人間は無報酬(金なしでは)では他者に何もしたくない―ただより高い物はないの意味
【神の国では神自ら無報酬で賜物として与えられる‐聖書の野の花の例え】
人を媒介して与えらるものは無償ではない、見返りが必ず要求される
●無報酬では何もしたくない、ささいなことでもしたくない、ただより高いものはない
人間の価値は金で計られる、でもそれが本当なのだろうか?労働自体も金で計られる、金の多寡で労働が決められる
でも変なんだけどその人は大金持ちだとする。でも貧乏な人が来て自らお茶を入れるとかする
単にその人のために物を運ぶというとき何か大金持ちだからそんなことしないでお手伝いさんにしてもらえばいいとか
そのために金を払って自分は何もしない、ありあまる金を払えば事が済むとなる
私自身がその人は別に金を払うわけでもない、むしろ金を与えている、その人のために物を運ぶ、寒いから小型の温風器を運ぶ
それが手間に感じたのである。その人は別に私のために何もしてくれない、それなのに金を与える
奇妙なのは金を与えるよりその人のために温風器を運ぶことが負担に思ったことである
それは直接の労働にもなっていたからである。人間社会は赤の他人に無償ではなにもやりたくないことが実感した
金がもらえるという報酬があり仕事している。単にモノを運ぶことでもそうである。金をあげますからA地点からB地点へ物を運んでくださいとなり運ぶのである。それを無償ですることはない。
それで親戚の人でも箱一つを運ぶのを嫌がっていた、そんなもの簡単でも何も報酬がないとしたくないとなる
でも報酬は与えていたのである。その人は借金していたから私からその借金を払うために金を都合してもらいたかったのである。
その額も事業していたから大きいものとなっていた。ただ確かなことは私のためには何もしたくなかったのである
だから気持ちとしては箱一つでも運ぶのを嫌がっていた、頭の中は借金のことしかなかったからである
ただそれが私が批判できるかとなるとできないとわかった。なぜなら自分自身がなぜ赤の他人に物を運ぶのに負担を感じたからである。それも金をはらっていてまた物を運んでいたからである、何か物を運ぶことが返って負担を感じたからである
人間は何か報酬がなければ何もしたくない!
これが別にいい悪いとかではなく人間だということを知る。ただより高いものはないというとき無償で何かを他人にしてやる人はいない、もしする人があるとなると何か魂胆があり後で大きな見返りを要求されるとなるから出た諺だとなる
要するに人間はなんであれただ無料で他人に尽くすことはできない、それはいい悪いとかではなく人間はそういうものだということである。福祉関係の仕事でも無料ではない、国からでも自治体からでも金をもらっているからしているのである
だからこの世でただより高いものはないというとき人間は無償では何もしない、したくないとなる
だからただですることがあれば返ってその報酬は金を払うより高くつく、だからこそこの世で他者にサービスを受けるとき
一定の価格が決めれる。ただのサービスは返って高くつくからそうなった。他人には報酬なしでは何もしてもらえないということである
カルト宗教団体であれ宗教だと無償でしてくれるのかとなるとやはり無償ではない、カルト教団なら確実にその見返りを要求している、だから献金が常に要求されるのである。要するにかえってただより高くつく場合がある。無償で助ける人はいないということである
●無報酬でもしたいことはある
ただ不思議なのは人間は報酬無くても金がもらえなくてもやりたいことがある。例えば芸術家なら画家ならいい絵を描きたいという願望が強い、それを売れば金になるからではない、絵を描きたいという動機がありそのために金が必要だとなる。だから画家は金になるより自分の納得する絵を描きたいとなる、だから絵を描くことは報酬が例えなくて描きたいのである
仕事にはそういうことがある。私は別にプログで毎日書いても報酬はないしほめられるということもない、でもなぜこんなに熱心にしているのか、それは自分なりの絵を描きたいという画家と同じなのである
それは金を払ってでもしたいことだからそうなる。単にモノを運ぶとなればしたくないのはそれが絵を描くのとは違っている
それは何か報酬がなければしたくない仕事だとなる。
要するにただ金を得るだけに強いられる労働と自らしたくてする労働は違っている、大方は金のためにしたくないけどしている
だからみんな会社員は社畜だと自ら言うのである。
ともかくただより高いものはないというとき人間は無償で他人のために働くことはしたくないそれは確かである。
なぜあなたのために物を運ばねばならないのか?
何か得があるのか
だから一つの物でも他者のためには運びたくないのである。それは冷たいともならない批判できないみんなそうだからである。
一方自然界は食料でも何でも無償で無料で与えられる。それでも人間が栽培するとそこに人の労働が加わりるから無料ではない必ず報酬が金が要求される。どうしても絶えずこれは苦労して作ったものとなり報酬が要求される
でも不思議なのは自然界では食料を得るとしてもそこに労働は加えられていない、木の実であれ何であれそれは神から直接与えられたものである。何か報酬は要求されない。だからその時その果実でも木の実でも甘美になる
それで野にある桑の実を食べたときそういう食べ物は買って食べるより甘美なものになる、別に誰かが苦労して作ったものではない、無料で無償で食べられるものだからである。それは出エジプトで与えられたマナとも似ている
誰かの労苦によって与えられたものではないからである。だからそれは一層甘美だったのである
天国とはこうして食べ物でも無償で与えられ場である。神が直接賜物として与えられる。金を払う必要はない、ただ神に感謝して食べればいいだけなのである。何か人間が手を加えるときかえって必ずそこには不純なものが生まれて来るともなる
人間の手から与えられるものは神が直接与えるものとは違う、かならず報酬が要求されるのである。それが負担に感じるのである。
そして人間でも無償では他人には何もしたくないのである。それは冷たいというのではない、神は何かを与えるにしても
無償であり何か神自身が苦労したわけでもない、それは奇跡と通じている。
聖書では何かそうして奇跡として人間い与える、キリストもパンであれ葡萄酒であれ奇跡として与えた
奇跡とは何の苦労もせず与えるということである。病気でも触れただけで癒したとかなる
人間の医療となればいろいろと苦労する。だから医者にかかれば医者への報酬は一番高いものになり医者は一番偉いものとなる
医者に対しての報酬は一番大きいものとなる。医者が神のように崇められともなる。
要するに人間を媒介として与えられるものは無償ではない、常に負担となるものである。だからただより高い物はないとなる
逆に無償でただで与えるのが神だとなる。何か見返りを要求しない、感謝するだけでいいとなる
つまり人間を媒介として与えられるものは常に報酬が期待されて負担になる、それで何か生きること自体負担になっている
純粋に喜べないのである。ただでしてもらってもそれは神が与えるものとは違ってさらなる報酬が要求されているからである
●神の国では無償で与えらる
この世で本当にいいものは自然の景観であるがそれは無償で与えられる、富士山を見たからと金を要求はしない
野の花を見たから何か報酬は要求されないのである。そして野に咲く花が最も美しいのである
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
働きもせず、紡ぎもしません
人間が作り出す衣服は作り出すのに大変な苦労がある。野の花は働きもせず、紡ぎもしませんとなっている
それは労苦なしで咲いている。でも人間が花を栽培すると苦労して栽培したとなり報酬が金が要求されるのである
でも一番は花が美しいのは野に咲く花なのである。
人間は絶えず働き紡いでいる、それで必ずしも野の花のように美しいとはならない。だから人間の労働は膨大なものである
その労働の結果として大都会がある一千万の大都会があってもそこに一輪の野の花ほどの美がないということでその対象が極端なものと現れている。要するに膨大に働き労して紡いで作られたものでもそこに美がない、それは何なのだろうとなる
それこそ徒労だったのかとなる。
ともかく人間の労働はすべて賞賛されるものではない、絵を描くとか何かその人なりにしたいことをしていない、強制されて働く、何か与えられるにしても必ず報酬が要求される
そのことは資本主義だろうが共産主義だろうが変わらないのである。また変えようがないのである
そこにこの世の絶望がある。神が自らの業で作り治める神の国でしか理想は実現されないのである
人間がいくら労働しても努力しても理想の国は実現することがないのである、そこに人間の限界がある。
神の国では神自ら治める
神の手でじかに食料も与えられる
それ故により甘美となる
鳥は着るもので苦労しない
住む家もなく苦労しない
食べるものでも日々ある
神は労せず何でも与える
その報酬は要求はしない
ただ感謝すればいい
そこに至福があり人は満ち足りる
神の計らいは万全であり
そこに災いはない
病もなく老いもない死もない
永遠の神の都で安らぐ
野の花でも鳥でも同じである。食べるものでも与えられているけど人間とは違う。着ることもないし家もないけど生きられからである。誰か苦労して与えるわけではない、神自ら与えるもので生きる。ただ家畜とかペットになると人の手から与えられたもので生きるから違ってくる。だからいくら餌を与えても慣れない猫になぜ餌やるのだろうとなる
また餌をやっても感謝もない、だからなぜ餌をやっているのかとなる。猫でも与えるときは何らかの報酬を期待しているからだとなる。
確かなことは人間は常に何でも苦労して作り出すから報酬なくしては何も与えたくないということである
giftはドイツ語由来でありそれには毒の意味があったことことが象徴的である。人間から与えられるものには毒が含まれているともなる。何かただより高いものはないに通じている。無償の賜物としては与えられないともなる
つまり人間から与えられるものには毒があるとなる。一番いいものは神から直に賜物として与えられるものだとなる。