が三百万人の死者をだしたことである
でもその後に高度成長時代になり栄えたとなる、その結果としてその成果が現れるとなる戦争の影響は別に焼野原になってもその子供には悪いものとして影響しなかったのも不思議である、だから不思議なのはなぜ焼野原になり食べ物もないのに子供が多いのに育てられた、今の時代はその十倍とか豊かなのに少子化になっているのかわからないとなる
そしてなぜ日本は衰退して貧困化しているのたろうとなる
ただ世界の歴史でも栄枯盛衰はあるからそれが法則となっているからその結果なのかとなる

日本はこれからまた蘇り栄えるのだろうか?

富は蓄積されたからその蓄積されたものでしばらく栄える、おそらく文化面で栄えることになるのか?経済成長の後に文化面で芸術とかでルネサンスのように興隆することがあるとなる、ただそれも見えていない、インタ−ネットとかyoutubeとかの変化は確かに表現することがテーマになっているから個性を発揮する時代だともなる
マスコミとか大衆相手でもないものが生まれている、するとそこに文化も生れとなる
新しい表現が生まれるとなる、私自身が表現をプログのようなものでも写真でも出せるから駆使して出していることでもわかる
これはマスコミとかではできない、マスコミだとただテレビに出るだけでも有名人になった、でもそれはマスコミに選ばれた人でありまた大衆に選ばれた人なのである
だから本当の人物はなかなか出てこないのである

現代とは何でも大衆が力をもった時代でありあらそる面でそうである、そして大衆は文化を作らないのである、かえって民衆は民謡とか文化を作ったのである
民衆と大衆は違ったものである、大衆とマスコミは一体である
だからこそマスコミニケーションとはなっていたのである、それは文化ではないのであるマスコミは文化を創り出さなかった、文化とはそれぞれの土地に根付いて生まれているからである,マスコミがまるで国民を指導するようにもなった
裁判官にもなった、特にNHKはそうだったのである、NHKの力がどれだけ大きいものだったのかNHKはまるであらゆることを指導するものにもなったからである
それも崩れつつある、インタ−ネットとかスマホとかなり一局支配の報道はなくなり分散したからである

今年も終わるが毎日書き続けたがコメントを読むこともしなかった
忙しくてできなかった、家事に追われてそうなる
ここに書くだけで時間をとられる、結構これが負担なのである
ただ感じたことは個々人でメデアを持つことは大きな力になる
それでメデアがマスコミが第三の権力になったことを理解したのである





2021年12月29日

天皇とは何なのか、その在り方を問う (政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの)


天皇とは何なのか、その在り方を問う

(政教分離がここでも問われている―国民の総意に大衆に踏みにじられる聖なるもの)
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【日本国憲法第1条】

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く


日本帝国憲法(抄)】

第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
(以下省略)


テレビの議論で聖なるものと俗なるものがあり聖なるものとしての天皇と俗なるものの天天皇観で対立していもめている
それが真子様の結婚問題でもあった、そもそも聖なるものとは何なのか?
天皇はなぜ聖なるものなのか?その歴史は古代にさかのぼる
天皇とはまさにそうした超越した存在として国を治めるものとして現れていた

大君《おほきみ》は神《かみ》にしませば天雲《あまぐも》の雷《いかづち》のうへに廬《いほり》せるかも 〔巻三・二三五〕 柿本人麿

 天皇(持統天皇)雷岳《いかずちのおか》(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献《たてまつ》った歌である。
 一首の意は、天皇は現人神《あらひとがみ》にましますから、今、天に轟《とどろ》く雷《いかずち》の名を持っている山のうえに行宮《あんぐう》を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随《かむながら》にましますというのである。
 
 邪馬台国の卑弥呼は神に仕える巫女として「鬼道(きどう)」と呼ばれる呪術によって神の御告げを民に伝え、国を統治していました
 
 この鬼道は呪術とかであり宗教ともなる、そもそも古代とかなると神聖政治であり宗教と政治は一体でありその権威と聖なるものであり絶対だったとなる
人々とその力を畏れ従ったとなる
それはエジプトでもそうだしその後のキリスト教でもそうであり特にカトリックは政治と一体化した宗教組織である
神像に満ちているエジプトでも祭政一致の国家であり王は神にもなっていた
その神像とは偶像でもあったのだ
その偶像の国から脱出したのがモーゼである、そもそも宗教の起りは偶像崇拝を拒否することから始まているからである、イスラム教でもそれは同じである、イスラム教はアブラハムから分かれたものであり同根の宗教である

もともと宗教とは聖なるものでありその聖なるものを伝えるのが宗教であった
それがイスラエルの歴史だった、イスラエルの民を選んでその聖なるものを継続維持させることが歴史だった、だからイスラエルの歴史は特殊である
その権威は聖なるものでありそれが最終的にイエス・キリストに現れて神の子として聖霊として具現化したのである
ただイスラエルという国家を維持するものとしても聖なるものがありその聖なるものが預言者となりそれが歴史となったのである

これが日本だと神道にもあり仏教にもある、神道だと戦争の時は国家神道になり神の権威が日本全国の小社に付与された、そこでは必ず戦勝のための祈念がされている

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国威宣揚 武運長久〈飯館村の山津見神社)

それは神の力でもって戦争に勝つということを祈念しているのである
何かこのことが今でも全国のあらゆる神社に記録されて残っている
それは石に記されているから消えないのである
でも村の小社がもともとそうした戦勝祈念するために建てられたけではないのである
国家神道とは政教一致となり天皇が神となり神であるから絶対に負けないとなり
その戦争は宗教戦争ともなるから苛烈ともなり遂には一億総玉砕とまでなるところだったのである
そして天皇の人間宣言があり天皇が神であることは自ら否定されたのである
それでも広島に天皇が訪ねてこの責任はどうなりますか?
こう問われたとき天皇はしどろもどろになった、つまり三百万人の日本国民の死の責任が問われたのである
それは戦前の憲法では天皇が絶対的存在であり神なのだから日本国民はその神に服さねばならない、死ぬことも是認されたからである
つまり国家神道は政教一致だからそうなったのである

創価でもそうである、日蓮の思想は王仏冥合があり王は政治であり仏と一体化したものを是認している、完全な政教一致だからこそ選挙は王となるための仏として成仏するための仏法の戦いだから必死になる、それは天皇の国家神道と同じなのである
聖なるものが国家により組織団体によって利用されてそのために政治的に利用される
戦争の時は軍部によって利用されたから危険だとなり政教分離になったのである

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

ここで日本国民の総意に基づくということとあるがこれはありえないのである
歴史的に見て国民など存在しないからである、国民という概念は明治以降に現れたものであり日本国民は存在しなかったのである
江戸時代でも民はそれぞれの藩に属していて国家に属しているということはなかった
だから天皇が存在していても江戸時代の人は天皇のことなど知らなかった
家康が東照権現として祀られたり相馬藩だったら相馬氏の静かな佇まい都玉(くにたま)神社はかえって土地の人にとって身近だった、天皇のことより身近なものとして意識していてお参りしていたとなる

 相馬中村藩の第五代当主相馬昌胤氏は、文化や宗教に大変造詣が深く、相馬地方の文化発展に大いに寄与したのだという。
 その昌胤氏が寵愛していた子息の都胤(くにたね)が、五歳で早世したのを大いに嘆いて、この神社を建立したもの
 
 都胤(くにたねというときまさに都(国)の胤(種)だったともなる、それが国家的に拡大されたのが天皇だとなる、その子供は国の胤(種)ともなっているからだ
 その種は継続されるものとしてあったからだ、相馬野馬追いは現実に今も殿様が活きていて行列に参加して殿としているのである、歴史として相馬氏のデモストレ―ションが相馬野馬追いなのであり庶民の祭りではないから庶民は参加できないのである
侍の子孫しか参加できないのである、そこが他の祭りと違っているのである
 
明治維新で日本国家を近代国家にするとき天皇を中心にしたことがその後も尾をひいたのである、天皇は聖なる存在であり神でありこれを否定することは不敬となり内村鑑三とかが不敬罪になったし戦争の時は創価の牧口常三郎が戦争に反対して天皇を否定して獄死したのである
その反省から憲法でも国民の総意に基づき選ばれた象徴天皇となったのである

でもそもそも聖なるものは国民の総意に基づいて選ばれることはない、むしろ国民の総意に反してあるのが聖なる存在なのである、また大衆化して大衆のアイドルみたいなものでもない、畏れるものでもある
古代ではそうだった、恐るべきものとして畏怖するものとして天皇があった
それが近代化されたとき政教分離を取り入れないことで日本の場合政教一致になり継続されたのである、それが日本が本当に近代化されないことだったのである
政治と宗教を分けて政教分離になったのはカトリックが権力をもって政治化していたからその反発から生まれた歴史的経緯がある
聖なる権威を利用して政治化して権力化したのである

それは創価とかカルト教団に今も現実に社会を牛耳る力をもっていることなのである
聖と俗が一体化している、選挙で勝つことが仏法の勝利であり戦争なら日本は神の国であり戦争に勝つと同じなのである
別にそれは宗教団体でも一票を投じる権利があるとなるが創価の場合は宗教と一体化して選挙は仏法の戦いだから負けないとなり常に常勝だとなる
それは天皇を神聖なものとして神として戦争となったのと似ているのである
天皇に逆らうのか、仏に逆らうのか、罰が当たるとか地獄に落ちるとかなるのである
聖なるものの悪魔的利用なのである、悪魔がサタンが聖なる権威を利用しているとなる
それは宗教でカトリックでも起きてきたことである、そういう宗教の組織集団が実はサタンに牛耳られたいたのである

そしてカルト教団では個々の人間も二重人格になっている
聖なるものを説きその実はそれを利用している悪徳の僧のようにもなっているのである
仮面人間にもなっている、実はそういう人は自ずと善人ずらした悪人なのである
優れた宗教家がパウロでも私は悪人であり罪深いとか親鸞でも俺は悪人だというとき
そういう人がむしろ真の宗教家だともなる
ただ大衆化して大衆に祭り上げられたものでありそんな大衆に祭りあげられたものが聖なるものではありえないのである

だからこうして大衆に祭り上げられた聖なるものとされるとそうした組織集団の会員は常に俺たちに従わなければ罰当たるとか地獄に落ちるとか言うのである
でも逆に今度は公明党議員が賄賂をもらっていたとかなってその宗教自体が聖なるものが攻撃されるのである
それは天皇が聖なるものとしてあり現人神(あらひとかみ)としてあったのだが戦争に負けてその責任を問われたのと似ているのである
第一俗人が欲にまみれたものが地獄に落ちるとか罰あたるとか軽く言うことがどういうことなのか省みることもないのである

何か聖なるものが軽く扱われ乱用される、そうしてそもそも聖なるものが汚されたのである
要するに聖なるものとは何か?それはまるで物を売買して得られるものではない、簡単に安易に近づけるものではない、それを俗人が大衆が安易に取り扱うことは危険になる
だから触らぬ神にたたりなしになった
結局聖なるもの仏であれ与えられぬのは罰と地獄に行くとかだけになる

とにかく宗教を安易にふりまわすことは危険だった、それが逆に自分の身にりかかってくるからだ、俗にまみれ悪にまみれた者が聖なるものを宗教をふりまわすことは危険なのである
いづれにしろカルト教団は自己矛盾になってくる、それは聖なるものと俗なるもの分離しないで一体化したからそうなる
そして大衆社会は俗なる力が強大化してファシズムになった歴史だったのである
大衆民主主義社会はファシズムとなるナチスとなる、帰結としてそうなるのである

天皇の問題とは何なのか?おそらく聖なるものとしての権威がありそれが大衆化してアイドル化したものとなればその権威は失われる、そこで真子様の結婚問題があった
一人間として皇室にも基本的人権があり誰と結婚するから本人同士の合意で成立つとなるいづれにしろ聖なる権威としての天皇は戦争に負けて喪失した
その後の大衆化されたまるでアイドルのような天皇はその権威も喪失してゆくのかもしれない、天皇とは俺たち平民と庶民と大衆と同じなのだということしかない
天皇すら現代社会では水平化されて一庶民となり天皇は庶民に頭を下げる同じ人間だとなる、だからもう戦争のように神格化されることはありえない

この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

これほど聖なるものを貶めているものもない、むしろ聖なるものとは国民の総意に基づかない、むしろ国民の総意に反するものこそ聖なるものでありそれは国民にとって大衆にとっては敵対するものですらある、だから預言者は国民であれ平民であれ庶民であれ殺されてきたともなる
国民の総意とは大衆の総意であり結局数が多ければ総意となるからだ
そんな総意で決められるのが聖なるものでありえない、数の多さによって聖なるものが決められることなどありえない
むしろ聖なるものは神によって選ばれた一人しかないとなるからだ
その一人に全国民が大衆が反発するものであり殺されるべきものだとまでなる
結局国民の総意で戦争があり地元民の総意で原発が作られるとか国民の総意自体が恐ろしい結果を産む、国民の総意でナチスが生まれ大量殺戮があり民主主義がナチスが生まれたからである
しかしあらゆる人が水平化する平等化するとき天皇を特別扱いする人はなくなるだろう

あいつも俺らと同じ人間だ!

国民の総意となればそうである、誰も今や聖なるものなど認めないからである
何か近くに今の天皇と似た顔の人がいる、その人は一庶民にすぎない
だから天皇も一庶民でありなぜ特別崇めるのかとなる、そういう感情に国民がなっているつまり聖なるものとして権威はもう天皇にもないし他もないのである
ただ俗なるものがこの世を席巻する、それは国民の総意であり大衆の総意でありその祭り上げるのは大俗人のカルト教団の長だったりする,ナチスのヒットラーにもなる
そのヒットラーとは何者だったのか、国民の大衆の総意で祭り上げれらた偶像だったとなる、それは虚像でも良かった、そのことの恐怖は実際に架空のことではなく何百万人も死んだことにあったのだ、それが現代文明社会が病理学的な問題としてあることなのである聖なるものでありそうしたものは大衆社会に踏みにじられ席巻される
数さえ集めれば勝利だとなる、それは神意だとか仏意だとかなる
恐ろしいのは今や天皇とかではない、大衆というわけのわからないものである
それらに聖なるものであれふみにじられ席巻されてしまうことである

今年の時事問題はいろいろあったが天皇の問題、真子様の結婚問題もそうだった
天皇も人権があり結婚も自由だとなった時、何か特別なものとしてあった聖域が破壊された感じになったのである、それは国民の総意に基づいて天皇が選ぶとなればそうなる
そもそも国民の総意とは何なのか?それは俗化して水平化して国民と大衆の意に従う同じ人間だとなってしまうからである
むしろ国民の総意に反したものこそ聖なるものでありそれは安易に近づけないものだからである

posted by 天華 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月28日

人生百年は長期戦 (陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)


人生百年は長期戦

(陰の性格の人は後半戦に強いー引きこもりは陰の人になる)

陰の魂の質は、穏やかさ、清らかさ、静けさ、安心感など・・・あまり目立たずに陰から人を支えたり、他者に調和や平和を届ける様なエネルギーになります。
陰の魂の持ち主とは逆に、陽の魂の持ち主は、社会の中で特に評価されやすい傾向もあります



人間の性格で陰陽がある、陽は前向きで明るくばりばり行動する力があり目立つし人を導くこともできる、人も集まる、そして早い時期に成功しやすい
一方陰の人は何かと社会でマイナスに見られる、陰気でありとっつきにくいとか社交的でないとかなる、そうしてどうも引きこもりになる人が今や60万なのか多い
陰の人は社会で率先してばりばりやれないからだろう、そこでつまづくとなる
社会にでて引きこもりになりやすいのが陰の性格である
注目されるのは陽の性格の人である、女性で明るく目立つ陽の性格の人は好かれやすい
何か大人し控えめな人は損するとなるかもしれない

陰の人はこうして社会では不利な面が多い、でも自分の性格を知って陰の人も力を発揮することができる
人間の謎は必ずあらゆる面で有利なことでも不利になり不利なことでも有利になる
大軍でも強国でも少数の国と戦い負けることもある
だから何が有利に働くかわからないのである、だから自分の性格が陰だからと悲観することはない、ただ己を知ることが大事である
陽の人がうらやましいと陽の人のように生きるということはかえって苦しくなり失敗する何が自分は陰であり人と付き合うことは苦手である、人と逢うことだけでひどく疲れるのである、だから引きこもりになったのだと思う
引きこもりになるのは陰の人だと思うからである

陰の人には陰の人に逢った生き方がある、陰の人は内面的なものの追求に向いている
実業家とか政治家とか大勢の人の上にたち目立つ人となるのは向いていない
陰の人は芸術家とか思想家とか学者とか内面的なものを追求するのに向いているとなる
それは必ずしもチームワークでするのではなく一人でもやれる仕事だとなるからだ
ただ研究者でもチームワークが必要だともあり何らか仕事をするには協同する必要があるから一概には言えない
でも陰の人はいくら陽の人が成功しやすい社会に認められやすいからとまねることはできない、そうなるとかえって苦しくなるからだ

歴史をみても信長は陽の人であり秀吉も陽の人であり天才的であり率先して人を導くことができる、華々しく活躍する天才でもある
でも家康となる何か地味であり華々しいという感じがない、陰の人の感じになる
でもなぜ彼が最後に天下をとったのか、治めたのか?
それは家康が特別優秀な天才でもない、その前に陽の天才だった信長が殺され、秀吉も死んだからである、痕に残ったのが才能もたいきしてなかった家康だったともなる
家康には特別天才的なものがなくても忍耐力があったとなりたまたまマラソンで走っていたら前を行っていた人が脱落してしまったともなる
長期戦になったら特別強い人が優秀な人が死んでしまったということで家康が最後に天下をとった、それより長期戦の結果天下が自ずと転がりこんできたともみる

70以上になると結構同期でも死ぬ人が増えるし病気になる人も増える
マラソンに例えるならばたばた落後する人が増えてくる、ただ人生百年となると結構長丁場の戦いにはなる、元気な人も多い、でもやはり結構病気になる人死ぬ人が増えるのである、人生の競争でも脱落してゆく人が増えるのである
要するに長生きするだけでも勝利者にもなるのである

だから陰の人は後半戦に強いことを今私は自覚した、陽の人は前半戦に強い、ばりばり力を出して成功しやすいとなる
そういうことで陰の人はあせらないことである、なかなか前半戦では成果が出ないのである、でも陰の人でも引きこもりでも何か好きなことでも積み重ねることがあればやがて芸術でも学問でも思想家としても大成するともなる
陰の人は理解力でもなかなかつかない、陽の人は物事でもなんでも理解してしまうことがある、陰の人は何か成し遂げるにも理解するにも時間がかかるとなる

ただ陰の性格の人は人生の後半戦で力を発揮するようになる、それも人生百年となると
50歳以降にすらなる、60でも70歳以上でもそうである
普通の人でも80歳まで働くようになる、それは経済的にそうなるというがそうでなくても人生百年は長期戦になる
そして何か人間はやはり成長しつづけるものである、例え陰の人でも目立たないが木のように時間をかけて成長しつづけて大木になる
それは時間によってそうなるのである、必ずしもその人の才能によってなるとは限らないのだ
現実有能な人でも早く死んでしまい何か実りとなるものを残せなかったともなるからだ

つまり人生百年を生きる心構えが若い人でも必要になる、人生は長期戦であり将来はどうなるかわからない、だから黙々とでも引きこもりでも社会に適合できなくても認められなくても長い目で淡々と積み重ねる、努力することが必要だとなる
でも若い時は50年後先など見えない、だからたいがい60くらいで死ぬと見ている
でも実際は本当に90から100歳とかまで生きる時代になっているのだ
全部ではないにしろ病気になる人も多いにしろそれが平均的になってくるのだ
だからこの長期戦をどう生きるかを考えねばならない
とにかく人間というのは動物とかと比べても成長するのが遅いのである
でも成長しつづけるとういことがある、それは木とかと同じである、成長するに時間がかかるのである、何か理解するのにも時間がかかる

だから本を大量に読んでもいても理解していなかった、今になると理解力がついてきたからその言わんとすることがすぐに理解できる、そして自分の文脈で引用できるのである
大器晩成というのは別にもともと大器でもない、長期戦を生き抜いた結果として晩成したということになる
時代にもよるが平和な時代には長期戦になる、特に長寿社会になるとそうなる
戦前でも正岡子規も36歳くらいで結核で死に啄木も27歳で結核で死に宮沢賢治でも36歳くらいで死にとかとにかく結核で死んだ人が多い、結核は若くして死んだから悲惨だったのである、また戦争でも有能な若い人が将来を嘱望された人が死んだのである
このように人間の才能とかは天賦の才能に恵まれていても開花することがむずかしいのである

つくづく自分が才能などたいしたないのにこうしてそれなりに開花ししてきたのは家族に恵まれたためである、自分の家族をふりかえると自分のためにあった、自分を育てるためにあったようにすら思うようになった、みんな死んでそう思うようになった
父親は酒屋の丁稚奉公であり母も戦前は貧乏であり苦労の一生であり陰の性格だった
でも百才まで生きた、そして陽の姉がいて私に尽くしてくれた
父の違う兄は不幸であり不遇であり交通事故で死んだ、こうして何か私の家族全部が私のために犠牲のようになったとみる

こうしてなかなか一人の才能ある人間すら簡単に才能を開花させることはできない
それは時代の影響もある、戦前のような貧乏な時代になるとなかなか才能を開発できない戦後でも焼け野原から始まった、家には一冊の本もない、その後でも本屋にしか本がないそれも百万分の一くらいしかないとも今になると見る
子供部屋もなちかことおじとかもいない、子供部屋がないとなかなか落ち着いて自分の勉強ができないとういことがあるからだ
現代だとこうしたものがさらに整ってきているから有利である
こうして時代の差がありそれでそれぞれの個性的なものを追求できないのである
つまり人間はそれぞれに才能があったとしてもその才能は開花できないのである

つくづくこれからの人生は百年であり長期戦である、例え最初はびりでも最後に一番になることだってありうる、先を行っていた人たちも脱落してくる
だから先がわからないのである、ただひたすら黙々とマイペースで走っていたら前の人が脱落して一番にっていたということもありうる、それが人生百年の意味なのである
だから若い時に人生をあきめることはない、ひたすら走りつづけることである
ただこのことが若い時に理解できないのである、若い時自殺するような人はそうである
ともかく生き続けることである、人生はどう展開するかわからないのである
でも日々の努力は怠らないことである、ささないなことでも後で花開くとういことがあるからだ


本格的な怪物は母の胎内での期間が五万年、十万年かかるべきものなのだ
80万年無駄飯くらってやっとよちよち歩き出るような人間、いや超人間になりたい
(単細胞的思想ー上野霄里)

自分の性質が活動的な仕事に向いているか、それとも有閑のうちに研究ないし黙想することに向いているのか、である
そして自分の才能に導かれる方向に傾いていかねばならない

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる
心がある高く険しいところにあるものに達するには正気である限り不可能である
心はすべからく陳腐なことから遠ざかり轡(くつわ)をばりばりとかみ、己の指揮官を急がせてかつて自分がら恐れて登らなかった高みへ引き立てて行くべきである
(セネカー人生の短さについて)


上野霄里氏は天才であり天才的思考になる、若い時であったがこれも理解できなかった
ただ天才は凡人には偶像化するから危険ではあった、ただその言うことは今理解できる
人間は長期的に見るべきであり人間は成長しつづける存在なのである
若い時は理解できなくてもやがて理解するようになる、だから若い時理解できなくても本を読んでおいた方がいいとはなる
天才は努力を否定するから凡人とは違う、その言うことは理解する

凡人でも

心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がればその時こそ遂に死すべき人間どもの口には崇高すぎる歌を吟じるにいたる

これは修養なのである、修行をしつづけることである、天才的な人は修行しなくても一挙にわかる、でも普通の人はには修養とか修行が努力も必要なのである
だから不浄を拒否して山に籠もり修行したのである
俗世間に染まらないことなのである、それは宗教だけではない、芸術でもそうである
それは崇高なものを目指しているからである、そしたら俗世間に染まってしまったらその崇高なもの純粋な自然の美を見ることもてきないからである
今の宗教は政治経済化して組織集団化しているから俗世間の価値観しかない
かえって欲がないのはエネルギーないとかなり俗世間より以上に俗世間的な場所なのである、そんなところで心が浄められるとか全くない、全く不浄な人々の中にまじりそれが普通となり汚れているのである

だから引きこもりでもそうした不浄な世間と交わらないということで黙想して浄化する
そこで自然の美も見えてくるとなる、ただここにはやはりマイナスも大きい
それでアウトサイダーには狂気になった人が多いのである
ただこうして引きこもりでも黙想して不浄を拒否して生活していれば自ずと神聖なものでも自然の美でも見えてくる、それで私は今それを詩とかにしたものを発表している
百遍以上の詩はまだ発表していないからである

とにかく人生百年時代を生きることは若い時は序の口だからそこであきらめることはないただ正直若い時に方向が決まってしまうことが怖いのである
カルト教団から脱しなかったらそのまま一生そのままつづくということが怖い
そして人生そのものもを失ってしまうのである
それが極端化したのがオウムだし他の創価でもなんでも宗教の組織化集団化したものは同じなのである
それで若き時に神を知れということが重要なものとなる
若い時に方向が決まる、偶像崇拝していたら生涯偶像崇拝のままである
そしてオウムの麻原とか創価の池田大作とかでも偶像を拝みつづけるから怖い
宗教で一番大事なことは偶像崇拝しないことだからである
でも宗教でも偶像崇拝していることが多いのである、組織集団化した宗教はそうである

今年も終わりだけど私の中でこうして引きこもりでも不浄を拒否して黙想していても
それが実ってくることはある、それも30年以上とかそうだったのである
だからこの年月が何だったのか?それは今の実りへとつながるものだったともなる
そこにマイナスな面も大きく失敗したが引きこもりが無駄とはならなかったのである

2021年12月27日

白鳥、冬椿、冬の暮、葉牡丹、雪の朝 (岩と家の主ー雪の庭)


白鳥、冬椿、冬の暮、葉牡丹、雪の朝

(岩と家の主ー雪の庭)



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空家の庭


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白鳥の翼大きく朝飛びぬ

降る雪に白鳥飛びて消えにけり

雪踏みて白鳥飛びぬ朝かな

石すえて隠るる庭に冬椿

雪ふりて椿の垣根朝の道

庭に雪組まれし石の重さかな

音もなく木の葉一二枚庭に散る

葉牡丹に雪や年経し庭の石

年を経て家の主や冬の暮

岩のごと家の主や冬の暮

冬の灯や我が家に落ち着く石二つ

キーボードに白髪数本年老いぬ


庭の石雨ぬれ今日は雪おおい晩年静か家にすごしぬ

玄関に岩やこの家の主なれ病なれども年の暮かな

冬の薔薇なお一輪の咲きにつつ雪の残れる庭に映えにき


雪がふり風が朝つめたかった、その時白鳥が群れて飛んでゆく、白鳥は朝と夕方飛ぶのが多い、だから朝は自転車でまわる、寒くてもまわる
白鳥はすぐ近くに飛ぶとき迫力がある、大きく見える、良くあんなに大きな鳥が飛べることが不思議である、何を食べているのかもよくわからない、かなり重いから飛ぶには相当なエネルギーが必要になるからだ
山の方から雪雲がでて白鳥は雪の中に消えてゆくともなる

例の空家の庭にまわり見る、そこは椿の垣根となっている、あそこの家は古くなり住めないだろう、ただ本当にもったいないと見る

家というのはそれぞれに歴史がある、江戸時代からつづいているような家となると重みがある、そういうのは農家に多かった、農家は江戸時代などでも何代も続いていた
なぜなら社会があまり変化しないからである
それで職人の家すら十代とかつづいていたのには驚いた
今はそういうことはありえない、変わり安いのである、技術も日進月歩だからである
また農業中心の社会ではないからまた定着しない移動する社会だから変わり安いのである
ただ年取ると落ち着く場所が必要になる、そこで家が大事になる
私が家の主となったのは実際は姉と母が死んでからなのである
それまでは自分は家の主ではなかったのである
家というのは何か建物だけではないそこにそれぞれの歴史があり背負うものがある
それは外からなかなかわかりにくいのである

庭は下にいた方が身近になる、二階だと自分の家では庭は狭いから見えないのである
下だといつも庭の石を見ているのである

玄関の前に大きな岩を置き石で組まれた重厚な庭がある家を知っている
その人は病気になり半年くらいまで入院していたことがあった
それでかえって病気が悪くなった、そこで家に帰ったらかえって良くなった
糖尿病だけど食べないでいたから弱ったのである
病院はこうして返って老人の場合は病気でも悪くすることがある

それは精神的にも病院は良くないのである、だから家で死にたいとか家で病気でも良くなることがある
病は気からとなるからである、家だったら主として重みがある
その人の家と庭は若い時人の倍も働いて建てたものだから余計にそうなる
自分の場合は親から譲り受けただけだから違っている
ただ親が苦労してこの家を建てたことは知っているのである
父親は酒屋の丁稚であり暖簾分けしてここにきて苦労して土地を手に入れ家を建てたのである、ただここの土地は街で一番低い場所であり土地としては良くないのである

郷土史というときそれぞれの家の物語にもなる、ただこれはなかなかわかりにくいのである、今になるとインタ−ネットとかでいろいろ書いている人はいる
でもなかなかわかりにくい、ただ郷土史というとき旧家になっている所からその土地土地の歴史がわかる、それはたいがい農家になっている、でも旧家の重みも社会が変わってなくなりつつある
ただこの辺では野馬追いにでるのはもともと農家だった家が多いのである
そこに歴史を感じるとはなる





2021年12月26日

南相馬市の地産地消のソーラー発電風力発電の取材 (そのデメリットもあることは伝えなかった)


南相馬市の地産地消のソーラー発電風力発電の取材

(そのデメリットもあることは伝えなかった)

elepower1.jpg

再エネ導入比率90%超!南相馬 すごい発電ルポ
【山岡淳一郎のニッポンの崖っぷち】


solorpanerkk1.jpg

この一部が水没した

南相馬市鹿島区の烏崎のソーラーパネルが水につかり大被害
(みんな使い物にならない、交換するほかない)
http://musubu.sblo.jp/article/186684223.html




飯舘村のメガソーラーに直撃雷!? 接続箱2つで火災(page 4)

落雷の直撃により、33枚もの太陽光パネルが損傷したメガソーラー(大規模太陽光発電所)がある。空に向かってタワー(支柱)やブレード(羽根)の伸びる風力発電設備は、国内に導入以来、落雷被害に苦しんできた。一方、野立てのメガソーラーに直接、雷が落ちることはほとんどない、と思われてきた。だが、必ずしもそうではない。
https://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/feature/15/302961/021400042/?ST=msb&P=2


事業用太陽光発電所に対し太陽光パネル1m2当たり50円を課税する「太陽光パネル税」の導入に現実味が出てきた。屋根上を除いた連系出力10kW以上の野立て太陽光に課税するもので、岡山県美作市が法定外目的税として新設を目指し、今年3月に条例案を議会に提出した。
https://project.nikkeibp.co.jp/ms/atcl/19/feature/00007/00043/?ST=msb


春先に薪ストーブに入る長さに
(当然だが、それぞれの薪ストーブで燃やせる薪の最大長さがある!)

チェーンソーで玉切りし、

斧や薪割機で割って、

日当たりがよくて風通しのいい、

雨のかからない場所に積んで

半年以上乾燥させないといけない。

家を建ててから気づくことF・・・薪ストーブは本当に手間がかかる!
https://www.kasahara-net.jp/blog/awareness/entry-83.html



前桜井市長がyoutubeに出て南相馬市の電力について語っていた
南相馬市は原発事故後にソーラーパネルとか風力発電に力を入れて来たからだ

意外だったのは東京にソーラーパネルの電力を送っていたことである
地元ではなく東京なのかとなる、あとは東北電力に送っているがそれも地元ではない
東北全域で使うとなっている

この地産地消のエネルギーでも問題がある、私が一番気にしているのは景観を悪くすることである、それを一番感じたのは宇多川上流の山がまるごとソーラーパネルになったことである、あれは危険でもある、人家がないにしろ水の保水能力がなくなり下流の相馬市にも影響する、現実に相馬市内全域が水害になった、水浸しになったからである
宇多川の堤防が一部決壊もしたから被害が大きく広がったのである

また飯館村で落雷があり被害があった、それから取材した右田でも掘りから水があふれ水没したのである、もともとそこは低い場所で水が集まる場所だったからである
津浪でも塩崎の方まで水がおしよせたことでもわかる、低湿地帯だったのである
そのことを語っていた、ただ熱海のような場所と違って回りに人家もなくなったので安全だとパいえる、人家がないと環境が悪くなっても文句を言う人がいなくなるのである
もし人家があったら風力発電もうるさいとかなる

そこに人家がなくなることの危険がある、飯館村とかでも人が住んでいてももう全体で一二割とかしか住まないとなると村でも景観が悪くなったからとか文句言う人もいなくなるのである、そして放射性廃棄物の処理場にされる
そして南相馬市にその放射性物質が入ったフレコンバックが破れて川に流れそれが南相馬市に流れて来るのである
つまり人が住まないということは現代では自然にもどることではない、国でもなんでも勝手にされてしまう、人が住んでいれば環境でも配慮するから反対するこになるが反対する人もいないか危険なもので勝手にされるのである

そして危険が回りに及ぶのである、だから飯館村の村議会選挙で南相馬市とは関係ないから口出すなと応援する人に言われたことが納得できないのである
もう飯館村は自治体として自立してやっていけないとも見るからだ
現実に南相馬市と合併するほかないという女性もいたからその人は現状を理解していたとなる
川俣村では前と同じように住んでいるから飯館村で風力発電を作ったら景観が悪くなると反対したからである、そこに前と同じように人が住んでいるからである

つまり人が住まなくなるとそこは自然に還るけでもない、かえっていろいろな問題が起きてくるのである、だから意外とそれが周りにも影響する、だから飯館村の問題は回りの市町村の問題にもなるから問題なのである
第一原発事故ではトリチウムとか海に流すことで世界から海を汚すなと批判されたことでもそうである、環境破壊は一地域の問題ではない、世界の問題になっているからだ
そのために二酸化炭素を出すなとか接続可能な社会を作るということに世界でなったのである

このyoutubeで南相馬市では薪を使う家が増えたと言っていたがこの薪を燃料にすることはとんでない労力がかかり手間になるのだ
それは石油を自動で入れないで手でいちいち押して入れていたことでわかった
これがめんどうで手間だったのである、その労力は馬鹿にできない、今は何でも機械でして電化しているから一人暮らしもできる
もう昔のように炭とか使っていたらこれも手間である、その手間を考慮したら今は簡単にできない、覚悟が必要だというのもわかる
子供の時は自分は風呂炊きが仕事だった、それも電気ではないからガスでもないから
紙くずとか残った木材の切れ端を無料でもらって炊いていたのである
つまり家事は本当に労力がかかっていた、だからそういう時代にもどることは簡単にできない、今はなんでも便利になっているし余った労力は別な方にまわす
コンピュター化してAI化しているからである

確かに地産地消は必要である、何か日立て小型の原子力発電の装置をカナダから受注したとか聞いた、この小型原子力発電は事故になっても軽くすむからいいとされていた
福島原発となると余りにも巨大すぎたからその巨大さによって甚大な被害になった
故郷に住めなくなったのである
でも再生可能な自然エネルギーでまかなうことも厳しいものがある、だから原発も20パーセントは維持しようとしている、これも大きな問題である
日本では風土的に原発とかでもソーラーパネルでもあっていない、地震はあるし津波もあったしソーラーパネルでも広い土地がないことが問題なのである
中国でもアメリカでも無限の土地がある、平坦な土地がいくらでもあるのとは違っているだから丸森の山ごとソーラーパネルにした、それで保水能力が消失して人家がなくても
宇多川が増水して水害になることがありうる

最大の問題はFITてあり20年間高く電力を買い取られることである
でもそれも後十年くらいでありあとはそうはならない、これだって税金だから金がかかっている、その分上乗せられて税金としてとられているのである
なんかこのyoutubeではメリットは語られていてもデメリットはそれほど語られていなかった
何事メリットとデメリットがある、放送は必ず一方的になる、自分自身でも偏るからである、ただ地元で原発事故にあったことで関心を持つようになったのである

おそらくこの主催者は左寄りの人だろう、前市長の桜井氏も左寄りであり原発反対で市長選挙で訴えたが小差で敗れた、だから何か偏っている
今度来年の一月に南相馬市長選挙がある
今の現市長の渡辺氏が東北政経で相馬市の市長の手下のようになっているとか批判されて問題になった、その記事が意外と影響するかもしれない、かなりのマイナスになるからだただ東北政経というのも相双リテックの宣伝をのせていたからそもそもこうした地域の雑誌でも偏っているのである
結局地域の雑誌とか資金がないからそうなる

でもこのyoutubeとかのテレビ放送は金がかからない、でも取材となると結構めんどうになる、とても一人ではできない、でも資金はそれほどかからない、だからこうして個人局でもyoutubeで放送しているのである
私でもプログでも手間なのだけど放送できる、だから一人でしている
家事も全部して放送しているのである、それだけ通信が発達した結果できるようになったのは大きい、今までにはないものが次々に放送されて読まれる
それによっていろいろな見方が生まれる、第一地方のことは全国放送ではしにくい
地方地方にはそれぞれの事情がある、南相馬市内でも違っている
福島県ならハマ、ナカ、アイヅとなり風土も歴史も違っている、それを知ることはなかなかできない、だから南相馬市と相馬市とかでもいろいろ放送するものがあるとなる

それで毎日こうして自分もプログで書いているのである、こういうことがかなり変わったことである、こうして自分なりの意見でも書くことができるからだ
すると一方的な見方にはならないのである
ただ来月の南相馬市長選挙の情報は不足している、争点もまたわからない
原発反対だけでは決められない、第一みんなこの辺では事故で反対が多いからである
それは当然でありそれに代わる何か政策とかを打ち出さないと判断しにくいとなる
posted by 天華 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

技術はいつの間にか進歩して遅れてしまう (スマホを利用しないで失敗)


技術はいつの間にか進歩して遅れてしまう

(スマホを利用しないで失敗)


スマホを最近買った、携帯はやめてずっと利用していなかった
だからスマホもしなかった、別に利用もしなかったので困ることもなかった
ただ緊急の連絡のために買った
でもスマホが小型のコンピュターになっていたことで相当に進歩していた

一番驚いたのは音声に入力である、これが正確なのである、翻訳でも驚いたがこれは正確さが違っていた、個人差があるのに正確なのである、音声でテキスト化されることは便利である,キーボードがないから音声入力は便利である
ただまだまだ買ったばかりで使いこなせていないがスマホが現代人の必需品になったことは確かである
自分の場合パソコンの延長として買ったのである

スマホが嫌だったのは画面が小さいことと字が小さいので見にくいから疲れることで嫌だった、それは確かだった、試しにエロ画面とかみたが小さくてこれでは使いないと思ったやはり大画面でないと動画でも見にくいし迫力がないのである
まず何かスマホで創作作業とかするのがむずかしいと思った
ただ本体の家にあるパソコンと連携するのには便利である、ただまだそこまでやれていない、使い方がまだわからないのである

常に技術は日進月歩である、それを見逃していると社会から取り残される
それは老人になると特にそうである、すると今何か起きているのか社会がどうなっているのかもわからなくなる、そして社会から取り残されるとなる
自分はワープロで通信できるのを早い時期からしていた、そこからパソコンに移った
その時のパソコンは素人が作ったようなもので常に再起動ではなく最初からOSの初期設定しなければならないめんどうなものだった
パソコン通信などもしていた、なぜそんなことができたのか?
それは自分が引きこもりであり家に仕事もせずにいたからできたのである
パソコンとかは何か覚えるのに手間だからである

それからするパソコンの技術は日進月歩である、ハード面でもそうだがやはりソフト面でもそうである、それがAI社会になるということにもなった
このことで日本は技術の進歩に遅れとったのである、IT化もできず中国に先を越されたのである、技術は常に進歩しているからそれに追いついていかないと取り残される
そうして日本はIT後進国にもなったのである、経済でも落ちぶれたのである
韓国の方がITでは先んじていたのである、今日本で技術的に優れている分野はわずかである、その原因が最先端の技術革新ができず取り残されてしまったことである
失敗したのは早めにプログでもSSL化しなかったから検索でも取り残されたとなる、SSL化しないと検索すらされなくなるようになったからである、だからなんとかワードプレスに移行しようとしているがめんどうなのである

日本にそういう技術革新ができない訳ではなかったが何か現状維持でも豊かだからいいとかなっていたのである、そこに韓国でも中国でも猛追いしてきていたのである
中国には本当に驚いた、十数年前中国に行った時物価は日本の十分の一くらいだった
貧困国だったのにあんなに発展したことの驚きである、それだけ技術の進歩は早いことである
ここで日本が奢りになったということを書いている、日本は高度成長前にもどり謙虚にならねばならないとしている、日本人は高度成長時代を経て奢りになった
シャパンアズナンバーワンとかなり奢りになった、海外旅行ブームになりそこで日本は成金になって威張っていたとなる
それが今や東南アジアでも馬鹿にできない、貧乏国になった、ただまだまだ校と成長時代のことがあり日本は優れているとかという気分がぬけないのである
それは原発事故でもそうだった、日本は技術が優れているからロシアのチェルノブエリのような事故にはならないとかうぬぼれていたのである

日本の技術力はすごい、事故は起こらない

原発に関しては日本は後進国だったのだがそういう奢りがあり致命的な事故になったのである
何かスマホなどはやらなくてもいいとかスマホは子供に制限すべきだとか言う人がいる
それも一理ある、子供には害になることもある
でも何か技術というのはそうして両面がある、良くも悪くもなる
でも技術が日進月歩であり見逃していると遅れてしまい今の様な日本になる
ただ老人になるとスマホは使いにくいだろう、私はパソコンでなれているから使えるとなる、それでも画面が小さいから疲れるから嫌だったのである
スマホばかり一日見ていることは良くないことは確かである

何かスマホの不思議は武田邦彦氏が常に言っているように平安時代の人々がこれを使ったら無線で話ができるということは考えられないだろうといのもわかる
スマホは常時携帯している、すると何かある人が常にyoutubeなどで発言している
するとその人が憑依したようにどこでもついてくる感じになる
武田邦彦氏のyoutubeはいつも見ているからその人が憑依したような感覚になるのだ
何か洗脳されることにもなる、なぜなら何回も同じようなことを言うからである
それを聞いているといつの間にか洗脳されるともなる
それは場所を選ばず耳に入り眼に入ってくるからである
これは本とはまるで違ったものである
技術の進歩は常にそうして人間社会に意外な影響をもたらす、とにかく技術は社会を否応なく変えてしまう
車社会になったのもそうである、車によって社会そのものが替えられてしまったからである

「政府の施策と相まって先進国への道程における国民各位の協力もまた大きな意義を持っている」

先進国への道はけわしいのである」
「今後は先進国らしい姿に整えることにもこの活力を注ぐべきであろう」
 何と言う謙虚さだろう!  「姿を整える」と2度も言っている

日本人は1人当たりGDPで他国に抜かされまくる現実を知らない

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こういう意識だったのだが高度成長時代を経て日本は奢りになった、日本の技術は優れているとかなっていた、でもITでは遅れたのである
つまり謙虚さを失い遅れていてせ進んでいる国であり技術的にも優れているという奢りになったのが今日の日本の貧困化にもなった、人間が奢りが一番怖いということがある
奢りになると謙虚に努力することもなくなるからである
またもしかしたら日本人の高齢化が新しいものに技術でも挑戦しなくなったのかもしれない
高度成長時代は団塊の世代が主流であり若い人が多かったからてある
その高齢化社会になったことも影響したのかもしれない、年を取るとどうしても保守的になるからである
これからも老人ばかり増える日本で革新することがむずかしいとういことがある
ただそれは日本だけの問題でもない、中国でも高齢化してゆくからである
ただ本当に技術は日進月歩だからいつのまにか取り残されてしまうのである



2021年12月25日

政教分離しないと逆に宗教が攻撃される-公明党誹謗中傷の問題 (創価公明の批判が強くなる-政教分離が成立した経緯)


政教分離しないと逆に宗教が攻撃される-公明党誹謗中傷の問題

(創価公明の批判が強くなる-政教分離が成立した経緯)

四国放送、公式ツイッターで公明党を誹謗中傷
「地獄へ堕ちろ、カス」などと呟く→謝罪へ「原因は調査中」 


●政教分離の法律の生れた経緯

創価公明というのは完全に政教一致である、王仏冥合であり王は政治であり仏は仏教であり法華経である
これは中世のことであり今の社会に適合することはむずかしい、ただ歴史的になぜ政教分離が起きてきたのか?そのことが大事なのである
何かしら法律でもなんでも歴史的に考察する必要がある、それは歴史の中で必然的に法律でも生まれてきたからである
キリスト教がカトリックがローマ帝国で容認された結果として政教一致になった
宗教が政治権力をもった結果としてそれに反発してプロテスタントが生まれた
さらにフランス革命で自由、平等、博愛が生まれた、この博愛とはキリスト教の愛とは違っていたのである、キリスト教の呪縛から脱した博愛のである
人権でもそうである、ヒューマニズムとはキリスト教から生まれていないのである
なぜこうなったかというとキリスト教のカトリックの呪縛があまりにも大きいからそこから脱することがフランス革命の精神になったのである

それから戦後は政教分離が盛んに言われたのが日本の戦争が天皇を現人神(あらひとかみ)として御真影として国民にあがめさせて日本は神の国だから負けることがないとして戦地に行かされた、そして三百万人が死んだのである
その反省から政教分離が法律となったのである、現実に戦時中創価の創始者の牧口恒三郎が戦争に反対して獄死していたからである
まさに政教分離を実現していたのが創始者だったともなる
でも戦後の創価は最初は少数者の時は政治にかかわらなかったが公明党を創立して政治化したのである
池田大作がそうさせたともなる、池田大作が神のごとく仏のごとくなったからである
それで偶像崇拝化したのである

政教分離しないとどうなるのか?

今回のように世俗的なことでもそれが宗教問題として攻撃されてくる
またもともと創価公明は会員を選挙の時仏法の戦いと位置づけている、拠点に集まり一票獲得のために座談会を開き祈り日々選挙活動しているのが現実である
それは信心の活動であり宗教的行為なのである、そのことによって御利益があると福運がつくとかになり祈り票獲得が最大の仏法の戦いなのである
それは戦争の時とも似ていたのである、天皇が神であり国民はそのために命をささげるとなる
そういう過ちがあり政教分離の法律が生まれたが実行されなかったのである

●権力を得るための宗教団体の危険

創価だけではない信仰宗教は政治化している、オウムも実は政治団体でもあり政権奪取を企てていた、オウム王国を作ることを企てていたのである、ただそれが武力も辞さないとしてサリンとか武器まで作っていたのである
これも完全に政教一致になっていた、幸福の科学でもやはり政治化しているから同じである、だから日本では政教分離が実行されていないのである
自民党は創価の票をもらえるから批判しない、創価の票が入らないと半分が落選するという恐怖があるからだ、つまり現代の権力は選挙で得られるからそうなっている
そもそも創価は権力に執着している、なぜなら御利益とか福運とかはこの世の権力を得ることによって得られるからである、政権をとればみんな福運がつく、権力を得て楽な暮らしができるとかなっているからだ
権力を奪取した暁には会員は高い地位につけていい暮らしができるとされているからだ
それは共産党でも中国をみればわかる、権力をとったら莫大な富が共産党員に入る
官僚ともなって入るからである、それを目指して毎日選挙活動なのである

この世に不満な人を集めてまた宗教を利用してそうなっているのである
そういう組織団体では結局幹部が得する仕組みなのである、それはみんな幹部はいい暮らしをするようになるからである、豪邸でも建てている、それは今の日本の共産党でも同じなのである、不満な人たちを集めて幹部は得する仕組みなのである
そういう人達は宗教で御利益がなったとはなる、だから座談会では成功した人が信心あって成功したともてはやされる、体験談として語る

ところが実際は相当な数の人は成功もしないし金持ちにもなれない何かさらに不幸になる人が多いのである、それは数が多いから統計的にどうしてもそうなる
交通事故で死ぬ人も一般世間と同じようにいる、むしろ統計的にはもともと不幸な人たちが多いのだからさらに不幸になる人が多いのである
何百万もいれば当然統計的には不幸な人の方が多くなるのである
そういう人達を内部では見ているはずである、それでやめてゆく人も多いとなる
ただ人間はそもそも誰でも苦しむ、苦しまないで一生を終えた人などいない、それは宗教とは関係なくそうなっている、カルマをもち苦しむからその苦るしみから解脱するものとして仏教などが生まれたのである
ただなぜこんなに増えたのかというとそれは高度成長時代はみんなが経済的に豊かになった、それが宗教にも影響していたのである、つまりみんなが御利益が福運があったとなるからである、豊かになる人が多かった時代だからである
今になると日本が経済が衰退して貧乏な人達が増えると御利益も福運もないとなるから減ったともなる

●政教一致団体は自己矛盾になる

いづれにしろ公明党に地獄に落ちろなどと言われるのはまさに宗教政党、政教一致の政党だからである、宗教だと常に地獄に落ちるとか罰当たるとか平気で言ってくる
それも集団で何百万もの人間が言うのだから怖いとなる、何百万人が呪いの集団とも化するからである、それで怯える人達もいる、また内部でも罰当たる地獄に落ちるとなりやめれないともなる、別に政党なら変えることが簡単だが宗教政党になるとできないのである一票入れることが信心であり宗教的行為となっているからである
こうして世俗の価値観と一体になる時、国会議員は一番成功した人であり賞賛すべき人ともなる、でもその国会議員が賄賂をもらっていた、中小の会社に仕事を斡旋して賄賂をもらっていたかとなる、それは世俗社会に深入りして自ずとそうなったと思う
なぜなら世俗社会では別に利益を追求することはみんなしているからである
国会議員ともなればそういう誘惑があり権力をもっているからできるからである
第一そうした世俗の権力が欲しくて信仰と一体化しているのだからそういうなっても何ら不思議なのことではないのである

そもそもなぜ宗教が修道院とか寺とかで出家して妻帯しないとかになったのか?

それは世俗から離れるためであり世俗の欲とか悪に染まらないためにそうなったのであるどうしても世俗の中で生きれば悪にもそまるし利益追求から逃れられないからである
そこにどうしても歪められるものがあるからそうなったのである
職業というとき業(カルマ)であり職業自体が人間の業であり悪にもなるということでそうなった、それでお布施で僧は生きることになったのである
そのために無所有にもなった、ただこのお布施で生きることにしても問題があった
だからヨ−ロッパではキリスト教の修道院では労働していた、その労働も神の奉仕としてしていた、それが資本主義の発生した基だとしているのもわかりにくいがそうなっていたのである、仏教のようにお布施してもらうということを拒否したのである
禅宗でも一日成さずば食わずとかありそういうことがあった

禅宗は自分の性にあっている、なぜなら引きこもりで座禅して沈黙の行をしていたともなるのが自分だったからである
沈黙して自然とアイディンティティ化することを田舎でしてきたからである
つまり一人そうして修行していたともなる、意外とこうしたことが宗教でもあったのだ
天台宗が山岳宗教であり修験道であり山を聖なる場として修行していたからである
日本で一番古いのは天台宗なのである、山寺でもそうだし霊山でも天台宗が築いた寺なのである
現代の宗教は都会の宗教であり創価が団地の宗教となっていたのも全然宗教とは関係ないものとして生まれたのである、政治と経済の宗教である

●大衆民主主義はファシズムになる

ともかく宗教になるとやたら俗人でも地獄に落ちるとか罰当たるとかなるから怖い
地獄に落ちるというのがどういうことなのか?
その真意を知っている人が会員にいるのだろうか?そんなこと欲の塊りのような醜い人が言えるものだろうか?そこからしておかしいと気づくはずのだが気づかないからカルトだとなる、それも法律で制限されない、自民党は利用しているだけだとなる
これを放っておくとナチスのようになるから怖いのである、大衆ファシズムに成り安いのが現代社会だからである

現代とはすべて数で計算される社会である、ボランティアすら一人ではできない、権力がないとできない、十人以上とか人数集めると圧力になり社会は容認するとなる
つまり数は権力なのである、それが選挙である、数を集めることが権力を得ることだから人間は数としてカウントされるだけの存在にすぎないからである
それで最後は数に席巻されてナチスとなったのである
マルクス主義も唯物論であり人間を数としてみる、物としてみる、集団として経済からしかみない、だから全体主義になり宗教だと宗教ファシズムになる、似たものなのである
結局そうして権力は絶対的に腐敗するということになる
それが人間のカルマだったとなるからだ、何んでも個々人でも家族でもカルマの法則が働いているのである

いづれにしろ宗教と政治が一体化したら自己矛盾になる、宗教は絶対に批判は許されない神仏は絶対でありそれを批判はできない、でも政治とか経済とかでは常に批判がある
でも政教一致団体になると政治を批判すると宗教を批判するとみて仏に逆らうやつらは罰が当たるとか地獄に落ちるとか言う
逆に今度は一般の人達から政治にかかわることで別に宗教とは関係ないのに地獄に落ちろとか言われるようになる
別にそれは宗教として批判しているのではない、日ごろから政教一致だから政治のことが宗教にはねかえってそうなる
政治と宗教が別になっていればそうはならない、政治とか経済では常に批判があるからだそれは宗教と関係ないのである、そこが混同される

実際自民党であれ民主党であれ共産党ですら反対する人が地獄に落ちろとか言われないのである、政治には批判がつきものだからである
ただ共産党独裁になると中国のように批判は許されなくなる、それが政教一致になり
カンボジアで二百万人殺されたとかなる、それは共産主義が宗教のようになり批判を許されないものとなったからである
政治として政党を作るのは別に政教一致ではない、それは法律違反でもないのである
組織団体化することも違反ではない、それは政治と経済にかかわるものであり宗教にかかわらないものとして法律違反にならないのである
宗教でも組織団体化することは法律違反ではない、みんな一票を入れる権利があるし政治にかかわる権利がある

ただ宗教が本当に組織団体化したとカトリックのようになる
それは政治化して免罪符を売りつけたり宗教を縦に強大な権力を形成したからである
そもそも組織団体に宗教がありえるのか?
「神は人の心を見ている」というとき組織団体の心など見れるのか?
何百万人の人が集まるその人たちの心を見れるのか、もうそこには心はない、ただ数として集まり社会に圧力をかけるだけの団体である、心は関係なくなる
政教分離が意外と近代国家の基本にある、それが実行されていないのである
要するに法律が生まれるた歴史的背景がありそれを見ないから法律も活きてこないのである

●大衆民主主義はアメリカでももう成り立たない

結局民主主義からナチスが生まれたように大衆民主主義はそうなりやすい、すべて数だけが正義ともなんななる、数で押し切られる、そして数でしか判断できない
そして大衆には責任とか義務とか使命感など養われない、ただ理解できるのは御利益であり得することである
人間社会にはかえって民衆を導く一定数が必要である、それが前は貴族とかなっていた
これにも問題があるにしろ日本だったら侍がいて導くものとしてあったから重い責任が課せられていて切腹させられたとなる
だからそんな重い責任を負いたくないから民衆はなりたくなかったのである

ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige フランス語: [nTbl[s Tbli・])とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。

これがあったのである、今はそういうものが全くない、無責任大衆民主主義であり誰も責任をとらない、でも必ず責任をとらされる、民衆もとらされる、大衆もとらされる
それがナチスであり日本の戦争でも三百万人死んだのである
原発事故では故郷に住めなくなったのである、必ず無責任大衆民主主義でも責任はとらされるのである、自分たちの故郷を守らないと故郷に住めなくなるという責任を取らされたのである、何か人間は責任から逃れられないようにできている
いくら大衆民主主義で無責任社会になっても必ず大衆が責任をとらされるのである
それが自覚されていないのである、そして苦しみとなって現れたときカルマを意識する
何も苦しみがないとカルマでも意識されないのである

今は誰も責任をとらない、原発事故でもとらない天下りした官僚も金をもらうが責任は一切とらない、誰も罰せられていないのである、第一検察も官僚であり天下りしていたからである、罰することもできないのである
民主主義は機能不全にもなっている、その行き着く先は選挙で選ばれたナチスとかにまでなる、アメリカでも民主主義が機能しなくなっている、それで国会に暴力で乱入したりする、おそらく民主主義は大衆民主主義となり崩壊してゆく、政教分離も実行できない
ただ国会議員になることはなど制限すべきであり禁止すべきかもしれない
国会議員とかなると権力が大きいからである、それで公明党議員が逮捕されたとなる
下請け会社の何百社に斡旋していたとかなる、それだけの権力が持てるということであるそれなら市町村単位とかでは有効になるかもしれない、実際に公明党とかの村長とか町長とか市長がでていない、共産党の市長でも一人くらいであり自治体の長にはなっていないからだ、そもそもギリシャのボリスのような一万くらいの人口から選挙があった
だから狭い範囲だと成り立つとなるがアメリカでも何億とか有権者で決めることが無理になったのである、その選挙も不正だったとかなるのもそうである、ただアメリカでは定期的に共和党と民主党で政権交代しているからいいのである
日本では政権交代が一回くらいしかない、戦後70年は自民党一党独裁にもなっていたから問題なのである
宗教は自由である、でも宗教が政治権力を得るためのものになることはこうして問題が大きいのである
国会議員になるのは宗教政党はなれないようにするのも法律化することも必要である
そのために歪められてしまうからである

●民主主義とは権力の暴走を権力を監視するものだった

民主主義とは三権分立があり権力を相互に監視して権力の暴走を防ぐものとして成立した

ジョン・アクトンの「権力は必ず腐敗する。されど民衆(大衆)はさらに腐敗する。」

権力は必ず腐敗して横暴になり暴走するからそれを監視して制御することが必要になる
それが一党独裁で政権を腐敗させない横暴にさせないものとして民主主義が生まれた
権力を持つと人間はどうしても横暴になり腐敗するからだ
だから政治の理想は老子のように治めずして治めるとか聖書のみどり子に治めさせよとか極端な思想になる、つまりそれだけ権力をもったものにどれだけ人間は苦しめられてきたか、そのためにこうした極端な思想が生まれた

権力とは人間の欲望と密接に結びついている、権力をもつと中国のように人民を奴隷のようにして王だけが栄誉栄華の生活になる、地下まで王の大宮殿を作っていたのが始皇帝である、その権力は日本では考えられないものとなる
死んでも地下で王として君臨しようとしていた、酒池肉林でもそうである
中国人の欲望は強いからである

とにかく人間の歴史は血で血を争う歴史であり権力争いの歴史だったのである
その原因が人間の決められない欲望にあった、欲がおさえられないから権力争いになる
それは現代でも継続しているのである
民主主義になったからといって人間の欲は変わらないから同じことが起きる
でもその権力を相互監視するシステムとして民主主義があった
そうしてもまた権力は誰の手に渡ったかというと大衆なのである
大衆を数として集め権力を得ようとする宗教でもしばり権力を得ようとする
宗教もまた権力と結びつき腐敗するのである
そういう人間の歴史があり民主主義が生まれた、でも政治に関してはうまく機能しない
民主主義は機能不全に陥り一番ファシシズムになりやすいものだったのである

数がすべてであり数を集めたの者が権力をとるということになる、選挙はその最大の手段だとなる、何かそこでは正義もなにもないのである、数が正義を決める
暴力が正義を決めると同じである、数の暴力なのである
また依然として暴力が正しいか正しくないかより力で決められるのも変わっていないとなる,アメリカ自体が世界一の軍隊をもっていてそうしているからである
アメリカが世界の検察官であり警官であるがそれは世界一の軍隊を有していることでそうなっているだけである、アメリカが正義でも何でないのである
ただ力が正義になる、それは中国でも同じである

この島は俺の物だと言えばそうなる、もともとこの島は歴史的我が国のものだったと言っても無駄だとなる、巨大な軍隊が侵略して占領すればどうにもならないからである
そういうことで国際問題に法律は適応しない、力の強い国が法律になるのである
それがアメリカであり中国になってゆくのである、覇権国が法律を作り実行する
従わない者は暴力でもって罰せられるとなる
結局人間は人間を治めることもできない、神によって治められるほか真実の平和は恒久平和などないのである
宗教もまた権力求めるものとなったのが人間社会だからである





posted by 天華 at 16:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月24日

年の暮、冬の灯、寒鳥、寒雲 (年の暮の俳句十句ー整理に追われる年の暮)


年の暮、冬の灯、寒鳥、寒雲

(年の暮の俳句十句ー整理に追われる年の暮)

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ここの梢に二羽ヒヨドリがとまっていた


冬の灯の庭の石に漏れ人住みぬ

寒鳥の梢鋭く二羽とまる

寒鳥の高き梢より飛び去りぬ

寒雲の川面に映し日も暮れぬ

ムクドリの幼稚園に群れ集まりぬ

黒き猫我が家によりて冬の暮

母なきや厨(くりや)に一人年暮れぬ

我が家を一人守りて年の暮

十年以上空家に住まず年の暮

自転車屋街に一軒年暮れぬ

助けつつ助けられつつ年の暮

我が一人遺影に向かい年暮れぬ

近所の人一人死にたり年の暮

本に埋もれ整理しきれず年の暮


冬の灯が庭の石にもれる、そこには人が住んでいる、石もそこで活きている、人間化するのである、でも空家には石も死んでいるとなる、ただ空家に入って勝手に庭を見ているのも不思議である、石に興味があるからそうしている
ともかく空家が多すぎるのだ、その空家は立派であるが十年以上それよりずっと空家だったが人は住んでいない、でも荒れていないのが不思議なのである
なにかしら手入れに来ているのだろう

でも空家になっている時間が長すぎる、誰も住まない家とは何なのだろうとなる
全国でこの空家が膨大になる、すでに800万軒という空恐ろしいものとなり遂には
2000万軒にもなる、これが現代の日本を象徴している
もう自治体でも市町村でも維持できない所がでてくる、日本自体が縮小してゆく
その衝撃が大きいのであく
かつてにぎわった温泉街が廃墟化しているのも驚く、何か原発事故周辺はゴーストタウンになったもしかしたらここは未来を先取りした地域なのかともみる
市町村自体が消滅してゆくのである

子供が遊んでいるのも見かけない、ただ幼稚園の運動場にむくげが飛んできていた
団塊の世代の子供のころは本当にわんさと子供がいて遊んでいたのである
今は幼稚園で子供が遊んでいるだけである、何かこれも淋しいのである

自転車屋は一軒なんとか経営している、でもいづれなくなるだろう
するとどうなるのか、さられにさびれたものになる
見えるのは老人であり話を聞くのは腰が痛いとかなんとか病院に通っている老人の話なのである、子供の話など聞かないのである

今年も自分人一人が家を守って暮れる、墓地の公園の銀杏の木の梢に鳥が二羽とまっていた、いかにも寒鳥だとなる、見たのはヒヨドリである
これはいつもみかける、黒い猫に餌をやっているから毎日来る、これも手間である、家にはあげないしこの猫は慣れないのである

ともかく今日も忙しかった、買い物に三回行った、結構この買い物が手間なのである
あとはいろいろ整理することがある、本の整理が一番問題である
本はなかなか整理できない、その内容を整理できない、引用するものがある、でも本の整理はどうしていいかわからない、パソコンでテキスト化すればいいがめんどうである
ただ読み返すると本にはいいことが書いてある、ネットにない高度なものが蓄積されけいるのである、ただその整理がむずかしいのである

人生の最期は整理が仕事にもなる、年の暮だと今年の整理だとなるからだ
一人なんとか家を切り盛りして維持している、その合間にプログを書いたりしている
今年も近くで一人死んだ、また隣に前住んでいた人も二人すでに死んでいたのである
これも驚いた、近くでも今や葬式も身内でやったりするからわからなくなっているのだ

今年も終わりである、今年はやはりコロナウィルスにはじまりコロナに終わったとなる
これはインフレインザと対して変わらないという人もいる
たいしたことがないのに大騒ぎしているという人もいる、騒ぎだけが大きくなったとも言う人がいる、それもそうなのかもしれない、本当に実被害は10とするその千倍くらいの騒ぎになっていたしもしれない、それだけ未知なものに人は恐れる
それはこの辺の原発事故の放射線被害でもそうだった
何か未知なものは恐ろしく感じるのである、どこまで恐れていいのかもわからないのだ
ただ本当に恐ろしかったのは津波の方だったと思う
また地震でもそうである、そっちの方がずっと怖いと感じた
コロナウィルスにはあまり自分の場あい恐怖を感じなかったのである
だからワクチンも打たなかったのである
そもそも一人としか濃厚接触していないからうつらない思ったからである
仕事している人は強制的にもなった、ただ騒ぎだけが大きくなったということは言えるかもしれない、実際は日本だとインフレインザくらいの被害でありそうしたら何ら騒ぐ必要もなかったとなる、ただ未知なものを人は恐れるのである

幽霊の正体見たり枯れ尾花

コロナウィルスであれオミクロンであれこれになるのかもしれない、本当に正体がわからないと人間は過剰に恐れる、それに拍車をかけたのがマスコミの報道だったのかもしれない、報道は恐怖を倍増させたということはある
ただなかなかそのことに対して恐怖をあおっていても言えないということがある
結局は未知なものだからどうういふうになるかわからないからである
まず今回もウィルス専門家があてにならないことがわかった
原発事故でもそうだった、御用学者となり科学的真実を報道しなかったのである
わかったことはこの世にはまだまだ未知なものがあり科学者もわからないことが多々あるということである、だから専門家もその未知なものにたいして何か確信をもって言えた人はいないということだったのである

スマホを買った、写真をとったがパソコンに転送できなかった
スマホはどうしても必要になっている、ただパソコンが本体でありスマホは補助になる
遠くから通信できることが強みでありパソコンは創作に使うとなる、スマホでは創作は無理だとなる、絵を描く写真を加工することは無理だとなるからだ


人間は一緒に育たなければ家族に兄弟にもならない (一番大事なのはともにする時間だった)


人間は一緒に育たなければ家族に兄弟にもならない

(一番大事なのはともにする時間だった)

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時間は限られている、何に時間を配分するのかそれが人生にもなる
なぜなら配分する時間が限られている、その貴重な時艱を何に費やすかで人生は決まるからだ
くだらないことに時間を費やしたら何の実りもないとなる
でもそういう人が実に多いのである、それは時間の貴重さがわからないからである



推理ドラマが面白いのは地域性、家族関係、金の問題、借金問題とかが必ずテーマになっている、何かこの問題が人間社会に多いからである
今回は函館とか青森が舞台となっていた、函館は何回も行ったから知っている
市電が走る街であり明治時代を偲ぶ場所としてある
そして連絡船で青森までわたり捜査する

もう一つのテーマは必ず青春時代とか若い時お起こしたことが後年に問題となって尾をひいている、女性関係などで尾を引いている、愛していたがかなわなかったとか恨んでいたりする、何かそういうことが尾をひいている
そしてもう輝いていた青春時代はもどらないとかいうのはこれは後にならないとわからない、このことが実際は一番痛切なことかもしれない。

青春とか若い時は実は一時の輝きでありあっという間にすぎる
でもなんか青春時代に経験したことは老人まで影響している、だから認知症になっても若い時に経験したことは忘れないとなる、姉は従軍看護婦でマレーシアのジョホールバルで四年間辛酸をなめたからそのことを忘れないで千回も語りつづけたとなる
なにか印象に残ること出合いが青春時代に起きる
その後にも起きるとしても一番青春時代に起きやすいとなる

そしてその経験したことが何だったのか老人になってようやくわかるのである
これは人間の歴史と同じである、明治維新でも太平洋戦争のことでもふりかえりそれが何だったのかわかる、ただこうした歴史的事件は評価するのがむずかしい
ただ個々の人生をふりかえりありあのことはこういうことだったのかとわかり納得する

人間の家族関係も謎であり複雑である、複雑怪奇でもある、それで昨日の推理ドラマでは双子の兄弟間で起きた、でも両方とも顔は似ていても全く戸籍の上だけで兄弟であり一緒に育ったことも無いから他人だった、それで金のために双子の兄弟でも一方を殺したのである、そこになんら兄弟という感情がなかったのである
人間は動物ですら一緒に育たないかぎり肉親とか兄弟姉妹の感情がもていなのである
犬に育てられたとか子供の時親しくしていると犬が親代わりになったりする
動物の子どもは身近な生き物に警戒なくついてゆく、身近にいるものを親と思うのもそうである

私の場合は兄がいた、父親は違っていた、でも家で一緒に五才頃まで育ったのである
だから「あんにゃ」として一緒にいたのである
それで兄と認識できることになった、もし一緒に5年間でも一緒に育たなかったら兄とはならなかった、何かこういうことは頼朝と義経の関係にもあったみたいだ
血のつながった兄弟でも兄弟として育っていないから兄は無情に殺したのかとなる
ただ政争になると兄弟間でも争い殺し合いになっているから別である
でも別なドラマでは兄弟で争い弟を殺そうとしたが兄が子供の時一緒に暮らした弟を思い出して殺すことはしなかったのである
兄弟の情が残り殺せなかったともなる
普通に一緒に育っても遺産争いで骨肉の争いとなるから兄弟でも子供の時一緒に育ってもそうなるから人間はそういうものだとなる
子供の時一緒に遊び暮らしていてもそうなるから人間に共通して大人になると欲に左右され醜いものとなる

その女性は生まれて五年間は実の親に育てられた、でもその子供を老人になり頼った
その時認知症になっていた、でも子どものことを自分の子供と思って頼った
でも子供は親とも思っていなかった、ただ親が金をもっているから施設にあづけてその金をもらうだけの人となっている、その女性は全く情がなくなっていたのである
三人母親が変わったが最後の母親とは長く一緒にいた、でもその親が病気になったとき捨てた、何かあるにしろ一番長く一緒に暮らした親を捨てた
それで自分に「ひどい娘だわ」と一言電話で伝えてあっけなく死んだから良かった
要するに深い恨みを残して死んだのである、ただ母の実家は不和分裂の家でありそれが継続されていたとなる、そして完全にいまになると切れた

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兄が母の実家にいたのは五年間だった、でも全く忘れたというのもわからないその後交際がなくそうなったのか?
兄は母はその後も連絡してかかわりあっていた、交通事故で死ぬ前に自分の家に寄ったのも不思議だった
人間は死ぬとき親しい人に別れを告げに合いに来るというのは本当であったとなる

孫でも一生に育たないと人間は愛情がわかない、外孫が何か愛情をもてないというときそうである、人間はやはり一緒にいることで愛が育まれる、それがなかったちら血縁というまえに他人でしかないのである
自分の兄の場合は5歳まで一緒に育ったから兄と認識していたのである
また自分の家では良くしなかったかからいつも悪いという感情があり交通事故で死んだので墓を自分の家の墓の隣に墓を建てたのである
でも一緒に育った実家の女性は兄のことを覚えていないという、5歳まで自分の家にいてあと15歳まで実家でともにいたはずなのである
でも全然記憶がないという、こういうのもその女性は異常化した人間になっていたからである、その理由は良くわからない、長い間付き合いがないのでわからないのである

いづれにしろ人間は兄弟でも姉妹でも一緒に育たなければ血縁でも愛もないし育たないし他人に過ぎないということである、だから双子の兄弟でも殺すことができた
もちろん遺産争いで殺人もあるから一緒に育ってもそうなることはある
でも確かに親子と兄弟姉妹でも一緒に育たないと家族の感情が持てないのである
結局自分自身は60年間一緒に母と姉といたから深い関係になっていた
愛情をもつ関係になっていた、母と姉は争っていても不思議に実際は憎しみがあっても愛していたのである憎しみも愛の表現だったということもある
そういうドラマもかつてあった、憎しみつつ愛していたとなる
それは60年も一緒にいれば自ずとそうなるのである、やはりその間に喜怒哀楽を共にしたからである、だからわからないのが熟年離婚なのである
長い間一緒に生活していてそうなることがわからない、
なぜならもう老人になってから共に過ごす時間が短い、生きる時間がないからである

人間にとって時間をほど大事なものはない!

いろいろあっても一番老人になって後悔するのは時間を無駄にしたことであった
なぜなら時間はもどらない、時間は限られている、時間は消失する
でも時間は金がなくしたときのように千円でも損したとか無くしたとかなると必死に探すようにならないのである、何か無意識的に過ぎてゆくだけなのである
時間は意識できないのである、そこに人生の落とし穴があった
もっとも貴重なものが意識できないことだったのである
愛をはぐくむにも家族になるにも時間が必要なのである、その時間を失ってみて時間の貴重さをしる、そして時間は公平なのである、みんな平等に時間をは与えられている
特別何倍もの時間を与えられている人はないない、だから金持ちでも必ずしも時間に関しては平等なのである、その時間によって経験することが違ってくる
限られた時間しか経験できないことである、もし人生が100年とか200年になると経験することが多くなるから誰でも学者にもなれるとなる
ただ経験するにしてもその年代でか経験できないことがある、子供の時の経験は最も貴重であり青春時代でもそうである、その後の経験は何か希薄化する

確かなことは最も失いやすいのは時間である

これだけは確かである、それは金のように意識できないからである
だから金持ちでも金があっても時間を失っている、金で穴埋めできないのが時間なのである、金があってもでは何かしようにも時間がかかったり体力がないとできないとかただ金があっても家にいるだけだとなる、また病気になったりしたら何もできない
金があっても歩くことすらできないとなると金はなんにも役にたたないとなってしまうのである、だから時間を有効に活用した人が実際は人生で本当に生きたとなる
価値を残したとなる、そして老人になると過去の経験したこと学んだことが宝となる
そういうことで今自分は過去をふりかえり旅したことなどで詩を作ったりとかしているのである、旅した時間も貴重なものだったのである
でも旅でも車でしたとしても記憶に残りにくいのである、記憶に浮かんでこない、だから歩く旅していた人はかえって旅を記憶している、江戸時代とか戦前でも旅した人は記憶している、それは歩いていたからである、一歩一歩歩いていればそれは体で覚えているともなるからだ、でも車で行った人は通り過ぎるだけであり記憶に残らないのである



2021年12月22日

車社会の破壊したものその広範囲な影響 (歩行者と自転車は車にとって不倶戴天の敵)


車社会の破壊したものその広範囲な影響

(歩行者と自転車は車にとって不倶戴天の敵)



車社会批判

マイカーの普及とともに最も基礎的な共同体である家庭は崩壊に向かい、家族の紐帯から切れた個人はロードサイドを彷徨い、マイカーをもたない者は自室に籠もっています。そして、身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。

共同体を破壊するクルマ社会であることは明白です。現に、マイカーの普及とともに最も基礎的な共同体である家庭は崩壊に向かい、家族の紐帯から切れた個人はロードサイドを彷徨い、マイカーをもたない者は自室に籠もっています。そして、身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。

自動車が自動車である限り、つまり個人の我が儘を許す乗り物である以上、いくら文明の利器としての性能が向上しても、その文化破壊の本質は変わりません。もちろん、自動車そのものの廃絶は正気の沙汰とは思えません。


●車は人格まで変える、変貌させる

夕べ相馬市街を走っていて路地から細い道に出たとき車が走ってきた
市街だからそこは車が通らないと思っていた、だから路地からまっすぐにぬけて走った
でも車が通っていた、ただ通り抜けてその手前で車がとまった
そしたら後ろの車の運転手が「この野郎」とか叫んだ
自転車は車を運転する人からみると目障りなのである、急に飛び出すからである
こういう経験は前にもあった、旧街道の新田川から原町区に入る所で自転車で出ようとしたときこれ馬鹿野郎と大声で車が走り去った
その道の手前では止まる、そこは大きな道路だからである
ただ何か車は自転車が邪魔にるなのだ、目障りなのである、それは急に道を横切るからである、また歩行者も目障りなのである、すべてが車優先社会になっているからだ

車は相当に暴力的なものであり人間の人格まで変える、

車に乗ると性格が変わる人は、着ぐるみを着て性格を豹変できる人と同じ効果を得ている

要は、車という仮面があるから、本当の自分をむき出しにできる。他者(他車)に暴言を吐こうが、窓を閉めている限り聞こえないでしょう。車というのは、人によっては、本音を一気に開示する場所だと言えます。


<ハンドルを握ると性格が変わる人の特徴>
・満たされていない
・ストレスが溜まっている
・感情を吐き出す場所が車しかない
・語り合える親友や機会に恵まれない
・いじめっこ体質
・やられたらやりかえす思考
・被害者意識が強い
・自己愛が強い
・思考が浅い
・スリルが大好きである
 www.xn--gdkl9f4az243c.com/1238.html

普通だったら「この野郎」とかまるで襲い掛かるような言葉を社会でははかない、
全く礼儀もなにもないのである、それは車という乗り物がそうせさるのである
顔は見えないしどこの誰かもわからない、それでこうした暴言でもはき一瞬にして走りさる

●機械が道具が人間を変えた、人間を人間と見なくなった

それはネット社会になったときも起きた、普通面と向かって言えないことでも言う
それは暴力的になり相手のことなど考慮しない、それは対面でないからできたことである礼儀もなにもないのがネット空間になっていたのである
それで攻撃されて死んだ人まで出るようになった、普通だったらこういうことはありえなかったのである、匿名化された世界で相手を攻撃しやすくなったからである

だから不思議なのは人間は文明化すればするほど機械化すればするほど野蛮になる!

これは逆説である、道具を使い機械化して人間は進歩して発展したとされるからだ
でもよくよく人間の歴史をみればそうではない、道具を使い機械を使うことで人間は恐ろしいほど野蛮化したのである
原始人が野蛮だというがその野蛮さは限られている、その最悪の例が原子爆弾だった
つまり最高の野蛮性が原子爆弾だったのである
大量に一気に殺戮できるからである

原子爆弾ほど野蛮なものはこの世にない

人間の野蛮性の極限として原子爆弾があった、例えば生物界を見る道具を使う動物はいない、それで猿でも石をもち石を投げたり石で相手を攻撃すると結果的どうなるのか?
そこで野蛮性が過疎されて猿という種が絶滅するとまでなる
石だけでもそれだけの能力が生まれ戦いが野蛮になってくるからだ
それは刀の時代から鉄砲の時代に変わった時もそうである
刀で戦っていた侍は鉄砲を使うことを躊躇したという、それは侍は刀とか槍とかで戦うものであり接近戦であり遠い所から鉄砲で戦うの侍の仁義にかなわない、卑怯なやり方だと見ていたのである
刀だと対面的になりそこに人間的なものがうまれて武士道が生まれたとなる
鉄砲を使い始めるとただ人を大量に効率的に殺す道具となる、そうして鉄砲から原子爆弾に進化したのである

何か文明の発展とは進化とは科学技術の発展であり進化である、でも必ずそれと同時に人間性は失われてゆく、マイナスの面がある
例えば車だと旅行していても「旅は道連れ、世は情け」とならない車は鉄板に閉じ込められて他者と道連れになり一時でも人間的ふれあいがないのである
そこで情けも消失するのである、情が車の人とは通わないのである
歩いて旅していたらそうはならないのである、だから旅しても車の人とは話すこともないのである、車は暴力的であり人と人が情を交わすことなど拒絶しているからである
ただバイクでも自転車だと逢うことがある、でもバイクと自転車は相当に違う
バイクの人は電動バイクになることを嫌っている

音がでないとなにかものたりなくなる、躍動感がなくなる、それで嫌っている
他の人にとっては騒音なのである、迷惑でもバイクに乗る人にはそうではないのである
そんなものかと思うがバイクの乗り物はそういうものなのである
車でも人間的なものは消失してゆく、一つの狂器になってゆく
それが常に生死とかかわっているからぴりぴりしていて暴言を吐いて走り去ってゆく
もし見知らぬ人でも歩いていれば自転車とかならこうはならないのである
相手に対して気遣うということがある、歩いていてもそうである
車はこうして相手を無視した一方的な暴力的乗り物なのである
つまり車が人間の人格まで変えてしまうのである

●人間のつながりをも車は破壊した

なぜ今人間はこれほど文明が発展したのにかえって住みずらなくり人間の情も失い、人間の社会生活の基本である礼儀すらなくなった
これも機械道具がそうさせたのである、だから現代の戦争ほど怖いものはない、野蛮なものはない、相手が人間とも見ないだろう、機械になるとそこに刀で一対一で戦うことはない一挙に大量殺戮となる、そこに人間はいない、人間は見ない、人間とも認識しないのである、ロボットの戦争になるときロボットは人間を認識しない、人間は一つの物体となり数字となる、AIが発達してもそうである、コンピュターでのゲーム感覚の戦争になる
そこに血を流し涙を流す人間は見えなくなるからだ
つまり現代人ほど野蛮化した人間はいないということである
それは機械や道具を使うことによってそうなったのである
ただ人間は便利なものを使うことをやめられない、それを経験したのは石油ストーブに石油を入れるの手で押して入れるものを去年は使っていた、節約するものを使っていた
これは手間であり労力だった、自動で給油できるものがありそれだと楽だった
だからこうして機械化すると格段に楽になる、だからこそ機械化は推し進められたこともわかる、それで人間は別なことにエネルギーをそそぐことができるようになった

でもそのマイナス面も大きいものとなったのである、意外と共同体が破壊するものが車だと気づいていない、なぜ共同体が破壊されたのか?

身近な地域からは相互扶助の精神が消え去ろうとしています。
その様相は、都市景観の混沌、乱雑、無粋に端的に表れてもいます。

街自体がマイカーとなり郊外のイオンなどで買い物するので街の店は消失してシャッター街になりさびれた、第一歩かないからである、人が街を歩かないからそうなったのであるそうなれば通りの役割もない、ただ車が走っているだけの通りでは街は成り立たないからである
つまり街自体が車社会によって破壊されたのである、また共同体の中でいたわるとか人と人のつながりもなくなったのである
その影響は余りにも大きすぎたのである、だからなぜ原発事故で避難区域となったところが一挙にゴーストタウンになったのか?それは車社会が原因していたのではないかと考察した、マイカーとはそれがそのまま外へ遠くへ遠くへと目指すものでありそのマイカーが家とまでなる、だから何かあったら別な所にそのまま移動する、移住するとまでなる
なにかその土地と深く結びついていないのである
だからここだけではない、何かあると一挙に車社会だと地域はゴーストタウンになる
車が家でありその家が移動して移住して人もいなくなるということである

車がどれだけ人間社会に影響したか、それが社会自体を人間の人格まで変えてしまった
人間は非情な機械にもなったのである、だから老子が鍬とか道具まで否定したのはそうした道具が人間性を奪ってしまうからである、その鍬が車に進化したのである
石器の兵器が原子爆弾に進化したのである、その進化の極点になったのが原子爆弾なのである、そして核戦争で人類が滅亡するというのが人間のカルマだったのである
なぜ近代戦争で第一第二次世界大戦で大量殺戮になったのか?
それは機械化戦争でもあったからである、大量殺戮兵器により戦争だったからだとなる
それが原子爆弾に象徴されていたのである

●歩行者と自転車と車は不倶戴天の敵

結局車社会化大都市化社会とかグロ−バル化社会とかは地域の共同社会とかを破壊してきたのである、すると基本になる人と人のつながりも消失した
田舎でもこの野郎とか大声で叫んで誰か知らない人が車で走り去ってゆくだけだとなる
もし昔なら人々は相手を気遣うことがある、でも今はない、車というのはそれをさせないのである、車から起きる悲劇は無数にある、交通事故によって人生が狂わさせられる
それが推理ドラマの定番である、兄も40才で交通事故で死んだ
交通事故の毎日ある、携帯でも地域の交通事故の情報が毎日のように知らされる
でもいくら注意しても交通事故は起きる、とめられないのである
鉄道事故ならほとんど起きない、レールの上を走っているから起きないのである
車はどこでも入ってくる、だから街中の夜は車を走らせない禁止するべきだともなる
夜は危険だからである、もちろん自転車も危険とはなるが車はさらに危険だからである

ともかく歩行者と自転車ー車とは敵対関係にある、不倶戴天の敵なのである、そうさせたのは車社会になったからである、歩行者と自転車は車からすると邪魔者になるからであるそれも異常なのだが車を運転する人はそれを感じていない、だから車優先社会であり歩行者でも自転車でも目障りになりどなりつけるのである
もちろん自転車側にも問題がある、ただ車社会だから車社会に適応するように社会がなっているのだからそうなっているのである

不倶戴天の敵」とは、相手を生かしておけないと思うほど憎しみを強く抱いている敵を意味する言葉です。

「同じ天の下にはいない」という状況を指すので、「同じ空の下に生かしておけない」ということになります。
それほど恨みや憎しみ、怒りといった強い感情を向ける相手を指す言葉なっています。

まさにこれなのである、そこに和解もできなものとしてある
歩行者と自転車は排除すべきだとまでなっているのである、社会から抹殺すべき対象にまでなっているのである

地域が地方の街が経済的衰退したというのも車社会のためだというのもそうである
とにかく車は外へ外へ遠くへ遠くへと志向するものだから住んでいる場所から離れるものだからそうなるのである、だから何か肝心な自分の住んでいる場所は仮にいる一時的な場所ともなり人間関係も希薄化するのである

そうして突然原発事故になったりして人々は故郷でも自分の住んでいた町でも一挙に人がいなくなる、ただそこに空家だらけのゴーストタウンになった
放射線被害があるにしてもそれだけの理由でそうなったとも見えないのである
また貨幣というのはそもそも何か常に流通するものであり外へ外へと向かうものであり
内部で生産消費するものとは違った機能がある、それも外部へ向かうことをすすめたともなる、補償金の額が大きかったからである

いづれしろ現代文明は様々なことで限界に達している、車社会は全部肯定できない
例えば六号線とか国道なら一つの鉄道のレールのようにも見える
車が走るレールに見える、だからそこで自転車でも横断するときは注意してとまる
でも街中だと今回のように路地を出たら急に車が走ってきたりしたら止められないこともある、夜だっから余計にそうなる、そういっても結局車優先社会では自転車が悪いとなるのである、車社会を批判しても民主主義社会だと多数決だから自転車を優先しろとか言えないのである、せめて自転車用道路を作れといっても日本では土地が狭いから造りにくいとなる

車を全部否定できない、でも鉄道のように一定の決められたレールのように車を走らせたり街中を来るを通れないないようしたりする工夫は必要である
これも実現はしにくい、何かいくら車社会を批判しても車無しの生活がありえるのかとなるからだ、ただ制限すべきなのことは確かなのである
それで高齢化社会になると老人は車にのりづらくなり減るかもしれない
そのためにトラック運転手だった人は足を怪我して運転できなくなり老人になって自転車を乗るようになった、そして仲間にもなったとなる
私はなにか自転車に乗る人とは話したりするのである、でもそういう人は車社会の脱落者のようになっているのだ、それは社会の脱落者のようになる
ニートとかは何か車の運転できない人が多いのである 
posted by 天華 at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月21日

冬の暮、年の暮、冬椿、冬薔薇、冬菜、残り柿 (相馬市城下町まで冬の俳句十句)


冬の暮、年の暮、冬椿、冬薔薇、冬菜、残り柿

(相馬市城下町まで冬の俳句十句)


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牛二頭ものいわずして残り柿

牛二頭ここに動かず冬の雲

また見つく廃屋二軒年の暮

代重ね一家の墓や冬の暮

墓守る冬菜やここは横手かな

冬の日や抹茶一服城下町

冬椿忠義の松や城下町

冬の灯や6万石の城下町

冬柳長々とたれ飲み屋の灯

我が庭や側にいとしむ冬薔薇

誰が触るや月影さして冬薔薇

冬の星一つや帰る道知りぬ

二時ころ相馬市まで行った、途中横手に墓地があり冬菜の畑があった
次にまた刈田の中に四五基の墓があった、一家の墓である
一応木に囲まれている、こういう一家の墓も田舎にはある
村の墓地もあるが一家の墓もある、何か墓は田舎では土地と結びついている
田舎でも農家とか田畑の中にある墓地は違っている
それは土地と結びついているのだ、そして代々守ってきたとなる
墓地が自然の風景と一体となりあるのが田舎である
田舎と墓が切り離せないという時、農業中心の社会だとそうなる

なぜなら土地に根付いて生産して暮らしていたからである
だから墓も代々あり土地に根付いているという感覚になる
でも実際は江戸時代には庶民の墓はなかったのである
一家の墓とかもない、家族墓ができたのは明治以降だからである
墓を作るには金もかかるから作れなかったこともある
また墓を維持することは簡単ではないから村の共同墓地に埋めた
それがホトッケポとか地図には仏方となっている
そういう共同墓地は村の誰かがお参りするからつづいたとはなる

この辺で牛は相当減ったのかもしれない、牛が見かけない、ただここは残っている
放射線被害でやめた人が多いともなる、牛がいるのも一つの田舎の風景であり牛がいるということでやはりそれは心にも影響しているのである
今は冬だから冬の雲のように牛はもともと動かないのである
ここには牛二頭がいた、写真にははっきり映っていない

相馬市の不思議は一応城下町であり城下町の雰囲気がある、それで何度もそのことを言っている、6万石の城下町である、ただ城跡に石垣が残っているくらいで何か城があったというのを感じないのである、でも相馬野馬追はとても六万石でできる祭りなのかとなる
あんなに行列ができるのか、馬の行列ができるのか不思議である
ただ相馬では馬と切り離されず歴史があった、相馬氏が騎馬軍団でこの地を支配したとなるからだ、武田の騎馬軍団ともにている、そのために農家に郷士が多く兵が多くあれだけの500騎もの行列ができたとなる

忠義の松というとき城下町だとそうなる、その松に冬椿が咲く、それは侍の夫に仕える妻だとみるのである
大町の柳は一つのシンボルである、大きな柳だからである
あそこに飲み屋があるのも合っている

庭の冬薔薇は月影に照らされて浮かび上がる、冬薔薇もいい、身近に咲いてめでるとなる今日は寒く無かったら行けた、昨日5度くらいであり寒かった、明日はまた寒くなると言うので出かけた、寒いとまた外に出れずに運動不足になるから困るのである
今年の年末は寒くなる
それにしても横手の方でまた二軒空家を見つけた、何か空家が本当に多い、目立つのである、年の暮で誰が住んでいたのかと思う、空家800万軒とか将来二千万軒とか空恐ろしい数字になる、空家だらけになる、それは小高とか浪江とか原発避難区域で現実化しているのである、ゴーストタウンになる、どうしても町が継続されると見えないのである
若い人は流出したからであり老人だけでは継続できないとも見るからである





人間は他人の苦しみを理解できない (苦しみを経験した人同士が理解し合える―認知症も理解できない)


人間は他人の苦しみを理解できない

(苦しみを経験した人同士が理解し合える―認知症も理解できない)


人間は他者をまず理解することがむずかしい、他人の苦しみを理解すること自体むずかしい、なぜなら何に苦しんでいるのか理解できないからである
また様々な苦しみがあってもそれぞれ違ったものだからである
それで推理ドラマで良く同じような苦しみを持った人が仲間となり恨みを晴らすとういうストリーになる
それは子供なくした親だった、20代くらいとか10歳以下とかの子供が殺されたとか
恨みを共有した、それで仲間で恨みを晴らすために殺人者になった
同じような深い恨みを持つことで互いに理解しあうともなる
子供なくす親の気持ちがわかるかという時まさにそうなのである
その痛みを簡単に経験しないとわからなからである、そういうことは他にいくらでもある

他にもありふれているのは貧乏の苦しみである、毎月電気ガス水道代が払えない人がいる今日本が貧乏になるとき貧乏で苦しむようになる、でも貧乏でも苦しんでみないとわからない、だから金ないんだよといっても別に他人と同情したりしない
たいがい福祉係相談しろとかで終わりである
そういうボトムの人、どん底の貧乏はそれ以下になると家賃が払えないとかでホームレスになったり餓死するまでにもなる、暖房がとれなくて凍死でもありうる
夏にはエアコンがなくて死んだ老人もいた
またおにぎり食べたいと言って死んだ人もいる
それも近くにいても無関心であり隣人に食べるものがないとか言えない時代だからそうなったともなる
現代は何でも自己責任になってしまう、そうなったのはお前は悪いのだとなってしまう
そういう面は確かにある、カルマがありそうなったとことはある

でもそもそも人間は他人の苦しみを理解できないのである
それは自分自身が身内が認知症になったとき四苦八苦して苦しんだ
また親の介護でもう本当に七転八倒で苦しんだ、でも他者は笑っていただけだとなっていた
まず認知症の人も実は苦しんでいる、これも痛ましい病気だったのである
これは先天的異常な精神障害者とも違っていた
人間として長く生きてわかっている、先天的精神障害者はわからない、でも親だというとき私はあなたを愛して苦労して育てとかわかっているのだ
だから冷たくすると不満になり怒るともなる
ただ自分の場合は特別良くされたので必死になって看病したのである
それで介護していて認知症がどういうものか理解するようになった
認知症の人も苦しんでいる、物忘れでも苦しんでいる、それで二階に着るものを置いたのも忘れてなくなったと泣いていたのである
つまり認知症の人も脳の病であり苦しんでいたのである
最初はわからなかったが徐々にわかってきたのである、でも他者は馬鹿になったとか笑っているだけだった、ただ一人だけかわいそうだと同情していたのである
その人は特別情に篤い人でありそんな人が今や田舎でも絶滅危惧種のようにいないのである

人間はこうして他者の苦しみとかでも無関心でありむしろ他者が苦しむの楽しむとういことさえある、他人の不幸は蜜の味にもなる、田舎ではその傾向が強いのである
田舎の人間が素朴など今は全くないのである
自分でも同情されたこともないし、むしろ病院では虐待されたりした
医者とか病院でも意外と体は見ていてもその人全体を見る人はいない
だからその人は貧乏で栄養がとれない、果物を食べれないとなっている
でも医者は栄養とらないとだめだと言う、でも金がないのだからとれないのである
そこまで医者とかは見ないのである、金をくれることなどはないのである
でも江戸時代の医者は医は仁術だというとき何か人間全体を見ていたのかもしれない
ただその時は医療が発達していないので同情することが先決になり結局体は直せないとなっていたからそうなったとしている
今なら「同情するなら金をくれ」とかなる、金を払えば高額な治療をして直るということもありうるからだ、それも時代の相違でそうなっている

いづれにしろ確かなことは人間は同情するにも相手のことを理解しないとできない
ただわかる人はわかるのかもしれない、病院の看護婦長がこの人は母親を介護しているのに入院していると理解していた、この看護婦長は書類だけから理解したのである
自分とは話ししたこともないからである、でも看護師はそんなこと知る由もない、冷たくされたのである、だから看護婦長とかなるとやはり人間全体をみれる
ただそれもなかなかできないだろう、まず書類だけからその人を簡単に判断できないだろう、ただ医者とか看護師となるとそこまで見ることが要求されるがほとんどしない
だから虐待までになっていることがある
ただこうして同情していたらきりがないということもある
一人だけを診るのではないからである

他者の苦しみを理解しないかぎりその苦しみがわからない、だから同情もできないとなる自分自身が同じような苦しみを受ければ理解し合えるのである
それはこの辺で起きたこと津波の被害や原発事故の避難者とかでもそうである
それがすぐ近くで起きていても当事者にならないかぎりその苦しみはわからないのであるそんなに近くで起きたことでもそうなのである
別に被害に合わないとわからないからである、それでお前はこんなに苦しんでいのに楽しいのかとか原発避難者に批判されたりしたし津波の被害者にも批判された
でもその人たちは全国の人から同情されて援助されていた
近くの原発避難者であれ津波の被害者であれ毎日のようにボランティアが来ていたからである

でも自分が両親の介護であれ自分の病気であれ苦しんでいても誰も同情などしない、むしろ笑っているだけだったのである
個々人の場合はこうして普通は同情されたりしないのである、他人は笑っていて他人の苦しみを楽しんでいるとなる
それは相手の苦しみが理解できないからである
俺はこんなに苦しんでいるのにお前は楽しんでいるのかと言われけど自分自身もそうなのである、俺はこんなに苦しんでいるのに笑って楽しんでいるのかとなっていたのである
ただその時は原発避難者でも津浪の被害者でも全国から同情されていたのである
そこに救いがあったとはなるかもしれない、普通は個々人のことなど無関心だからである

とにかく他者を理解するというとき相手の苦しみを理解できない、まず認知症とかなる
何かわからないからである、介護してみないかぎりわからないからである
貧乏でもわからない、どん底にいる人たちのことを理解することができない
あなたは何か苦しんでいるのとか何かわからないのである
ただ福祉に相談しろとかで終わりなのである、ただそういう人はいくらでもいるからいちいち同情していたらきりがないとはなる
それで創価のカルト教団であれ共産党であれそういう場所に行くことにもなる
エホバなどもそうである、でもそういう組織は同情するわけでもない、一票を得るとか勢力を拡大することが目的でありその背後関係も謎だとなる

聖書のヨブとかなると苦しみと戦いなぜこんなに苦しむのだと神をに問う物語である
それでこの世に神も仏もないとなる、ただそこで信仰は失わなかった
ただそれだけの苦しみを受けて耐えることは至難だとなる
結局余りの苦難の故に妻にも捨てられたからである、妻でも実際はそうした過度な苦しみになると苦しみを共にしないし捨てるということである
そしてヨブは一人苦しんで神と問答したとなる






posted by 天華 at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月20日

密集大都会の危険、逃げ場がない、大阪の雑居ビルの火事の恐怖 (東京の思い出を語る―江戸の回りに自然があったー枯野見とは)


密集大都会の危険、逃げ場がない、大阪の雑居ビルの火事の恐怖

(東京の思い出を語る―江戸の回りに自然があったー枯野見とは)

●大都会で精神を病む人が増える


精神疾患の患者は約420万人、外来で増加傾向 厚労省

年金やら生活保護やら貰うのに必死な人だらけだからね

精神医療という牧畜業

クソ狭い家畜小屋(待合室、精神科病棟)に患者を大量に押し込めて、自立支援制度から格安の飼料(精神薬)を与えて太らせる一方、
医者と製薬メーカーはボロ儲け

気がつけばあっちこっち精神病ばかりじゃないか
へんてこな病名で誤魔化すのは終わりだ

若者の自殺率→世界トップ
精神病入院者→世界トップ

心療内科はどこもパンパンだな
新小岩のとこは3分刻みくらいで回してた

軽い気持ちで心療内科予約しようとしたら初診は平日昼間しか絶対に無理で
「仕事休む覚悟のある奴だけ来い」っていう選別かかってて諦めたわ
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1639731714/


この事件も現代を象徴している、精神が病んでいる人が心療内科で起こした事件である
それが大阪であり大都会の密閉した雑居ビルである
仙台市でも狭い閉じ込められ来ような空間にカメラ屋があった、これと同じであり四階とかにあり隣に隙間もないのである
こういうのが都会には多い、だから逃げ場もなくなっていた

●密閉した密集した空間の都会で起きた火事

こういうビルとかみとか密閉された空間が都会には多い、だから火事となると危険だった結局煙で二酸化炭素中毒で死んだ、何かこの中毒は5分くらいで死に至るから怖いと思った、煙が一挙に充満してその煙も外に出るところが狭い窓一つとかである
そして古いビルだからスプリンクラーもなかった
こういう火事は新宿でもあったが忘れていた、また起きたのは同じような条件がそろっていたからである

つまり今後もこういう火事の被害は起きる、一番怖いと思ったのは地震による火事が起きて密閉された空間に閉じ込められて今回のように二酸化炭素中毒で死ぬことである
大都会は東京でも大阪でも密閉されていて逃げ場がない、煙でも火でも呑まれて死んでしまう、それは予測される、なぜなら地震はいつ起きるかわからないからである
その時逃げ場を失って今回のように何百倍もの人が閉じ込められて死ぬかもしれない
そういうことが今回の火事から見えてくるのである

ともかく心療内科が大繁盛しているというのも現代である、私の家族も認知症になり心療内科に行ったのである、心療内科は別に重症の人でなくても軽い人でも行っている
それだけ現代人は精神でも病んでいる人が多いのである
大都会という密集密閉空間で閉じ込められて精神が病むのである
大都会自体異常空間でありそこに災いが生まれて来る、コロナウィルス騒ぎでも密集した人口が過剰に多い東京から拡散されたことでもわかる
原発事故でも一千万の電気を供給するために莫大な電気が必要であり東京は危険だからとして福島に作られた

●江戸の風景ー回りに自然が広がっていたー枯野見

東京は日本の中心であり人口も一千万とかなりその影響が大きいのである
経済的にも大きい、地方でも東京が関係ないとかで生活できない
東京が明治以降発展して人口も増えた、でも大正時代は百万くらいだったのである
それで東京は都会として賞讃されていたのである
それだけ全体の人口でも六千万くらいでけありその周辺は田舎の風景が広がっていたとなるまず百万くらいだったらそれほど問題がない、密集していても回りは田舎的風景にもなる
だから江戸百万都市は大きくても農村的なところが回りにあった、糞尿を肥料として農村の人達が汲み取りに来ていたことでもそうである
練馬大根とがが名物になったのもそうである、回りに農村的風景が広がっていたのである
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江戸名所図会』「広尾原」

枯野見(かれのみ)

 木枯らしに葉を吹き払われた後の寒々とした木々のたたずまいや、枯れ草の
 色一色に染まった草原、刈り取りが終わり刈り株と落ち穂と黒い土だけが残
 った田んぼの景色を眺めるのが「枯野見」です。

 麻布田島町にあった「尾張屋」。江戸自慢の番付にも掲載されるほど、江戸グルメなら誰もが知っていた鰻屋だった。蒲焼の他にも汁粉を売っていて美味しいと評判だった。ある時それを聞いた広尾原の狐が、美女に化けて汁粉を買いに来たという。そこで付いた名前が「狐汁粉」。それにあやかって鰻も「狐鰻」と称して評判となった。

  https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/23062011
 
麻布永坂町に住む松山善三と麻布狸穴町あざぶまみあなちょうに住む澤博士の両者の運動により、麻布永坂町と麻布狸穴町の地名だけが変わらず今日に残っている

狸や狐が普通に出る場所だったのである

枯木一本昔の名残り古碑一つ

渋谷からとても昔が枯野が広がっていたなど想像もつかない、それで東京で何か風流を感じることがなかった
不思議なのは大江戸線をぬけて隅田川公園に出て桜が咲いていた

大江戸線地下から電車や桜見る

春の日や百羽の鴎隅田川

こんなことで俳句になったりはする、要するに何か風景的にいいのは煉瓦の東京駅と皇居のある場所くらいである、東京は雑多でわかりにくいからである

枯野見というとき江戸の回りは自然があった、田舎的風景があった、でもは枯野見となるとわざわざ密集した町屋から出て行かないと見れなかったのである
そして実はこの枯野にふさわしいのがみちのくだったのである

みちのくへ電車は去りぬ上野駅郊外広がり秋の夕日没る

上野駅から密集都会の東京を去るとほっとする、そして福島県に入るとまさに広野とか大野とかもともと原野のような所を過ぎて帰る、それを何度も繰り返したのであく
みちのくは枯野の世界でありわび、さびの世界なのである

●災いの大都市の影響は地方に拡散される

いづれにしろ枯野見ということが風流となっていた、みちのくは風流というよりそもそもそれが原風景なのである、東京にはもうとても枯野など感じることはできない
ビルと家の狭間で密集した人々によって圧迫される場所である
だから異常な空間なのでありまた異常な人々がそこから生まれてくるのである
カルト教団とかもそうである、オウムでもそうであった、団地の宗教の創価もそうだった要するに現代の大都市から生まれた異様な異常な集団なのである、それが地方に拡散されたのである

そこで精神は病んでいる、繁盛するのは心療内科だとなる、カルト教団でもそうした心療内科的役割であり精神を病んだ人が入る
ただそれは現代の宗教団体一般に言える、エホバとかでもそれが何なのかわかりにくい
ただ近くに信者がいてその女性は異常化している、貧乏なのに猫を十匹飼っているとか
異常化している、そうした底辺の異常化した人たちをカルト宗教団体は集める
一種の心療内科なのかもしれない、でも宗教となると危険になる
さわらぬ神に仏に祟りなしだが宗教だと常に地獄に落ちるとか罰当たるなりかえって不安におびえ精神的に奴隷化されるのである

そもそも宗教というとき自然と結びついて生まれている、中国の天台宗でも山岳宗教であり天台とあることく山で修行したからである
修験道であり山の新鮮な空気を吸い六根清浄を祈ったのである
大都会のビルと密集地帯から生まれたのはカルトであり病的なものである
そして山眠るというとき冬は休みの時であるが大都会は電気を夜でもこうこうとして明るく眠らないのである、それも異常なのである、夜は休む時だからである
そうして休むこともないから自然のリズムからはずれて精神を病む、不眠症にもなるのである

本当に大都市は災いを産む、人間が住むことはできない、限界である、一方で地方には限界集落ができているのも矛盾である、それは東京に人が密集しすぎたからである
ただ本当に飯館村を見ればわかる、広々とした土地に森に囲まれて一軒一軒の家が悠々とあった
田舎町でも街中は家が多いから狭いからうらやましいと見ていたのである
その相違はあまりにも大きすぎたのである
そこから東京からでも様々な災いが生まれて地方にも田舎にも影響する
福島県などは遠いようで近いからである、だから送電線で福島原発の電気を送っていたとなる
前は戦後でも常磐炭田があり石炭を蒸気機関車で運んだり木材や石材も運んだ
それは東京が大消費地として発展したからそのために運んだのである
そのために全国に森林鉄道が網の目にようにめぐらされたのである
だから以外は福島県は東京との結びつきがありそれが原発を作らせた要因にもなっている地理的にそんなに遠くは無いからである

posted by 天華 at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月19日

原発事故と酷似していた十津川警部の推理ドラマ (原発が産業廃棄物会社となっていたー大企業の下請け会社問題)


原発事故と酷似していた十津川警部の推理ドラマ

(原発が産業廃棄物会社となっていたー大企業の下請け会社問題)

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今日見た推理ドラマの十津川刑事出演の構図は原発事故と同じだった
原発が産業廃棄物となっていた
大企業がその産業廃棄物場を青森の各地請負仕事していた
そこに政治家がかかわり大企業がかかわり広告会社がかかわり下請け会社がかかわる
そこに悪の権力の構図ができあがる

このドラマで一番印象的だったのは下請会社の人である

「私らは小さな会社です、大企業から仕事をもらえないとつぶれししまうんです」

この言葉切実だったのである、これは東電で働いていた電気関係者が事故の時千人とかいたと働いている人に聞いたからである
また親戚でもないが東電の下請けで会社を経営している人もいたからである
また東電に逆らうと仕事をもらえないとか言う下請けの会社がいる
東電に文句があっても何も言えないという人もいた
配管など老朽化して危険なことを知っていても東電には何も言えないと言っていた
つまり大企業の東電の権力は絶大なものだったのである

それは自治体とかを越える権力であった
自治体に命令できる権力だった

産業廃棄物の反対運動している人もこのドラマでいた、弁護士まで雇い戦っていた
でも下請け会社の人に殺されたのである
これも何かこの辺でもありえたと思う
まずその権力と金は利権は信じられないほど大きなものだったからだ
それは除染費用で6兆円も国の金がでたとかそれが大企業が請け負って下請けでも請け負った
それでたいして技術もないのに相双リテックなどに何十億の金が入り幹部が山分けしていたのである、みんなその原発マネーに狂ってしまったのである

だから反対などできなかった、漁業組合の利権も大きかった
そういう土建業者とか漁業関係者とか農業関係者の農協とかは力をもっている
票田でもあった、利権を得る共同体なのである
その人たちは結構怖い面がある、その利権団体を批判したら本当にこのドラマのように殺人までなっていた、下請け会社ではドラマでは反対同盟の人を殺したからである
この辺でも事故前に原発に反対していたら住めなくなるだけではない、村八分にもされ
殺されまでなっていたかもしれない、人間の欲は抑えられない、危険は無視される

つまり

俺たちの会社が大企業から仕事をもらえないとつぶれるんだ」

こう言っているのが切実だったのである、それは東電の下請け会社が多く東電の城下町のようになっていた浪江とか双葉とか大熊町とかではそうなっていた
まず東電がなかったらその自治体自体が財政でも成り立たなくなっていた
勤め先とかでもそうであり町全体にしても原発マネーが回っていたからである
だから小高に東北電力の原発も工事が始まる時建築関係者は喜んでいたのである
でもそれはもうここだと20キロ内になっていたから怖いことだった
そもそも自分は原発のことを知らないし関心がなかったのである
30キロ離れているから関係ないと見ていたのである

ただ専門家は東電内で働く人たちは危険を感じていたが東電の権力と国の権力でおさえられていたのである
そして地元でも建築土木会社に関係で仕事している人が多いから自分たちの生活がかかるから簡単に反対できないのである
地方では権力を持つのはそうした人達でありあと医者など医療関係者も持っている
ただ東電とか大企業になるとそれはもう自治体を支配するまでなっていた巨大権力だったのである

広告の仕事をしていた女性の人は国会議員に世話になっていたからその殺人にも加担したのである
人間は金に困ると借金したりするとモラルが消失して悪に加担するのは推理ドラマの定番である
もう毎月電気水道ガスがとめられるとなれば金が欲しいしかない、その金の出どころなどどうでもいいとなる、それが人間なのである、追い詰められ人間はモラルが消失する
犯罪になる歯止がかからなくなるのである

この構図にいるトップが東電であり県であり国だった
渡部恒三はトップの政治家であり原発をもちあげていた、そして息子はアメリカの原子力会社のGEの社員になっていたのである
その渡部恒三でも持ちあげていたのは政経東北であった
福島県のマスコミは報道関係は例えば福島民報とは政府の県の広報機関なのである
なぜなら県が50パーセント出資して成り立っているからである
だから原発の危険など報道しないのである

原発は国家権力が働いているから逆らうことはできない、国家の命令が県に下り県では自治体に命令するのである、そのために地元に飴を与える、金を与えるのである
それで地元も完全にとりこめたのである
そうなるともう誰も反対できないとなる
今でこそ原発を批判するがこうして国家権力で「安全神話」を作られた時もう逆らうことはできない、それは戦争の時と同じである、反対者は特高がきて警察に逮捕される
なぜなら検察と警察も国家権力だからである、戦争でも国家権力が実行したものであり
従わなければ検察と警察がかかわり逮捕されるのである
マスコミでも政府の県の広報機関であり「安全神話」に加担していたのである

このドラマは本当に生々しいリアルなものだった、それは本当に現実を反映したものだったのである、こういうことなのかとわかりやすかったのである
私自身が今原発事故のことでいろいろ追求しているけどまず事故前だったら怖いことになった、殺されることだってありえたとこのドラマを見て感じたのである
つまり下請け会社にしてみれば生活がかかっているからそうなったのである
ここでも同じ事が起きても不思議ではなかった
その後も原発事故の補償問題で南相馬市とか飯館村では分断された
その額がまた大きかったからである

ただ自分が原発事故のことを追求できたのは小高と原町区は鹿島区より三倍もらっているし医療費と高速料金が十年も無料だった、そして医療費無料が一年伸びたのである
ただ鹿島区も高速料金が無料にはなったのである
ただその差も大きいものだったのである、ただこれは相馬市とかも別に放射線量など同じでありそれで6万もらって終わりとかなっていた不満だったのである
ただ私の住んでいる場所は一人70万もらった、相馬市は六万しかもらっていないのである、原町区は三倍もらっている、医療費無料とかでも差別された
そのために生活保護でも医療費でも一部金がかかり国民年金をわずかでももらっていると最低限すらもらいないのかもしれない、4万くらいもらってどうして生活できるのかとなる
これはここだけではなきい、ロスジェネ世代はもう生活保護すらもらえない、もらっても雀の涙ということを示唆しているのである

ともかく人間は利権と利益には敏感でありそのために争う、またその目の前の利益のためにモラルも消失する、危険も返りみなくなるのである
この辺ではそれが他より強かったともなる
こういう状態ではもう何も反対はできなかった、反対運動している人達もいなかったからである、左の人達でもしていなかったのである
それで新潟県の小さな巻町でどうして反対して原発を作らせなかったのか不思議なのである、そこには新潟日報などが応援していたのである
これは本当に稀なことだったのである

金をもらいば何でも危険なものでも容認する、それが人間である
それに逆らうものは殺されるとまでなるから金は怖い
でも金をもらうことは必ずやはり責任がつきまとっているのである
金をもらったことは許可したことでありそのことで起きることの責任が生じていたのである
だから原発事故でこれだけの被害にあっても東電とか国家にも何か批判できないとしているのである、それは金をもらったからだとなる

「あなたたちに金をやりました、十分な金をやりました、だから批判しないで下さいよ」
こうなっていたとなる、ただ人間は目の前の利益だけを権利だけを見るのである
私だって原町区のように三倍の補償金をもらっていたら何も言えないのである
あなたは補償金それだけ受け取りましたから何も言わないで下さいとなるからだ
ただ南相馬市内で公平でなかったとして批判しているのである

この構図は何か共通している、どこでもあうりうることである、それは権力とはどういうものかをわかりやすく示しているからだ
権力の恐ろしさをわかりやすくドラマ化しているからである
ただ江戸時代の悪代官のように単純ではないから簡単には理解できないのである
posted by 天華 at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

冬紅葉、冬薔薇、寒雀、師走(本とかプログとかの整理に追われる)


冬紅葉、冬薔薇、寒雀、師走(本とかプログとかの整理に追われる)


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黒い猫が餌を食べている

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籠もるかな曇りガラスに冬紅葉

冬薔薇一片残りはや暮れぬ

忘れけり母の命日師走かな

今日も来ぬ黒き猫かな冬薔薇

冬の日や書庫に籠もるや黒い猫

風花や籠りし部屋に見ゆるかな

葉牡丹の大と小とが一鉢に

風花やハ鉢に葉牡丹籠もるかな

今月も金の工面や寒雀

書庫に入り本の整理や年の暮

故郷や老いをともにし冬景色

玄関に訪う人なきや冬の月


たまゆらにジョウビタキ来て去りにけり朝の静かに石は黙しぬ

冬の薔薇一輪なおも我が庭に咲しをいとしみはや暮れぬかも


冬紅葉というとき母の命日にしていた、何かそれがふさわしいからだ
冬紅葉忌となる、玄関の曇りガラスに冬紅葉が映る、でも散っている
昨日は本当に真冬だった、でもこの辺は雪はふらない、山の方から雪がふきかけて風花となる,ジョウビタキが来て去った、それも空家化した隣の庭なのである
隣の庭には樹木があるからそこに止まって去って行った
そして大きな石がある、何か自分の庭のように見ているのも不思議である
中にも入っているからだ、誰もとがめるものもいないのである

母の命日を忘れていた、15日だった、何か師走は忙しい、家事に追われるのである
その間にプログの記事を書く、すると他に何もできないのである、だからコメントもしていない,フェスブックは一回も書き込んでいない
対話になると疲れるからただ自分一人で書いているだけである
母は内向的な女性であり忍耐強いとかあり自分の性格と似ていた
目立たない女性だったのである
ただいつも忙しくしていたから師走で自分も命日を忘れていたのである

寒雀というとき毎月電気水道ガスを支払いない女性が来る、そういう人が増えてくる
ただ今貧乏かどうかは着たものではわからない、戦前とか明治時代の写真をみるとボロのようなものを着ていた、着た切り雀とかなっていた
それで貧乏だとわかるが今は着るものを見ただけではわからないからである
確かなことは今の貧乏は電気ガス水道が払うことができなくなる人である
また家賃でもそうである、そこに貧乏だと外に現れてくるのである

訪ねる人はない、人間はまともな人がいない、かえって冬の月の光りがさしているだけの方が清々しいともなる、人間にそんな清々しい人などいないからである
老いは冬にふさわしい、冬は家に籠り瞑想して本を読むとか内省するのがいい

自分にとって不思議なのは本を相当に買いためたが理解していなかった
それが理解できるようになったことである
自分の文脈の中で引用できたりする、それまではびっしりと線を引いたりしていたがそれも理解できなかった、まず本を読むことは自分なり読めて理解したとなる
自分の文脈の中で引用したりしてこそ初めて理解して読んだとなる
ただ読んだだけでは理解したとはならなかったのである

何か黒い猫に餌をやっているが家にはあげない、汚れるし世話できないからである
黒い猫はなれない、でも何か書庫に入って本を整理しているとこの黒い猫があっている
猫は何か書斎とかにいるのがにあっているのだ
それで「吾輩は猫である」が漱石から生まれたのである

とにかく自分の書いたものが膨大でありホームページでもプログでも整理しようとしている、この整理が大変な作業になっている、そして不思議なのは読み返してみると自分の書いたことを忘れている、詩でも忘れているのだ、人間とは本当に忘れ安いのである
家族でもあんなに親しく一緒に暮らしていたのに忘れてゆく
これほど人間は忘れやすいのである、だから記録することが大事である
記録したものから文でも写真でも思いだすことがあるからだ
今は記録るのでは発表することもネットでできる

ただこのネットの問題は記録したものが一瞬にして消えることなのである
これが一番怖いのである、それでログをとることが必要になる
クラウドだと便利だがなにかパスワードとか忘れてアクセスできなるとかでも不安なのである、ただ印刷してもそれが膨大になるから簡単にできない、それで困っているのである
ともかく今年も終わる、年の暮は整理に追われている、今また昼の食事の用意なのであるだから暇なし何かをしているのが自分である、これを書く前は掃除していたのである
そして母の命日も気にしていたが忘れてしまった
母は忙しい人だったからこれもふさわしいとはなる


2021年12月17日

人間は責任(カルマ)が常に問われる存在 (戦争に勝っても負けても責任がある―人間は何でも責任から逃れられない))


人間は責任(カルマ)が常に問われる存在

(戦争に勝っても負けても責任がある―人間は何でも責任から逃れられない))

●生れて住んでいるだけで責任が課せられていた

人間は常に何でも責任が問われる存在である、それは個々人でもそうであり地域社会でもそうである大きな国家単位でも責任が問われる
それは原発事故で「安全神話」などを作って政府官僚など天下りした上級国民は多額の金をもらったのに責任は何も問われない、ても金をもらったということで責任が問われたのである、なぜもっと安全を計るために監視していないかったのか、ただ金をもらっていればいいとなっていた
だからもらった金は返すべきだとなる、それが責任をとることなのである
でも全くそうしていないし意外と天下りした官僚とかは責められていない、それは第一検察とか警察官僚が天下りしていたからである

裁き取り締まる方が東電から金をもらっていたのだからそんなことをしない
いわばドラマで悪徳商人でも雇われた用心棒のようになっていたのである
何か現代は悪が江戸時代の時代劇のように見えないのである
それで世界的にも陰謀論になってしまうのである
可視化されないから悪が見えない、原発事故の場合は津波とかでその悪が暴かれたのであるとても人間だけではできないものだったのである
世界となると規模が大きすぎて見えないのである、株でも世界がギャンブル場になっているとかなりその金がわずかの人が得ているとなる、格差社会にもなる

とにかく人間は生まれた時、泣いて生まれるのは責任を負わされている、カルマを負わされているからだというのがわかる
どんな親から家から地域から国から生まれようが必ず責任を負うものとして生まれて来るそして必ずその家でも地域でも国家レベルでもカルマが背負っている、カルマとは責任のことでもある
契約書が細かく規定されていのは私は私たちは責任を負いませんということでそうなっている、責任を問われたとき契約書で責任を負わないとなっているから負いませんとなり
後で後悔することになる

●戦争の勝者アメリカにも責任がある

戦争でも負けても日本のように3百万人の人達が死んだ、一体それは誰の責任なのか?
それが大問題になった、広島に昭和天皇がたずねて責任を問われた、その時天皇はたじたじになっていた、3百万人死んだ責任をとれとも言われたからである
天皇は本当はアメリカによって死刑になるところだったのである
アメリカもまた確かに戦争に勝ったが勝った方でも責任があったのである
原爆は空恐ろしいものであり人類的罪をアメリカはカルマとして背負ったのである
だからアメリカは一番核を恐れる国だともなる
戦争に勝った責任があり核を始めて使ったのでありその責任はあまりに大きいものだったのである

いくら戦争でもそんな恐ろしい武器を使ったことに責任がある
その責任を持てるなら使ってもいいが責任を持てないのである
つまり人間は道具を持つ武器を進化させる、その責任を持たされていた
火を見出した時鉄を発明した時、実はその使用をできるとしても責任を持たされたとなるなぜなら生物界では道具を使うことはない、猿などは多少使うにしても石を投げて戦うということはないのである、つまり人間は道具を持つことですでにその道具を使うことで責任をもたらされたのである
いくらAI化機械化してもAIと機械は責任を持たない、AI機械化戦争で大量殺戮しようが
AIとかコンピュターとか機械とかロボットは責任を持たないのである
責任をもつのはそれを作った人間なのである

だから原爆を落とすまでして日本を征服した、戦争に勝ったのだから今度は日本を守れともなる、勝った方の責任が生まれたのである
そもそもなぜアメリカがアジアの戦争にかかわる必要があったのか?それも疑問なのである、何かそこに義があるのかとなるとないのである
例えば中国とかが日本がに攻めることは固有の領土を侵犯することだから今度は日本に義がある、でも中国とかを日本が侵略したときは中国に義があったとはなる
ただそこにはイギリスとかヨ−ロッパとの戦争でもあったから複雑である
真珠湾攻撃でもなぜハワイを領有する権利があるのかとなるとない、そこは別にアメリカのものでもないし他でもそうである

ただ強いということで領有できるとなっているだけなのである
だから人間社会でただ強いということだけで何でもできるのか?
それは権力を持っている人達でも国内でもそうである
力があるから何でもできる、力が正義なのかとなるとそうはならないのである
権利は権理でありなんらか理由があって権力をもたらされている
そして必ずその権利には責任がともなっているのである
だから原発事故で漁業権があり東電から多額の補償を受けていた漁業組合などは事故の後に責任が問われるようになった

●大衆社会の大衆の責任も問われる

要するに人間は誰でも権利を利益を要求する、でもそれには必ず責任がともなっているのである、強いから力があるから何でもできるとはならない、そこに大きな責任がともなっているのである、大国はだから責任が大きくなる、アメリカはもうその責任が負いないとなりアフガニスタンを撤退したのである
またなぜ日本にアメリカの基地がありアメリカでは日本が血を流さないと援助しないとか言うのかもわからない、つまり日本にアメリカの基地があることは中国でもロシアからすると常に攻撃される対象になる、
それでわかりやすかったのは幸福の科学のyoutubeのウクライナの説明だった
アメリカではミサイル基地でもウクライナに建設する、するとモスクワは近いからロシアでは脅威になる、そのことはアメリカでもキューバ危機で経験している
ロシアの基地ができれば喉元にナイフをつきつけられたと同じだからである
でも西側の報道ばかりみているとロシアがなぜ大軍で攻めてくるのかと批判的になる
ロシアもキューバのような危機を感じてそうなったのである

いづれにしろ何するにも必ず責任が問われる、誰も責任をとりたくないから細かい契約書を作る、江戸時代でも庶民でも侍に成りたくなかったというとき責任が重く問われて切腹されるからだと嫌だったというのもわかる
切腹させられてはかなわんとなっていたのである
侍には特別な責任が課せられていたのである、庶民はいろいろ苦しくても責任を負う立場にはなかった、今の様な民主主義でもない、だから責任はなかったのである
民主主義になると一人一人が責任ありますとなったのだが大衆とかは責任を感じないのである、一票にしても十万分の一の力しかないんのだからどうでもいいとなるからである
そして選ばれた人も責任を侍のようにはとらない、選んだ人が悪いとなるからである
要するに大衆民主主義は無責任体制なのである
誰も責任をとらない、でも必ず責任は大衆でも責任をとらされるのである
それが三百万人戦争で死んだということであり故郷にも住めなくなった原発事故の犠牲者である、それは地元の人にも責任が問われたからである
利益になればいいとか安易に考えていたからである

一見カルト教団では創価などでも何百万もいるからその人たちの意向に逆らえないとなる現代では権力は金と数なのである、ではその何百万人もいるから正義とか権利があるのかとなるとそうはならない、それは宗教と政治が一体化して誤った方向に導くもので危険なのである、天皇が現人神として崇めれて日本は神国だから負けないとかと同じである
仏が神となり仏は選挙でも負けない、常勝だとかなっている
それと同じなのである、日蓮一人のような預言者が言うならいいとして何百万人が仏罰だとか地獄に落ちるだとか言って選挙に狂奔しているのはナチスと同じなのである
そういう危険な団体を自民党が容認していること自体問題なのである
結局これもまた必ず責任を負わされる、何百万人いるから正しいとはならないからであるそれはナチスでも日本の戦争でもそうだった、むしろ現代文明は大衆ファシズムになる
数でしか人を見ないからである、そし数は一番ごまかしやすいというのわかる
数によって操作される、あらそるものが統計の数でしか見ないのである
数が多いということで恐怖になる、でもそれも必ず後で責任が問われる
かえってそういう大衆に神罰が仏罰が下るのである、それが責任なのである

●人間は責任を負いない、神しか負いない

結局人間は責任から逃れられない、原発事故ではその地域に住んでいるだけで責任が課せられていたのである、原発を容認して利益があるとしていいとなっていた
でも故郷に住めなくなったのである

日本人はやがて日本に住めなくなる!

現実に中国が攻めてきたらそうらないとも言えないのである、中国は南京虐殺とか恨みをもっているから怖いのである,ウィグルとかでも弾圧しているからである
ただ日本は原爆のように悲惨な結果となりその責任を嫌というほど自覚させられたのである、アメリカなどはそういう自覚がないのである
だからカルマとして核ミサイルでも撃ち込まれればその恐ろしさを自覚するのである
ただその時は世界核戦争になり人類が滅びるのである
つまり最終的に人類はカルマで滅びる、責任をとらされて滅亡するとなる
それは聖書でも予言されている、責任をとらされて滅びるということである

そもそも人間は責任などとれないのである、そんな大きな責任などとれない
例えば責任というとき責任をとれるのは神しかいないのである
人間の製造責任が神にあり人間にないのである

なぜ神は人間を作ったのか?

ただ苦しめて喜ぶためなのかとまでなる、これまでの人間の歴史は戦争の歴史でもあったからだ、それから様々な苦しみが病気でも疫病でもありなぜこんなふうに苦しむものとして作ったのかと神に問う、神に責任を問うのである
たが神は全能だからその責任を果たすことができる、それでイエスキリストを神の子として贖いとして遣わしたとなる、それが神の責任を果たしたことだったとなる

エリエリサバクタニ、なぜ私を捨てたもうたと神にその責任を問うたのである
このように神しか責任は果たせないのである、宇宙でも地球でも神が造ったのでありその製造責任は神にある、人間にはない、人間ではいくら科学技術が発達してもどうにもならないのである、責任を持てと言っても持ちようがないのである
人間はそもそも責任を持ちえない、持とうとしても持ちえない、そんな力がないからである、だからいくら「安全神話」を作っても原発事故になり大被害になったのである
その安全神話を作った人は誰も責任をとっていない、金だけはもらえますよとなっているだけである、裁判する検察でも警察でもそもそも何もできない、自分たちが利益を得ているからである

●誓っても破る人間ーだから誓うな

本当に人間は責任など持たない、大国は大国で責任があってももたない、アメリカは日本に基地を作っていても日本を守る責任をもたない、いつでも撤退できるし血を流すこともないのである、日本人がまず中国と戦い血を流せとかなっているだけである
自分たちは安全な領域にいてそうなっている
でもミサイル時代になるとアメリカに一瞬にして飛んでゆくから怖いとなる
アメリカも防衛できないとなる、結局誰でもどんな国でも責任をまねがれないのである

責任をもてないというとき

一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである

人間には誓うことはできない、全能の神でもないからである、「安全神話」てだもそうである、事故は絶対に起らないとしたこと誓ったからである
今になるとなぜそんなことが言えるのか、その安全管理も本当ずさんだったのである
それはその内部の専門家もわかっていたのに安全を計らなかったのである
ただ安全神話を言うだけだったのである

絶対に事故は起こりません

何百万年の一回の割合ですと数学者が言っていたのである
これもふざけたているとしか言いようがない、いくら科学技術が発達しても完全な安全などないのである、だから誓うことなどできないのである
要するに人間は責任を持てない存在である、全能の神しか責任をもてない
この世界を作った神だからこそ製造責任があり神しか責任を持てないとなる
そもそも機械が壊れたとしてもそれを直せるのは機械を作った技術者であるからだ
その責任者は技術者でありその技術者とは神のことだとなってしまうからである

人間は力が強いということでも責任が生じている、弱い相手をうちのめしてもやはり責任が生じる、金があることもでも責任が生じている、現代では金があることが権力であり
その権力には責任が生じているのである
金を多く持っている人は比例して責任をもたされている社会なのである
だから貧乏人は苦しいとしても責任はないとなる、だから気楽だともなる
例えは遺産が入ったとしてもなんであいつは何もしないで楽して金が入ったのだとかみられる、その金でも有効に社会化のために使わないと遊び浪費したりすると責任が問われるのである、その金でもやはり社会があって得たものだからである
誰かの労働の苦労があり得たものとなるからである

いづれにしろ個々人であれ国であれ

今日の友明日の敵、昨日の敵は今日の友

人間の歴史はこうだったのである、誓っても信用できない、人間の誓いなどはかないとなる、中国であれほど日中友好とかなっていたのにまるっきり変わった
今日の友は明日の敵になっていたのである
ただ中国が弱い時は日本に頼る、みせかける、でも一旦力がつけば日本を敵ともみなして侵略してくる、そもそも国家でもそうなのである、戦国時代の継続なのである
怖いのは戦争のことで恨みをもっているから北朝鮮でも韓国でもまた中国でも日本を標的にしてくることである、日本はまた孤立無縁になるかもしれない、アメリカも頼りにならない、中国が侵略してくる、ロシアが北海道をとりにくる、津軽海峡を中国とロシアの艦隊が隊列を組んで航行したことでもそうである
共同作戦を実行していることも怖いのである、日本内憂外患とか日蓮の時代のような危機にさらされている、日本の弱体化でそうなっているのである
アメリカも頼りにならない、そして孤立するのは太平洋戦争ともにている
ロシアとEUだとヨ−ロッパ連合が強固にありNATOがあり守られる、日本にはそれがない
ただバックには海があるだけなのである、今はこの海が防壁とならないから危機なのである

ソ連にはシベリア抑留とかでどれほど苦しいことになったか、それがまたくりかえされる中国と協同すればさらに脅威が大きくなる、日本の弱体化でつけこまれる
それは国内の歴史でもそうだが戦国時代のつづきが国際関係だったのである
何かグロ−バル経済はいいように見えたが悪い面が最近はコロナウィルスでもそうだし中国の巨大化でも悪いものとして可視化されてきたのである


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ウクライナ国境にロシア軍大集結。
第三次世界大戦勃発か?ロシアからみたウクライナ問題の真相。(及川幸久)


幸福の科学もカルトの一種だけど別に放送を見るのは自由である
他の組織団体でも専用でテレビでも放送できる時代である
マスコミに頼る必要がなくなったのである
何か他では幸福の科学の選挙演説で創価の会員がなめるなとか暴れたというのが出ていたカルト教団同士でも争っている、縄張り争いとかある、会員にするために争う
数を集めて権力を持つことでは同じなのである

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採用面接時においてやばい中小企業を見分ける方法5つ

数字のマジックにかかりやすいのが現代である
数字であらゆるものを見ている、数字に実体がない場合がある
カルト教団であり何か組織団体でも全部数字で見ている
何百万いるのかとなる、では怖いから従わざるを得ないとなる
その数字の実体が見えないのである
そもそも議員でも票の数字で決まる、でもその実体は何なのかわからないのである
現代文明は人間は数字化されている、数で数えられるだけだとなる


posted by 天華 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月16日

金沢の冬の俳句十句(冬桜、冬の水)


金沢の冬の俳句十句(冬桜、冬の水)

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金沢や街中に散る薄紅葉

金沢や松の間に咲く冬桜

日も暮れむ兼六園や冬桜

百万石金箔の技冬桜

冬の日や職人育てる城下町

斎川の木橋渡るや冬の川

金沢に茶碗の店や冬の暮

金沢に一杯の茶や冬に入る

石橋や流れめぐりぬ冬の水

茶室の障子映してて冬の水

金沢に我が泊まるかな冬の星

金沢や金箔の技雪ふりぬ


金沢には仙台市から夜行バスで行った、電車だと遠回りになるし高くもなる
この仙台市から出るバスはめずらしと思った
金沢には行きにくいからだ、金沢は二回くらい行ったのか?
それもかなり前だから忘れている、冬桜としても十月桜だったのである
十月頃に兼六園を見て回ったのである、ただ冬に入る時期だったのだろう
何か冬の感じだったのである、それで今冬桜として俳句にした
十月桜と冬桜はまた違っている、確かなことは冬桜は12月まで咲く桜なのだろう
なかなか冬桜みかけない、だから原町の農家の庭に咲いていたのはめずらしいと見た

金沢はやはり百万石の城下町でありそれで文化都市にもなっている
伝統工芸とか金箔の技とかを残している、兼六園は見物である
何かこうして城下町には独特の雰囲気が残っている、京都とか奈良でもそうである
ただあれだけの大きな庭園があるのが違っている、それで百万石だから作れたのかともなる

都市でいいのは東北だと盛岡市であり弘前市などもいい、仙台市は意外と何か伝統的なものを歴史を感じるとならない、60万石でも城下町のように感じないのである
街中を盛岡市は二つの川が流れているし詩の都市である
城跡も街中にありとけこんでいる、なんといっても岩手山がまじかに常に見えるから心も必ずひきしまるのである
都市でいいのは日本ではそんなにない、一番が京都であり奈良であり次に東北だと盛岡市と弘前市である、北陸では金沢市である
函館市も記憶される都市である、明治を偲べる場所なのである
その他日本ではいい都市はあまりゅい、東京には江戸百万都市があったとしてもそれが今感じられないのである、それだけ変わりすぎてしまったのである
何か歴史を感じるものがあってもいいと思うがないのである
江戸城でも将軍の城でも何か感じるものがないのである

いづれにしろ人生の最後になって旅した場所をふりかえる、冬には追憶の旅が似合っている、ただ忘れるのである、だから旅でも記憶する旅をしないと損である
今は団体旅行とか騒がしいと心に残らない、人のことに注意を払うと辺りの景色でも心に残らないのである、だから旅は一人旅がいいとなる
そうすれば最後に旅でも収穫があるとなる
そうして回想して今俳句とか短歌でも詩でも作っているのである
老人は記憶に生きるのである、でもその記憶が残らないと思い出しようがないのである
私の場合は一人でいてその辺りの景色が浮かんでくるのである
ただ金沢と行ったとしても何十年前にもなる、でも一応覚えている
俳句が写生だというときどうしてもそうなるとイメージで作るようになる
実写できないからである、そこで十月桜が冬桜ともなってしまったのである

確かに薄紅葉というとき早目に紅葉が散っていた、それが薄紅葉だったことを覚えている詩にも書いたのである、だから季節的には晩秋だったのだろう
金沢でわからなかったのは百万石にしては大きな城がなかった、城自体がわからなかった天主閣もない、だから城下町だとういことが認識できなかった
兼六園だけが目立だったのである、犀川などがあるからやはり情緒ある
金沢でも冬に行ったらかえって感じるものがあるかもしれない
ただ雪に埋もれてしまうからイメージとは違ってくる、実写の写生を基本とする俳句とは違ってくるのだ
ただ一回でも現場を踏むことは大事である、そこで記憶されて蘇る時があるからだ
しかし外国となると何か思い出せなくなる、日本だと一回でも行った場所は記憶されるのである

ともかく自分の人生をふりかえれば幸福だったとなる
私は別に旅が好きなわけではなかったのである、ただ大学を出て就職もしないで放浪していた結果旅をするようになった
私はまず集団生活ができないのだ、だから中学とか高校生活は本当に嫌だった
椅子に座り50人とか詰め込まれた教室とかが嫌でしょうがなかった
そうした場所にいられないのである、内向的でありそういう場所が嫌なのである
何か圧迫感があり緊張して勉強などできなかったのである
だから今でも結局学校を嫌悪しているしまた会社とも勤まらない性格だったのである

ただ私にとって幸運だったのは大学出てからでも就職しなくても家族は何も言わなかったのである、これが幸運だったのである、それは特殊な家庭環境でそうなったのである
そこから旅ばかりしていたとか引きこもりになったのである
でもそういう生活は自分の性分にあっていたのである
そこで社会性が欠如したにしろ何か自分にあっていたのである
それは家族に恵まれた結果としそうなったのである

人間とにかく自分にあったことをする、追求することである
そうでないと人生を無駄にする、でも人間は親でもなんでも自分に合ったことをさせないのである、親の言う通りにしろとかなんとかなる
そうして人生を失った人も相当にいる、親ガチャというけど別に毒親でもない医者の家とかに生まれて恵まれていてもやはり親と子は違っている
子供には子供の人生がある、その道を行かせないと親を恨むようになるのである
なぜ私は別な道を行きたかったのに行かせなかったのかとなるのである
まず自分は親に家族に恵まれた結果として自由に生きることができたのでけ感謝しているのである
もし家族がいなかったら相当に悲惨な結果になったし才能なども開発できなくて終わったのである
才能でも芸術とか学問でも結局積み重ねなのである、天才は別である
でも天才の真似などできないから普通の人は積み重ねでやるほかないのである
啄木とか宮沢賢治とかは天才である、なぜあんなに20代とか30代で才能が開花したのか不思議だとなる

ただどちらも肺病で結核で若くして死んでいる、とにかく結核で若くして死んでいる人が多いのである、母親の実家の兄も25才くらいで結核で死んでいる
その墓の前にたつとその人の無念が墓からこ
みあげてくるのである
また戦争で若くして死んだ人もそうである
つまり才能があったとしても開発できず開花せず死んだ人はいくらでもいるのである
自分でも家族に恵まれなかったらそうなっていたのである
それは時代の影響もある、豊かな時代になったからそういう引きこもり生活が可能となったからである

現代は何かその人なりやりたいことがやれる環境ができているのかもしれない
これが大事なのは最後に人生を後悔するからである、やりたくないことをやらされたとか犠牲にされたとかなるからだ
現実自分の場合は親が自分のために犠牲になったともなる、兄とカモそうである
人間は誰かの犠牲があり生きられなかった人が多数なのである
実際これからの時代は今までのようにいかない過酷な時代になるのかもしれない
日本でも高度成長は特別恵まれた時代だったとかふりかえることになるかもしれない
そうは言っても人間は時代を選ぶことはできない、だからどうにもならないとなる
時代の犠牲にされてもどうにもならないということである
それが戦争で三百万人死んだことなのである

2021年12月15日

中国は日米が育てたモンスター国家だ! 西太平洋の米軍優位性、既に喪失


中国は日米が育てたモンスター国家だ! 西太平洋の米軍優位性、既に喪失

今日の友は明日の敵=昨日の敵は今日の友
この中国の躍進は、彼らが自助努力によってひとりでに成し遂げたものではない。1979年より、日本から総額約3兆6500億円にものぼる対中ODAが支払われ、中国はその金をインフラ整備に向けると同時に、浮いた金を軍事予算につぎ込んだ。

金だけではなく、その技術もだ。「技術供与」の名のもとに、中国に進出した日本企業の技術を、中国は窃取しまくった。技術をすべて提供しないと進出を認めず、技術を窃取しつくした後は提携を解除して締め出すなどの悪質な手法を、国営企業が率先して行った。

中国のことわざで「喝水不忘掘井人」(水を飲むとき,井戸を掘った人を忘れてはならぬ)を、放送大学で紹介していました。

この言葉は、日中国交正常化の際には田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎嘉平太をもてなすために、食事会を開いた。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」と言ったという




十数年前とかまででも日中は友好関係にあった、田中首相の日中国交回復でもそうであるその時代は中国は経済規模でも弱小国だったし技術的にも遅れていた
田中首相は江戸を掘った人であり中国では田中首相の娘の家を訪問したりした
それだけ恩を感じてそうなったのである

ではなぜ今こうして日中関係は険悪になったのか?それはまさに中国が巨大化したことである、巨竜となってしまった、そして別に井戸を掘った人などに恩も何も感じていない
アメリカでもいろいろ援助したり技術を供与したがそれも別に恩とも思わない
経済成長はお互いに利するものだから恩を感じない、助けるとも違っているとなる
相互に利があるからであり恩など感じないとなる

だから人間社会は互いに助け合うなど国家レベルになるとない、韓国とかでも日本は経済援助とか技術援助をした、鉄道なども作った、ただ韓国では侵略されたとしか思っていない、そして占領されたとして恨みをもっているだけである
人間はそもそも個々人でもあまり恩など感じないことがある
恩を感じるのは今やめずらしいともなっている、古い日本人は明治とか江戸時代辺りだと恩と義理とかが日本人はあったとされる

ただ江戸時代でも藩レベルとなると互いに敵対関係になり攻められることを警戒していたそれで相馬藩と伊達藩では争い相馬藩が飢饉になったとき飯館村とかに相馬藩内では援助したが伊達藩では援助しないのである
つまり現代では何か困窮したりするとグロ−バルに援助があったりする
でも江戸時代だと隣り合う藩で助け合ったりしないとなる
それはなぜなのか?隣が強国になると攻めてくるという恐怖があったからである
常に隣の藩であれ警戒していたのである、戦国時代が終わり平和な時代になってもそうなっていたのである

こういうことはおそらく中国でも同じだろう、あれだけ大きな国になれば常に争いの歴史だった、そしたら隣国でもいつも警戒していたから何か助け合うとういこともないし
技術でも供与しない、自由貿易などない、そうすれば自国が攻められるという恐怖があったからだ
だからなぜ人間の本質がそういうものだというときグロ−バル経済はいいものとして中国に日本でも技術を供与してアメリカでも中国に友好的であり貿易で利することをしてきたこれは何か人間の本質を見誤ったのだろうか?
人間とはそんな甘いものではない、恩は忘れるしかえって強くなれば今度は攻めてくる
だから戦国時代になって江戸時代でも日本では藩は別々であり協力しない
他藩の利するようなことをしない、それは攻められくという恐怖が常にあったからであるましてや中国は日本に対して戦争の時恨みを持っている
でも弱い時は日中友好であり戦争のことは過去のことだとして忘れるとしていたのであるこれも何なのだろうとなる、そういう態度だからこそ日本でも友好関係を結んだのであるそれが全く豹変したのである

結局人間の本質を見誤ったのか?

なぜ人間の歴史をみれば世界史でも常に戦争があり覇権争いがある、戦争の歴史だった
だから本当は常に警戒していなければならなかった、友好とかは甘い考えであり人間は食うか食われるかの弱肉強食の世界だとなる、それが世界史だったともなる
隣国でも弱体化するとまるで動物でも子供が餌食になるように狙って来て襲われる
まさにそれがロシアであり中国も同じだった、つまりマキャベリの世界である
中国とロシアはまさに日本の弱体化に乗じて餌食にしようとしている
ロシアは北海道をとり中国は沖縄諸島をとるという密約もできている
台湾有事で日本は危機的状態になっている
個々人でも弱体化すると隣人でも他者でも攻めてくる、攻めやすいからそうなる、それを介護とか家族のことで経験したからである、それが人間の変わらない本質だったのである

ただ石垣島とか与那国島とかに自衛隊を駐屯させてミサイル基地化しているのは生々しい中国との戦争に具体的に備えているとも見えたからである
そして太平洋戦争の沖縄戦の悲劇をふりかえる、戦争になっても島だと逃げ場がない
これも怖いことである、日本はそもそも島国だから一億総玉砕ともなったのである
逃げ場がない、難民となって大陸を移動もできないからである
日本という島国と心中するほかないという地形なのである

人間の本質は変わっていない,カルマは繰り返す

これなのである、人間の本質は変わらないから延々とカルマをくりかえす、歴史は繰り返すとなる、人間が急に心が変わったりしないのである
田中首相の日中友好などは今になると中国の演出であり今は日本は中国の一省になるとされる、それだけ巨大化したのである、それに歯止めをかけられなくなるほど巨大化したのである、本来の龍に変化したのである
その龍が回りの国を飲み込み世界を飲み込むほどに巨大化巨獣となったのである

だから人間の本質を見誤った、世界の歴史をみればわかる、日本の歴史でもそうである
常に隣の藩であれ村ですら敵対することがあった、利害の対立もあった
それを何か中国をあれほど友好的に接したのか、そして惜しみなく援助したり技術でも供与したのである
それは歴史をみればどれだけ危険だったかわかっていた、それが今のような恐るべき巨大化した巨獣になるモンスターになることを見ないというのも不思議だったのである

今日の友は明日の敵=昨日の敵は今日の友

これだったのである

なぜそうなったのか?

これも利益だけを見ているからである、これは原発事故でもそうである、みんな作る方も地元でも利益しか見ていないからである、その危険性を見ないのである
すでに技術者でもその危険性を指摘していたが利益しか見ない、もし地元でも原発に反対すると住めなくなっていたのである、それは必ず利益からしか見ないからである
中国でも大市場であり利益になることしか日本でもアメリカでも見ていなかったのであるそこに人間の落とし穴があった
日本でもアメリカでも供与した技術は莫大な軍事費となって軍事大国化したのが今の中国である、もう日本など一飲みにできるとなる、巨獣に踏みつぶされるだけだとなる
アメリカでも日本でも利益しか見ないからこうなったともなる
江戸時代すら隣の国を利することはしない、それが必ず強国化して攻めてくるとなるからそうなる

日本が中国と韓国でも友好的だったのは海に隔てられて技術的に直接交われないとかあった、それが侵略できないものとしていたのである
それで平和的友好関係があった、ただ日本は中国でも韓国でもいいものだけを取り入れてきたのである、別にそうしても戦争にはならなかった
秀吉の朝鮮征伐とかは例外だったのである、それができていたのは海が防壁となっていたからである
でも今は海が防壁とはならない、ミサイルが瞬時に飛んでくる
だから石垣島とかにもミサイル基地を建築していたのである
その映像を見て本当に日本でも中国の侵略に備えているとリアルに感じた
そしてそのミサイル基地が中国で脅威であり攻撃されるという標的にされるというとき
何か戦争の前哨戦がすでに始まっているとも見たのである

だからいろいろと不穏である、津波から原発事故からコロナウィルスから次に台湾有事とかなり日本の経済停滞と貧困化があり日本は戦後の焼け野原のようになるのかと恐怖になる、戦争というのが具体的にイメージされるので怖いのである
そしてアメリカは衰退して日本を守らない、アフガニスタンのように撤退するのである
でもそれも無責任だと思う、日本に基地を作ることは日本がで作らせることは日本でも危険でありアメリカも責任を持つべきだと思う
簡単にアフガニスタンのように撤退するなら基地など作るなともなる
どうせ責任を持たない、アメリカ兵は死なせたくないと言っているからだ
そうなるとアメリカを頼っていても無駄だともなるのである

それより日本が何らか米中とかロシアの狭間で内乱状態になるかもしれない
創価公明は中国の一部隊として中国につく、でも自民党の中国派と一体化する
でも反中国もそこで対立して内乱状態になるかもしれない、アメリカは何か中国に戦争するようにけしうかけている、このニュースでもそうである
アメリカはそもそも日本のために血を流さない、中国と日本を戦わせて血を流さないというふうにも見えるのである

そこで日本の舵取りが相当にむずかしくなる、日本一国では中国とは戦えないからであるだから台湾有事は相当に日本にとって危機的状態になる
でも日本は70年間平和だったからそういう危機感がないのである
危機に弱くなっているのである、それは津波や原発事故でもそうだった
コロナウィルスは日本では幸運だったのかもしれない、日本には危機感とかなくなっていたのである、危機に対処できないのである
ともかく戦後70年の節目でありそこに大乱がまた大災害が戦争が起きるのかと危惧するそして国内の少子高齢化とか弱体化するからそれも他国から攻めやすいものとなる
そういうふうに様々な危機に直面している
ただ本当にそういう危機が来たとき対処できるのか、日本をまとめることができるのか
そういう危機をのりこえられのか?そういう時代の変わり目に来ている

伊達と相馬の境の桜

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に

戦国時代は争ったがその後は平和がありこうなったのである、それが世界ではならないのである、豊かになれば軍事大国となり隣国を中国のように攻めてくるのである





posted by 天華 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

中国は日米が育てたモンスター国家だ! 西太平洋の米軍優位性、既に喪失


中国は日米が育てたモンスター国家だ! 西太平洋の米軍優位性、既に喪失
この中国の躍進は、彼らが自助努力によってひとりでに成し遂げたものではない。1979年より、日本から総額約3兆6500億円にものぼる対中ODAが支払われ、中国はその金をインフラ整備に向けると同時に、浮いた金を軍事予算につぎ込んだ。

金だけではなく、その技術もだ。「技術供与」の名のもとに、中国に進出した日本企業の技術を、中国は窃取しまくった。技術をすべて提供しないと進出を認めず、技術を窃取しつくした後は提携を解除して締め出すなどの悪質な手法を、国営企業が率先して行った。

中国のことわざで「喝水不忘掘井人」(水を飲むとき,井戸を掘った人を忘れてはならぬ)を、放送大学で紹介していました。

この言葉は、日中国交正常化の際には田中角栄総理が中国を訪問する2日前、周恩来は岡崎嘉平太をもてなすために、食事会を開いた。「中国には『水を飲むときには、その井戸を掘ってくれた人を忘れない』という言葉があります」「まもなく田中総理は中国に来られ、国交は正常化します。しかしその井戸を掘ったのは岡崎さん、あなたです」と言ったという




十数年前とかまででも日中は友好関係にあった、田中首相の日中国交回復でもそうであるその時代は中国は経済規模でも弱小国だったし技術的にも遅れていた
田中首相は江戸を掘った人であり中国では田中首相の娘の家を訪問したりした
それだけ恩を感じてそうなったのである

ではなぜ今こうして日中関係は険悪になったのか?それはまさに中国が巨大化したことである、巨竜となってしまった、そして別に井戸を掘った人などに恩も何も感じていない
アメリカでもいろいろ援助したり技術を供与したがそれも別に恩とも思わない
経済成長はお互いに利するものだから恩を感じない、助けるとも違っているとなる
相互に利があるからであり恩など感じないとなる

だから人間社会は互いに助け合うなど国家レベルになるとない、韓国とかでも日本は経済援助とか技術援助をした、鉄道なども作った、ただ韓国では侵略されたとしか思っていない、そして占領されたとして恨みをもっているだけである
人間はそもそも個々人でもあまり恩など感じないことがある
恩を感じるのは今やめずらしいともなっている、古い日本人は明治とか江戸時代辺りだと恩と義理とかが日本人はあったとされる

ただ江戸時代でも藩レベルとなると互いに敵対関係になり攻められることを警戒していたそれで相馬藩と伊達藩では争い相馬藩が飢饉になったとき飯館村とかに相馬藩内では援助したが伊達藩では援助しないのである
つまり現代では何か困窮したりするとグロ−バルに援助があったりする
でも江戸時代だと隣り合う藩で助け合ったりしないとなる
それはなぜなのか?隣が強国になると攻めてくるという恐怖があったからである
常に隣の藩であれ警戒していたのである、戦国時代が終わり平和な時代になってもそうなっていたのである

こういうことはおそらく中国でも同じだろう、あれだけ大きな国になれば常に争いの歴史だった、そしたら隣国でもいつも警戒していたから何か助け合うとういこともないし
技術でも供与しない、自由貿易などない、そうすれば自国が攻められるという恐怖があったからだ
だからなぜ人間の本質がそういうものだというときグロ−バル経済はいいものとして中国に日本でも技術を供与してアメリカでも中国に友好的であり貿易で利することをしてきたこれは何か人間の本質を見誤ったのだろうか?
人間とはそんな甘いものではない、恩は忘れるしかえって強くなれば今度は攻めてくる
だから戦国時代になって江戸時代でも日本では藩は別々であり協力しない
他藩の利するようなことをしない、それは攻められくという恐怖が常にあったからであるましてや中国は日本に対して戦争の時恨みを持っている
でも弱い時は日中友好であり戦争のことは過去のことだとして忘れるとしていたのであるこれも何なのだろうとなる、そういう態度だからこそ日本でも有効関係を結んだのであるそれが全く豹変したのである

結局人間の本質を見誤ったのか?

なぜ人間の歴史をみれば世界史でも常に戦争があり覇権争いがある、戦争の歴史だった
だから本当は常に警戒していなければならなかった、友好とかは甘い考えであり人間は食うか食われるかの弱肉強食の世界だとなる、それが世界史だったともなる
隣国でも弱体化するとまるで動物でも子供が餌食になるように狙って来て襲われる
まさにそれがロシアであり中国も同じだった、つまりマキャベリの世界である
中国とロシアはまさに日本の弱体化に乗じて餌食にしようとしている
ロシアは北海道をとり中国は沖縄諸島をとるという密約もできている
台湾有事で日本は危機的状態になっている
個々人でも弱体化すると隣人でも他者でも攻めてくる、攻めやすいからそうなる、それを介護とか家族のことで経験したからである、それが人間の変わらない本質だったのである

ただ石垣島とか与那国島とかに自衛隊を駐屯させてミサイル基地化しているのは生々しい中国との戦争に具体的に備えているとも見えたからである
そして太平洋戦争の沖縄戦の悲劇をふりかえる、戦争になっても島だと逃げ場がない
これも怖いことである、日本はそもそも島国だから一億総玉砕ともなったのである
逃げ場がない、難民となって大陸を移動もできないからである
日本という島国と心中するほかないという地形なのである

人間の本質は変わっていない,カルマは繰り返す

これなのである、人間の本質は変わらないから延々とカルマをくりかえす、歴史は繰り返すとなる、人間が急に心が変わったりしないのである
田中首相の日中友好などは今になると中国の演出であり今は日本は中国の一省になるとされる、それだけ巨大化したのである、それに歯止めをかけられなくなるほど巨大化したのである、本来の龍に変化したのである
その龍が回りの国を飲み込み世界を飲み込むほどに巨大化巨獣となったのである

だから人間の本質を見誤った、世界の歴史をみればわかる、日本の歴史でもそうである
常に隣の藩であれ村ですら敵対することがあった、利害の対立もあった
それを何か中国をあれほど友好的に接したのか、そして惜しみなく援助したり技術でも供与したのである
それは歴史をみればどれだけ危険だったかわかっていた、それが今のような恐るべき巨大化した巨獣になるモンスターになることを見ないというのも不思議だったのである

なぜそうなったのか?

これも利益だけを見ているからである、これは原発事故でもそうである、みんな作る方も地元でも利益しか見ていないからである、その危険性を見ないのである
すでに技術者でもその危険性を指摘していたが利益しか見ない、もし地元でも原発に反対すると住めなくなっていたのである、それは必ず利益からしか見ないからである
中国でも大市場であり利益になることしか日本でもアメリカでも見ていなかったのであるそこに人間の落とし穴があった
日本でもアメリカでも供与した技術は莫大な軍事費となって軍事大国化したのが今の中国である、もう日本など一飲みにできるとなる、巨獣に踏みつぶされるだけだとなる
アメリカでも日本でも利益しか見ないからこうなったともなる
江戸時代すら隣の国を利することはしない、それが必ず強国化して攻めてくるとなるからそうなる

日本が中国と韓国でも友好的だったのは海に隔てられて技術的に直接交われないとかあった、それが侵略できないものとしていたのである
それで平和的友好関係があった、ただ日本は中国でも韓国でもいいものだけを取り入れてきたのである、別にそうしても戦争にはならなかった
秀吉の朝鮮征伐とかは例外だったのである、それができていたのは海が防壁となっていたからである
でも今は海が防壁とはならない、ミサイルが瞬時に飛んでくる
だから石垣島とかにもミサイル基地を建築していたのである
その映像を見て本当に日本でも中国の侵略に備えているとリアルに感じた
そしてそのミサイル基地が中国で脅威であり攻撃されるという標的にされるというとき
何か戦争の前哨戦がすでに始まっているとも見たのである

だからいろいろと不穏である、津波から原発事故からコロナウィルスから次に台湾有事とかなり日本の経済停滞と貧困化があり日本は戦後の焼け野原のようになるのかと恐怖になる、戦争というのが具体的にイメージされるので怖いのである
そしてアメリカは衰退して日本を守らない、アフガニスタンのように撤退するのである
でもそれも無責任だと思う、日本に基地を作ることは日本がで作らせることは日本でも危険でありアメリカも責任を持つべきだと思う
簡単にアフガニスタンのように撤退するなら基地など作るなともなる
どうせ責任を持たない、アメリカ兵は死なせたくないと言っているからだ
そうなるとアメリカを頼っていても無駄だともなるのである

それより日本が何らか米中とかロシアの狭間で内乱状態になるかもしれない
創価公明は中国の一部隊として中国につく、でも自民党の中国派と一体化する
でも反中国もそこで対立して内乱状態になるかもしれない、アメリカは何か中国に戦争するようにけしうかけている、このニュースでもそうである
アメリカはそもそも日本のために血を流さない、中国と日本を戦わせて血を流さないというふうにも見えるのである

そこで日本の舵取りが相当にむずかしくなる、日本一国では中国とは戦えないからであるだから台湾有事は相当に日本にとって危機的状態になる
でも日本は70年間平和だったからそういう危機感がないのである
危機に弱くなっているのである、それは津波や原発事故でもそうだった
コロナウィルスは日本では幸運だったのかもしれない、日本には危機感とかなくなっていたのである、危機に対処できないのである
ともかく戦後70年の節目でありそこに大乱がまた大災害が戦争が起きるのかと危惧するそして国内の少子高齢化とか弱体化するからそれも他国から攻めやすいものとなる
そういうふうに様々な危機に直面している
ただ本当にそういう危機が来たとき対処できるのか、日本をまとめることができるのか
そういう危機をのりこえられのか?そういう時代の変わり目に来ている

伊達と相馬の境の桜

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に実は伊達に

戦国時代は争ったがその後は平和がありこうなったのである、それが世界ではならないのである、豊かになれば軍事大国となり隣国を中国のように攻めてくるのである





posted by 天華 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

ハンコの失敗 (中国で買った高いハンコの作りが良くなかった)


ハンコの失敗

(中国で買った高いハンコの作りが良くなかった)

hanko111.jpg

このハンコは中国で買ったものである、だから物はいいのだが名字を刻んだ所は直接彫り込んだものではなく彫った薄いものを張り付けてあった
だからそれがはがれたのである
そしてはがれたなかの端の方がとれてしまった
でも全体的には残っていた、なんとか名字の形が全体的に残っているから使えるだろう
でもこれは大失敗だった、中国製だからいいと思った
もし木に彫りこんでいたらこんなふうにはならない
中国はハンコの本場である、でも材質は良かったが作り方が良くなかったのである
まさかハンコがこんなふうになって使いなくなるようになると困る
結局ハンコもものだから劣化する、でもただ貼り付けるだけだったからこうなったのである

ともかくハンコというのは不便である、いちいちハンコを使用するのはめんどうでもあるそれで日本はデジタル社会に遅れをとった
もしこのハンコが使えないと本当にいつくもまたハンコを押し直しするからめんどうである、ハンコが前時代的なものなのに日本では残っていて中国ではハンコは使わない
それだけ日本ではデジタル化することに遅れているのである
ハンコはもう必要ないのである

要するに中国の方が今進んでいる、このハンコを作ってもらったのは十数年前に中国で作ってもらったのである、一万もしたのである
その時物価が十倍くらい違っていたのである
そして中国はあんなに発展していない、その急速な発展に驚いた
もうハンコの本元でハンコを使っていない、ハンコはもう価値がない
このハンコは材質は良くても作り方が悪かったのでこうなったのである
木に彫られたものだったらこうならなかったのである

2021年12月14日

冬桜、冬薔薇、冬菜、冬の日(蔵ある家ーフラワーアレンジメント)


冬桜、冬薔薇、冬菜、冬の日(蔵ある家ーフラワーアレンジメント)

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fuyusakurakura1.jpg

habotannn11.jpg

flowerarengeihome.jpg



姉は生け花をしていた、でも認知症になった時花を買ってやれなかった
金はあってもそれに気づかなかったのである
人間はやはり家族でもわからないことがある
だから家族でもその人を良く知ることが必要だった
何に興味があり何を好きなのかとか知れば良かったとなる
母はもともと花にも興味がなかったのである

ともかく良くしてくれた人はなんであれ思い出に残る
だから一番かわいがられた人が介護しろとなるのもわかる
兄弟でもみんなが良くされないからである
だから親さえ実の子でも忘れる、墓参りすらしない人もいる

生け花でもフラワーアレンジメントでも実感するにはじかに見ないとわからない
何でも写真にしても本当の感動は実際に見ないとわからないとなる



蔵古りて広き庭かな冬桜

蔵古りけ枯木一本農家かな

庭広く蔵ある家や冬椿

石黙し家にこもるや冬薔薇

三本の樅の木根付き冬の暮

街中に冬菜畑や蔵の家

葉牡丹の寄り合い咲きて日の暮れぬ

前畑に葉牡丹あまた蔵の家

冬薔薇一輪暮れぬ余韻かな

冬の雨石を濡らして明かりかな

花一つ貴品のあれや今日も見ゆ

葉牡丹の寄り合い咲くやホームセンター

短日や家事に追われて暮れにけり

なにかにと追われるものや師走かな

本重く重ねて積むや年の暮

冬の灯や一軒一軒田舎かな



冬の薔薇一輪散りてひそけきまた一輪の咲くを見ゆかな

我が家に手伝う人や五年すぐなじみてあれや冬の日暮れぬ

この地にそ生きて刻める年月や樅の木三本根付き動かじ

あづき色の花の真中に様々の花の映えにき今日も見ゆかな

花一つ長くも見れば心にそしみにけるかな我が家に飾りて

冬の薔薇我が庭に咲きなかなかに散らず今日も暮れにき

threemomi11.jpg

原町の道の駅の仮設があった場所に樅の木があった
三本あるのがいい、これは幹が細いにしても樅の木だろう
三本あるということで連帯を感じるのである



原町のダイユーへ行く六号線の道の脇に農家があった、最近こじんまりした新築の家を建てた、その家の庭は広く蔵もあった、だからうらやましく見ていた
ただ中は塀があり見えなかった、でも塀が取り払われて中が見えた
そしたら冬桜が咲いていたのである、これは珍しいと見た
庭が広いから桜でも映える、田舎だと蔵ある家がありそれは古い家だとなる
会津の方の喜多方では競って蔵を建てた、蔵の街になった
それは財を築いた、豊かな家になったということで蔵を作った
蔵があるということはやはり豊かさの象徴である

でも今は蔵は使っていないのである、蔵に何もなく孫の写真を飾っているのが原町の街中にあってみせてもらった、昔だったら蔵には農作業の道具とかいろいろ使うものがあったしお宝が埋もれていた、それで時々旧家に貴重な古い資料が残っていたとか調べに来る学者がいたりする、蔵はその家の歴史を伝えるものなのである
蔵と葉牡丹は似合っている
鉢に植えた葉牡丹は葉牡丹として活きていない、大地にどっしりと咲いているのが似合っている、何か葉牡丹は太っている百姓女をイメージするからである

フラワーアレンジメントとか生け花の良さは花を身近に見れる、それも長く見れる
すると人間はその花が心にしみるようになる、毎日見ているからそうなる
庭の花でもそうである、でも家の中に飾ると余計に身近であり花と一体化する

このフラワーアレンジメントでは真ん中のあづき色の菊が何か中心に見えた
他の花は散っても残っていた、白菊とかが中心とも見えたがこのあづき色がなんともいいのである
近くの森の花屋は貴重である、なぜならもう一軒の花屋はなくなったからである
一万の町で花屋を維持するのはむずかしい、私の場合車がないから隣街まで行けないからである
あの花屋はもともと小高で開いていたが震災以後移ってきたのである

私の姉は生け花を習っていた、それは若い時である、それで失敗したのが認知症になったとき花を買って生け花をさせれば良かったと思う
認知症でも別に何もわからないことはない、何か感じることはできるのである
ただ私には認知症の病気が理解できなくてとまどっているうちに死んでしまったのであるそれで遺影の前に花を活けて供養しているのである

何か人間はこうして家族でも死んでみるとこうしてやれば良かったとか後悔している
それは死んだ人は二度と帰ってこないからである、いるときはうざいとかなっても死ぬといなくなるとかえって何かしてやれなかったとか後悔するのである
これが誰でも経験することなのである、家族でもいつか別れて二度と逢えなくなる
それがどうしてもリアルに感じられないのである、いつまでもいると思ってしまうのである

要するに人間は時間の作用が欠かせないのである、時間の中で育まれ親しくなり共同性が生まれる、そして人間は簡単に信頼関係はできない、これも相当な時間がないとできないだからお手伝いさんでも十年も働いていれば信用できるとなる
そこに長い時間が必要なのである、何でも人間には時間が必要なのである

とにかく年の瀬であり買い物に追われた、家事に追われる、家事が結構な負担になっている
だからフェスブックをできない、コメントもしていない
プログに書くことで精一杯だとなる、そして今これまで書いたもののまとめをしている
記録が消えないように保存しようとてしている
これもまた手間なのである、書いたものが膨大なものになったからである
本の整理も大変である、読んだものでも忘れているからである
でも何か自分の文の中で引用するから読み直さねばならないのである
整理するのが大変なのである、だからこうして毎日いろいろと追われているのである



2021年12月13日

「Dappi」の深層 (報道にも公正はありえない、必ず偏向する、メデアは中立ではない)


「Dappi」の深層

(報道にも公正はありえない、必ず偏向する、メデアは中立ではない)

政治資金収支報告書によると同社は、「自由民主党東京都支部連合会」から毎年ホームページ関係費や「自民党政経塾」の費用として支出を受けています。第2次安倍政権下の13年以降だけでも、都連からの支出は計約725万円に上ります。

野党攻撃のツイッター「Dappi」
運営企業社長、自民党本部事務総長と親戚
「赤旗」日曜版報道に大反響

13億円も使われた官房機密費
選挙も近いと言うのに菅退陣後ピタリと止まったツイート
Dappiの正体は?Dappiの出資者は?
これほど闇の深いアカウントはそうそうないだろう

ウヨも当然Twitterで意見を投稿する権利があるし、存在して何ら構いませんが、私が一番腹立たしいのは、Dappiのように野党・支持者を叩くことを生業として行い、ネット上で世論誘導し、しかも取引先が自民党。政党と企業が結託して報酬を得ている(であろう)ことです。
真っ当な世論の危機です。



この問題が良くわからない、マスコミでも新聞局でもテレビでも左右の発言があり偏向している、赤旗でも聖教新聞でも偏向している、雑誌でも右寄りでも左寄りでも偏向している、それは問題にならない、ここでなぜ問題になったのか?
これはネット社会では大きな問題にもなる、例えばレンタルサーバーとかプロバイダーとかを通じて個々人が発言する
でも自民党であれ創価公明党であれ共産党であれ幸福の科学であれ様々な組織団体がありそれらは資金があり金で簡単に報道を操作することができる
金だけではない、会員に命令して簡単に弱小のウェブ業者など買収できてしまう
何百万の会員がいればあるレンタルサーバーでもプロバイダーとかツイッターでも乗っ取ることもできる、それでトランプ大統領すらフェスブックで発言させなくできたのである

でもマスコミではもともと偏向した報道をしていた、NHKも国民から視聴費用を強制的にとっているのに公平ではない、メデアを持つことは権力を持つことでありその権力を与えることは公平さが要求される、でも結局公平なメデアなどないのである
そもそもあらゆることに公平でありえないのである
必ず報道は偏っているのである、だから別に赤旗であれ聖教新聞であれそれが偏っていても問題にしないのである
雑誌だって右と左があり偏っている、中立とか公平などないのである
それは是認されている、でもなぜ今回ネットメデアの一つが攻撃されたのか?
それは自民党から資金が流れていて野党を攻撃するためのものだったからだとしている
それが公平を装っていても野党を攻撃して選挙を有利にするものだとして裁判までになった、個人的誹謗もありそうなった

こうしたレンタルサーバーとかプロバイダーとかウェブ業者とかは小規模なものが多い
資金的な面になるとやはりここでも数を集めることである、さくらレンタルサーバーは安価にして数を集めて成立ったのである、でもそうなると数を集めないと経営が成り立たない、でももし組織団体のか会員が創価でも他の宗教団体であれ幸福の科学であれなんでも数を集めると資金的に経営できるとなる、もしそうてないとしたら一斉に組織団体の人達がやめたら大打撃になり経営できくなるのだ
そういう不安が個々人にはある、創価を批判するなとか共産党を批判するなとかある団体組織を批判するなと圧力がかかる、すると資金的に従がわざるをえないのである

そもそもメデアにしてもやはりこうして大勢を対象にしている、一人より何万人であれ何十万であれこ何百万となれば一人の費用がわずかでも経営できるのである
ただyoutubeなどは費用がかからないから個人で放送していることは画期的だった
テレビだったら放送するだけで莫大な費用がかかるからやっていけないのである
そこでどうしてもスポンサーが力を持つ、宣伝費をもらって報道することになるからその会社とか団体の批判はできないのである
ここにマスコミが歪められた原因がある、報道とは権力から自立しなければ公平な真実を追求できないのである
金やるから黙って入れとなればそうなる、そして肝心なことは報道されない
原発事故は原子力村で「安全神話」が作られて危険はないと口が封じられた
第一福島民報は創価の聖教新聞を刷って金になっている、また出資の株式の半分は県でになっているのである
そうしたらそれらに対して何の批判もできない、批判する記事はのせないとなる

そうなると危険なものでものばなにしされて結果的に県民が今回のように大被害になったのである、それも権力で報道が操作されたからである
メデアをもつことは権力を持つことなのである、でれでマスコミが第三の権力となったのである、でもそのマスコミはNHKですら公平ではないのである
東北政経とかも鋭い批判をしているが何十億という除染費用を幹部で山分けしていても相双リテックの宣伝をのせていたのである
となると相双リテックのことは批判できないとなる、こうして権力と金によって報道は歪められるのである
私の本はつたないものでも創価を批判しただけで個人とういだけで地元の図書館に置けなかったりした
つまり出版でも図書館でも公共的なものでもそこに権力がかかわっているからである
だから簡単に拒否できるのである、また何か重要なことでも報道させないのである
だから報道の自由がないということはそれが国民に大被害になる
創価だとファシズムになる傾向があるし共産党でも一党独裁になる
それは歴史が証明している、その権力は巨大だからである

今回の問題はネット社会化して起きてきたことである、ただネットにかかわらない人は良くわからないのである、前々からネットでは論争されてきたことなのである

ネットでは権力の無い一個人でも発言できる

これがネット社会でありそれがマスコミを凌駕するまでになったのである
ただその弊害もあり今回の様な事件にもなにる、常に何かあらゆることが権力によって金で操作されて歪められるのである
マスコミでも金やるから黙っていろとなればそうなる、ただネットとなると報道するにも金はかからない、youtubeのように個々人でもテレビ局になる
これは大きなことである、プログのようなものでも一応読む人は少なくても発言はできるまたいろいろと自作の作品でも発表できる、メデアを通さなくてもできる
だからこれは民主主義にとって欠かせないものになっている
個々人がメデアを持ち権力を持つことはこれまでありえなかったからである
ただ依然としてヤホーニュースに選ばれるのはやはり選ぶ方に権力があり大勢の人に読まれるとなる、そこで選ばれればそうなる、でも選ばれない人も多いのである

そこでもやはり組織団体の意向が反映される、ただ不思議なのは創価のプロパガンダの佐藤優が発言していても内部事情を赤裸々に語った人も発言させていたのである
ただここでも選ぶ人がいて権力を持つ、どうしても組織団体の意向に逆らえないとなる
つまり報道は自由で公平ではありえないのだ
だから別に聖教新聞であれ赤旗であれなんであれ偏向してもいいのである
それはそういうものだとして見るからである
むしろ公平を装うメデアがNHKでも今までのマスコミでも危険だったのである
なぜなら公平を装うから判断を誤るからである、公正だと思いこまされるのである
だからこの辺で原発事故があったとき原発避難民と津波避難民が同じ仮設住宅に住んで
補償金で争った、一方は原発避難民は多額の補償金をもらったが津波避難民はもらえなかったからである
でもNHKでは原発避難民側につくということで報道したから暗に津波避難民を批判するようになったのである、でも後で両方を和解させるような報道にはなったのである

いづれにしろ報道は民主主義の要になる、それはナチスを見ればわかる、ラジオの報道がナチスの全体主義を助長したとしている、ラジオにそんな力があったのかとなるがやはり国民全員を扇動する力がラジオでもあったのである
また戦争をあおったのは朝日新聞だったというのもそうである
世界に報道された油まみれの一匹の海鳥がどれだけ影響したか、世界中の人がイラクはひどいと怒りになったことでもわかる、それだけ映像の力は大きかったのである
フェイクニュースでもそうである
何が真実なのかもう世界となると見極めることが不可能になるからだ
それは一億の人間が住んでいる日本でもそうである、真実が何なのか報道からでもわからない、その裏にはいろいろと権力の強制があり公平な報道などないからである

「Dappi」の問題はネット社会化して起きた問題である、これは前々からそうなっていた,メデアを持つものが発言を規制できるからである、権力がかかわり規制できる
「Dappi」が公正を装ったから問題化した、別に私たちは自民党のシンパであり右の団体でありと標榜していれば問題なかったのかもしれない
そういう団体ならそういう発言があっても普通だからである、そういうことは認められているからである
ただこの辺は良く検討しないとわからない、ただ必ず自由な報道はなくメデアは権力によって左右されることは確かである

報道は立場が違うとまるで違ったものになる、公正な報道はありえないのである
権力に左右されない報道はありえないのである、民主主義だって結局田中首相が言ったように金と数なのである、数を集めれば権力になる、だから自民党は創価の票がないと半分落選するというのも恐怖になり政教分離で批判したりしないのである
こうして数を集める数が権力だとなっているのが民主主義でもある
それもまた不公平なのである、数が多いことが正しいとはならないからである
でも結局数に押し切られて戦争でも原発事故でも起きる、金と数でやはり原発事故も起きたからである、ナチスが民主主義の選挙で正当に選ばれたことでもわかる
数が権力となり善悪も関係ない、それで何百万人が死んで犠牲になったのである
だから常に報道が問題になるのである

いづれにしろ報道は権力によって左右される、だから公正はありえないのである
権力はもともと暴力によって作られていたことでもわかる、言論などは無視される
力の強い者が支配することになる、暴力で決着する、議論しても決着しないからだ
それで米中対立でもどちらが正しいかなど関係ない、力が強い者が正しいとなる
戦争て決着するとなる、日米戦争でもそうだったからである、アメリカが正しいわけでもない、ただ力が強かったから戦争に勝ったから正しいとなっていただけなのである
だから東京裁判など公平でありえないのである、要するに力のあるものが強い者が一方的に罰するだけだったのである、それが人間の歴史でもあった、正義が通るのではなく
力の強い者、権力を持つものが裁き支配するとなるのが歴史だったのである
それは現代でも変わりないのである
結局神が治めシオンで公正な裁きが行われて平和が来るとなる、それまでは人間社会はネット社会であれなんであれ公正な裁きなどないのである
そもそも人間に裁く権能がないからである、人間には裁けないからそうなっているのである


posted by 天華 at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2021年12月12日

南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について (綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)


南相馬市の多珂神社の隣のスダシイ神社について

(綿津見神社と多珂神社とスダシイ神社の関係)

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近接して三つの神社がある

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相馬地域辺りに縄文前期の土器は発見されていない、空白地域になっている
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真野古墳群から船の線刻画が発見された
その船は十人以上乗れる大きなものである
これは縄文時代に作れたのかとなるとできない、すると安曇族系統のものが
ここに定着して作ったのかもしれない、その材料のスダシイもあったからである




スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。

スダジイ(ナガジイ、イタジイ、C. sieboldii)- シイ属の中では最も北に進出してきた種であり、大きな木では、樹皮に縦の割れ目を生じる。福島県、新潟県の佐渡島にまで生育地がある、

<家に在れば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る>とあります。

椎の木は古来日本を代表する樹種であり、高さ20m以上、幹周りは1mを超える照葉樹林を構成する主要な樹木である。

「すだじい」であると提言する。結局、「スダジイ」の名前は、「素台木」を語源とし、シイタケ造りの基礎となる台木的な椎(しい)の木という意味を表わすものであると言える。

船の村のスダジイ(ふねのむらのすだじい)は長崎県佐世保市にあります。ここは自然景観です。「植物」などとなっています。
スダジイはブナ科の常緑広葉樹である。暖地性照葉樹林を代表する樹種の一つで、佐世保市ではごく一般的に見られる。船ノ村のスダジイは地面より130cmのところで434cmと522cmの二股に分かれる。姿も良く樹勢も盛んである。(*1)

近くの住所には、鹿町町中野(398 m)、鹿町町船ノ村(1.03 Km) などがあります。近

日本の暖帯林の最重要樹種で、東北南部以西の本州から九州の丘陵・山野の広範囲に分布します。

磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり 大伴家持 巻十九4159


初めに生んだのが淡路島、
次に生んだのが四国、
三番目に生んだのが隠岐。
そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、
ついに本州を生みました。
この八つの島を大八島国といいます。

スダシイとかタブの木(都万麻)は照葉樹林帯の南国性の木であり船を作る木としてあった
硬い木だとそうなる、なぜここにスダシイ神社があるのかやはり安曇族が船材として利用したからだとなる、またシイタケを作る台として利用したとあるときそういう農業技術をもっていた人が来て教えたとなる、焼畑にしても縄文時代なら日本ではしていない
他から入って来た人達が教えられてできたのである
縄文時代と弥生時代ではその差が大きいのである、様々な技術が鉄作りでも農業技術でもいろいろな技術が渡来人によってもたらされたのである
ここでも船を作っていたのかもしれない、船の線刻画が最近発見されたからである

水の底で身体を洗ったときに生まれた神が底津綿津身神(ソコツワタツミノカミ)。次に底筒之男命(ソコツツノオノミコト)。
中ほどで成った神が中津綿津身神(ナカツワタツミノカミ)。次に中筒之男命(ナカツツノオノミコト)。
水の上のほうで身体を洗ったときに生まれた神が上津綿津身神(ウワツワタツミノカミ)。次に上筒之男命(ウワツツノオノミコト)。

ワダツミ神の宮殿へ
(塩椎神は言いました)
「わたしが今から、この船を押して流します。
しばらくそのまま進んで行ってください。
味し御路(良い海流?)があり、その海流に乗って行けば、
魚の鱗(ウロコ)のように家を並べた宮殿があります。
それは綿津見神(ワダツミ神)の宮殿です……
https://nihonsinwa.com/page/1827.html

国生み神話でも底津とあるのは海の中をくぐって生活していた漁労民の安曇族だったからこそである、中津でもそうである、海の底までくぐるとか中まで見るとかは海人(あま)でないかぎり出てこない言葉である、それほど海とかかわっていたから生まれた神話である

国生み神話でも島が中心であり本州が最後に生まれている、そして佐渡島まである
つまり安曇族が船で渡った航路をたどっているのである
海洋民の神話でありそもそも日本の神話は縄文人の神話ではないのである
ただ縄文人と混交した神話は海彦山彦の物語である、それは安曇族とも関係していて
綿津見神社と山津見神社がそうなのである
安曇族などの海洋民は様々な農業技術とか鉄作りの加工とか鵜飼とか養蚕とかの高度な技術をもった人達でありその人たちが弥生文化を日本にもたらしたのである

ただなぜ南相馬市と相馬市とかに綿津見神社と山津見神社がこれほど多いのか?

その謎はここが照葉樹林帯の南限の地であスダシイも北限の地としてあり海老のマルハ
シャリンバイも奄美大島から種が流れ着いて根付いたのである
それは東北でも温暖な地域だからである、つまり照葉樹林帯の南限の地だからこそであるそしてここが地質学とか気候でも境目なのである
万葉集の真野の草原はそうした気候的南限の地として境目として意識された

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この地図のように古い縄文遺跡がないことでもそうである、なぜか空白地域になっているつまりこの辺は縄文人がそれほど住んでいない地域だったのかとなる、住んでいても希薄な地域だったとなる、ただこれは謎である
かえって宮城県とか北の方から縄文前期の遺跡がありそこに安曇族系の海洋民が進出しにくかったのかもしれない
この辺の綿津見神社が多すぎるからだ、ここに相当数の安曇族系の海洋民が入植したとなるからだ

新地になると縄文人が住んでいた

鹿狼山には「手長足長」という神様が通っていたと伝わります。
ここからその長い手を伸ばして海の貝を拾っては食べ、その貝殻を新地町方面に投げていたために、海から少し内陸部に「小川貝塚」ができたという伝説です

ここではかなりの人数の縄文人が貝を食べて暮らしていた、ただ相馬地域でもここだけに伝説が残っている
貝塚もここだけである、だから縄文人がここで相当数住んでいたが他は希薄な地域だったのかともみる
だからこの空白地域に安曇族が入ってきて農業技術とか焼畑とか船造りとか鉄作りとかいろいろ技術をもたらしたのである
これだけ綿津見神社や山津見神社があるのはそのためである

またヤマトタケルの東征神話で上陸した地点が南相馬市の原町区かもしれない

ヤマトタケルが「竹水門」に至る経路を確認しますと、「海路うみつちより葦浦あしのうらに廻めぐる。横よこしまに玉浦たまのうらに渡りて、蝦夷えみしの境さかひに至る。」とあります。

つまり、葦浦・玉浦を経て、竹水門(蝦夷の境)に着いたと考えられます

「竹水門」は多珂郡のどのあたりか? という問題になります。「和名抄」によれば、多珂郡内には「多珂郷」が含まれており、ジャパンナレッジ「日本歴史地名大系」によれば、多珂郷は現在の茨城県高萩たかはぎ市の北部から北茨城市の南部にかけてがその郷域と推定されています
https://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=97

竹水門(たかみなと)(蝦夷の境)は南相馬市の多珂神社でもありその後に真野郷になった、それで真野の草原の歌ができたのである
桜井古墳は海に面してあり港の役割もあったかもしれない、海が入りこんでいたからである
こうした神話が生まれたのはそもそもの下敷きになったのが安曇族とか海洋民が早い時期に土着した結果である、特に原町区に綿津見神社が多いのである
それは普通ではない、多すぎるのである、でも浮田国造があり真野郷があった地域は意外と綿津見神社を見ていないのである
そこにも大きな謎がある、原町区に綿津見神社が密集しているともなっているのは安曇族が定住した結果なのである
ただ正式の文書とかでも伝えられていないし伝説とかも何かいい伝いでも残っていない
綿津見神社だけが歴史を語っているとなる

だからこれがこの辺で話題にもならない、何か物語でも伝えられれば関心がもつがただ綿津見神社だけが伝承すらなく残されているからだ
ただ明確なのは安曇氏と同族の犬養(犬飼)とか八木平いう地名は残っている
それも八木沢峠がありこれが氏族名だと気づかなかった
それから相馬市の玉野村から霊山町の方に行くと犬飼というバス停が残っていた
犬養という地名も残っている

だから安曇族の系譜の人達が綿津見神を信仰を受け継いで移住してきたのである
真野古墳群から発見された船の線刻画でもそれは十人以上乗れる船である
そうなると縄文時代ではなくやはり安曇族が残した物なのかとなる
この綿津見神社はこの辺では重要な歴史を語っている、でもなんら注目もされない
解明されないのである、資料も残っていないからだとなる

何か神社には不明なのが多いのである、でもこれだけの綿津見神社山津見神社が残っているとしたら何かしら注目されていいはずである、だから歴史でも古くなると埋もれるとういことである、何か解明しようがなくなっているのである
でも神社があるとお参りするのである、でも何にお参りしているかもわからないとなる
これも奇妙なのである、ただ神社は相当に古いものであり歴史を語っていることは確かである
それとともに地名も本当に古いのである、化石のように古いのである
だから八木沢でも八木平でも犬養(犬飼)でも残っていたのである
それに気づかなかったのである、これは明らかな歴史の証拠だったのである

2021年12月11日

鹿島駅でゴミが捨てられなくなった (ゴミは持ち帰りで駅でも捨てられない)


鹿島駅でゴミが捨てられなくなった

(ゴミは持ち帰りで駅でも捨てられない)


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前に駅にいたらゴミをどこになげるのかと聞かれた
それでホームにありそこに捨てられるのと外にも捨てられるゴミ箱があった
そこでタバコを吸う人がいて吸い殻を捨てていた
それもできなくなったみたいだ

なぜこうしたかというとゴミを捨てるのは商工会に頼んでいた
それで商工会に金を払っていた、JRでは節約するから頼まなくなった
今駅にいるのは高校生の見守り役でありJRの業務はしないという約束なのである
なぜそうした取り決めをしているかというと何か切符を売ることを頼んだりしたら
JRで金を払うようになるからである
経営が苦しいから節約するようになる

私はボランティアで客にゴミをなげる場所を聞かれたので教えたり自分で捨てたりしていた
でも高校生の見守り役に中に入るなとか言われたしまたJRの駅長が監視カメラで見ていて注意された、誰も見ていないようで見ているのである
こうしてともかく無人駅だったとき乗客に聞かれて教えたりしていた
自分で時間表も作った、これも撤去させられた、なぜそうなったかというとJRの責任となり乗客に聞かれるからである、時間が間違っていたりしたら聞かれる、つまり責任問題になる
なんでも責任問題になるのが社会であり人間なのである

でも不思議なのは無人駅にすること自体JRの責任問題にならないか?

盲人団体では危険だから無人駅にするなと抗議があったからだ
無人駅にすること自体勝手に子供でも入ってきて危険にもなる
だから無人駅にして事故になったとか責任が問われることだってある
でもJRにしてみれば乗客が少なくなれば節約せざるを得ない
だからゴミ捨てるのでも商工会に頼まなくなったのである

いづれにしろ原発事故でもわかったように人間の問題は常に責任が問われることなのである、だから何かと細かい契約をして責任をとらないようにしているのである
だからボランティアの問題は金をもらわないとか何か無責任だから意外と簡単にできないそのために裁判沙汰にもなっているしまた一人ではできない、JRであり自治体であり許可されないとできない、何でも勝手にボランティアだからと受け入れられないのである
その大きな理由が必ず責任問題になるからである

でも無人駅にすること自体が相当な無責任にならないか?

誰が責任とるのか、機械がとるのか?やはり何かあったらJRとかに責任が問われるとなる無人駅にしていたから事故があったとなるからだ
でも法律的にはJRに責任はなく乗客の責任になるのか?

外国ではもともと改札などなく自由に出入りできる

スイスでは切符なしの乗車は罰金100CHF

切符を買わずに電車に乗ってチェック係に出会ってしまったら、もちろん切符を買ってないことがバレますよね。

その場合、罰金100CHF(約10,000円)を支払わなければなりません。

回数券の場合は、電車に乗る前に駅のホームにあるオレンジの機械に回数券を差し込みましょう。

差し込むことで日付を入力することができます。
これをしていないと、切符を買っていない扱いになるので注意してください。


私の場合回数券であり機械にさしこみ日付を記入しなかったのでとがめられた
本当は一万でも罰金がとられたのである
ただ見逃してくれたのである
また知らないうちに国境も越えたりしていた、それだけヨ−ロッパだEUになって越えやすくなっていた、でもその時ユーロ―という共通貨幣はなかった

ヨ−ロッパだとこうして自己責任社会なのである、でも違反することを知らないと法外な罰金をとられるから怖いとなる
日本では手を取り足をとり教えたりするがヨ−ロッパでは教えないとなる
すべて自己責任になってしまう
日本でも無人駅化するとかなる自己責任になる、事故を起こしたら自己責任になる
JRと自治体の責任ではなくなる
つまり知らないでは済まされない、知らないことも自己責任になるのである


あとがき


何か奇妙なのはゴミでも商工会にJRが頼むと金を払うことになるからしたくないというのはわかる
でも商工会で無料でボランティアですれば金はかからないのである
駅内で弁当を食べていた人もいた、するとゴミがでるしそれを持ち運ぶとめんどうになる今ゴミを投げる場所がなくなっている、そういう人達は今度は車から道に捨てたりする
自転車でもゴミがなげるところがなくて困ったことがあるからだ

結局無人駅が問題になるのはJRが管理するのだがゴミ箱でも使えなくしたのはそれをJRでしたくないからである、手間になるからである
そきして頼むと金がかかるからである、
商工会でゴミ投げをJRから頼まれてしていたのも金をもらえるからである

でもこのゴミ投げこそ駅をきれいにするために必要であり無料のボランティアがするもはのなのかもしれない、ただゴミを集めて投げるだけだからである
ゴミが投げられなくて困る人は確実に駅でいるからゴミ箱は必要だとなるからだ

ただ正直これもめんどうになるからかかわりたくないとなる、またかかわれないとなる
JRでもかかわるなとか周りからも警察がきて何をしているのかと回りの人が通報したり
あからさまにここでそんなことするなとか乗客にでも言われた

要するに一番無難なことはかかわるなということである
ただそのために不便になったりするのは乗客になる、それJRではどうでもいいということである、JRではそういう人へのサービスを考慮しないからである
それは車内でもそうでありJRが重視しているのは電車の安全な確実な運行である
それ意外は仕事と見ていないからである

ただ乗客にとっては困ることになる、JRは公務員ではない、民間だから利益を出ないことはしない、国鉄時代とは違うからである
それでも市町村でも自治体ともかかわる、街全体ともかかわるのが駅である
でもまた利用者が少なくなるとみんな関心もないとなる
まあ、ここでは鉄道自体は廃止にはならないからそのくらいの不便は見逃すともなる
要するに今関心があるのは車であり道路である、鉄道は乗る人が少ないから関心がないのである、もっと乗る人がいればみんな関心をもち要望もでてくるがそれが今はないのである







2021年12月10日

時間の貴重さが自覚できない (あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


時間の貴重さが自覚できない

(あなたの時間を奪われるな-消失しやすい時間)


3000円の時計を買ったが壊れたので使えない、それで何度も損した悔しいとなる
その損は3000円だから何かかえって計算しやすい身近になるから悔しいとなる
でも例えば百万円損したとかなると意識しない場合すらある
貯金の額でも大きい人は意識できないのである
かえって千円とかでも意識しやすいから損したとなり忘れられないのである
人間は何でも大きくなると意識しにくいのである、細かいことは意識するのである

時間は一時間損したとか意識しない、千円なくしたときのように意識しないのである
若い時だと特にそうである、時間がいくらでもあり暇で暇でしょうがないとなっているでも30過ぎる辺りから時間がなくなることを多少は意識する、40才になるとあれ白髪でてきたなとか40だと先がみえてくる、要するになにかしようにもこれまでしたことが学んだことが問題になるのである
何か新しくしようとする時間がなくなるのである、そしてあっというまに60過ぎて老人になる

人生をふりかえると旅行とかで海外旅行で20代とか30代とかの人とあった
でもすでに海外旅行をしてから十年以上していない、その時逢った人もすでに40くらいになっているかもかもしれないし20代でも30代後半になっている
だからこれも本当に不思議でありこんなに時間が早くすぎるのか、それは先日逢ったようにさえ思うからである、人間の出合いも瞬間的だとも思った
あの人と逢ったことあったな、あれからもう十年以上すぎたのか、そして永遠に逢わないなとなっている
まず人間は十年以上合わないと相当に人間が変わっている
子供の時一回しか合わない親戚の女性は別人のようになっいた、とても普通の人間ではないと見た、それは子供の時しか逢っていなかったからである
人間の世界はこうして常に変化でありこの年になると昨日逢って話したけど死んでいたということもある、それが隣の女性だったのである

人間はまず時間を意識しない、時間は金のように意識しないから時間を失っても損したと思わないのである、でも老人になると痛切に意識するのである
それは何かをするにも学ぶのにも時間がなくなるからである
「少年老い易く学なりがたし」となる光陰矢の如しともなる
だから退職して何かを学ぼうとする人が増えているのもわかる
60の手習いとかもありうる、でもやはり人間はつくづく積み重ねが大事である
新しく学ぶことは簡単にはできないのである、人間の時間は限られている
老人でも今まで積み重ねてきたことだと素人でも専門家にもなれる
でも新しく一から始めることは趣味でもむずかしいとなる

だから金は常に意識している、百円でも千円でも強烈に毎日意識して使い失えば悔しいとなる、でも時間は金のように意識できないのである
そして金と時間がどちらが大事かとなると金も大事であるが老人になると時間が大事になる、先がなくなるからだ、人間の成すこと何でも時間がかかるからだ
老人になって投資に向いていないのは時間がなくなっているからである
長期的視野で投資できないからである、利益を上げる前に死んでしまうということもある
その他でも人間は何をするにも時間がかかる、それはあらゆることでそうである
家族でも一緒に過ごす時間がなかったら親密になれない、母親でも一緒に過ごす時間がなかったら親子にもならない、その母親は5歳まで一緒いて育てた娘がいてもその娘が母親とも思っていない、でも誰も頼る者がいない、それで認知症になって頼ったが金を頼りにされるだけだから悲劇である
子供の時一緒に生活していないなら母親ともならないのである
それで実の母親でもなくても血がつながらなくても母親として世話していたら実の母親となるのである
動物でも子供の時、猫でも犬と一緒にいると犬が母親にもなるのである
つまりこうしてなんでも親しくなるにも時間がかかる

そして時間は限られている

人間が親しくなるとか共同するにも時間がかかる、夫婦になるにもやはりすぐに結婚しても親しくなれない、理解てあい信頼するには時間がかかる
だから離婚してまた結婚してとかなるとそれも時間がかかるから離婚は相当に不利だともみる、新しい人間関係を作るにも時間がかかるからだ
何度もやり直すとういことが人間にとってむずかしいのである
それで転職することはかえって苦しいとなる、なじんできた会社から出て新しくまた人間関係でも作ることはむずかしくなる、50過ぎたりしたらそうである
今までなじんだ所が不満があってもいいのである
そのために原発事故で故郷から避難した人は故郷に帰りたいとなる
新しい場所に簡単になじめないからである
人間にはそんなに転々として移動しても簡単にその場所とか人間関係でも作りにくいのである、なぜなら時間かかるからだ、そのために農家では三代住んでいなと認められないとかなることもわかる、土地を基にした農民だとそうなっていたのである

お手伝いさんでも十年働いていた人は信頼できる、でも新しい人だと信頼できないのである、何か百人もお手伝いさんを変えた金持ちの家があった、そんなことで信頼関係は築けない、信頼し合うだけでもそれだけ時間がかかるのである
なぜ封建自体に強固な主従関係ができたかというと何代にもわたって同じ主君に仕えていたということがあるからだ、代々仕えていて信頼関係が時間の中で作られていたのである
いくらグロ−バル化して空間を広げても人間の信頼関係とかは時間で作られる
だから世界となると国々でも民族間同士でも信頼しない、戦争になるとなる
いくら物が入ってきてもその国の人と信頼があるとか親しくなるとかないのである
それには時間がかかるからである
エジプト文明が三千年ありローマ帝国でも300年とかつづきそこで培われたものがあるそこにも時間がありできたとなる
現代の問題は速成して時間をかけないでインスタントになる、そこで重みがないのであるつまり時間でしか作れないものがありそれが問題なのである

私のプログでもすでに15年くらいしている、するとその蓄積したものがある
自分の書いたものでも忘れていてもう一度自分の書いたものを読んで感心している
また過去に書いたものをまた新たに発展させて書くこともできる
それで今いろいろとまとめている、もう一つは記録を保存するためにまとめている
それが量が多いから作業として大変になる、時間がかかる
何かこのインタ−ネットというメデアでもプログに書くにしてもやはり手間がかかり時間がかかる、手間だけは省けないのである
それで自分の記録したものも膨大になりそれを見直したりつけ加えたりすると時間がかかるのである

ワードプレスとかもしようとしてもスキル的にめんどうだともなる
つまりスキルでも覚えるのに時間がかかるのである
こうして何でも時間がかかる、そして時間は老人になるとなくなるのである
投資にしてもデイトレーダーとかなると一日パソコン画面を見ているようになる
すると他に何もできなくなる、また社長でも忙しくなり他のことはできなくなるという
大きな金を稼いだとしてもそこに時間が奪われる、そして自分のしたいこともできないとかなる
画家だったら絵を描くことに専念すべきなのだが時間をとるべきなのだからその外のことに時間がとられて肝心の絵を描くことに集中できない、時間がないとなる
こうして金と時間を比べると人間はいかに時間を無駄にしているかとなり老人になるとみんな後悔しているのである、つまり時間切れになり何もできない、後は死ぬだけだとなってしまうからである



奪われる時間

時間は常に奪われている
自らも時間を失っている
しかし時間は意識できない
金のように意識できない
計算も大ざっぱでありできない
だから時間は失いやすい
時間を失われたことに気づかない
それで時間は奪われやすい
時間を失うことは奪われることは

人生を奪われると同じだ

組織団体とかでもは奪われる
そこに奉仕して何を得られるのか?
ただ貴重な時間が奪われる
つまり人生そのものが奪われるのだ
あなたの時間を奪うものがいくらでもいる
わずかの金で労働者は時間を奪われる
あなたのすべきことは別にあった
あなたの人生は時間をどう使うかで決まる
何かするにも学ぶのにも時間がかかる
親しくなるにも時間がかかる
信頼を培うにも時間がかかる
でも時間は限られている
あなたの時間はたちまち消失する
もう老人になると時間は黄金にも優る
死ぬとはあなたの時間がなくなることだから

あなたの時間を奪われるな!

時間を奪われることはあなたの人生を奪われることだ
それを肝に命じよ
あなたが時間を何に使ったかか人生になる
体験する学ぶ時間があなたの人生を作る
ただあなたの時間は常に奪われる
自らも時間を浪費している
そして最後に時間は消失して人生は一瞬だったともなる
それほど時間は消失しやすい
時間は極めて限られている
その時間の使い様であなたの人生は決まる
金を求めても時間を失う

金に使われるなかれ!

あなたの人生の時間を生きよ
あなたが奪われたのは間であり
またあなたの人生そのものだったのである
あなたの時間を全力で生きよ!
そこにあなたの報いがあり実りがある
それはそれぞれの人によって違っている
あなたの報いと実りを得よ
さすれば人生に後悔はないとならむ






2021年12月09日

南相馬市立病院の脳卒中センターにドクターヘリ着陸


南相馬市立病院の脳卒中センターにドクターヘリ着陸

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福島市へ飛んでゆく



相双医療圏における脳卒中の死亡率は、がん、心疾患に次いで高い水準で推移しており、全国平均と比較してもはるかに上回っていますが、脳卒中及び脳疾患に係る緊急対応については、相双医療圏では実質的に対応できる病院が本院に限定されています。


南相馬市立病院には一か月入院していた
そのあとに脳卒中センターができた、同級生がそこで一命をとりとめた
早く救急車で運ばれてカーテルとか入れて助かった
つまりこうして急がないと命を失うし症状も悪化して重体にもなる
だから一刻を争うということでドクターヘリは有効である

また治療できない患者がいて福島医大に運ぶのである
どういうわけか相双地区で脳卒中が多いというのはなぜなのかとなる
近くで実際三人脳卒中になった60歳以上の人を知っている
回りでも多いのかもしれない、これは前からそうであり放射線の影響ではないだろう
ここの担当の医師は優秀なので若い医者が見習に来ているという

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これは明らかに2011年から急激に脳卒中が増えている
やはり原発事故のために増えたのか?
それより移動させられたとかストレスが大きかったためもある
心労が重なった震災原発事故関連死に入っているだろう
それは明確にされていないのである
私の姉も震災前に認知症になり次に脳卒中になったのである
でも明らかに震災以後に急激に増えたのだから震災原発事故の二重の災害で増えたことは確かである


相馬市から医大に通っていた人がいた
遠くて困ったと言っていた、でも福島中央道ができて早くなったから福島医大にも行きやすくなったのである
浜通りから福島市の方はもともと不便だったのである
飯館村にトンネルができてこれも便利になった
震災以後こういう面では便利になったのである

ドクターヘリを前は桜田山の施設のある所でも見た、これが格好いいのである
今回は新しくできた脳卒中センターで見たのは初めてである
とにかく福島市とは結ばれて便利になったとはなる
震災以後この辺はいろいろと被害があったが良くなった面もあった
ただ避難区域は回復はしていないのである